裏道


『それで?』


 というのは、俺の心の声。


 俺とE男が脚を踏み入れた時、理学キャンパスは、入り口から異様な人だかりに見舞われていた。人波をかき分けて進んでいくうち、どうやら大学に在籍中の有名人が来ている故らしい。残念ながら、俺の関心事ではない。


 腹立たしいことに、身軽なE男は、俺の案内役に何の不足も不満もないらしく、スルスルと、人の間を抜けていく。

 急ぎ足で付いていく他、大した苦労もなく、目的地の研究棟の前までやってくると、得意顔で俺を振り返った。



「ここの15階、1502号室のH教授の研究室で待ってるってさ」

「H教授?あぁ、Mの」

「そう、M教授の奥さんの」



 それにしても、J教授から呼び出されたと言っておいて、なぜ、H教授の部屋に俺が呼ばれるのか。意味が解らない。


 俺がそう言うと、E男はうんうんと頷く。何やら嬉しそうにしているのは、俺をからかってのことなのかと問えば、「さぁね、Sさんの言うことだから」なんて返す。


 俺は半ばあきれ気味に、E男を見つめた。


 だが、まぁいい。『H教授』という別姓を名乗り続けているMの妻と、S子の接点を思い出せたのだから。


 S子は哲学専攻のくせに、初回のゼミを受けるよりも早く、物理の単位を採る方法を探していた。それで物理専門で、地学よりのJ教授か、数理論よりのH教授に、直にメールを打って、選択を打診すると言っていた。


 その後、俺も詳しくは知りもしなかったが、どうやら通うようになっていたのだ。数学の苦手な俺を慮ってか、S子はこちら方面の話をふって来なかった。気を遣われていたのだろうかと思うと、何とも男として不甲斐ない気もする。


 だが、仕方がないだろう? とかく理系科目は、専門ツールである記号のオンパレードを使いこなせなければ、なにも始まらない。


 言語も記号だというが、俺の感覚では明らかに違う。身体に合わない甲冑を押し付けられる感じというか、想像しただけで、胃酸があがってきそうな不快感、とでも云おうか。


 それでも高校時代はなんとか耐えた。しかし、数式がみっちり三行もノートに並んでいるのを見れば、気分が悪くなり、それが一頁に渡った日には、眩暈を覚える程度に、ダメなのである。みるみる指先が冷え、足の裏に汗をかく。


 だから、清々しいほどに真新しく、青い空を縦に切り取る、スタイリッシュな理科研究棟を見上げると、何とも言えない気分になる。


 一つには、我が文学部のオンボロ加減との差が甚だしく、当然、といわんばかりの予算格差を再認識させられたせい。

 もう一つは、数式を滔々と並べて語りだす女たちの巣に飛び込むような、そんなぞっとする光景と、自分の愚かしさを思ったからだ。



 吹き抜けの広いエントランスを横切ると、奥に構えた三機のエレベータの前に立つ。俺が迷うまでもなく、E男は研究階に行ける一つを選んで呼びつける。やってきた箱に乗り込むと、静かな俺を気遣ってか、E男は、珍しく優しい言葉をかけてくる。



「大丈夫か、四方屋?」

「いや…あんまり。お前は?」


 つい、尋ねてしまった。反射的に。正直、奴の答えに関心はない。


「俺? 俺はだって」


 言い淀むなんて、E男もことをする。ふと、不味いものでも間違って飲み込んだような顔をして、自分から視線を下げた。


 何を言おうとしたのか気になったが、それが、どういう理由によるものか、いまひとつ説明できなかった。


 そういえば、というか、E男は俺と同じ英文専攻じゃなかったか? それにどうして、そもそもS子は、こいつに声を掛けたんだ? 俺は、S子の交友関係の一端でも、E男が含まれていることに、改めて疑問を感じた。 

 まさか俺とこいつが友達だとか、そんな風にS子は思っているのだろうか。


 どうしてまた…と思いながら、E男が、この場所を俺以上に知っているらしいことと、何か関係があるのではと、納得のいく理由わけを見つけようとする自分がいることに、気づく。



 途中階で、去った待ち人の為に開くドアが、また自然に閉じては、浮遊するように昇っていく。


 そうしてゆっくりと変わっていく、階数の電子表示を見上げていると、なんだか真新しい機械油の匂いと、数字のイメージに頭が侵されそうになる。


 こういうときはそう、言葉だ。認識形式そのものに文学を組み込むんだと、自分に言い聞かせる。


 閉じたエレベータの扉を見つめるE男は、こちらに背を向け、少しだるそうに右の壁に身体を預けて休んでいる。奴の薄く削げた背中は、なんとなく、存在自体が希薄に思えるような、物憂げな影を帯びて…。


 E男はともかく、こんな感じの奴ではなかった。いつもニタニタ笑って、俺の様子を見に来るから、ただの嫌な奴だと思っていたのだ。


 確かあれは、必修の世界史の授業で、こいつは、他に空いている席を無視して、隣に座ったときに、俺に向かってこう言った。



四方屋よもやって、変な名前、だよな」



 返す言葉が無かった。俺は、そもそもこいつのことなんか、知りもしなかった。


 初めて声を掛けてきたやつに、名前を揶揄されるなんて、身の覚えのない中傷を受けるのと同じくらい、腹立たしいことだとは思わないか?


 百歩譲って、どこかで知り合っていたのだとしても、それはひどく、短絡的な感想に過ぎない。そして、俺の気分を害することに何の躊躇も無いような、あっけらかんとした態度と、「文句があるなら言ってみろよ」と言わんばかりの、強い視線。



『気に入らない』


 まちがいなくそれは、絶対的な第一印象だった。


 軽やかな電子音が鳴り、目的の階に着いたことが知れる。

 E男は、「よいせ」などと言いながら身体を起こし、先にエレベータを降りた。俺も黙って付いていく。



 ***

「で、お前、どこまで付いてくんの?」


 目の前から消えない男に向かって、俺は今更の様な問いを発した。

 むしろ、俺の方がE男に、”付いてきた”格好だが、研究室の前まで来た時点で、問うべきはこれだった。E男は、あからさまに目を反らすと、ぼそりと暗い声で答える。



ほしの回収が済むまで」

「は?」


 俺が耳にした言葉を問い質す前に、扉が開き、向こうからS子が飛び出してきた。


「遅い!」


 それは俺に言ったというより、隣のE男に向けられたものに感じた。


『回収』という言葉が気になった。それは


 だが、それを確認するよりも前に、S子がぐいっと俺の腕を引き、意外に広く、整った本棚の並ぶ部屋の中へいざなった。


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