逆走


 ベンチからずり落ちかかったところで手をつき、地面の砂利と雑草に、すんでのところで、顔を押し付けずに済んだ。身体を引き上げ、何やら重いものが入っているリュックサックのベルトを、肩から押しのける。周囲を見渡すと、文学部のある構内のベンチ、演劇博物館前の一角に、俺はいた。

 

 人影といっても、日曜日の閑散さに負けるとも劣らない、人気の無さ。今日は何曜日だったかと思い出そうとして、痛む頭を抱える。そして、唇に残る感触を拭うように、唾を吐き出した。


『あれはファーストキスじゃない。ノーカウントだ』


 精神的ショックのせいで頭が痛いのか、それとも何か他の理由なのか。俺はしばらくぼんやりと宙を見つめた。そうしている間にも、見慣れた日の光より、幾分、白っぽく見える太陽の位置を測って、時刻を考える。


 ふと、なんでそんなまどろっこしい真似を、と思って携帯を探したが、見つからない。そう言えばと思って立ち上がり、そこに立っていたはずの塔時計を探したが、存在しなかった。自分の記憶違いなのか。


 どうしたものかと思い、もう一度ベンチに腰を下ろす。まるで目的の無い世界に落ちてきたような、この切迫感の無さは何だろう。風が無いせいか、すべてが停まっているような気さえする。


 そうか、夢なのだと思えば、いいのかもしれない。いいや、夢なのだ。俺はひとり合点して頷いた。味気なくも『地面に足を着いている』という感覚しかリアルじゃない夢だが、これも、立派な夢であることには違いない。


「ねぇ、ちょっと!」


 そんな訳だから俺も、いつもと違うことを、することにした。隣の棟へ入ろうとしていた男子学生に、遠くから声を掛ける。彼が、この世界で初めて見た人間だった。


「すみません、ちょっと訊きたいことが」


 彼が止まってくれないので、慌ててリュックを持ち上げようとするも、持ち上がらない。おまけに何か、ごそごそと中で動き回る音がする。


 俺は、手元にある奇怪な異物をとるか、この世界の住人を採るかで悩んだが、後者が断然気楽だった。俺は身軽になって走り出す。姿は見失ったが、今なら追いつけるだろう。


 その男子学生を探して、俺は、6入っていった。




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