第16話 謎の中心へ・・・
その日の晩。
時計の針は頂点に達しようかという時間に一台の黒塗りのセダン車がとあるマンションの地下駐車場に入って来た。駐車場には二人の黒い背広姿の男女が立っていた。彼等は駐車場に入って来た車に対して、合図を送る。それを見た運転手は車をマンションへの入り口に一番近い場所に停車させる。二人の男女はその車を守るように立ち、車の助手席と後部座席からは二人の男が降りてきた。彼等は周囲を見渡してから、合図を送り合い、後部座席に座る男に降りるように言う。
男は不安そうに周囲を見る。そんな彼を急かすように男達は移動する。マンションの中に入っても男達は警戒を怠らない。前には二人の男が進み、後も二人の男女が警戒をする。そして、マンションのエレベーターに到着する。先に一人が乗り込み、上に移動する。彼からの指示で、男達はエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターから降りると、男はすぐに階段の影へと移動する。
「扉の確認をします。狙撃の危険がありますので、ここで待機していてください」
そう説明を受けた男は益々、不安そうな表情をする。
男の一人がマンションの一室へと移動して、扉の前で何かをやっている。彼がやっているのは鍵穴に細工がされていないかなどのチェックだ。一通りの確認が終わって、マンションの扉が開かれる。そして、男は腰から警棒を抜き、中を確認する為に入って行く。
電灯を点ける。
中は一人暮らしの男性の住居と言った感じだ。どことなくだらしない感じになっている。それを気にせず、彼は部屋を一つづつ、確認して行く。そして、全ての部屋に異常が無い事を確認したら、非常階段で待機していた男達を呼ぶ。
男達は守っている男を急かして、部屋の中へと入れる。玄関には二人の男女が立って、周囲を警戒する。
息を上げながら、男は自分の部屋のソファに倒れ込む。
「くそっ、一体、急になんで、俺にSPが着くなんて話になるんだ?」
男はそう怒鳴るが、それに答える者は居ない。
「溝口さん。今日は玄関に一人を残して、戻ります。明日は8時にこちらへ参りますので、お願いします」
「あぁ・・・頼むよ」
溝口と呼ばれた男は面倒そうな表情で答えた。
男達がマンションの一室から去って行くのを向かいのマンションの屋上で暗視装置で眺める一人の少女。それは陽子だ。
「あんだけ揺さ振ったら、案の定、守りを固めたわね。お蔭でターゲットが本物かどうか、確認しやすくなったわ」
陽子は大原から聞き出した人物が確実に本物のターゲットかどうかを知るためにわざと大原を泳がせた。大原が襲撃を受けたとすれば、必ず、重要な情報を持っている奴に警護が着く。そう考えたからだ。
「さて、ブラウン、そっちの準備はどう?」
陽子はスマホでブラウンを呼び出す。彼は今、向かいのマンションの前に居た。
「SPの車が去って行ったところだ。しかし、本当にこの恰好でマンションに入れるのかい?」
ブラウンは何故かピザ配達員の恰好をしていた。
「昔から、どこかの家を襲撃する時はピザ配達員なのよ」
「聞いた事が無いぜ?」
「良いから、作戦決行よ!」
ブラウンは一方的に切られたスマホをポケットに入れて、マンションに入る。そこは高級マンションだけあって、コンシェルジュが居る。昔で言う管理人みたいなもんだが、彼が宅配便や出前などを受けとるシステムになっている。
「いらっしゃいませ。どちらのお部屋への宅配でしょうか?」
「あぁ、502号の溝口さんのお部屋何だけど・・・」
「確認致します」
コンシェルジュの男が溝口の自宅のインターフォンに確認の連絡を入れようとした時、ブラウンはポケットからスタンガンを取り出す。それをコンシェルジュの首に押し当てた。彼は短い悲鳴を上げて、その場に倒れる。
「悪いな」
ブラウンは意識を失った彼を残して、マンションの中へと進む。すでに入り口などの監視カメラに彼の姿は映っているので、あまり、それを気にせずにエレベーターを使って、上がる。ここの防犯カメラはオンラインで警備会社に繋がって、リアルタイムに監視されているわけじゃなく、録画だけである事は事前に解っているからだ。
エレベーターが開くと、それに気付いたSPの男が警戒の視線をブラウンに送って来る。彼はその視線を無視して、そちらへと歩く。さすがにSPと言えども、ピザ宅配員にいきなり職質などが出来るはずも無く、ただ、その動向を伺うだけだ。その手は常に腰に回されている。何かあれば、すぐに警棒を抜くためだ。この辺が日本の警察官だろう。
ブラウンは手にしたピザの箱に忍ばせた消音器付自動拳銃を撃った。至近距離から二発。SPの男の顔面に穴が開いて、彼はその場に倒れた。
「遅いよ」
ブラウンはチャイムを押す。
溝口は突然、起こされて、機嫌を悪くする。
「何があったんですか?」
「すいません。警備上の問題が起きました。ホテルへ移動します」
ブラウンは切羽詰まった演技で言う。寝ぼけている溝口はそれに気付かず、すぐに扉の錠を開けた。扉が開けられ、一人の黒人が入って来た。彼は溝口の顔面を殴り飛ばす。
「へいへい。お前が溝口だな?」
「だ、誰だ!」
ブラウンは拳銃の銃口を向けた。
「声を上げるなよ。死にたくはないだろ?」
溝口は震え上がる。
「な、何だよ?俺が何をしたって言うんだよ?」
「てめぇが何かなんて知らねぇよ。それよりも、新人類計画について、話せ。時間はあまり無い。手短に頼むよ」
ブラウンは溝口を蹴り飛ばした。
「わ、わかったから、暴力は止めてください。新人類計画は、遺伝子操作とクローン技術などを使って、特殊な力を持った人間を作ろうと言う計画です。それこそ、超能力が使えるようにするのが目的で、多額の国費が投入された計画なんですよ」
「へぇ・・・。それがなんで、こんな物騒な感じになっているんだ?とても、普通の研究とは思えないけど?」
「あぁ、これは主に防衛側の意向が大きく入っていてね。研究の完成は防衛兵器として活用することが盛り込まれているんだ」
溝口はペラペラと喋る。多分、ブラウンの雰囲気に気圧されたからだろう。とにかく怯えながら、饒舌になっていく。
「防衛省としては、それほど、期待はしていなかったが、報告を受けると凄かったんだ。何でも、予知が出来るとか。まだ、僅かな未来しか予知が出来ないが、的中率が8割を超えるとか。競馬ぐらいなら当てられるとか言っていたから」
「へぇ~、そいつは凄いな。それが全てか?」
「あぁ、とにかく、凄い能力を有しているらしいが、問題があって、簡単にはその能力が引き出せないらしい。その問題を解決したら、凄い兵器が出来るらしいが」
ブラウンは会話の全てをスマホで陽子に聞かせていた。
「ブラウン、まぁ、何とも言えない感じだけど、それで十分よ。撤収して」
「OK」
ブラウンはそう言ってから溝口の頭に二発の銃弾を撃ち込んで、その場を後にした。これだけの事件が発生すれば、当然ながら、翌日のニュースで騒がれるはずだったが、事件は一切、報じられる事は無かった。
陽子は手に入れた「新人類計画」について、一度、検討するためにセーフティハウスに戻っていた。その計画について、聞かされた奥田も眉唾物の情報だった。
「あまりにも荒唐無稽過ぎて・・・僕はガセネタを掴まされた気がするけど」
奥田の言葉に陽子達も頷く。
確かに情報は荒唐無稽で曖昧過ぎる。そんな夢物語の為に巨額な国費が投じられたり、これほどにまで組織が動くとは思えないからだ。
「じゃあ、真実は何処に?」
陽子の問いに奥田は悩む。
「確かに新人類計画がこの計画名だとすれば、それなりに意味のある言葉だろうけど、そんな超能力を作るとかじゃなくて・・・」
そこから言葉が繋がらない。そもそもクローン人間を作り出すこと自体、あまり意味のある事じゃない。それに遺伝子操作をして、どのような新しい人類を作るか。まったくもって、検討がつかない。
「やっぱり、超能力者を作るんじゃないか?」
ブラウンが気弱に言う。陽子も奥田も言葉が出ない。荒唐無稽だが、それぐらいじゃないと、これだけの大事にする理由も無いからだ。
「仮にそうだとして、何かが問題で能力を発揮できないんだよね?」
奥田の言葉に陽子は頷く。
「溝口はそう言っていたわね」
「その問題は今回の件と密接に繋がっていたら?」
「美緒は・・・わざと恵那に預けられたってこと?」
陽子は少し考える。
「なんで?」
やはり答えが出なかった。奥田もさっぱりらしく、再びパソコンに向かった。
「僕は僕なりに調べるから、そっちはそっちで頼むよ」
奥田に言われて、陽子は名簿を眺めた。
溝口が殺された防衛省では、事態を重く見た事務次官は頭を抱えていた。
「溝口が殺された・・・警視庁のSPに扮した警護を付けたって言うのに。これは他の奴等の警備も考え直さないとまずいぞ?」
「事務次官、慌てない方が良いですよ。制服組に気付かれるかもしれません」
背広組と呼ばれるキャリア官僚達は表情が変わるほどに慌てながらも周りを気にした。
「今回の件は最近、調子に乗っている制服組の力を削ぐチャンスだと思って、乗ったのに、まさか、こんな事態に巻き込まれるなんて・・・。研究所の反応は?」
「朝から、問い合わせていますが、向こうの窓口役の遠藤が出てきません」
「政府の方は?」
「佐伯政務官に連絡がつかないです。大臣も姿を見ませんし」
「まさか・・・政府は・・・この計画を闇でも葬るつもりじゃないだろうな?」
「だと、すれば、我々の身も危ないのでは?」
事務次官にそう告げる大臣官房の顔は深刻な程に真っ青だった。
「だとすれば・・・溝口を殺した奴は誰だ?こうなっては、自分の身は自分で守らないとまずいかも知れないぞ」
「先に襲撃者をやって、手土産にするつもりですか?」
「それも・・・そうだが、最悪、向こうの組織に頼るというのも手だ」
「なるほど」
その時、内線電話が鳴る。事務次官は少し驚いたが、咳払いをしてから、受話器を取る。
「井上ですが」
「あぁ、井上さん。朝倉です」
「朝倉さん・・・どういったご用件で?」
井上は額に油汗を浮かべる。
「嫌だなぁ。溝口さんの件ですよ。殺されたんでしょ?」
「えぇ・・・まぁ・・・」
「誰がやったか目星はついているのですか?」
「いえ・・・今のところは・・・」
「まさか・・・我々がやったとか・・・思っていませんよね?」
井上は目を見開く。
「研究所が・・・まさか・・・」
「安心してください。我々だって、研究予算を頂いている大事な方々ですから、簡単には殺しませんよ」
「そうですか・・・それで、ご用件はそれだけですか?」
「いえ、わかっていると思いますが、計画についてはしっかりと秘密を守ってくださいね」
「は・・・はい」
井上は目を見開いたまま、受話器を置く。その様子に大臣官房は驚いている。
「朝倉からだ」
井上がそう大臣官房に伝えると彼も目を丸くした。
「朝倉本人が直接、電話してくるなんて・・・」
「やばいな・・・やばいと思う。奴め・・・俺らから情報が洩れると思っているんじゃないか?消されるかもしれん」
「す、すぐに使える駒を集めます」
「制服組には気付かれるなよ」
陽子は防衛省の近くをウロウロしていた。一番、情報を持っているのは防衛省の高級官僚だからと踏んだからだ。
「もう・・・9時を過ぎるか」
夜半を過ぎ、暗闇の中、少女はただ、防衛省の様子を窺っていた。無論、この周囲には警察などが頻繁にパトロールなどをしている為に、それを上手くやり過ごしながらなので、かなり大変だった。だが、待っていたかいがあった。一台の高級セダン車が出て来た。その後ろにはミニバンがぴったりと付いて走っている。
「なるほど・・・分かり易い感じね」
陽子はすぐにブラウンを呼び出して、車に乗り込む。
「この中古車、臭くないか?」
ブラウンは陽子が入手した中古の国産大衆車に文句を言う。
「黙りなさい。こんなもんしかすぐに動かせるのは手に入らなかったのよ」
エンジン音も怪しい感じに車は夜の街を走る。尾行は本来、チームで行うのが正しい。相手が警戒をしているようなら、すぐに尾行に気付かれるからだ。幾ら目立たない大衆車で尾行をしているとは言え、たった一台の車がいつまでも後を追い掛けてくれば、気付かない奴など居ないわけだ。
「やばい。奴等、気付いたみたいだぜ?」
前を行く車が急に速度を上げだした。多分、こちらが追跡者なのかどうかを確かめるためだろう。
「追い掛けなさい。あいつらにこっちが尾行だと気付かせてやるのも手よ」
陽子は余裕のある表情で言う。ブラウンは疑問に感じながらもアクセルを踏み込んだ。
マフラーから黒い煙を吐き出しながら、オンボロの車が加速をする。
高級セダン車に乗っている井上は息を荒くしていた。
「尾行だと?俺を消すつもりか?野郎・・・舐めやがって」
井上を守るのは背広組の息の掛かった自衛官達だ。彼等は手に9ミリ機関拳銃などの銃器を手にしている。
「事務次官殿。やはり、尾行です。どうしますか?」
「くそっ・・・こっちにも意地があるとこを見せてやる。後ろの奴等に叩かせろ」
「了解」
ブラウンはオンボロ車を巧みに操って、必死に離されまいとした。
「あっ」
ブラウンが間の抜けた声を発した瞬間、車が急停車した。後部座席に乗っていた陽子が前の座席の後ろに叩き付けられる。
「いったぁあああ!あんた、なんて運転しているのよ!」
「怒っている暇なんてないぜ!」
ブラウンは慌てて、車をバックさせる。刹那、銃声が鳴り響く。車のフロントガラスが粉々に砕け散った。
「うっそ!いきなり撃ってきたの?」
さすがにそれを陽子の予想を遥かに超えていた。都内の路上でいきなり銃を撃って来たのだから。激しい銃撃でオンボロの大衆車はガラスが割れ、薄い鉄板は紙のように銃弾を貫通させる。そして、エンジンから煙が噴き出す。
「やぱい!やぱい!あいつら本気だ!」
ブラウンは必死に蛇行させながら車を後退させるが、タイヤがパンクしたようで、車はいきなりスピンして、ガードレールにぶつかる。
「やばいぜ!ハチの巣になる!」
ブラウンが慌てて、運転席から飛び出そうとする。
「あんた、黙っていなさいよ!たかだか、4、5人ぐらいでぇ!」
陽子はまだ、残っていた後部座席のドアガラスを拳銃の銃把の底で叩き割り、即座に撃った。向こうは余裕で短機関銃を撃ちまくる。9ミリパラベラムと言っても、普通の自動車のドアぐらいは簡単に貫通する。彼らはそう思っていたようだ。だが、陽子はそれでも平然と撃ち返し、一人の顔面に当てた。
「よ、陽子!なんで、大丈夫なんだよ!」
ブラウンは何とか銃撃戦の反対側に転がるように出ていた。
「根性よ!」
陽子はそう言いながらとにかく撃ちまくった。1分程度だったろうか。さすがに向こうもこれ以上の銃撃戦はまずいと思ったのか、慌てて車に乗り込み、逃げ出した。
「し、死ぬかと思った。なんで、陽子はあんな銃撃戦でも平然と撃っていられるんだ?」
ブラウンは不思議そうに中を見ると、陽子と扉の間にはアタッシュケースがあった。
「ふふふ。防弾アタッシュケースを盾にしているからよ」
「そ、そんなの聞いて無いよ!なんで、俺の分が無いんだよ?」
「これはあたし専用よ。悔しかったら、買ってこればイイでしょ?」
陽子は穴だらけのアタッシュケースを見せびらして、言う。
「それよりも、相手を追うわよ」
「追うって・・・」
「どうせ・・・自宅よ。ここまで来て、他に安全な場所を用意しているなら、こんな所でこんな無茶をしないでしょ」
陽子達はすぐに穴だらけの車を捨てて、駆け出した。
井上事務次官は秘書から報告を受ける。
「事務次官、とりあえず、相手の車を穴だらけにしたそうです」
「死体の確認は?」
「かなり抵抗されたらしく、時間が無かったそうです」
「そうだな。警視庁の方には俺から連絡を入れておく。機密事項だとすれば良いだろう。奴等がツッコんで聞いてきたら、防衛事項だと蹴れ」
「はい」
事務次官の車はかなりの急いで、自宅へと到着した。
「警護は1個班を用意します。特殊部隊でも侵入は許しません」
警護を担当する指揮官がそう告げるので、井上は安心した。
「なんで・・・こんな目に遭わなければならないんだ」
井上は自宅に入って、妻に愚痴を零す。
「私だって、嫌ですよ。もう、息子達は自立して、家に居ないから良かったけど、こんな危険なこと・・・」
「わかっている。お前は暫く、温泉にでも行ってこい。お前まで、狙いはしんだろう」
「嫌ですよ。怖い。まだ、警護のあるここの方が安心です」
「すまんなぁ。まさか、こんなとんでもない事態になるとは、思わなかった」
この警備なども何かの為に備えていたわけだが、実際に使う時が来るなど、考えもしなかった。多分、実際に警護をしている自衛官達もそうだろう。だが、事実として、命を狙いに来る輩が居る。それが誰か、まだ、わからない。どちらにしても、何とか、総理大臣と話を着けて、止めさせねばならない。
書斎に移動した井上はすぐにスマホを取り出した。
スマホの画面を見ると、『圏外』の表示がされている。この街中でそんなはずは無い。彼は部屋の中をグルグルと回ったり、スマホの電源を入れ直したりするが、表示は変わらない。そして、気付く。
「この辺り一帯に電波障害を起こしているのか?」
携帯電話の用いる周波数帯に対して、携帯電話が発生する以上の強さで電波を流せば、その一帯の携帯電話は使用不可能となる。無論、これは電波法違反であり、強い電波であれば、総務省に捉えられて、即座に警察に通報される。
「強力な電波を発生させるとなれば、相当の機材が必要だが・・・」
彼の言う通り、広範囲に強い電波を飛ばそうとすれば、大出力の無線機と高性能のアンテナが必要となる。それ故に電波を発生している人物を特定し易くなる。
彼はスマホを懐に納めて、居間へと向かう。居間には固定電話があるからだ。ただし、彼自身、固定電話はあまり使いたくない。デジタル暗号化されている携帯電話の回線よりも、メタル回線の固定電話は途中で盗聴される可能性が高いからだ。最近では総務省が推し進める光回線を用いた固定電話サービスもあるが、停電時などの問題があり、彼は導入する気にはなれなかった。
彼は受話器を取る。耳に当てると音がしなかった。
「回線が・・・切られている?」
あり得ない事だった。不通になっている固定電話。明らかにここを狙っている。自分は殺されるのか?その恐怖が彼の背筋をゾクゾクと虫が這うように脳天まで駆け抜ける。
「固定電話の回線を切るとすれば、家屋の裏側にまで侵入しないと切れないはず・・・一体、どの地点で切られた?」
不安のせいで、思った事が全て口に出る。彼は急いで、玄関に向かう。そこには精鋭の警護部隊が居るからだ。玄関の扉を開くとそれに驚いたような顔をする警備部隊の班長が立っていた。
「ど、どうなされましたか?血相を変えて・・・」
彼に問われて、井上は息を飲む。
「この辺、一帯の携帯電話の回線が妨害され、固定電話の回線が切られている」
井上の言葉に班長は一瞬、何を言っているのかと思った。だが、すぐに事態の深刻さを理解した。
「わかりました。ここはお任せください。家屋の中心に近い所で待機していただけますか?」
「わ、わかった。頼むよ」
井上は素直に玄関へと戻る。班長はすぐに部下達を臨戦態勢にして、さらに応援を要請した。
その様子を見ていた一人の女子高生。何処にでも居るような女子高生に見えるが、実は彼女が通っている高校とは違う制服を着た陽子だ。彼女は井上事務次官の隣家から自撮棒にCCDカメラを装着しただけの道具を使って、覗いていた。彼女は学生鞄の中に手を突っ込み、ある機械のスイッチを切った。それは携帯電話用電波妨害機である。小型な為に出力は低く、効果範囲も低い。それでもこれだけ近付けば、それなりに効果は出る。
「オタク・・・仕事は終わったわ。足跡残さず、終わらせなさい」
電話の相手は奥田だ。彼は井上事務次官の家の電話回線を扱っている通信会社のコンピューターに忍び込み、一時的に回線を遮断したのであった。
「さて・・・やはり本命なのは解ったけど・・・警護は厚いわね」
彼女は井上事務次官の警護態勢を見るためにこれだけの事をして、彼を揺さ振った。不安の中で彼はその術中にハマったわけだが、事は簡単では無い。家の周囲には拳銃を携帯しているだろう男が5人。どれも自衛隊の精鋭と言った風貌だ。
「素直に・・・入れて貰えるわけも無いし・・・」
陽子は井上事務次官から情報を引き出す方法を考え込む。一番簡単なのは拉致して、拷問するだ。だが、これだけの警備があってはそれは不可能。あの警備態勢を真っ向から向かって制圧するだけの火力も無いし、相手が応援を呼べば、無尽蔵に出て来るだろう事も想定が出来る。
「さぁて・・・泥棒稼業でも始めましょうかねぇ」
陽子は学生鞄から色々と取り出す。
その頃、ブラウンは別の場所に居た。そこは在日米軍横須賀基地に程近いBAR。よく、在日米軍の軍人が寄る場所だ。今日も白人や黒人のいかにも軍人っぽい輩が集まっている。
ブラウンがウィスキーを飲んでいると、一人の白人が客として店内に入って来た。彼はブラウンを見付けるとすぐに寄っていく。
「よう、裏切者」
彼は開口一番、そう言って、ブラウンを冷やかす。
「誰が裏切者だ?」
「こっちじゃ、もっぱらの噂だぜ?お前が裏切ったって」
「成り行きだよ」
「成り行きね。解ったよ。それで・・・売り飛ばしたい情報って?」
「クローン人間さ」
その一言で白人男性は凍り付いた。だが、彼はすぐに元の表情に戻る。
「いきなりクローン人間なんて・・・冗談が凄いな」
「冗談?」
「あぁ、そうさ。クローン人間なんて、倫理的にどこの国でも禁止されているぜ?」
白人男性の笑顔にブラウンも笑顔を見せる。
「あぁ・・・そうだな。ディアン大尉・・・いや・・・シュナイダー中将とお呼びした方がよろしいでしょうか?」
ブラウンにそう呼ばれて、白人男性が更に驚く。
「お、お前・・・どこでそれを?」
「ふん・・・あんたが3年前に捨てた本名の事ですか?おっと、手はカウンターの上でお願いします」
白人男性は動かそうとした右手をカウンターの上に置き直す。
「顔や個人情報をどう変えたって、何処かには過去のあんたと現在のあんたを繋ぐ情報ってのは残っているらしいですぜ?」
「バカな・・・全て・・・消去したはずだ」
「そうですか。それは残念でしたね。あんたについての情報は全て、こちらで押さえた。まさか・・・自分のクローンを作って、脳を移植して、新しい肉体を手に入れるなんて事が出来るとは・・・神様に唾でも吐き掛けたんですか?」
「ふん・・・何とでも言え。これが現代医学だよ。俺は被験者として、選ばれただけだ」
「70歳を目前にして、老いぼれた身体を捨て、まだ20歳代の肉体を手に入れるか・・・凄いな現代医療」
ブラウンは溜息と共に驚く。
「ふん・・・この程度の事で・・・それにそれがどうした?俺が何か悪い事でもしたか?俺は自分の肉体のクローンを作って、移植しただけだ。何も悪くない」
ディアン大尉は声こそ小さいが明に激高していた。
「まぁ・・・そう怒らないでくださいよ。その事はどうでも良いんですよ。それより、これが世間に公開して欲しく無いなら、この子についての情報をください」
ブラウンはカウンターの上に一枚の手紙を置いた。それは美緒だった。
「この子・・・ちっ・・・」
ディアンは明らかに美緒を知っている表情をした。
「知らないな」
「知っているだろ?俺に汚い仕事をさせた張本人の癖に」
「さぁな。お前等の会社に依頼したのはボディガードの小娘を始末しろだけさ。よく俺が依頼主って解ったな。あそこの会社には散々目を掛けてやったのに・・・」
「悪いな。あの会社、システムセキュリティが甘々らしいぜ」
「そうかい。御忠告ありがとう・・・俺は帰るぜ」
「簡単に帰れるとでも?」
ブラウンは意味ありげな笑みで彼に告げる。だが、彼もニタリと嫌な笑みを浮かべる。
「こんな場所に俺一人で来ると思ったかね?」
彼がそう告げた瞬間、店内が一斉に静まり返る。さっきまで談笑しちえた男達が立ち上がり、無言でブラウンを睨みつける。
「ひゅー、マジかよ」
ブラウンは驚くでも無く、ただ、彼等をマジマジと見ただけだった。
学生鞄から道具を取り出した陽子は顔には覆面、制服の上からツナギの服を着た。手にはしっかりと手袋をハメている。彼女がこんな格好をするのも、見た目で相手を怖気させる目的もあるが、一番は証拠を残さないようにだ。毛髪一本でもDNA鑑定が行える。指紋も拭き取ったとしても鑑定が出来る。最新の科学捜査の前には徹底的に遺留品を残さないようにするしか方法が無い。それと同時にこの服装には様々な機能も備わっており、これから、圧倒的に不利な事をしようとすれば、必要な恰好だった。
「さぁ・・・出来れば、殺したくはないけど・・・」
彼女は腰のベルトに横一文字で携帯した小太刀程度の日本刀の柄を触る。それはカーボンファイバー製の刀である。いつもの警棒は携帯しない。そして、彼女はゆっくりと井上事務次官の隣家の庭から壁を飛び越える。
本来、壁の上には防犯センサーが設置されているが、それはすでに切断済みだ。切断しても警報が出る仕組みではあったが、偽の電流回路を噛ませることで解決している。これだけの作業を彼女は隣家に忍び込んでから1時間の内にやり遂げていた。
事務次官の庭はお世辞にも広いは言えない。最低限の景観を満たすために設けられた小さい庭だ。だが、念のためにもそこには一人、警備の男が立っていた。だが、彼は目の前に陽子が飛び降りてきても、微動だにしない。当然だろう。彼はすでに陽子が事前に噴霧しておいた催眠ガスによって、立ったまま、眠っていた。陽子は彼の喉笛を刀で静かに切った。その痛みにも気付かず、彼は眠ったままだ。多分、彼は起きる事のないまま、出血性ショックで死ぬのだろう。陽子は居間の掃き出し窓から中へと入って行く。
井上は妻と共に怯えながら二階の寝室に隠れていた。ここが窓が少なく、安全だと考えたからだ。一体、いつまでこうしてなければならない?そんな不安と怒りが込み上げてくる。
コンコン
突然、扉がノックされた。
「だ、誰だ?」
「警護の者です」
女の声だった。警備の連中に女など一人も居なかったはずだ。
「お、お前は誰なんだ?」
井上は恐怖を覚えて叫ぶ。その瞬間、扉の隙間にバールのような物が刺し込まれ、一気に扉が開け放たれた。押し入って来たのは黒尽くめの覆面。
「黙れ!叫ぶと殺す」
陽子が開口一番、そう声を掛ける。だが、あまりの恐ろしさに妻が叫ぼうとした瞬間、その額にバールのような物が突き刺さる。彼女は衝撃で跳ねるように吹き飛び、倒れたまま、動かない。
「死にたくなければ、答えなさい。新人類計画とは何?」
「し、新人類計画・・・こ、答えるわけがないだろ?」
陽子は腰から刀を抜いた。真っ黒なカーボンファイバーの刃がLED照明の灯りにうっすらと鈍い輝きを見せる。
「お、俺を殺せば・・・何も分からなくなるぞ?」
井上は必死に告げる。
「死にたくなるような痛みってのがある」
陽子はそう言った瞬間、刀を振るった。切っ先は鋭く、井上の左手の指を3本、切り落とした。あまりの痛みに彼は叫ぶ。当然ながら、その叫び声に警備の連中は気付く。
「〇対が襲撃された。命が危ない。突入しろ」
班長の指示が飛び、4人が拳銃を抜く。だが、彼らが駆け上がろうとした階段には強力な接着剤が撒かれている。最初の一人の足にそれが着き、彼は接着剤の階段に倒れ込んだ。
「くそっ、なんて奴だ。おい、上着を敷いて階段を上がれ」
彼らは倒れた仲間を踏み台にして、上着を階段に敷きながら上を目指す。
「ひぃい、ひぃ、足音が聞こえるだろ?観念しろ。自衛隊の精鋭が来るぞ?」
井上は左手を抑えながら、陽子を睨む。だが、陽子は平然としていた。
「だから・・・何?そんな事を想定せずに・・・ここまで来ると思って?」
彼女がそう告げた瞬間、激しい爆音が部屋の前でした。
一瞬だった。廊下に集まった3人が角に置かれた学生鞄の爆発によって飛び散った大量のベアリング弾の餌食になるのは。体は引き千切られ、血と肉片を飛び散らせて、彼らは廊下に転がった。
「な・・・何が・・・」
「あら?知らない?米軍から横流しされたクレイモア・・・指向性地雷って奴よ。本当に便利な代物よね。発火方式を工夫すれば、どんな風にだって使えちゃうし」
陽子は笑いながら刃を井上の胸に当てる。井上は目の前に居る輩は異常者だと感じた。人を殺すことを楽しんでいると。こんな輩との交渉はあり得ない。助かる方法は全てに従い、ただ、怒りを逸らすだけだ。
「わ、解った・・・言う。何でも言う。だから助けてくれ」
「だったら、早く言いなさい」
「新人類計画は・・・ある研究者が考案したものだ」
「ふーん。そいつの名は?」
「芹沢信夫。優れた研究者で、世界的にも認めらた功績も残している。そんな彼がある日、荒唐無稽な計画を政府に提示してきた」
「荒唐無稽?」
「あぁ、最初に聞いた時は誰もが失笑するような内容だった。それが芹沢の発案じゃなければ、一蹴して終わりだっただろう」
「出来れば、手短にお願い。ここに応援が来る可能性があるから。この家で死体を増やしたい?」
「解った。簡単に言えば、計画は遺伝子操作を行ったクローン人間に神を宿らせることだ」
「神?それは何かの比喩表現かしら?」
「言葉通りだ。神だよ。神。全知全能の神をこの世界に出現させようとしているのさ。クローン人間はその為の最高の器ってわけだ。生身の人間じゃ、とても神様を入れるには不足だからね。それを作るための計画だ」
「イミフだけど・・・よくそんなのに多額の税金を投入したわね?」
「あぁ、それ自体は荒唐無稽だが・・・その過程においてはクローン人間の製造と肉体の急成長、脳の完全なる移植など、多岐に渡って、興味深い部分があってね。それに実際に神とも呼べる能力を持った者を産み出せれば、ある意味では核弾頭並の武器を手に入れたに等しいからね」
「なるほど・・・まぁ、確かな話そうだから・・・分かったわ」
陽子の言葉に井上はホッと溜息をもらす。刹那、彼の首はゴトリと床に転がった。陽子の一振りで首が切断されたのだ。首を切ると言っても簡単では無い。首の骨は硬く、簡単には切断が出来ないからだ。だから、切断する場合は骨と骨の間を狙う必要がある。彼女はそれを軽々とやってのけた。
「さぁ・・・とっとと、ここから逃げ出さないと」
ブラウンは十人近く居る米兵を前にして、ヘラヘラと笑っている。それがディアンには不可解だった。
「てめぇ・・・この状況でよく笑ってられるな?マゾか?」
「いや、俺はそんな気は無いよ。それより・・・ジジィ・・・ここで多くの米兵が死んだら、大事になるんじゃないか?」
ブラウンの一言にディアンが笑う。
「お前・・・一人で、こいつらを殺すつもりか?」
「あぁ、そのつもりだ」
ブラウンの言葉に米兵達は拳銃を取り出した。皆、官給品のベレッタ社製のM9自動拳銃だ。
「おいおい、官給品なんて使ったら・・・大事になるぜ?」
ブラウンの言葉に誰も耳を貸さない。ブラウンの一番、近くに居た奴が拳銃のスライドを引く。その瞳は殺意で溢れている。誰もが緊張をしている。戦場で遠くに居る敵に向かって撃つのとは違う。確実な殺人だ。それを平然とやれる輩など、軍人であってもそうは居ない。だが、それが彼らにとって、必要ならやるしかない。そう自分に言い聞かせて、彼は銃口をブラウンに向けようとした。
「おいおい、慣れない事はするなよ。手が震えているぜ?」
ブラウンはそう言いながら笑っている。その場に居る誰もがこいつはおかしいと思った。そして、心の中では早くやっちまえと願った。
「全員、手を挙げろ」
突然、店の入り口から入って来たのは在日米軍のMP(ミリタリーポリス)達だった。彼等は手に散弾銃や自動小銃を持ち、その場に居た男達を威嚇する。
「銃を捨てろ。そして、床に腹這いになれ」
男達はMPに突き付けられた銃口を恐れ、その場に伏せた。ディアンは訝し気に彼等を見ながらも、彼らに指示する。
「おい、犯罪者はこいつだ。こいつを捕まえろ」
ディアンはブラウンを指さすが、MPはそんな事はお構い無しにディアンを手荒く拘束する。
「バカ野郎、俺が何をしたって言うんだ?」
「ディアン大尉、お久しぶりですな」
そこに現れたのが、恰幅の良い白人男性だ。
「べレンジャー少佐・・・これは一体?」
MPに後手で拘束されながらもディアンは必死にべレンジャー少佐に寄ろうとしていた。
「あぁ、ディアン大尉・・・いえ、シュナイダー中将。てっきり病死されたと思っていたのですが・・・そのようなお身体で生きていたとは」
「貴様・・・」
「そちらの方から、情報提供を受けましてね・・・上と相談した結果・・・あなたがやったことは軍にとって、大変危険な事だと判断されましたので・・・あなたや、その協力者は全て、逮捕させていただきます」
「き、危険だと?これは米軍にとって、最強の兵士を産み出すチャンスなのだぞ?」
「申し訳ない・・・我が国は倫理を重んじたマトモな国ですので・・・中将をお連れしろ。色々、お尋ねしたい事がいっぱいある」
MPによって、ディアンとその仲間たちは全員が連行された。残ったべレンジャー少佐はブラウンを見る。
「ミスターブラウン。情報提供をありがとう。しかし、よく、私が奴の敵になると見抜いたな?軍の中に居てもこの手の勢力争いは見え辛いのに」
「へへへ。軍に居た頃のツテで詳しいのがまだ、軍に残っていてね。ディアンの事を調べて、解った事を教えたら、あんたの名前を出してきたのさ」
「なるほど・・・しかし、クローン人間か・・・嫌な時代だな」
「気にするな。体なんて、所詮、肉塊さ」
ブラウンはあまり笑えないジョークを言って、一人、大笑いをする。ひとしきり笑ったブラウンは真顔に戻る。
「約束は頼んだよ」
べレンジャーはコクリと頷いて、その場から去って行く。
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