第16話 別れ

 その夜、家まで戻って来た琉香さんは私を車から降ろして、「ちょっと出かける」と言ったまま戻って来なかった。私は私で、その夜、熱を出して寝込んでしまった。翌日も熱は下がらず、瑠偉兄は大学を休んでずっとついていてくれた。


『仕事でしばらく家をあける』


 そんなメールひとつ残して、その間、家に帰ってくることのなかった琉香さんに、私は正直ホッとしていた。今、どんな顔をして彼に会えばいいのか分からないし、体だけでなく、精神的に衰弱していた私は、本当のことを話す勇気もない。


 琉香さんに伝えるのは、ちゃんと落ち着いて話せるようになってからにしよう。彼に心配をかけるのは嫌だったから、私はそう決めた。

 でも、もしかしたらそれは、琉香さんと向き合う勇気の持てない自分を正当化させるためだったのかもしれない。



「ちゃんと何か食べないと。せっかく熱下がったのに、体力戻らないよ」


 瑠偉兄が困った顔で、ため息をつく。


「食欲……ない」

「困ったな。じゃぁ、こうしようか。莉兎が食べるまで、僕も食べない」

「瑠偉兄……」


 私は彼の優しさに観念して、出されたおかゆに手を付けた。


「美味しい」


 二日ぶりの食事に、口に入れた途端、猛烈な空腹に襲われた。パクパクと食べ始めた私を見て、瑠偉兄が微笑む。


「よかった。デザートに果物でもむこうか」

「ありがとう、瑠偉兄。ごめんね。大学休ませちゃって」


 ご飯を食べて身も心も少しだけ元気になった私は、ようやく彼に迷惑をかけていることに対して謝った。これまで自分のことに精一杯で、相手を気遣える余裕がなかった。


「莉兎が気にすることなんてないよ」


 瑠偉兄はなんてことなさそうに言って笑う。


「でも、ずっと瑠偉兄を独占しちゃって、美姫さんにも申し訳ないね」


 私がつぶやくと瑠偉兄は苦笑いをした。


「美姫とはね、もうずいぶん前に、別れたんだ」

「嘘!」


 私は驚きで言葉を失った。

 だって、理想のカップルだった、あの二人が……。


「嘘じゃないよ。ダンスパーティーの夜、彼女に振られたんだ」

「え……」


 すごく意外だった。美姫さんは、瑠偉兄のことを本当に好きなのだと傍目で見ていても分かったから。


「だから、莉兎はそんなこと気にしないで。さ、全部食べちゃいな」


 瑠偉兄は柔らかに笑っている。

 大人な瑠偉兄は私の前で本心を見せたりしないから、彼が今どんな気持ちなのかわらかない。彼女に振られて、妹はこんな状態で、大丈夫だろうか。

 私は、いつも瑠偉兄に負担をかけてばかりだ……。


「ごめんね、瑠偉兄……」

「僕はね、莉兎の役に立てているということが、すごく嬉しいんだ。だから、もっと、僕に頼ってほしい」


 私の思っていることをすぐに察知して、そうやって甘やかす。


「瑠偉兄は、世界で一番優しいね」

「莉兎限定だけどね」


 極上の言葉で私を喜ばせるから、ダメだと思うのに……彼に甘えてしまいそうになる。

 だけど、そんな自分を叱咤して、私は笑顔を返した。


「でも、もう大丈夫だよ。私、明日から学校に行くね」

「そう?」


 瑠偉兄は少しだけ心配そうに私の顔を覗き込んでから、「なら、よかった」と微笑んだ。


◇◆◇


 明日から学校に行く、坂倉君と顔を合わせる、その精神的なプレッシャーが影響したのだろう。

 その夜、私は怖い夢を見た。

 全身を何かに縛られて拘束されている自分。体の上に覆いかぶさる重みを感じて、顔を上げると、坂倉君が笑っていた。その瞳は欲情に燃え上がり、獰猛な獣のように荒く息を上げている。

 や、めて……。

 言葉にならない悲鳴をあげる。

 いや……。

 坂倉君が私の着ている服を引き千切る。

 いや、やめて、いやだ。


「いやぁぁっぁぁぁあぁぁ!」


 私は絶叫をあげて、飛び起きた。


「莉兎! どうした?!」


 部屋に飛び込んで来た瑠偉兄が、私のことを抱きしめた。


「瑠偉兄! 瑠偉兄!」


 怖くて、言葉にならなくて、私はただ彼の名を呼んでしがみついた。


「大丈夫だよ。安心して、僕がいるから、大丈夫だよ」


 瑠偉兄は優しく背中を撫でてくれた。彼の胸に抱かれて、彼の鼓動を感じて、ようやく私は落ち着きを取り戻し、呼吸を整えようと深呼吸をした。


「莉兎が眠るまで、僕がそばについているから、ゆっくり眠って」

「眠るの、怖い……」


 首を振る私に眉を寄せて私を見つめた彼は、なぜか、「あの男にキスもされた?」と聞いた。ぶり返す恐怖に、一瞬にして強張る体。


「思い出させたね……ごめん」


 瑠偉兄は苦しそうな表情をして、それから、そっと唇を私に重ねた。


「瑠偉……兄……」


 ほんの一瞬、微かに触れた唇はすぐに離れたけれど、息を呑む私の前で、彼は切なげに吐息をついた。


「僕が、あの男に触れられた記憶を、塗り替えてあげる」


 その後、おでこに、瞼に、首に、手に……瑠偉兄は真綿が触れるようなキスを体中に落としていった。


「全部忘れて、莉兎……」


 優しくて暖かい声。

 涙が溢れてきて、瑠偉兄の胸に顔を埋めた私を、彼はぎゅっと抱きしめてくれた。


「莉兎のことは僕が守るから。これからもずっと」


 その後、彼は私が眠るまでそばにいてくれた。

 ベッドの脇に座った瑠偉兄が、布団に入った私の髪を優しく撫でてくれる。


「莉兎の黒髪は子供の頃から変わらないね。サラサラでとても気持ちがいい」


 肩肘をついて顔を覗き込んで、優しく微笑む。


「覚えている? 昔も、こうして莉兎が眠るまで一緒にいたこと」

「うん。覚えているよ。怪談特集見ちゃった時でしょ? パパもママも帰りが遅かったから、瑠偉兄がついていてくれたんだよね」

「見るのやめなって言っているのに、莉兎は怖がりのくせして、聞かないから……」

「瑠偉兄は昔から私の事よく分かっていたね」


 クスクスと込み上げてきた笑いに肩を揺すりながら彼を見上げると、瑠偉兄は静かに微笑んだ。 


「分かるよ。ずっと、お前の事を見ていたから」

「瑠偉兄……」

「熱が上がるといけないから、もう寝た方がいい。明日過ぎれば週末だし、もう一日だけ学校はお休みしな。週末に心を落ち着けて、来週から登校したらいい」

「……うん」

「お休み、莉兎。ずっと僕がついているから、安心して」


 小さな頃から、私を見守ってくれていた瑠偉兄。

 優しくて、大好きな瑠偉兄。

 いつでも、こうして私を包み込んでくれる。


「ありがとう。お休み、瑠偉兄」


 私は彼の優しい眼差しに見守られたまま、眠りについた。



 翌朝——

 その心地よい眠りは、背筋を凍らすような低く怒りを含んだ声によって、引き裂かれた。


「へぇ。莉兎は妹だって、こないだ俺を殴っておいて、笑えるね」


 まだ半分寝ぼけた状態で声のする方向に顔を向けると、開かれたドアの外に、冷たい瞳でこちらを見据える琉香さんが立っていた。


「琉香さん!」


 驚いて、飛び起きた私を優しく制して、瑠偉兄が口を開いた。


「誤解だよ、琉香。僕たちはそういう関係じゃない」

「この状況で、よくそんなことが言えるな」


 琉香さんの冷たい声に、瑠偉兄が小さなため息をつく。


「どうして、莉兎のことを信じてやらない?」


 その言葉は責めるように強い響きを持っていて、一瞬だけ言葉を呑んだ琉香さんが自嘲的に笑った。


「そうだな。お前ならきっと無条件にうさぎを受け止めてやるんだろ。だけど、俺は……」


 そう言って私に視線を移した後、

「お前の気持ちを信じてやれるほど、自分に自信はない」

 そう言い残して、そのまま部屋から出て行ってしまった。


 あのプライドが高くて、いつも自信たっぷりの琉香さんが、自分に自信がないなんて……。


「莉兎、お前から本当のことを言いづらいなら、僕から琉香に話そうか?」

「ありがとう、瑠偉兄。大丈夫、私、自分で言ってくる」


 本当は口にするのも嫌。あんなこと、琉香さんには知ってほしくない。だけど、このまま誤解されるのはもっと嫌だから、私は勇気を出して、琉香さんの後を追った。


 彼の部屋をノックすると、返事はなく、代わりにゴソゴソと物音が聞こえてきてた。


「琉香さん、入るよ?」


 何事かと部屋を覗き込んだ私は、その光景に声を失う。

 大きなスーツケースに、荷物を詰めている琉香さん。


「何……してるの?」

「見りゃ、分かるだろ。引っ越しの準備だよ。残りの荷物は後で取りにくる」

「え。なに……言っているの?」

「仕事も忙しくなって来たし、事務所の近くに移ることを前々から考えていたんだ」


 ため息交じりに琉香さんは言うと、私を避けるようにして荷物を入れ始めた。

 うそ……やだ……。

 心臓が鼓動を速める。


「どこに、どこに行くの? だって、家賃とかどうするの?」

「事務所から、もっと仕事を増やしてほしいって言われているんだ。それなりに稼いでいるし。問題ないよ」

「で、でも、ママたち心配するよ」

「もう言ってある。都心の方が何かと便利だから、一人暮らし始めたいって電話したら、好きにしろってさ。瑠偉は信用あるから、お前達が二人になることにも、特段、心配していなかったし。呑気だな親は」


 最後の言葉は皮肉気な響きを持ち、自分の言葉に苛立ったように、琉香さんは舌打ちをついた。


「お前たちにとってもその方がいいだろ。二人きりで、俺に遠慮することなく、イチャついたらいい」


 なんで、なんでそんなこと言うの……。


「やだよ……」


 思わず言っていた。


「行かないで」


 琉香さんがこの家からいなくなっちゃうなんて、そんなの嫌だ。

 駆け寄って彼の腕を掴むと、琉香さんは驚いた顔をして私を見た。


「なんだよ、それ。……お前には瑠偉がいるだろ」


 苦しそうに視線を逸らす。


「違うっ!」

「莉兎……」

 

 言わなくちゃ。自分の気持ちを、ちゃんと勇気を出して……。


「琉香さん、聞いて。こないだ、私は琉香さんを拒否したんじゃない。私、琉香さんが好き。琉香さんとのデートを本当に楽しみにしていたの。だけど……」


 喉がカラカラになって、声がうまく出せない。

 その先を、早く……。


「あの日、クラスメイトが来て……家に上げて……それで……」


 声が震えて、涙が出てきて。


「私、彼に……襲われ……て……」

「うさぎ……」


 驚愕の表情で琉香さんが私を見つめている。


「途中で瑠偉兄が助けてくれたの。だけど、私、すごく怖くて。まだ、今でも怖くて……。だから、瑠偉兄がそばに……」

「もう、いいよ。莉兎……」


 言いかけた私の言葉を遮るようにして、彼は静かに言った。


「ごめん、お前にそんなこと言わせて」


 琉香さんは深くため息をついた後、苦しそうに私を見つめた。


「莉兎、俺と来る? 俺と二人で……暮らそう」


 トクンと心臓が音を立てた。

 長い前髪の間から、二つの綺麗な瞳が私を見つめている。

 けれど、その瞳はすぐに力を失うように、視線を落としていった。


「……冗談」


 ため息をつくようにして、彼は言った。


「俺には無理だ。お前は重たすぎる」

「でも、私は琉香さんのことが……!」

「っていうかさ、俺、お前みたいなブスをいつまでも好きだと思える自信ねーし。お前には、瑠偉みたいな優しい男が合っているよ。あいつなら、きっと一生責任持ってくれるからさ」


 そう言って、琉香さんは私から顔を背けた。


 そう……だよね……。

 涙が、出て来た。


「そんなの知ってるよ……」

「うさぎ……」

「私が琉香さんに釣り合わないブスだってことくらいよく分かってる! もういい。もう琉香さんなんて、どこにでも行っちゃえばいいっ! いつも私に意地悪なことばかり言って、琉香さんなんて大っ嫌い! 二度と顔も見たくないっ!!」


 私は混乱して、訳が分からなくなって、泣きながら叫んでいた。

 琉香さんが傷ついた顔で目を伏せた。


 今更、なんでそんな顔をするの。

 自分で私のことを突き放したくせに。


 悲しくて、苦しくて、いたたまれなくなった私は、彼の元から逃げるように部屋を飛び出した。

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