第17話 甘い毒

 その夜、私は一睡もできず、琉香さんのことを思っていた。彼の傷ついた顔が頭から離れない。

 私、酷いこと言った。

 二度と顔も見たくないなんて、心にもないこと……。

 

 琉香さん。

 本当は私のことをどう思っているの? あれは本心?

 重いと言われても、突き放されても、やっぱり私は琉香さんが好き。だから……。


 もう一度、デートを約束したあの日に戻って、彼とやり直したい。


 そう思った私は琉香さんの携帯に電話したけれど、呼び出し音がずっと続いたまま、彼が出てくれることはなかった。それが彼の答えなのかもしれない。だけど、私は一言謝りたくて、翌日、意を決してモデル事務所を訪れることにした。


「今日は仕事も入ってないし、ここには来ないと思うよ」


 そこに琉香さんはいなくて、出迎えてくれたケイタさんがそう言った。


「そうですか……」

「何かあったの?」

「え?」

「いや、あいつすごく荒れていたし……」


 ケイタさんの言葉に胸が痛んだ。

 傷つけたんだ。私が、酷く、琉香さんを。

 彼に会いたい。今すぐ会って、もう一度ちゃんと気持ちを伝えたい。


「琉香さん、どこにいるか知りませんか? 携帯つながらなくて……」


 そう聞くと、ケイタさんは少し困ったように、言葉を濁した。


「今のあいつに会っても、きっと、うさちゃんを傷つけるだけだと思うよ。あいつ、天邪鬼だから。それでも行く?」

「それでも行く」


 私は即座に頷いていた。先に傷つけたのは私だ。だから……。

 そう言うと、ケイタさんはニコリと笑って、どこかの地図を描いて私に渡した。


「うさちゃんの気持ちが、ひねくれ琉香にも届きますように」


 相変わらず、ケイタさんは私に魔法をかけるようにして、送り出してくれた。


◆◇◆


 地図の示す先は、かなり豪華なマンションだった。エントランスがオートロックになっていたため、書かれた部屋番号を呼び出してみると、「あれー? うさぎちゃん?」という女の人の声が返って来た。

 たくさん彼女がいた琉香さん。これは、予想していた範囲内の出来事だった。なのに、胸が抉られたような激痛が走って、逃げ出しそうになる。


「ちょっと待ってね」


 その声の後、エントランスのドアが開いて、私は中に入って行った。

 玄関の前に立って、深呼吸をする。

 ピンポンと、インターホンを鳴らすと、しばらくして玄関のドアが開いた。


 脚が震えている。

 帰りたい……。


 ゆっくりと開いた扉の向こうには、見覚えのある女性が立っていた。

 こないだ事務所に行った時、私が琉香さんの妹だと知って、すごく驚いていた人だ。大きなリングのピアスがよく似合うキュートな女性。

 胸がキリキリと痛みを訴える。

 自分で琉香さんを拒否したのだから、今、彼がどこにいても、私が何かを言える立場じゃない。

 だけど、それは私に想像以上のダメージを与えた。


「どうしたの? 琉香に会いに来たのかな?」

「あの……携帯、つながらないし……心配で……。事務所に行ったら、ケイタさんがここにいるって」

「そっかぁ。なんか、ここからの方が事務所近いし便利だから、一人暮らしする部屋が見つかるまで、しばらく置いてくれって。琉香、今、出ちゃっているの。もうすぐ帰ってくると思うけど、中で待つ?」


 彼女が屈託のない笑顔を見せる。

 シャワーを浴びていたのだろう、タオルで髪を拭きながら、タンクトップにショートパンツという出で立ちで、スタイルの良い体を惜しみなくさらけ出して……。


 私の中の最後の勇気が音もなく崩れていった。


「大丈夫……です。帰ります。すみません。ありがとうございました」


 涙が出て来そうになって、私は慌てて踵を返した。


 私を好きだと言ってくれた琉香さんはもう戻って来ないんだ。

 鐘の音を聞きながら優しくおでこに口付けをしてくれた琉香さんも。

 傷ついた私をかばってくれた琉香さんも。

 もう、戻って来ない。


 それを思い知らされて、悲しくて、どうしようもなくて、私は彼との思い出に蓋をした。


 私は琉香さんに捨てられたペットだ。


 そう思ったら、それはあまりに自分にしっくりきていて、笑いが込み上げて来た。最初から、そんなこと分かっていたのに、何を勘違いしていたんだろう。

 琉香さんが本気で私なんかを好きになるはずがない。彼と私じゃ釣り合う訳がないのに。


 惨めすぎて、滑稽すぎて……。


 私みたいなブスが、勘違いしてバカみたいだ。


 私は自分に言い聞かせて、彼への想いを吹っ切るように、その場から立ち去った。


◆◇◆


「どうかした? 大丈夫?」


 お風呂からあがって、リビングでボーっとしていたら、瑠偉兄が私のことを心配げに見ていた。気分転換に買い物してくると、心配する瑠偉兄を置いて、一人で外出した私。本当のことを話してしまおうかと思ったけれど、これ以上、瑠偉兄に心配をかけるわけにもいかないと思い直した。


「ううん。久しぶりに外出したから、ちょっと疲れただけ」

「もう、寝たら? 僕がついていてあげるから」


 瑠偉兄はそう言って、私の頬に手を触れた。

 彼の優しさは私の傷ついた心にじんわりと沁み込んでくる。


 今回の件で、瑠偉兄の私に対する態度が変わった。距離がすごく近い。

 こないだまでは、優しさの中にも心の奥には踏み込ませない頑なさを併せ持っていた瑠偉兄が、その壁を取り払ったように感じる。

 彼はいつも私とは一線を引いていて、それを私が越えそうになると、やんわりと押し返してきたけれど、今は、距離を置かれていることに対する寂しさを感じることが、一切なくなった。


 きっと、あの日、私に口付けをした日から……。

 もちろん、瑠偉兄はただ、私の恐怖の記憶を消し去ろうとしてくれただけだ。

 けれど、時々、私を見つめる彼の瞳に、これまでとは違う何かを感じる。

 

「つらいなら、僕に何でも言って」


 じっと見つめられて、その瞳が絡めるように私のことを捕えるから、ドキリとして、慌てて瑠偉兄から身を引いた。


「大丈夫。瑠偉兄、もう、私についていてくれなくてもいいよ。このところちゃんと寝てないでしょ? ごめんね、私のせいで」

「大丈夫だよ。莉兎が目を覚ました時、そばにいてあげたいから」


 瑠偉兄はどこまでも優しい。私はその優しさに呑み込まれそうになる。

 だけど、琉香さんが私のもとを去って行ったからと言って、今、彼にすがるのは、我儘な気がした。


「もう、こないだのことは、瑠偉兄のおかげで吹っ切れたから大丈夫」

「じゃぁ、その顔は、琉香が原因かな?」

「瑠偉兄……」

「ちゃんと話してごらん」


 優しく微笑みながらも、なんでも見透かしてしまう彼の強い瞳に、私はため息をついた。

 本当に、彼には適わない。


「……今日ね、本当は琉香さんに会いに行ってきたの」


 そう切り出すと瑠偉兄は少しだけ驚いた顔をして、そして、すぐに優しく微笑んだ。


「あいつがまた莉兎を虐めた?」

「ううん。結局、会えなかったんだ。本当は会おうと思えば会えたのに、私、逃げ出してきた」

「こないだのこと、琉香がまだ疑っているなら、僕から話してみようか?」


 瑠偉兄の瞳が心配そうに揺らぐ。


「ううん。もう、いいの。こないだのことが原因じゃない。私が逃げ出したのは、琉香さんが私を受け止めてくれる自信がなかったから。最初から、私と琉香さんじゃ無理があったんだと思う」

「莉兎……。本当に、それでいいの?」

「うん……」


 私がうなずくと瑠偉兄はため息をついて、私の頭を撫でた。


「そんな話を聞かされたら、余計にお前の事一人にしておけないよ」

「でも、今度は瑠偉兄が倒れちゃうよ。もう私は大丈夫だから」


 そう言った私を瑠偉兄はしばらく見つめた後、「じゃぁ、二人で寝ようか」と言った。


「え……」

「嫌?」


 真っ直ぐに私のことを見つめる。

 答えることができず黙り込んだ私に、瑠偉兄はふっと微笑んで、「ごめん。冗談」とつぶやいた。


「じゃぁ、何かあったらいつでも呼んで」


 瑠偉兄は優しく言って、部屋から出て行った。


◇◆◇


 翌日、私の携帯に、登録されていない番号からの電話がかかってきた。

 電話に出ると、一瞬、躊躇うような間があって、「七瀬?」と遠慮がちな声が耳に届いた。聞き覚えのある声に、ゾクリと悪寒が走る。


「お願いだから、切らないで!」


 叫んだ坂倉君の声は、あまりに切実で、私は動揺して体を強張らせた。


「嫌だったら黙ったままでいい。だから、少しだけ話を聞いてほしい。俺なんかの声、聞きたくないって分かっているけど、少しだけ、俺に時間をちょうだい」


 その声から、憔悴しきった彼の姿が想像できて、私は電話を切ることができなかった。


「本当にごめん。あの後、冷静になって、なんて酷いことしたんだろうって、自分のことが信じられなかった。七瀬の事、誰よりも大切な人だったのに、傷つけてしまうなんて……」


 苦しそうに、彼は息をつく。


「だけど、俺、本当に七瀬のことが好きで、だから誰にも渡したくなくて、それで気付いたら、あんなことに……って、そんなの言い訳にもならないけど」


 坂倉君は自嘲的に笑って、それからしばらく沈黙が続いた。


「俺、学校やめることにしたから。だから、安心して。もう、学校休まなくても大丈夫だよ」


 え……。

 驚いた私は「やめてどうするの?」と思わず聞いていた。すると、電話口から、坂倉君が息を呑んだのが伝わって来た。


「……どうして、俺の事なんか気にしてんだよ」


 だって、大学のスポーツ推薦が決まっているって、今、学校をやめたりしたら、坂倉君の将来が取り返しのつかないことになる。


「もう二度と、七瀬の前に姿を見せないから。こないだのことも、俺のことも全部忘れてほしい」


 坂倉君は苦しそうに言った。


「忘れ……ない。あんな酷いこと、絶対忘れない」


 私は思わずそう言っていた。


「七瀬……」

「学校やめて、それでなかったことにするなんて許さない。私は明日から学校に行く。坂倉君のことを、軽蔑しているし、そういう目で今後はずっと見る。だけど、それだけのことしたんだから、坂倉君は私から逃げ出さずに、ちゃんと罪を償って」


 そう言うと、坂倉君は「七瀬……」とつぶやいたきり、黙り込んだ。電話口から、彼のくぐもった嗚咽がかすかに聞こえて来て、切なくなった。

 坂倉君に付けられた心の傷はまだ癒えていないけど、きっと、同じくらいに坂倉君も傷ついているのだと、そう思ったから。

 もう、彼を責める気にはなれなかった。



「お前は、本当に優しいね」


 電話を切った後、いつの間にか部屋にいた瑠偉兄がそう言ってため息をついた。


「あんな男がいる場所に、僕としては行かせたくないけれど……できることなら、あいつをこの手で消し去ってしまいたい」


 穏やかな瑠偉兄とは思えないほどに、それは苦々しく憎しみが込められていて、私はそんな彼を見ていることができず、うつむいた。


「坂倉君のことは許したわけじゃないよ。だけど、きっと彼も苦しんでいると思うから」

「お前が同情する必要なんてないのに……。その無防備な優しさが、またお前を危険な目に遭わせるんじゃないかと心配だよ。本当は学校になんて行かせたくない」

「心配しすぎだよ。もう私は平気だから。瑠偉兄だって、大学があるし、Gプロジェクトの人たちもきっと瑠偉兄がいなくて困っていると思う」


 そう返すと、彼は眉を寄せて、私のことを真剣な瞳で見つめた。


「ねぇ、莉兎。僕はお前以上に大切なものなんてないんだよ。いざとなれば、何もかもを捨てて、お前のためだけに、僕は全てを捧げる」


 瑠偉兄の優しさは毒だ。

 その甘い毒に侵されて、私はどうしようもない我儘な子になってしまいそうになる。

 きっと彼は私が望めばそれがどんな無理難題だって、優しく微笑んで叶えてくれるだろう。そんな人だから、私はこれ以上彼を頼ってはいけない。


「瑠偉兄は最高のお兄ちゃんだね。でも、私は本当に大丈夫だから」


 そう言うと彼は少し驚いた表情をして、それから視線を落とした。


「ずっと……自分に言い聞かせていた」


 切なげな瑠偉兄の声。


「お前は妹だって。その一線は越えちゃいけないって。お前の前では、完璧な兄であろうと努力してきたんだ。だけど、ごめん、莉兎。もう無理だ……」


 そう言って、瑠偉兄はその腕の中に、私を引き寄せた。


「好きなんだ、莉兎のことが」


 耳元で囁きながら、息も吸えないほどにきつく抱きしめる。

 彼の言葉をすぐに理解することは出来ず、呆然とする私に、瑠偉兄は苦しそうに続けた。


「僕が琉香のことを忘れさせるから」


 初めて見せる、熱く濡れた瞳。

 ドクンと心臓が震える。


「僕を受け入れて、莉兎」


 彼の熱が私を覆い、苦しくて息もできない。


 しばらくその状態で沈黙が続き、何も答えられず、ただ硬直する私を、瑠偉兄は深いため息と共に解放した。


「ごめん……急にこんなこと言って」


 そうつぶやいて、私から離れた彼は、向かい合って静かに私を見つめた。


「少し急ぎ過ぎた。お前の気持ちがちゃんと落ち着いてから、告白すればよかったんだけど、気持ちを抑えることができなかったから……」


 困ったように微笑む。


「驚かせてごめんね、莉兎」

「瑠偉兄……」


 なんて答えたらいいのか分からない。

 瑠偉兄のことは本当に好き。こんな私を好きだと言ってくれて、勿体ないくらい。

 なのに、琉香さんを思うとどうしようもないほど苦しくなる。

 私は何て欲張りなんだろう。こんなに優しくて素敵な人が傍にいてくれるのに……。


「ごめんね、瑠偉兄。私……」

「いいんだ。莉兎はゆっくり考えて。いろいろなことが一度に起きたから、動揺するのも仕方ない」


 優しく微笑んだ彼は、「僕はいつまでも待つから」そう言った。

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