第15話 誤解

 フワフワと体が宙を漂うような心地よさに夢うつつの中、あれ……何していたんだっけと考える。

 誰かが私の髪を撫でている。気持ち良くて、再び意識が途切れそうだ。

 温かな感触が頬に伝わって、眠りから呼び戻され、薄ら目を開くと、心配げに自分を見つめる瑠偉兄の姿が目に入った。


「瑠偉兄……」

「莉兎、大丈夫か? 痛いところはない?」


 途端、先ほどの恐怖を思い出して、私は悲鳴を上げた。


「大丈夫だよ、大丈夫。安心して」


 瑠偉兄が優しく私を抱きしめる。


「もう大丈夫だよ……」

「瑠偉兄……瑠偉兄!」


 私は彼にしがみついて泣いた。怖かった。本当に怖かった。

 いつも明るくて気さくでみんなから慕われている坂倉君が、あんな風に豹変するなんて。

 私は瑠偉兄の胸の中でひとしきり泣いて、ようやく落ち着きを取り戻した後、自分が彼の胸の中にいることに気付いて、慌てて飛びのいた。


「ご、ごめん。もう、大丈夫」


 そんな私に、瑠偉兄は優しく微笑みかける。


「いいよ。おいで、莉兎。まだ震えている」


 彼は私の腕を引き、再びその胸に抱きしめた。


「間に合ってよかった……」


 彼の安堵したため息に、再び涙がジワリと滲んだ。


「……ありがとう。瑠偉兄が来てくれてよかった」

「うん……」

「遅くなるって言っていたのに、どうして早く帰って来たの?」

「折り返しの電話が来ないし。彼の声が普通じゃなかったから、気になって。お前は無防備だから、僕の心配は絶えないよ」


 そう言って苦笑いする瑠偉兄。

 私のことを何でも分かっていて、こうやっていつも気にかけてくれる。

 彼の優しさに包まれ、再び涙が出て来た。


「ごめんね。瑠偉兄の言い付け守らなくて」

「もういいから」


 優しく髪を撫でる温かくて大きな手に安堵し、ホッと息をついたその時——


 ガシャリ


 と玄関の開く音が響いた。

 一瞬にして全身が緊張に包まれる。


 琉香さん……だ。


「瑠偉兄、琉香さんには言わないで!」


 起き上がって彼の腕を握りしめると、瑠偉兄は、「莉兎が言わないでほしいなら、僕は何も言わないよ」とうなずいた。

 玄関からリビングに向かう足音が聞こえて、すぐに「莉兎?」という琉香さんの声と共に、部屋のドアが開いた。

 私は咄嗟に涙を拭いて、瑠偉兄から離れる。


「どうか、したの?」


 私と瑠偉兄の二人の顔を見比べて、訝しげに眉をひそめる琉香さん。


「莉兎が具合悪そうだったから、熱がないか確認していたところ」


 瑠偉兄がそう言うと、琉香さんは心配げに私に近づいてきた。


「大丈夫? 風邪でもひいた?」

「だ、大丈夫。ちょっと気分悪くなっただけ……」


 ちらっと、握りしめた私の両手に視線を落とした琉香さんが目を細めた。


「具合悪いなら、出かけるのやめるか?」

「ううん。大丈夫!」


 私は慌てて首を振って立ち上がった。

 瑠偉兄が心配そうに私を見ている。


「莉兎、本当に大丈夫なの?」

「うん。……大丈夫だから……」


 気遣う瑠偉兄に頷いて見せると、私は琉香さんに「すぐ用意する」と言って、一旦、自分の部屋に戻った。


 もう、あんなこと忘れる……。

 そう自分に言い聞かせて、深呼吸をする。

 大丈夫。大したことない。何も無かったんだ。


◇◆◇


「腹減ってる?」


 車を運転しながら、琉香さんが聞いた。


「ううん。まだ、お腹は空いていない」

「そう。じゃぁ、みなとみらい辺り、ふらふらするか」

「うん」


 それからしばらく車で走って、琉香さんは駐車場に車を停めた後、ちらっと私の顔を見てため息をついた。


「何があったの」


 彼の言葉にドキリと心臓が収縮する。


「何がって?」

「いつもと様子が違う。瑠偉と何かあった?」


 低く感情を押し殺した声で琉香さんが聞いた。


「何も、ないよ……」


 その言葉に、琉香さんが黙ったまま私の両手に視線を落とす。

 ダメだと分かっているのに、両手をギュッと握りしめてしまう。

 ため息をついた琉香さんが、私に手を伸ばしかけて、ビクリとその動きを止めた。


「その首の痕。なんなの?」


 動揺した私は、あからさまに反応して首を抑えた。


「瑠偉にされたのか?」


 幾分声を荒げた琉香さんが、首を押さえた私の腕を掴んだ。


「違う……」


 顔を背ける私に、彼は「どうして俺の目を見ない」と、無理矢理、私を引き寄せた。


「や、やめて……琉香さん」

「莉兎……こっち向いて」


 琉香さんは私の頭を引き寄せて、じっと私を見つめた。


「何があった?」


 動揺を隠し切れない私を彼はしばらく黙って見ていたが、痺れを切らしたように、そのまま唇を重ねた。腕を掴まれ拘束されたその状態に、体に覆いかぶさる大きな体に、先ほどの恐怖がぶり返す。

 坂倉君の狂気を帯びた瞳や荒い息遣いが生々しく私を支配し、私はパニックに陥った。 


「いやぁっ! やめてぇっ!」


 気付けば琉香さんを押し返していた。


「莉兎……」


 琉香さんの驚いた声。

 ハッとして顔を上げると、酷く傷ついた顔をした琉香さんが、唇を噛んだ。


「そんなに……嫌か?」

「違うっ! そうじゃないっ! ごめん、今日はいろいろあって……嫌とかじゃなくて、私……」

「もういい。帰ろう」


 苦しそうにそうつぶやいて、琉香さんは車のエンジンをかけた。


 誤解を……解かなくちゃ……。


 私を拒否する様に、黙ったまま車を運転する彼に、本当のことを言おうと口を開いたけれど……。


 声が出ない。


 今、あの出来事に触れたら、恐怖で叫び出してしまいそうで。そんな自分の姿も、それが他の男性から凌辱を受けたためだということも、琉香さんには知ってほしくなくて……私は、それを先延ばしにした。

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