第18話 彼の部屋に

 琉香さんが出て行ってから三ヶ月が経った。残っていた荷物もいつの間にか運ばれていて、ガランとした部屋にまだ慣れることができない。


「寂しい?」


 突然後ろから声をかけられて振り返ると、瑠偉兄が微笑んでいた。


「えっ? 寂しくなんかないよ。虐めっ子がいなくなってせいせいしている」

「でも、寂しそうな顔しているよ」

「そんなこと……ないよ」


 こんなに瑠偉兄は優しいのに、自分のことで精一杯な自分に腹が立つ。


「無理することないよ。辛かったら辛いって言っていい」


 瑠偉兄が近付いてきて、私の頬に手を触れた。

 どこまでも優しい彼は、そうやって私を甘やかす。

 だけど、もう……。

 その優しさに甘えていちゃいけないことは分かっているから。

 

「瑠偉兄、ありがとう。でも私は一人で大丈夫だから」

「莉兎……」

「ごめんね、瑠偉兄の気持ちはすごく嬉しい。だけど、私は……受け取れない」


 そう言うと、瑠偉兄は微笑んだまま、視線を落とした。


「琉香のことが好きだから?」


 黙ってうなずいた私に、それでも微笑みを湛えたまま、彼は言った。


「莉兎が琉香を好きでも構わない。ただ、僕は莉兎のそばで、お前が傷つかないよう守っていられればいい」

「瑠偉兄……」


 溢れるほどの愛を浴びせられて、その優しさに溺れそうになって、私はうつむく。

 瑠偉兄はそんな私の両頬に手を添えて、顔を上げさせた。

 私を真っ直ぐに見つめる誠実な瞳。 


「もう傷ついた莉兎を見たくはないんだ。僕がお前を守るから。だから約束して。僕のそばから離れないと」

「そんなの、ダメだよ……」

「莉兎は僕がそばにいては迷惑?」

「瑠偉兄……」


 こういうところ、瑠偉兄は大人なんだなって思う。そうやって自分の望む言葉を誘導する。


「ずるいよ、そういう言い方……。迷惑だなんて思っているわけないのに」

「じゃぁ、いいよね?」


 強引に私の合意を引き出す。


「もし莉兎の前に、お前のことを守ってくれる相手が現れたら僕は身を引く。だから、それまでは、僕に莉兎を守らせて」


 彼はそう言って私のことを抱きしめた。


◆◇◆


「ほぉ、そんないい男に言い寄られて、それでなぜしけた顔をしている」


 学校で一緒にお昼ご飯を食べていた千歳さんが私の頬を両手でつねって引っ張った。


「い、痛いよ。千歳さん」

「まじ、ムカつく。落ち込んでいるから何かと思えば、そんな贅沢な悩みか」


 ため息交じりに言って、さっきくれたプリンを取り上げた。


「あ。プリン……」

「プリンより甘い状況にいる人にはあげません。っていうか、悩むことなんてないじゃん。私なら、さっさと瑠偉先輩とくっつくけどね。去る者追わず、来るもの拒まずだよ」


 千歳さんのあっけらかんとした性格がうらやましい。私もそれくらい割り切れたらどんなに楽だろう。


「でも琉香さんのことが好きなのに、彼に振られたからと言って、瑠偉兄の優しさに甘えるなんて、やっぱり、ダメな気がする」

「だって、うさぎは瑠偉先輩のこと、以前は好きだったんでしょ?」

「ま、まぁ、好きっていうか淡い憧れを抱いていたっていうか……。それより、そのうさぎっていうのやめてもらえますでしょうか。いろいろ、思い出すんで……」

「じゃぁ、またうさぎが瑠偉先輩を好きになればいいことじゃん」


 私の言葉は全く無視しながら、千歳さんはプリンを一口食べた。

 確かに、瑠偉兄は私の初恋の人であり、長年憧れてきた王子様だ。そんな素敵な人が好きだと言ってくれているのに、なぜ私は悩んでいるのだろう。


 そう思った瞬間、琉香さんのちょっと意地悪に口端をあげて笑う顔が頭に浮かんだ。


 全部あの悪魔のせいだ……。


 私ははぁと特大のため息をついて、うなだれた。


「簡単に気持ちは切り替えられないよ。それに、中途半端な気持ちで、瑠偉兄の気持ちに応えるのは失礼だと思うから」

「でもさ。それほどまで真剣に自分のことを考えてくれている人を受け入れてあげない方がよっぽど酷いと思うよ」


 彼女の言葉は私の胸にズンと響いた。


「だってさぁ、琉香先輩が出て行って、今、二人きりなんでしょう? 好きな子と二人で暮らしていて、手を出せないなんて、欲求不満になるよね」

「そ、そっち?!」

「いくら清廉潔白な瑠偉先輩だって、男だからね」


 むふっと笑った千歳さんが、楽しげに私を見つめる。


「もう、千歳さんに話すんじゃなかった」

「今頃そんなこと言ったって遅いよー。またネットに投稿しちゃおうかな。私が、ゴシップネタ大好きだってこと、知っているでしょ? 明日にはみんなに広まっているかもね」

「でも、言わないでしょ。千歳さんは」


 チラッと上目遣いに彼女を見ると、彼女は少し驚いた顔をして、私のことを見た。


「どうして、そう思うの?」


 だって、千歳さんは坂倉君の事、何も聞かないから。きっと、彼女は気付いている。私と坂倉君の間に流れる異常なまでに重い空気を。

 だけど、ゴシップネタを大好きな彼女が、そのことには全く触れず、気付かない振りをしてくれている。


「友達だもん」


 ふふと笑って、千歳さんを見ると、彼女は不機嫌な顔をして、

「そうやって、かわいいこと言って、瑠偉先輩を手玉に取ったんだな。この小悪魔が!」

 と言いながら、私のこめかみを拳でグリグリと締め上げた。


「痛い、痛い!」


 若干、この暴力性とすぐ不機嫌になるところなんかは、琉香さんを彷彿させる。


「甘いなぁ、うさぎは。愛しの王子に揺れ動く禁断の愛なんてネタ、ここで収めるには勿体ないじゃん。こりゃまた炎上騒ぎだな」

「ち、千歳さん……」


 青ざめた私に、彼女はチロリと舌を見せて笑った。


「冗談、冗談。でも、瑠偉先輩が手を出して来たら、すぐに報告してね」


◆◇◆


 千歳さんはあんなこと言っていたけれど、もちろんのことながら、誠実な瑠偉兄が私に手を出すようなことはなかった。

 今まで通り、瑠偉兄はとても優しくて、ただ私のことを大切にしてくれる。坂倉君との一件で、前にもまして精神的なつながりは強くなっていたけれど、私達の関係は、本当に清廉潔白だった。


 だから、それは……偶然が引き起こした。


「莉兎、ちゃんと部屋で寝ないと」


 ソファでうたた寝してしまった私に瑠偉兄が声をかけた。

 薄っすら開いた目に飛び込んで来た瑠偉兄の綺麗な顔。ドキリとした私は思わず仰け反って、ソファからずり落ちた。

 横向きに座っていたから、そのまま背もたれのないソファの側面から上半身が投げ出され、視界がグルリと回転する。


「莉兎!」


 驚いた瑠偉兄が咄嗟に手を伸ばして、私を支えようとしたけど、そのまま私の体重に引きずられるようにして、床に転げ落ちてしまった。

 抱えてくれた瑠偉兄のおかげで床に頭を打ち付けることはなかったけど、重なるように倒れて、覆いかぶさる彼の体に羞恥で顔が熱くなる。


「大丈夫?」


 上半身を起こした瑠偉兄が私の顔を覗き込んだ。

 まだ彼の体は私の上に乗ったままで、絡んだ脚に、息がかかるほど近い彼の顔に、心臓がバクバクと音を立てている。


「うん……大丈夫。瑠偉兄は?」

「大丈夫……じゃ、ないみたいだ」


 瑠偉兄はそう言ったきり、動かずに私のことを見つめた。痛いくらいに注がれる視線に、私は目を合わせられない。


「苦しい」


 瑠偉兄がそう言った。


「莉兎が好き過ぎて、苦しい」


 眉を寄せて切なげにつぶやく。

 

「瑠偉兄……」

「ただそばにいられればいいなんて、カッコつけたけど。琉香のことを好きでいていいなんて言ったけど。やっぱり莉兎に触れたい。僕のものにしたい。お前のことが好き過ぎて、気が狂いそうだ」


 ドクンと心臓が打ち付ける。


「僕じゃダメか? 莉兎。男として、お前のそばにいさせてもらえないか?」


 もどかしげに掠れた声を出して、瑠偉兄は一旦、瞳を閉じた後、再び熱い瞳を向けて私を捕えた。


「嫌なら、僕を止めて」


 瑠偉兄はそう言って、ゆっくり顔を近づけた。

 心臓が震えている。


 瑠偉兄……。


『それほどまで真剣に自分のことを考えてくれている人を受け入れてあげない方がよっぽど酷いと思うよ』

 

 頭に響く千歳さんの言葉。

 彼はいつでも私のことを一番に考え、ずっと守ってきてくれた。何を迷うことがあるのだろう。

 私のファーストキスの相手で、初恋の人で、とても大切な人。


 そっと重ねられた唇を、拒む理由は見つからなかった。


 優しいキスを一つ落とした後、瑠偉兄は、切なげに私を見つめて、

「僕の部屋に……連れて行ってもいい?」

 と聞いた。


 熱く濡れた瞳は蠱惑的に輝き、彼の言葉の意味を物語る。


 まさか、瑠偉兄がそんなことを言い出すとは思わなくて、驚いて声もなく彼を見返すと、「おいで」と言って、瑠偉兄は私を抱き起こした。


 以前、部屋には入るなと、一度は締め出された彼のプライベートルーム。

 今、そこへ私を連れて行こうとしている。


 どう、しよう……。心臓が壊れそうなほど鳴り響いていて、震える足をうまく動かすことができない。だけどそんな私の動揺を跳ね返すかのように、瑠偉兄は黙ったまま私の手を引いていく。


 部屋に入った彼は、私をベッドに座らせて、その横に自分も腰かけた。私の髪を梳くように撫でながら、静かに見つめてくる。


「僕でいいか? 莉兎」


 最後の確認。ちゃんと彼の気持ちに応えなくてはいけない。

 真っ直ぐに私を見つめる真剣な瞳を受け取り、私は自分の迷いを吹っ切ろうと口を開いた。


「瑠偉兄、初めて会った日のこと覚えている? 琉香さんにブスって言われて、私が泣きながら部屋に閉じこもっちゃった時のこと……」


 急に昔の話をし始めた私に、彼は不思議そうに首を傾げながら、「覚えているよ」と答えた。


「あの後、瑠偉兄が私を慰めて……キスしてくれたでしょ? 私のファーストキス。あの時、私は恋に落ちたんだ。だから、瑠偉兄に初めてをもらってほしい」


 その言葉を聞いた彼は凄く驚いた表情をして、それから切なげに微笑んで、私の額に口付けした。


「やっぱり、ちゃんとしてからにしよう。両親にも琉香にも納得してもらって、莉兎が落ち着いて将来のことを考えられるようになってから、それでもお前が僕を選んでくれるというなら、僕は莉兎を抱くことにする」

「瑠偉兄……」


 大事にされているという嬉しさと、緊張から解放された安堵と、いろんな気持ちがごちゃ混ぜになって、うまく整理が付かない。


 そんな私の前で、瑠偉兄は、「ホッとした?」と苦笑いを浮かべた。


「そ、そんなこと……」

「いいよ。ごめんね、莉兎」


 ふっと微笑んだ彼に、私はまだ激しく鳴り響いている心臓を落ち着かせようと、深く息を吐いた。

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