第3話 本当に欲しいもの

 むすっとしたまま、だんまりを決め込む琉香さん。

 助手席に座ったまま、私は気まずくてとりあえず車の外の流れる景色を見つめる。

 自分で無理矢理、事務所まで連れて来て、勝手に私を一人にするから悪いんじゃん。ちょっとくらい、化粧して髪の毛結って、ビフォーアフター体験して何が悪い。


 車内の不穏な空気に私はもう開き直ってこのまま無視しようと思っていたのだが、帰り道とは違う道に反れたので、思わず琉香さんを振り返った。


「琉香さん、道、間違っているよ」

「あえてだ、バカ。なめんな」


 眉をしかめて、つぶやく。

 なんだ、またどこかに寄るのか。もう、八時だよ。瑠偉兄帰って来ているかも。

 ふと、彼に連絡していなかったことを思い出して、さらに携帯も忘れてしまっていたことに気付いて、私は慌てた。

 瑠偉兄が心配する。


「琉香さん、携帯貸して。瑠偉兄に連絡しておかないと心配するから」

「お前を迎えに行く前に、俺から連絡しておいたから大丈夫だよ」


 琉香さんはそう言うと、左折して、ドラッグストアの駐車場に入って行った。


「ちょっと待ってろ」


 一人で出て行って、数分後すぐに戻って来た琉香さんは、買ってきた箱を私に差し出した。


「これで、化粧落とせ」


 渡された箱は化粧落とし用の拭き取りシートで、私は呆気にとられる。

 

「ここで? 家で、落とすからいいよ」

「ダメ、今、落とせ」

「なんで?」

「瑠偉に見られるから」

「え? 化粧くらい大丈夫じゃない?」


 いくら真面目な瑠偉兄だって、高校三年生になった私が化粧したくらいでは怒らないだろう。お酒飲んだり、タバコ吸ったりしたわけでもあるまいし。


「いいから、早く落とせ。瑠偉に見せたくねーんだよ」


 琉香さんは拭き取りシートを開けて、中身を取り出すと、私の眼鏡を外した。

 すぐには何もせずに、じっと私の顔を見つめる。


「髪、痛かった?」


 なぜか彼は、そう言いながら、私の髪を優しく撫でてくれた。

 珍しく優しい対応に、なんだかこそばゆい。


「ブチブチ何本も抜けたよ」

「お前が、ケイタに余計なことされているから悪いんだろ」

「はいはい。ブスのくせに化粧なんてして悪かったよ」


 私がため息を漏らすと、

「今、俺が落としてやるから、目閉じろ」

 そう言って、私の顎に手を添えた。


 私はおとなしく、彼に従って目を閉じる。


「クソ似合ってねーし」


 そう言いながら、琉香さんは、拭き取りシートを使う訳でもなく、私の唇を親指でなぞり始めた。

 驚いて目を開くと、ボヤけてよく見えないが、琉香さんが切なげな顔をしているように感じて、ドキリとする。

 黙って見つめ合った形のまま、彼の指が唇の端から端へと往復して……。


 その仕草はとても官能的で、私はドキドキしてしまって、

「自分でやるからいい!」

 と琉香さんから拭き取りシートを引ったくって、力任せに顔を拭いた。


「そんなにゴシゴシ拭いたら、肌痛むだろ」


 呆れた琉香さんの声。


「だって、化粧なんて初めてしたから」

「貸してみろ」


 琉香さんは再び私からシートを奪い返して、優しく丁寧に化粧を拭き取ってくれた。


「ようやく、いつものブスに戻った」


 ため息交じりに言うと、彼はふいと顔を逸らして、眼鏡を私に差し出した。


「ほら、お前にお似合いの丸尾君眼鏡」


 丸尾君眼鏡?

 あぁ、あれか。ズバリ丸尾君でしょう。って、ムカつくな。

 さっきは、一瞬、優しい一面も見せてくれたのに。


 髪を優しくなでてくれた琉香さん。……唇をなぞる彼の指先。


 トクンと胸が高鳴って、私は琉香さんから目を離した。

 あれは、何だったんだろう……。切なげに見えたのは、気のせいだろうか。

 眼鏡かけていなかったから、そう見えただけかもしれないけど。


「帰るぞ」


 琉香さんがそう言ってエンジンをかけた。

 今日はいろんな琉香さんを見た気がする。モデルをしている琉香さんは、悔しいけど、本当にカッコよかった。

 ちらっと隣で運転する彼を盗み見て、ため息を漏らす。

 いいなぁ。こんなに恵まれた容姿で生まれてきて。


 人を射すくめる力を持った瞳。抗えないほどの魅力で、見る者全てを虜にする。

 彼の瞳に映るこの世界はどんな風に見えているのだろう。私が見ている世界からは想像がつかないほど、眩しく輝いているに違いない。


「なんだよ。さっきから、ちらちら」


 私の視線に気付いていたらしい琉香さんが眉をひそめた。


「琉香さんって、これまで欲しいと思ったもの、手に入らなかったことないでしょう? 何でも持っているもんね。カッコよくて、背も高くて、ポルシェも持っててさ」


 やっかみ半分で私はそう聞いていた。けれど返って来た答えは意外なもので……。


「本当に欲しいものはまだ手に入っていない」


 へぇ。


「何が欲しいの琉香さんは? トップモデルの座? 世界征服とか?」


 そう聞くと、チラッとだけ私の方を見て、

「そんなくだらないものなんかじゃねーよ」

 とつぶやいた。


 トップモデルの座より、世界より、欲しいものってなんだろう?


「何が欲しいの?」


 もう一度聞くと、「お前には絶対教えない」と琉香さんは言った。


 はいはい。私なんかには教えたくないですよね。別にいいですよ。

 もしかして、温かい家庭とかだったりして。似合わな過ぎて、笑える。


「うさぎは、何が欲しいの?」

「えー、私? なんだろう。人並みの容姿とか?」

「それは無理だ。他には?」


 即答するな。


「じゃぁ、かっ彼氏……かな」


 言っている自分で恥ずかしくなってうつむいた。

 琉香さんに横目で見られたのを感じる。


「待って。何も言わないで。分かるよ。琉香さんの言いたいことくらい。どうせ、お前みたいなブスには無理だって言いたいんでしょ」


 そう言うと、琉香さんはそれには答えず、「どんな男がいいの?」と聞いた。


「え。ど、どんなって……えーっと、誰にでも分け隔てなく優しくて、人のために頑張っていて、笑顔が素敵な人かな……」

「それ、瑠偉まんまじゃん。分かりやすいなお前」


 ぶはっ!

 いきなり言い当てられて、私は否定することも出来ず、固まってしまった。

 

「何、お前。隠しているつもりだったの? 前々から、見え見えだったんだけど? でも、残念だったな。それは絶対に手に入らないよ。妹である以上、瑠偉は絶対お前には手を出さないから」

「べ、別に、瑠偉兄とどうこうなりたいわけじゃないもん」


 まぁ。好きだけど。初恋の人だけど。毎日その笑顔にキュンキュンしていますけど!

 だけど、なんていうか、それは芸能人にキャーキャー言うような憧れと同じ感覚で、手に入れたいだなんておこがましいことを思ったことなんてない。


 けれど、琉香さんは、

「お前も俺も絶対に手に入らないものが、本当に欲しいものなんて、残念だな」

 と感情の掴めない声でそう言うと、その後は黙ったまま車を走らせた。


 この琉香さんでさえ、手に入れられないものって何だろう。トップモデルの座や世界征服すら、くだらないと思わせてしまうほど素敵なもの。

 琉香さんを虜にするなんて、凄いな……。

 もしかして、人妻に恋しているとか?

 勝手にそんな想像をして、なんだか琉香さんがいじらしくなってきた。結構、可愛いところあるじゃないの。

 デビルかと思ったら、案外、人間らしいところもあるんだな。

 彼の意外な一面を知り、妙な親近感を持った私は、ポルシェに傷をつけるのはやめておいてやろう、なんて心の中で思ったのだった。

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