第20話 好きということ

「瑠偉兄、最近、帰りが早いけど、Gプロジェクトは大丈夫なの?」


 きっと私に気を使って、毎日早く帰ってきてくれているのであろう彼に、さすがに心配になって聞いてみた。


「うん。莉兎が気にすることないよ。それより、今日は、一緒に出かけようか?」

「え……?」

「デートしよう。莉兎、見たい映画があるって言っていただろ?」


 デート、だって……。

 なんだか、改まって言われると、彼との関係がこれまでとは違うものになったんだということを感じて、落ち着かない気分になる。


「気が進まない?」

「ううん! そんなことないよ!」


 彼との距離が近づいたことは素直に嬉しい。だけど、瑠偉兄の瞳に熱情を感じるたび、若干の居心地の悪さを感じてしまうのは、兄妹としての時間が長かったからだろうか。


「なんか、瑠偉兄を独占しちゃっている気がして、申し訳なくて」


 自分に言い訳するように言って、私は拭えない胸のざわめきを押し殺した。


 それから、私たちは夕飯も外で食べようと決めて、一緒に家を出た。マンションのエレベータを待っている時、瑠偉兄が手を差し出してきたので、慣れないシチュエーションに戸惑いながら、その手をつなぐ。


 だけど、ちょうど上がってきたエレベータの中に、よく知る人が乗っていて、驚いた私は思わずその手を離してしまった。


「美姫……」


 つぶやいた瑠偉兄の表情が硬い。


「どうしたの?」

「うん……ちょっと」


 エレベータを降りてきた美しい女性は、何かを堪えるように形の良い唇を噛みしめた。


「瑠偉兄、私、外そうか?」


 そう言うと、瑠偉兄は振り返ってニコリと微笑んだ。


「ごめんね。すぐ戻るから、家で待っていてもらえる?」


 けれど、美姫さんは首を振って、私に視線を移した。


「莉兎ちゃんに話があって来たの」

「莉兎に? どうして?」

「それは、直接、莉兎ちゃんに話すから……」

「じゃぁ、三人で話そう」


 瑠偉兄はそう言ったけれど、美姫さんは譲らなかった。


「莉兎ちゃんと二人で話したいの」


 瑠偉兄が戸惑った顔で、私を見る。


「分かりました。でも、ここじゃなんだから、家に入りませんか? 私、コーヒー入れます」

「すぐに終わるから、ここでいいわ」 


 結局、彼女の要望に応える形で、瑠偉兄は私を置いて一旦家に戻っていった。彼の姿が見えなくなった後、美姫さんは私を静かに見つめて、口を開いた。


「瑠偉からGプロジェクトの代表を降りたいと話があった」

「え?!」


 驚いて言葉を失う私に、彼女はため息をつく。

 

「本当にあなたは何も知らないのね。瑠偉を失ったGプロジェクトが今どんな状況にあるのか、分かっているの? あなたを優先させるために、瑠偉は今、自分の夢を失おうとしている」

「ご、ごめんなさい。私、最近、いろいろあって、瑠偉兄に迷惑かけちゃって。でも、もう大丈夫です。あの、瑠偉兄には、代表を辞めないよう私からも言っておくので」


 慌てて言うと、美姫さんは厳しい表情で私を見た。


「それだけじゃ、ダメだと思う。あなたがいては、瑠偉はきっと今後もあなたを優先して、自分を犠牲にするでしょう。あなたは瑠偉のそばにいるべきじゃない」

「美姫さん……」

「ねぇ、莉兎ちゃん。あなたは彼に何を与えられるの? 私は、彼の夢の第一歩であるNPO法人の立ち上げから運営まで、共に築き、共に歩んで来た。彼が描く未来に賛同し、それを実現させるための手助けをすることができた」


 美姫さんは私の瞳を真っ直ぐに見つめて、恐いくらいに美しい微笑みを浮かべて言った。


「それなのに、あなたは彼の優しさに甘えて、ただ与えられて、その心地よさに身を委ねているだけ。あなたは彼から奪うばかりで、何も与えられないじゃない」


 私は……。

 ドクリと心臓が音を立てて、息を吸うのが苦しくなった。

 美姫さんの言うとおりだ。

 私は、瑠偉兄に、何を与えられるんだろう。

 いつだって、彼の優しさに甘えて、守られて……。


『ねぇ、莉兎。僕はお前以上に大切なものなんてないんだよ。いざとなれば、何もかもを捨てて、お前のためだけに、僕は全てを捧げる』


 瑠偉兄はそう言ってくれたのに、私はそんな風に狂おしく瑠偉兄を愛してあげていただろうか。


 私は……。


「ほら、何も言えないでしょう? 私なら彼の支えとなって、彼のパートナーとして一緒に歩んでゆけたのに」


 彼女の責めるような視線に耐え切れず、私はうつむいた。

 

「じゃぁ……どうして瑠偉兄の事、振ったのですか?」

「振った?」


 美姫さんが乾いた声で笑った。


「そう仕向けたのは瑠偉よ。ダンスパーティーの夜、彼は私にキスをしてくれなかった。永遠の愛を約束するほど、今の自分には自信がもてないって」

「それは、瑠偉兄が誠実だから……」

「違うっ! 私はずっと前から気付いていた。莉兎ちゃんのことを、切なそうに見つめる彼に。自分の気持ちを懸命にごまかそうとしている瑠偉に……」


 美姫さんの瞳から、嫉妬の炎が燃え上がって、私に火の粉をまき散らす。


「だけど、いつか私のことを見てくれるって信じて待っていたのに。あの日、瑠偉が永遠の愛を誓いたい子は私じゃないんだって、そう思い知らされた。だから、別れを切り出すしかなかった……」

「違うと……思います」


 私は気付かないうちに言っていた。


「違うと、思います。瑠偉兄は、美姫さんとの将来を真剣に考えていたと思います。中途半端な気持ちで、誰かと付き合えるような人ではないから」


 私とは一線を引いて、絶対にプライベートな空間まで入ることを許さなかった瑠偉兄。


「きっといつかあなたのことを幸せにできると自信が持てたその時に、永遠の愛を誓おうと思っていたのだと、私はそう思います」


 その言葉に、彼女は目を見張った。


「あなたに……。瑠偉に心から愛されていたあなたに何が分かるのよ! 私の惨めさなんてあなたに分からないでしょ?!」


 彼女の怒りに触れて、その憎しみに満ちた顔を見ていられなくて、私は目を逸らした。ヒステリックに叫ぶ美姫さんは痛々しい。こんな彼女を見たくはなかった。


「軽蔑している? 私だってこんな自分は大嫌い。だけど人を好きになるってそういうことでしょ? 自分じゃどうしようもないくらい相手に焦がれて、醜さを晒してしまうほどにその人が欲しくて。理性が利かず、泣いて喚いてみっともないくらいにしがみついて。それくらい彼のことが好きなんだから!」


 美姫……さん。彼女の剥きだしになった言葉は私の心に突き刺さった。


「あなたは本当に瑠偉を好きなの? あなたの瑠偉に対する気持ちはただの憧れでしょ? 優しいお兄さんを独り占めしたいだけの子供じみた恋愛ごっこじゃない!」


 そんなこと……。

 自分の心を引きずり出された気がして、私は動揺した。


「そんなことない……私なら、私が美姫さんの立場にいたら、瑠偉兄を最後まで信じてあげられた!」


 思わず口から洩れた言葉に、彼女の顔が般若のような怒りを帯びた。


「全部、あなたのせいよっ!!!」


 腕を振り上げる美姫さんを見て、反射的に目をつむった一瞬後、頬に熱い痛みが走り、私はよろけてエレベータ脇にあった階段から足を踏み外した。


 そのまま宙に投げ出され、階段の踊り場に全身を打ち付けた私は、激痛と共に、暗闇の中に引きずり込まれていった。


◇◆◇


「莉兎……大丈夫か?」


 うっすら目を開くと、ぼんやりとした視界の先で、誰かが私のことを見つめていた。しばらくボーッとその顔を眺めていたら、その人が、私の額を優しくなでた。


「僕の事、分かる?」


 瑠偉兄のこれ以上にないというほど心配した顔。


「瑠偉……兄」

「痛いところは?」


 そう言われた途端、体中がギシギシと悲鳴を上げた。頭が割れるように痛い。

 あれ……。何があったんだっけ。

 周囲をゆっくり見回して、そこが病院であることを認識して、ようやく私は階段から落ちたことを思い出した。


「大丈……夫」


 起き上がって、けれど、めまいがして、こめかみを抑える。


「無理しないで、莉兎」

「うん……」


 美姫さんはどうしたのだろう。あの聡明な美姫さんが、あんなにも取り乱して……。


 コンコンと病室にノックの音が響き渡る。


「……入っても、いい?」


 遠慮がちに問う美姫さんの声。

 瑠偉兄が私に視線を向けたので、私はうなずいた。


「どうぞ」


 少しだけ瑠偉兄の声が固くなった。彼の気持ちが分かって、胸が苦しくなる。

 多分、瑠偉兄は自分を責めている。美姫さんにそこまでさせてしまった自分のことを。


「莉兎ちゃんに、謝りたくて……」


 疲れ切った顔をした美姫さんが、そう言って弱々しく視線を落とした。


「瑠偉……。少し、莉兎ちゃんと二人で話をさせてくれないかな」

「悪いけど、それはできない。莉兎は目が覚めたばかりで、まだ本調子じゃないし」

「お願い……もう感情的になったりしないから」


 彼女の言葉に瑠偉兄は困った様子で私のことを見た。


「大丈夫だよ、瑠偉兄。私は平気」


 微笑んでみせると、彼はため息をついて、「五分でいい? 五分経ったら戻って来る」そう言って病室から出て行った。


「本当にごめんなさい」


 美姫さんは深々とお辞儀をして、そのまま私の言葉を待つように、頭を下げたままでいた。


「あ、あの、私、大したケガじゃないので、大丈夫です。ただ、脳震盪を起こしただけみたいですから」

「それだけじゃなくて、その他にも、いろいろ……本当にごめんなさい」


 そう言った後、頭を上げて、美姫さんは、私のことを切実な瞳で見つめた。


「謝るから、全部、謝るから。土下座してもいい。だから、瑠偉を私のもとから連れて行かないで……」


 最後は涙声になって、美姫さんは顔を覆ってその場に立ち尽くした。


「美姫……さん」

 

 私はなんて答えればいいのか分からなくて、途方に暮れる。

 瑠偉兄のことが本当に好きなんだ。いつも毅然としていて、冷静な才女を思わせた美姫さんが、こんな風に人前で自分を曝け出して……。

 部屋に重い沈黙がしばらく流れ、私は堪らなくなってうつむいた。


「それは……私が決めることじゃないから……」

「どうしてあなたはそうなの? あなたは本当に瑠偉が欲しいの? 私は、瑠偉と一緒に人生を歩んでいきたい! これからも彼のパートナーとして、彼の夢を支えていきたいっ」


 涙を溢れさせて懇願するように私を見つめる美姫さんに、返す言葉がない。

 私が何かを言う資格なんてないと思ったから。


 二人に訪れた静寂は、ドアのノック音で破られた。


「そろそろ、いいかい?」


 瑠偉兄の声。

 美姫さんがハッとした顔をして、涙をぬぐう。

 部屋に入って来た瑠偉兄は、私と彼女の顔を見比べて、小さなため息をついた後、美姫さんに向き直った。


「美姫。君をここまで追い詰めたのは、僕の責任だと思っている。君を傷つけて、本当に悪かった。だけど、僕はもう……君のことをパートナーとして見ることはできない」


 苦しげに、だけど、はっきりと言った瑠偉兄に、美姫さんはうつむいて、そして「パートナーとして見てくれていたことなんてなかったくせに」とつぶやいた。


「僕は、君と付き合っていた時、ずっとそう思っていたよ」


 瑠偉兄が切なげに答えると、美姫さんは顔を崩して、口を覆った。

 そして、嗚咽を堪えるように、しばらくうつむいた後、

「もっと早くに……気付けば良かった」

 そう言い残して病室から去って行った。


◇◆◇


 家に帰り、自分の部屋のベッドに腰を下ろすと、深い疲労感が体中を覆った。


「まだ痛む?」

「ううん。痛み止め飲んだし、もう平気」

「少し横になったら? 酷い顔してる」

「うん……」


 そう言ったっきり、私は動くこともできず、自分の胸に沸き上がった感情を持て余していた。

 シンとした部屋の中で、瑠偉兄が私の顔を見て、ため息をつきながら隣に腰かけた。


「何、考えている?」

「うん……あの……」


 言いかけた言葉を出せずに、口を閉じる。


「どうして、泣いているの?」

「うん……ごめん……」


 私はこれから彼を傷つける。優しくて私を誰よりも大切にしてくれる人を、今から傷つける。

 だけどそれは、誠実な彼に対する私なりの真剣な答えだから、その勇気を持とうと、一旦、息を吸い込んだ。


「ごめんね、瑠偉兄。私、瑠偉兄の愛は受け取れない」


 美姫さんが去ってからずっと考えていたことを口にすると、まるで私がそう言うと分かっていたかのように、瑠偉兄は微笑んだまま視線を落とした。


「どうして、そう思う」

「私は瑠偉兄の事、大好きだよ。でも、その好きは、きっと瑠偉兄の好きとは違うから」

「莉兎……」

「私の好きは、ただ瑠偉兄の優しさに包まれて、たくさんの愛情を与えてもらって、甘えているだけだと思う。私は瑠偉兄から沢山もらっているのに、何も返すことができない」


 堰を切ったように、その思いを伝えると、瑠偉兄は切なげに私を見た。 


「僕はそれで幸せなのに。もっと甘えて、もっと僕を頼ったらいい」

「それじゃダメだと思う。私だけがもらうばかりじゃ」

「僕はお前がそばに居さえすればいいんだ。他には何もいらない。だから……」


 そう言って瑠偉兄は私のことを引き寄せた。


「そばにいてくれ……」


 震えるような声で彼は言った。

 その声は悲壮ささえ滲ませていて。


 答えるべき言葉が見つからず、黙り込んだ私を、彼は苦しそうに見つめて、

「莉兎、僕に与えられるものが何もないと言うなら、莉兎をちょうだい」

 そう言って、私をベッドに押し倒した。

 覆いかぶさる体。

 ドクドクと血液が遡り、鼓膜を打ち付けるほどに心臓が音を立てている。

 見上げると、暗鬱とした彼の瞳とぶつかった。


 それほどまでに、私が瑠偉兄に付けた傷は深く……。


「ごめんね……瑠偉兄」


 涙が頬を伝った。


「ごめんね、瑠偉兄を傷つけて……」


 私の顔を見た瑠偉兄は、驚いたように息を呑んで、それから苦しげに眉を寄せた。


「泣かせて……ごめん」


 彼はそう言って私から身を離すと、ただそっと額にキスをして、「少し頭を冷やすから」と部屋から出て行った。

 その日、瑠偉兄は外に出たまま家には戻ってこなかった。

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