通行止め

 

 俺は思わず感心して、ぐるりと見渡した。もし、書籍の中身を知らなければ、この眺めはひどく心地のいいものに違いない。


 濃茶を基調とした落ち着いた書棚に、机。ゴブラン織のソファまであり、どれもひどく優雅で、高価なものに見えた。机の後ろには、消し忘れの目立つ、汚れたホワイトボード。その向こうから、女の気配と話し声が聞こえるが、H教授だろう。


『…そう、とりあえず期日には間に合うと思うの。そうでないと…』


 あまり耳をそばだてるのも如何なものかと思い、S子を見ると、まるでこの部屋の主は自分だといわんばかりに、ソファにふんぞり返り、派手な藍色のハードカバーを開いている。


 灰色のパーカーにデニムのスカートというラフな格好のS子は、この部屋の設えからは、少し浮いている。


 だが、促されるまま、ソファにはす向かいで腰かけ、その健康的な脚線と、派手な黄色のショートソックスからスニーカーと、視線を下ろすと、それもまぁいいか、という気分になって来る。E男はどうしたのか、扉の前に突ったったまま、携帯をいじっている。


「ごめんなさいね、電話が長引いて」


 この研究室の主であるH教授が、ようやく姿を見せると、いきなり僕の隣に腰を下ろした。


 期待通りの、とでも言えばよいのか。純白の白衣をさらりとコートのように纏い、中は水色のシャツに、濃紺のタイトスカート。組まれた足先には、エナメルのベージュ、パンプスが引っかかっている。

 

 俺はさっと腰を浮かせ、少し距離をとって座り直す。その俺の動作に、H教授は一瞬変な顔をし、仕切り直す様に、真横から俺の方へ顔を寄せて、話し始める。同時にもわっと、香水の匂いが目と鼻を襲う。


「どうしてもちょっとSさんに確認してもらいたいことがあって、来てもらったんだけど。話の中で、あなたの名前が出たから。四方屋君、だっけ?」


 どこか舌足らずの様な、甘い声の問いかけに、息が詰まりそうになる。助けを求める様に視線を泳がせると、E男がふらふらと歩いてきて、S子の隣に、まるで重力を持たないように腰を下ろした。


 俺はそれに気を取られつつ、H教授の超近接の質問にうなずく。


「そう、じゃぁ最近、何か身近に、変わったことって起きなかった? 何でもいいのよ。こう…うまく理解できないような、不自然な物理法則に基づいた何か、を目撃したとか?」



 “不自然な物理法則”? 俺はその言葉に、冷ややかな笑みを浮かべた。この俺に、物理学者が物理を尋ねる様なものだ。何を言いたいんだ。


 しかし、初めて話す相手で、しかも教授だ。出合い頭の奇妙な質問に、招かれてまで答える必要は、とりあえず学生である限り避けられない。助けを求める意味もあったが、本音として『この女、何を言ってるんだ』という表情で、向かいのS子を見る。

 

 S子の大きく丸い瞳は、そんな俺の内心を理解し、即座に言葉を吐き出した。


「先生。だめですよ、質問が。四方屋っていう男は、どんどん自分の頭の中だけで、話を処理する男なんです」


 俺は『へぇ』と、改めてS子の語彙の豊富さに、驚いてみる。ついでにいえば、俺は、そういう人間に見えているのかという、妙な納得もした。


「あら、やだ。賢い子なのね。てっきり、Mの授業を真面目に、それも一人で受けてるっていうから、もっと頭の固い、鈍い子なんだと思ってたわ。なんだ~」



 ぴくっと、俺の額の血管が脈打った。


 顔が火照り、腹の底から沸き起こる感情をどうしたものかと、膝の上に置いた拳に、これでもかと力を込める。そうすると、視界の端にヒクヒクと、堪える様に身体を震わせるE男が映ったものだから、ますます自分が馬鹿にされたものと、出口の方へ顔を振り向けた。ここには、S子を迎えに来ただけの筈だ。


「先生、こいつは物凄く、扱いの難しい男なんです。数字の絡む問題には、てんでダメだけど、相応にプライドも高いし、怒らせると口も利かない」


 S子のフォローは、的確である。しかし、的確なそれ以上に、今の俺をみすぼらしくするものはないだろう。まるで駄々をこねる子どもを見下ろす、”大人の”視線。

 

 俺は、奥歯を噛んでS子を睨むようにして深呼吸すると、冷静さの欠片を自分の中に探した。要は、自分があのMと一緒にされたのが、気に入らないっていうわけだ。


「ごめんなさいね。私、あの人の関係ってだけで、人もなにも最近気に入らないことだらけなの。だから、つい、酷いことも言っちゃうってわけ。気にしないでね、誤解だったんだから。で、質問を変えるけど」


 だったらなんで、そんな奴と結婚したんだと、俺は信じられない気持ちでモヤモヤとする。


「四方屋君は、この宇宙が広がっていると思う?それとも、縮んでいるって思う?」

「?」

「あぁ、”宇宙”って観念上のそれじゃなくて、科学的な意味のね。四方屋君はどっちが正しいって思う?」

「別にどっちだって…関係ないですよね。先生は気になるかもしれないけど」


 腹立たしさが残って、ずいぶん話しづらい。それでもようやく、一言返せた。


「いや、関係失くはないよ、四方屋。少なくともあんたにとっては」


 言葉を返したのがS子だったことに、また驚く。はっきりとした光を宿すS子の瞳は、真剣そのもので、そんな顔をして俺を見たことなど、これまであったかと思うほどだ。


「な、なに? 科学の話ですか?正直遠慮したい…」


「違う、違う。四方屋、いま、あんたの感覚で、どっちに引っ張られてるか、って聞きたいだけ。宇宙の外側?それとも下?地面に向かって?」


「重力があるんだから、下に決まってるだろ」


「いや、そういう理屈じゃなくて、あんたの意識はいつも他の大きなことに向いてるじゃん。今は何?」

「今?」


 俺はそう言葉を発して、少し苛立ち始めたS子を観察する。そうだ、俺はこいつが好きになれるかどうかを、考えていた。だから、こんな訳の分からない招待にも、付き合って…


 俺が黙ったのを見て、E男がわざとらしい咳ばらいをする。何を言うつもりだ?


「Sさん。四方屋は貴女が気になるんですって。今は、それが一番解決したいことじゃないかな」


 突然、何を言い出すんだ!今度は違う意味で、顔が熱くなる。怖くてS子の方を見れない。


「へぇ、あんたが私に? まずいわ、気づかれたということね、教授」

「えぇ、大変だわ。少し予定を繰り上げないといけないかも」


 俺はそのとき、どんな顔をしていたのか。至急、比較検討すべきは、ここにいる全員がなんらかのジョークに興じているか、それとも俺の頭のスイッチが、どこかで狂ったかのどちらかの可能性だった。


 よく思い出してみよう。M男の話を聞いていたときに、出した鼻血。もしかしたらあそこで、自分は気を失ったか、深刻なケガをして昏倒したとか、そんなんじゃないだろうか。そうだ、何かがおかしい。何を突然、S子のことが好きかもしれないなんて、馬鹿げたことを…



「おい、四方屋が時間軸から。こちらに引っ張らないと」


 E男の顔が、至近距離にある。なんだか視界がぼんやりとしてきた。ここはどこだ。


「どうしましょう!ここで見失ったら、せっかくの星のしっぽを」



 H教授の慌てた声が、左耳の鼓膜を、ざわざわと刺激する。



「四方屋! あんたの意識の根っこはどこ! E男、四方屋が飛んだら追いかける。準備して」


「まじかよ。やめとこうぜ」


 視界がぐるぐると混ざり合い、次第に、極彩色の渦の中で身体が浮き上がるような浮遊感に、手足の感覚が自由になる。バタバタともがくと、もうそこは、見たことの無い広大な



 口をパクパクと開け、大声で歓喜の声を上げたが、耳には聞こえなかった。音がその渦の中心へ向かって、逃げて行ってしまうからだ。


 『待って!』


 今度は意識の声だ。胸の内、身体の中、骨の髄まで響き渡って、痺れるような感覚を引き起こす。


 『待って!…』


 その声が、自分の子どもの頃の声だと気付いたとき、唇に何かが触れ、口腔内に生温かなものが、ぐいっと、唾液と一緒に押し込まれた。



 「これも、Sさんの指示だから、ごねるなよ」

 「E男!」


 途端に、E男の声がして、そいつにキスされたのだと分かった時には、俺はまた、違う場所に来ていた。


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