第12話 白日の下に
先日、悪魔の気まぐれがもたらした優しさは、再び私の心に小さな波紋を落とし、それは確かな波となって、私を揺さぶっていた。
夜中、寝る前にお茶を飲むためキッチンへと向かった私。
リビングのテレビがついたままで、部屋を覗くと、琉香さんがテーブルにうつ伏して寝ていた。すぐ横にある空のワインボトルを見て、酔って寝ちゃったのかと苦笑い。
「琉香さん、風邪ひくよ」
声をかけたけど、彼は一旦薄っすらと目を開いた後、そのまま再び眠ってしまった。
こうやって寝ているときは優しい表情なのに、なんで起きるとあんなに不機嫌な顔になっちゃうんだろう。彼の天使のような寝顔に、もったいないなぁと思う。
まぁ、オリンピック開催くらい稀に、優しい顔も覗かせるけどね。と、先日の彼の言葉を思い返した。
『俺はこんなに心が綺麗な奴を他に見たことがない』
脳裏に響く、琉香さんの声。
先日の出来事は、中学一年の頃に起きた、ある事件を思い出させた。
あの日、私の中で恐怖でしかなかった彼の存在は大きく姿を変えた。
美しすぎる兄に、妹だということは知られたくなくて、学校では兄妹ということを隠していた私。
中学に入学し、再び彼らと同じ校舎になってからも、なるべく二人には近づかないようにした。帰り道、同じタイミングになってしまった時は、あえて、ゆっくり歩いて知らん顔をする。
絶対に兄妹だってバレないよう気を付けていたはずなのに、どこで知ったのか、前を歩いていた琉香さんを含むサッカー部メンバーの一人が、私に気付いてこう言った。
「あ。琉香の妹じゃん」
固まる私の前で、他の男子生徒も振り返る。
「え。嘘だろ?」
「いや、遠藤先生が言ってたよ。だろ? 琉香」
遠藤先生……私のクラスの担任でサッカー部の顧問。口止めしておいたのに……。青ざめる私の前で、琉香さんの隣にいた男子生徒が苦笑いした。
「なんだよ。お前の妹ならどんだけ美人な子かって一瞬期待したじゃねーか。ひでーブスだな」
だから、嫌なんだ。
私は小さくなって、うつむいた。
涙で前が見えなくなって、消えてしまいたい衝動に駆られて、咄嗟に踵を返す。
その直後、ドサッと何かが地面に転がる音がして、一気に周囲がざわめいた。振り返った私の目に飛び込んで来たのは、地面に倒れるさっきの男子生徒と、その生徒の上に馬なりになって襟首を掴む琉香さんの姿だった。
「あぁ? お前俺の妹に何言ってんだよ」
低く怒りを押し殺した声。
「こいつのこと何も知らないくせに、何勝手なこと言ってんだよっ!」
凄まじい顔で相手を睨み付ける琉香さんに、私は涙もひっこんで、呆然とその光景を見つめた。
「もう一度、そんな言葉使ってみろ。容赦しねーぞ」
静かに、だけどその瞳を怒りに染めて言った彼は、立ち上がって私に近づくと、肩に腕を回し私の頭を引き寄せた。
「いいか、こいつを傷つけるようなことを言う奴は許さない。こいつをブスって言っていいのは俺だけなんだっ」
言ってることめちゃくちゃだよ、琉香さん。全然説得力ないよ。
だけど、そう思いながらも、私はそんな彼に……、その時すごく感動したんだ。
本当は優しいんだよね。きっと。
スヤスヤ寝息を立てる琉香さんの寝顔に苦笑いする。
まぁ、普段はデビルのようだけど。
出会いは最悪だったけれど。
彼の言葉に傷ついて、恐くて、大嫌いだった琉香さん。
けれどあの日以降、彼から発せられる言葉は、私の中で形を変えた。
また、守ってもらったね。
八年一緒にいるうちの、たった二回だけ。それ以外の日々は、最低最悪な彼だけど。
肝心な時は必ず私を守ってくれる本当は優しい人。
「ありがとう、琉香さん」
私は眠る彼に向かってそうつぶやいた。
琉香さんの額にかかる前髪に手を触れてみる。覗くおでこに、ふと鐘の音の中で彼がしてくれた、優しいキスが思い浮かんだ。
トクンと心臓が音を立てて……。
気付けば、彼がしてくれたように、私は琉香さんの額にそっと口付けをしていた。
「うさぎ……」
「うわっ!」
寝ているとばかり思っていた琉香さんが急に目を開き、驚いた私は仰け反って尻餅をついた。
琉香さんが息を呑んだように、私のことを見つめている。
「お前……今……」
「おっ起きてたの?!」
動揺でカァッと顔が熱くなる私の前で、ゆっくり体を起こした琉香さんは、
「今の瑠偉の代わりにした? それとも俺に?」
と聞いた。
その問いに、彼の切なげな瞳に、私はうろたえる。
「そんなの……分かんない」
分からなかったのは、どうしてあんな行動を自分が取ったのか。私は確かに琉香さんを想って、彼の額に口付けした。自分を守ってくれた感謝の意味を込めて?
それだけじゃないことは、鼓動の速さが物語っている。だけど、それを認めることができない。
「じゃぁ、俺の名前呼んでみて」
突然、琉香さんが言った。
「え?」
「いいから、早く」
「……琉香、さん?」
促されるまま言うと、彼は、私の頭を引き寄せ、間近からじっと私の顔を見つめた。
「今から、キスするよ」
そう囁いて、まるで私の気持ちを確かめるように、そのまま黙り込む。
鼓膜を打ち付けるほどに心臓の音が鳴り響いていて……。
私の心の奥で広がった波紋は、徐々に大きくなってゆき、その瞬間、白日の下に晒された。
私は……。
そっと目を閉じた。
ゆっくりと重ねられた琉香さんの唇。
彼のキスを静かに受け取った私を確認するかのように、琉香さんは唇を重ねたまま動かなかった。
薄ら目を開くと、間近で視線が絡み合い、彼は私に視線を落としたまま、静かにその唇を離した。
「今、ちゃんと俺を想ってキスをした?」
私の顔を覗き込む。
「うん……」
私は正直にうなずいた。
すると、琉香さんはふっと微笑んで、「今度は、うさぎからキスして」と言った。
戸惑う私を琉香さんは吸い込まれそうなくらいにじっと見つめる。私は彼の美しい瞳に引き寄せられるようにして、再び唇を重ねた。
それは、琉香さんに、唇だけでなく心を許したということで……だから、その後、彼がとった行動は、多分、経験豊富な琉香さんの中ではごく自然の流れだったのだろうけど、だけど何の経験もない私は動揺してパニックに陥った。
何度も角度を変えて唇を重ねる琉香さん。深く深く求められて、初めての甘い刺激に体が硬直する。
そのキスはどんどん熱くなっていって、気付けばいつのまにか自分の息が上がっていた。
「莉兎……」
唇を離した琉香さんが、私をうさぎではなく名前で呼んだ。
その瞳はまるで大切なものを見つめるように熱がこもっていて、胸が苦しい。
「莉兎……」
もう一度名前を呼んだ琉香さんが私のことを床に押し倒した。
ガシャンと大きな音を立てながら床を転がるワインボトル。
「え……ま、待って! 琉香さ……んんっ!」
再び唇を塞がれて、言葉を遮られた。
「ん……やっ……ダメ」
首を倒して彼の口付けから逃れて、体を押しのけようと両手で琉香さんの胸を叩くと、
「なんで、ダメなんだよ」
と彼は熱く掠れた声でつぶやいた。
えっ。なんでって、だって、だって、だって。
困惑しているうちに、琉香さんは私の首筋へとキスを落としていった。シャツの中に侵入した彼の手が、肌に直接触れ、私は動揺する。
「やっ……やめてっ! 琉香さん!」
体が熱くなって、怖くなって、私は無我夢中でそう叫んでいた。
その時、突然、ふっと体が軽くなった。
何が起きたのか分からず、呆然と周囲を見回した私の目に、床に倒れた琉香さんと、仁王立ちになった瑠偉兄の姿が映る。
「何の真似だっ!」
怒りで震える声。燃えるような瞳。こんなに怒っている瑠偉兄は初めて見た。
「いってーな」
床から起き上がった琉香さんの唇が切れて血が滲んでいる。
瑠偉兄が殴ったの?
「お前、自分が何しているのか、分かっているのか?」
低く、激情を堪えるように、瑠偉兄が問う。
「何って、好きな女を抱こうとしただけだけど」
こんな状況なのに、好きな女という言葉に私は反応して、ドキリと心臓が跳ね上がってしまった。
「莉兎は妹だぞ!」
「血は繫がっていないだろ」
「でも、家族であることに変わりはない。それに、彼女は嫌がっていたじゃないか」
すると、琉香さんは私のことをチラリとみて、「嫌だったの?」と聞いた。
嫌って言うか、心の準備が何もできていない状態だったから……。
だけど、瑠偉兄と琉香さんの二人からじっと見つめられて、なんて答えればいいのか迷って、私は彼らの視線を避けるようにうつむいた。
瑠偉兄が小さくため息をつく。
「莉兎は、やめてくれと叫んでいただろ。頭を冷やせ」
「は? どっちが?」
ゆっくりと立ち上がり、冷ややかな目で瑠偉兄を見る琉香さん。
「頭に血が上っているのはどっちだって聞いてんだよ」
「あんな場面を見せられて、頭に血が上るのは当然だ」
あの穏やかな瑠偉兄が怒り渦巻く瞳を隠そうともせず、琉香さんを睨み付ける。
「お前が怒っているのは兄としてなの? それとも男として?」
「お前と一緒にするな」
琉香さんの言葉に、彼は呻くように答えて、私のことを振り返った。
「おいで、莉兎」
優しく抱き起こされて、手を引かれる。思わず立ち止まって、琉香さんの方を振り返ると、切なげな表情をしている彼と目が合った。再び、トクントクンと胸が高鳴る。
「莉兎」
そんな私を見た瑠偉兄は責めるように名を呼ぶと、強引に部屋の外へと誘導した。
「いつから? 琉香がお前に手を出したのはいつ?」
私の部屋の前まで来たところで、彼にそう聞かれた。
黙っている私に、「言いづらいと思うけど、本当のこと教えて」と優しく私の頭を撫でながら聞いてくる。
「今日が……初めて……」
前に一度だけ、突然キスされたことがあったけど、私は嘘をついた。
「莉兎が嘘つくときの癖」
瑠偉兄は小さなため息をついて、意識せず握りしめていた私の両手をその大きな手で包み込んだ。
彼には敵わない……。
私は観念して、自分の気持ちを落ち着かせるために、深呼吸した。
「一ヶ月くらい前に……キスされて……。でも、今日みたいことは本当に初めてで……。それに、あれは私のせい」
「どうして、莉兎が自分を責めるの?」
どう考えても、あの流れを作ったのは私だ。私がきっかけを作って、そして、琉香さんのキスを受け入れた。
そんな私の気持ちを見透かすように、「どうして、さっき嫌だったって答えなかったの?」と瑠偉兄が聞いた。
その容赦のない瞳に、思わずうつむく。
「ごめん……なさい」
「違う。莉兎を責めているわけじゃないんだ。ただ……」
そこまで言って一旦言葉を止めた後、
「莉兎も同意の上だったの?」
と彼は聞いた。
キスまでは同意の上だった。その後は、突然の出来事だったから、同意だったかと聞かれるとちょっと違うけど……。でも……。
「……無理矢理されたわけではない」
その言葉を聞いた瑠偉兄は厳しい表情で唇を噛んだ。
「お前たちは兄妹だぞ!」
強い口調で私を断罪する。
「でも、私……」
「もう、あいつとは二人きりにならないこと。俺もなるべく家にいるようにする。分かった?」
厳しい瞳で、諭すように言われて、私は言い返すことができず黙ってうなだれた。
再びため息をつく瑠偉兄。
「大きい声出してごめん……」
そう言って私の髪を優しく撫でると、
「もう遅いから寝た方がいい。それとも、琉香に襲われるといけないから、僕の部屋で寝る?」
と言って微笑んだ。
冗談だとは分かっているけど、瑠偉兄らしからぬその言葉に、思わず動揺してしまう。
「そんな顔して……。こんなに純粋な子に、琉香は何をしているんだか」
「瑠偉兄……」
「抑制の利かない弟を持つと苦労するよ。……莉兎、お前は免疫がないから、あいつの暴走に引きずられているだけだと思う」
瑠偉兄は真っ直ぐに私を見て、言い聞かせるように言った。
「少し冷静になって考えてごらん」
静かな視線に、私はただ頷いて、自分の部屋へと入っていった。
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