第19話 男として

 駅ビルの壁に張られた巨大な広告に私は思わず立ち止った。

 琉香さんだ……。

 射るように見つめる瞳。微笑みを湛える甘い唇。

 挑戦的でいて、だけど色気を帯びていて、見る人を惹きつける。


 前を横切った女子高生の集団が、その広告に目を止めて、色めきだった。


「うわぁ! 琉香くんじゃない? やだぁ、あの香水買わなきゃ!」

「私も買うー!」


 あぁ、もう手の届かないところに行ってしまったんだな……なんて自分でも驚くほど冷静に思っていた。

 まるで、別の世界の出来事のようで、感情がついていかない。

 寂しいのか。悲しいのか。それすら分からない。

 きっと、彼との思い出は封じられて、過去のものになったのだと、そう思った。


「あー、えーっと、カラオケにでも寄ってかない?」


 隣で気まずそうにしていた千歳さんが、突然、そんなことを言い出した。気を使ってくれたのだろう。


「カラオケなんて、歌える曲ないよー。それにしても、すごいなぁ、琉香さん。いつの間にか、あんなに有名人になっちゃって」


 あえて彼女が避けた話題を明るい声で言ってみたら、千歳さんは驚いた顔をして私を見た。


「驚き過ぎだよ、千歳さん」

「あ。いや……だって、そんな風に琉香先輩の話をするとは思わなかったから」

「なんで? 兄妹なのに」

「でも……無理してない?」


 私の心の中を探る様に顔を覗き込んでくる。


「無理してないよ」

「そっか……。きっと、あれだな、その髪型がよくないんだ。顔を覆っているから、なんか暗そうに見えるんだよ。よし、ここはさっぱりと切ってしまおう」


 突然千歳さんはそう言うと私の腕を掴んで、ズンズン歩き出した。


「どこ行くの?」

「美容院」

「えっ! や、やだよ。私、美容院本当に嫌いなの。知らない人に髪をいじられながら、世間話するなんて苦痛を味わうくらいなら、自分で切るからいいよ」

「大丈夫、大丈夫。知らない人じゃないから。うち、美容院なの。それとも、うちの美容院じゃ不満?」


 断れない状況に追い込まれて、私はなぜか、髪を切ることになってしまった。

 そこは千歳さんのお母さんが一人で切り盛りしている、昔ながらのアットホームなお店で、最近のオシャレな美容院を想像していた私はなんだかホッとする。


「バーバー千歳ってありえないでしょ? 学校では、うちはオシャレなヘアサロンってことになっているから、内緒だよ。私が継いだら、即行で改装してやる」

「え? じゃぁ、千歳さんは美容師さんを目指すの?」

「うん。大学には進まず専門学校に行くつもり」


 彼女がうなずくと、私の髪を切っていた千歳さんのお母さんがはぁとため息をついた。


「せっかく高い金出して、大学まで進める私立の高校に入れたのに、ほんっと親不孝者だよ」


 そう言いながらも、なんだか嬉しそうだ。


「親子でお店をやるなんて羨ましいです。私、今まで美容院が嫌いで、自分で切っていたんですけど、これからはお邪魔させていただきますね」

「こんなオバサンパーマ専門の美容院でよかったら、いつでもどうぞ」


 お母さんの代わりに千歳さんが答えた。


「はい。こんな感じでどうかしら?」


 髪を切り終えて、ブローをしてくれたお母さんが、合わせ鏡で後ろも見えるようにしてくれる。肩まで短くなった髪。前髪も後ろの髪もまっすぐに揃っていた髪は、ずいぶん梳いてくれたのだろう、軽やかに揺れている。


「うわぁ。やっぱり、美容院でやるのと自分でやるのは全然違いますね。びっくり」

「うん、いいよ、うさぎ。明るくなったし、それに少し大人っぽくなった」


 千歳さんの言葉に照れて、「そんなことないよ」なんて言ったけど、本当は、軽やかな自分の髪に、心まで軽くなっていた。


◇◆◇


「お帰……り」


 家に帰ると、瑠偉兄が私の姿を見て驚いたように動きを止めた。


「どうかな? 友達の家が美容院で切ってもらったの」

「あぁ……うん、すごくよく似合っている」


 目を細めて私を見つめる瑠偉兄に嬉しさ倍増。


「外で切ってもらったの何年ぶりだろう。少しはましになったかな?」

「これまでだって、十分可愛かったよ。だけど、今日の莉兎は大人っぽくてドキドキするな」

「瑠偉兄……」


 きっと嬉しくてニヤけているであろう私の顔を見つめながら、瑠偉兄が続けた。


「莉兎、これからは僕の事、瑠偉って呼んでくれないかな」

「え?!」


 突然の要求にバカみたいにポカンとしてしまう。そんな私にクスリと微笑んだ瑠偉兄は、「男としてそばにいるって言っただろ?」と言った。


 兄としてではなく、男として……。


 トクトクと打ち始めた鼓動。

 

「る、瑠偉? ……な、なんか呼びづらいな。八年間もずっと瑠偉兄って呼んでいたから」


 口にしてはみたものの、その違和感に居心地が悪くなってしまう。

 瑠偉兄は一瞬黙って、そして苦笑いした。


「そうだよね……妹のお前に手を出したりして、父さんと母さんにも合わせる顔がない」

「あ、でも瑠偉兄なら、パパもママも文句言わないと思うよ」


 思わずついて出た言葉に、彼は驚いた顔をして、それから、その胸に私を引き寄せた。


「莉兎は僕を喜ばせるのが上手だ」


 密着する瑠偉兄から胸を打つ鼓動が伝わってきて……私は急に恥ずかしくなって、逃げ出したいような気持ちになった。


「瑠偉兄……」

「ちゃんと段階を追ってと思っているのに、そんなこと言われたら、煽られてしまう」


 その視線が絡みつくように私を捕らえて心臓がキュゥと縮こまる。彼は頭に軽くキスをしてから、私を解放した。


「ごめん、情けないね。莉兎といると理性を保つのが難しい」


 彼の気持ちはとても嬉しい。だけど、どう応えたらいいのか分からなくなる。それは私の恋愛経験値が低いからなのか。

 黙り込んだ私に、瑠偉兄はふっと微笑んだ。


「呼びづらかったら、無理にとは言わないけど……だけど、少しずつ慣れていってくれると嬉しいな……」

「……うん」


 きっとすぐに慣れる……。


 胸の中に広がった、モヤモヤする気持ちを抱えたまま、私はそう自分に言い聞かせた。

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