第4話 誕生日

「瑠偉兄、今日は何時に帰ってくるの? 誕生日だから、夕飯は豪勢にしようと思っているよ」


 朝、コーヒーを飲む彼に聞くと、瑠偉兄は申し訳なさそうに私を見た。


「ごめん。今日は外で食べてくるから」

「そ、そっか……。誕生日だもんね。美姫さんと過ごすよね……」


 佐々木美姫さん。瑠偉兄と同じ学部に通い、さらに彼が運営するNPO法人の一員として、日々、地域の子供たちのために活動している素敵な女性だ。

 聡明な顔立ちに、抜群のスタイル。瑠偉兄と並ぶと、二人は本当にお似合いで、なにかのパーティーでレッドカーペットに立つセレブなカップルのように見えてくる。仮に私が妹じゃなかったところで、立ち入る隙も無いというのが現実だ。


「ごめんね。今年は母さんがいないから、パーティーはしないだろうって思って」


 瑠偉兄はしょんぼりした私の頭に優しく手を置いた。

 誕生日やクリスマスなど、イベント時は家族全員で過ごすべしという、ママが作った厳しい家訓により、この家では必ず家族で誕生パーティーをしていたけれど、今年はニューヨークだから、きっと、気兼ねなく彼女と過ごすのだろう。

 そうだよね。私の手料理なんか食べるより、美姫さんと過ごしたいよね。


「じゃぁ、今日の夕飯は普通でいっか」

 ため息交じりにつぶやくと、

「おい。お前。何か忘れてないか?」

 と隣で雑誌をめくっていた琉香さんが上目遣いに私を見た。


「え? 何が?」

「何がじゃねー。俺は外で食うと言った覚えはないぞ。ちゃんと誕生日らしく豪勢なものを用意しろ」

「え? 琉香さん今日誕生日だったっけ?」


 あ。やり過ぎた。

 彼の眉がピクリと動いたのを見て、私は後ずさりした。


「じょ、冗談だよ。ほら、琉香さん彼女いっぱいいるからさ。きっと、誰かに祝ってもらうんだろうなって」

「いっぱいいるから誕生日は家で過ごすんだよ」

「どうして?」

「よく考えろよ。誕生日は年に一回だけだろ? それに対して、俺の彼女何人いると思う? 分刻みで相手を変えなきゃ、追いつかないし。俺はさ、誰一人として、傷つけたくないんだよ」


 もっともらしくうなずく琉香さんに、傷つけたくないなら、複数の女性に手を出すなよと思ったが、それは言わずに呑み込んだ。


「分かった。準備するよ。あーあ、今年は琉香さんと二人か……」


 思わずため息をこぼした私のもとに、琉香さんの手元にあった雑誌が飛んできた。ガツっと運悪く角が額にあたって、目の前に火花が散る。


「琉香! お前、莉兎の顔に傷残したらどうする気だよ!」


 珍しく瑠偉兄が声を荒げて、私の顔を覗き込んだ。


「ブスがそれ以上ブスになったら、貰い手がますますいなくなるな」

 

 ううう。瑠偉兄ぃ。デビルが虐めるよぅ。

 ここぞとばかりに瑠偉兄に甘えて、グスグス泣いてみせる私。


「琉香。血が滲んでいるじゃないか。謝れよ」


 瑠偉兄は私の頭を優しく撫でながら、琉香さんを睨み付ける。

 そうだ。謝れ。


 すると、琉香さんは、

「やだ。謝らない。俺に喧嘩を売って来たのはそいつだ」

 と、子供のようにそっぽを向いた。


 昔っからそうだ。自分が悪くたって、絶対に謝らない、このプライドの高さ。

 誕生日ケーキの中身は、わさびクリームで決まりだな。私は、そう心に決めて、琉香さんを睨み付けた。


 その夜——

 私は夕飯の支度をしながら、瑠偉兄にメールした。

 今朝、あんなことがあったから、ちゃんとおめでとうも言わないままに、別れてしまった。


『瑠偉兄 お誕生日おめでとう。本当は今年も家族で瑠偉兄の誕生日をお祝いしたかったけど、彼女と過ごすなら仕方ないね。明日、食べてね。 莉兎』


 若干、いや、かなり未練たらしい文章と共に、作ったケーキを写真に撮って添付した。

 瑠偉兄用に作ったケーキは冷蔵庫の奥にしまって、わさびクリームたっぷりのケーキを手前に置いておく。

 くくく。

 琉香さんの慌てふためく顔を思い浮かべて、私は含み笑いを漏らした。


「気持ち悪いな。野口さんかお前は」


 いつの間にかリビングに立っていた琉香さんが、カウンターテーブル越しに私を見ている。

 野口さん? あぁ、丸尾君の次は野口さんか。もしかして、琉香さん、アニメにはまっているのか?

 取りあえず、それは無視して、私は料理に取り掛かった。エビの殻をむき始める。


「何作るの?」

「魚介のパスタとローストビーフ。あ。お肉オーブンに入れるの忘れた。琉香さん、冷蔵庫に付け込んだお肉あるからオーブンに入れておいて。百四十度で十五分」

「俺に手伝わせる気か?」


 不服そうに眉をしかめる琉香さん。


「それくらい、やってよ。今、エビで手が離せないんだから」

「俺は、今日の主役だぞ。ったく」


 ブツブツ言いながら冷蔵庫を開けた琉香さんが、「ふーん。今年はケーキ手作りなんだ?」と何だか嬉しそうにつぶやいた。

 くくく。

 私は再び野口さんに負けない含み笑いをして、剥いたエビと洗った貝をフライパンで炒め始めた。


◆◇◆


「あぁ、うまかった」


 全ての料理を食べ終えた琉香さんが満足そうにふぅと息を吐いた。

 ここからがメインイベントですよ。琉香さん。


「じゃぁ、ケーキ持ってくるね。コーヒーでいいよね?」

「ああ。手伝うよ。ケーキ俺が出す」

「いっ、いいよ、いいよ。主役なんだから、座っていて」


 いつもは手伝いなんて絶対しないくせに、こんな時だけ、親切の押し売りをしてくる琉香さんに内心焦りながら、私は急いでキッチンに向かった。

 勝手にケーキを出されて、瑠偉兄の方を食べられたら大変だ。


 私は冷蔵庫からわさび入りケーキを取り出してほくそ笑んだ。待っていろよ、デビル。


「はい。お誕生日おめでとう。琉香さん」


 琉香さんの前に差し出したケーキとコーヒー。


「お前は食べないの? もう一つ冷蔵庫に入っていただろ? 俺持ってきてやる」


 なぜか琉香さんはそんなことを言い出して、私を動揺させた。

 も、もしや、気付いているのか?!


「あ、あれは、瑠偉兄用に作ったの」

「えっ?! 瑠偉のなの?」


 何だか考える素振りを見せた琉香さんは、てっぺんに乗った苺を手に取って、「じゃぁ、お前にこれやるよ」と、私の口元に苺を差し出した。

「えっ? ど、どうしたの?」

「なんだ、お前。俺がせっかく苺をやると言っているのに断る気か?」

「うっううん。ちょっとビックリしたから……ありがとう」


 変に断るのもバレる危険があるので、私は素直にそれを食べた。わさびクリームはスポンジの間にしか塗っていないから、上に乗っている苺は無傷だ。


「美味しい?」

「うん。甘くておいしいよ」

「ふーん」


 琉香さんはなんだか不思議な表情をした後で、ケーキを食べ始めた。

 どうだ!? わさび入りクリームのお味は!?

 彼の慌てふためくリアクションを心待ちにしていたのに、琉香さんは、「うまっ。結構やるじゃん」と言って、そのままパクパクと食べ進めた。


「お、美味しいの?」

「うん。お前も食べたくなった? やらないよ」

「もしかして、琉香さんケーキ、動かした?」


 私が言うと、なぜか琉香さんは一瞬間をおいた後、ちらりと私を上目遣いに見て、

「あぁ、ローストビーフの肉取り出すときに、邪魔だったから一旦どかしたけど。なんで?」

 と言った。


「う、うん。あの、ちょっと中のフルーツを違うのにしてみたんだ。あ。まぁ、どっちでもいいんだけどね。ははっ」

「ふーん」


 もしかして、やっぱり、気付いているのか?

 さりげなく琉香さんの顔を覗き見たけど、彼はしれっとした顔でケーキを食べている。

 うーん、読めない……。

 困惑する私の前で琉香さんがじっと私を見返した。


「な、何?!」

「クリームついてる」


 彼は私の唇を人差し指で拭って、ペロリとその指を舐めた。

 それは、なんだかすごく衝撃的な映像で……。


 わ、私の唇についていたクリームを、琉香さんが舐めた……。


 カァッと顔が熱くなり、耳まで赤くなっているのが自分でも分かる。


「何、照れてんの? 間接キスとかそういうこと?」


 ニヤニヤ笑っている琉香さんに、私は恥ずかしさのあまりうつむいた。


「可愛いな、お前。直接、舐めてやろうか?」

「だっ大丈夫! 自分で拭くから!」


 慌てて、腕で顔を拭った。


「冗談に決まっているだろ、バカかお前」


 うぅぅ。

 琉香さんは肩をすくめて言った後、

「うまかったよ。ケーキもお前の唇についたクリームも」

 と妖しげに微笑んで、顔から火を噴きそうな私の頭をポンとたたいた。


 その手がそっと額を撫でる。


「まだ痛む?」


 絆創膏の貼られたそこは、今朝、琉香さんの投げた雑誌があたった場所だ。


「痛いよー。内出血で、結構、ひどいことになっていたよ」

「じゃぁ、貰い手が現れなかったら、そんときは責任取って俺が貰ってやるよ。それでいい?」


 琉香さんはこともなげにそう言って、「風呂行ってくる」と席を立った。


 責任取って俺が貰ってやるって……。

 ドキドキと胸が苦しくなる。

 な、なんだ、なんだ、なんだ。琉香さんにときめくなんて、なんだか、すごい屈辱だ。悔しい。

 けれど、彼が触れた額が熱く火照っていて、私はほぅとため息をついた。


◆◇◆


 風呂上がりにキッチンに向かうと、ダイニングテーブルに座っていた瑠偉兄がニコリと笑った。


「あ。瑠偉兄、帰っていたの?!」

「うん。誕生日の内に、莉兎が作ったケーキをいただこうと思ってね」


 苦笑いしている瑠偉兄。

 彼の手元には空になったデザート用の小皿とコーヒーが置いてある。

 時計を見ると、零時ちょうど。あ、間に合ったんだ……じゃなくて!


「もっもしかして、あれ、食べたの?!」

「うん……」

「全部?」

「もちろん。莉兎に食べてと言われたら、残すわけにはいかないだろ。あれは、誕生パーティーに参加しなかった僕への仕返し?」


 瑠偉兄は微笑んで、頬杖をついた。


「ちっ、違うの! あれは瑠偉兄にじゃなくて……」

「わさびクリームもすごかったけど、さすがに、からし入りの苺には参ったな。それほどまで、僕は莉兎を怒らせた?」


 え?! からし?!


「あぁっ!」


 ようやく、さっき琉香さんがとった不可解な態度の意味が分かった。

 私に食べさせようと、からし入りの苺を作っていたんだ。どっちのケーキが自分の元に来たのか分からなかったから、苺を私にくれたのか。くそっ、いつの間に……。


「違うんだよ、瑠偉兄! 全部琉香さんが仕組んだことで、あ、わさびをやったのは、まぁ私なんだけど。でもそれは瑠偉兄にじゃなくて、琉香さんが!」


 私は慌てて彼のもとに駆け寄った。


「ご、ごめんね。瑠偉兄……」

「いいよ。思い出に残る刺激的な誕生日になったから」


 私たちのすべての悪巧みを瑠偉兄一人が被る羽目になってしまった。本当にごめんよ、瑠偉兄。

 しかし、琉香さんも私も、お互いに、からしとわさび入りのケーキを食べさせようと、必死こいていたのか。笑えるな、私達。


「瑠偉兄、お詫びに何でもするから、してほしいこと言ってみて」

「何でも?」

「うん。何でも!」

「じゃぁ、口直しにキスしてくれる?」


 首を傾げて、斜めに私の顔を覗き込む瑠偉兄はものすごく色気たっぷりで……。

 黙り込んだ私に、瑠偉兄は立ち上がると、私の頬に手を添えて、顔を上げさせた。

 ドクドクと飛び跳ねるように心臓が鳴っている。

 彼はクスリと笑って、「冗談だよ。意地悪したお返し」と言いながら、額の傷をそっと撫でた。


「早く治るといいね」


 そう言って、優しく微笑む。

 な、なんだ冗談か。

 ホッとしたような、残念なような……。


 先ほど、琉香さんに触れられ、熱くなったおでこ。

 それの時以上に、火照っているその場所に、しばらく顔は洗わないことにしようと心に決めた。

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