庭園防衛戦ーⅡ

 空中庭園を管理するセミラミスは度重なる緊急事態に対応し切れず、もはやどこから手を付けたものか戸惑い、さらにその間にも絶えず緊急事態を告げるアラームが鳴り続けて急かされ、困惑を超えて混乱状態にあった。

 ユキナによる侵略はアテナが阻止してくれたものの、今度はイナンナの手によって操られたアフロディーテの侵略。一難去ってまた一難。

 生物の生命力を削ぎ取り奪う彼女の泡は絶えず広がり、庭園を埋め尽くさんとしている。

 敵の侵入を阻止するために塞いでいた結界口をすべて開け、泡を外に流してはいるが、それでも排出が追いつかない。

 庭園には傷付いた魔神らを匿っている。ただでさえ力を使い果たし、疲弊した彼らがさらに生命力を奪い取られれば、それこそ消失に繋がる。

 庭園を任された者として、易々と許すわけにはいかない。

 外への泡の放出を最優先にして、魔神らを匿っている部屋を多重防壁で隔離する。あとできることはといえば、防壁の強化くらい。

 あとは彼らの武運を祈るのみだ。

「すまぬ……頼んだぞ、二人共」

 アフロディーテの手から泡が噴き出す。

 掌から放水のように勢いよく噴き出した泡を左右に跳んで躱した二人は、アイコンタクトを送り合った。同じ学園ということもあって、ある程度のサインはアイコンタクトで送り合える。

 オルアが炎で牽制し、アフロディーテが泡で鎮火するために応じたところを背後からミーリが斬りかかる。

 長槍を振りかぶって、頭を狙う。斬るのではなく叩いて気絶させるのが狙いだ。

 だがアフロディーテの泡が足元から聳え立って、ミーリの攻撃を受け止める。そのまま沈み込ませ、絡め取ってしまおうとする泡から離脱したミーリは、さらに足元から襲い来る泡を回避するために壁を走る。

 オルアが炎を走らせて気を引こうとするが、泡は完全にオートでアフロディーテを護っていて、彼女自身はオルアに目も向けていない。

「アフっちゃん? 聞こえてる?」

 ミーリの方は向いているが、声に応える気配はない。

 完全に操られているようだ。行動にも、彼女の意志を感じない。

 と、アフロディーテは両手を合わせて指で大きな輪を作る。そこにできた膜に息を吹き込むと、大きな泡の塊ができてゆっくりとミーリに迫っていく。

 泡だというのに重量感があり、ミーリが息を吹き込んだところでまったく動じないため避けると、泡は壁にぶつかった途端に破裂して爆発。防壁が張られている壁に亀裂を入れた。

 防壁が張られていない素の状態だったなら、壁を破壊していたことだろう。

「連発させちゃいけないな、これ」

 アフロディーテが再度、泡の爆弾を作ろうとしているのを見てミーリは跳んだ。

 ミーリが肉薄すると、アフロディーテは足元の泡の操作に切り替える。防御はオートでも、攻撃や捕縛にはある程度の操作が必要なようだ。

 しかしアフロディーテは神格化したミーリの速度についていけない。縦横無尽に駆け巡るミーリを捉えきれず、泡が何度も捕まえ損ねて砕けたように崩れるのを繰り返す。

 相手とのリーチを測るため、長槍でアフロディーテを絶えず狙い続ける。

 薙ぐ、払う、叩く、斬る――はフリだが、それでも泡は防御してきた。

 防御範囲は彼女を周囲におよそ一メートル。長槍なら届くが、リーチが長い分両手で持たないと力強く振れない。そのためには彼女の懐に入って大きく踏み込んで振りたいところだが、それには足元の泡が邪魔だ。

「オルさん!」

 呼び掛けに応じたオルアがミーリを一瞥する。その瞬間、再び二人の間でコンタクトが交わされた。オルアは旗を大きく振って、自身の頭上に巨大な火の玉を作り上げる。

 それを見たアフロディーテは、泡の爆弾で対抗しようと指で作った輪の中に息を吹き込んだ。

 狙い通りだ。

「いけぇっ!」

 火の玉と泡の爆弾とが衝突する。高温の炎に泡が弾けて爆発、物凄い勢いで水蒸気が爆発して、視界が真っ白に覆われる。

 爆発の勢いで尻餅をついたアフロディーテは、視界を奪われたことに動揺して金色に輝く目を泳がせた。

 と、風を切る音がする。だが泡がそれを包み込み、寸前で止める。だが振り返ったアフロディーテが見たのは、泡に捕らわれている短槍だけで、それを握っていたはずの青年の姿はなかった。

「ごめんね――!」

 頭上にいると気付いて見上げたアフロディーテの頭を、ミーリは思い切り槍で叩く。

 刃が触れてないとはいえ、石突で思い切り頭を殴られるのはすごい痛いだろうし、今のミーリの力で殴られたら頭蓋骨が砕けてすらいそうだったが、オルアの心配をよそに、アフロディーテは一撃を受けても倒れることなく立っていた。

 追撃の薙ぎは泡に防がれ、ミーリはなくなく後退する。

 頭を強く叩かれたことで、おそらく脳震盪くらいは起こしているはずだが、アフロディーテは倒れない。足元はフラついているものの、それでも堪え続けていた。

「手は抜いたけど、まさか耐えられるなんてなぁ。ちょっとショック」

「君はこんなときでもブレないなぁ」

 オルアはミーリの隣へ跳ぶ。幸いアフロディーテはフラフラと未だ足取りが覚束ず、攻撃はままならない状態だ。作戦会議のために態勢を整える時間は、充分にあった。

「どうする? アフロディーテは特別戦った神様じゃないから、弱点とかそういうのがないのがね……」

「うん、逆にやり辛いね。でも元々戦いの神様じゃないんだ。地方によってはイナンナと同じ神性でも、あの子がアフロディーテであることに変わりはない。ユキナに比べたらか弱い方さ」

「それ、可愛い方さっていうのが普通じゃない?」

「それは言えない。ユキナの方が断然可愛い」

「美と愛の女神を目の前にして断言できる君も凄いよね。ちなみに、空虚うつろは可愛くないの?」

 オルアが悪戯めいた笑みを湛えて問うと、ミーリもまた口角を上げた。

「何を言ってるんだオルさん。空虚はもはや、可愛いとかの次元じゃないから」

「ムゥ……じゃあ、僕は?」

「オルさん? オルさんは可愛いって言うか……カッコいい、かな」

「確認だけど、それって褒めてる?」

「もちろん。護ってあげたい可愛さもいいけれど、隣にいて一緒に戦ってくれるカッコいい女性っていうのは、これ以上ないくらい頼もしいって意味で褒め言葉だし、少なくとも俺はそういう意味合いで使ってるよ」

「……そっか」

 今の自分の顔を、鏡で見たくないなとオルアは思った。

 戦闘中にも関わらず、ニヤついてしまっているだろうから。でも嬉しくて、ついニヤける。

 隣で戦ってくれる頼もしい仲間。そんな認識でも、隣にいられるんだと思うと嬉しかった。

 ミーリにはずっと置いて行かれていると思っていたし、自分のことなんてもうなんとも思ってないのかなとか考えていたりもしたから、なんだかとても嬉しかった。

 同時に今、実感もしていた。自分は、彼の隣にいるのだと。

「ねぇミーリくん……ちょっと手、貸してもらってもいい?」

「うん? いいよ」

 温かい。

 炎を司っているのは今自分のはずなのに、ミーリの手はとても温かかった。炎ではない、人の温もりが、血と共に通っている。神格化していても、ミーリ・ウートガルドもまた人なのだと思わされる。

「ミーリくん。試したいことがあるんだ」

 次第に揺れていた頭が回復し、周囲の状況を把握できるようになったアフロディーテは部屋の異様な熱さに気付く。自分の足元の泡は蒸発して、絶えず溢れ出ている泡もすぐさま揮発してしまうほど熱い。

 見ると二人の姿もなく、部屋の中に自分だけ閉じ込められていた。

 すぐさま脱出せねばと、アフロディーテは泡の爆弾を用意する。

 だが足元からすぐさま火柱が上がって、アフロディーテを閉じ込め、泡の爆弾は彼女の目の前で炸裂。再び水蒸気で視界が奪われるが、先のような手は喰うまいと周囲に気を配っていたアフロディーテのすぐ背後から、旗を振りかぶったオルアが肉薄してきていた。アフロディーテは手から泡を放ち、オルアにかける。

 膂力及び霊力を落とされ、旗を握る手にうまく力が入らない。だがオルアはすぐさま自らの炎で泡を燃やし、旗を握る手に再度力を籠めて振るう。

 アフロディーテに受け止められ、その手から溢れ出て来る泡に濡れてさらに力を奪われる。負けじと炎で泡を燃やすが、削ぎ落された力は戻らない。

 それでも後退もせず、ひたすら自分と張り合うオルアの姿を金色の瞳にて捉えるアフロディーテに、オルアは苦し紛れの笑みを湛えて一歩、踏み込んだ。

 力を削がれているはずの相手に押されて、アフロディーテは戸惑いを禁じ得ない。

「わかるだろ? 君だって、ヘパイストスがいなくなって寂しがってたんだろ? 嫌々結婚させられたって聞いてたのに、その後愛人に手を出してすごい怒られたって聞いてたのに、彼がいなくなって壊れるくらい、彼のことが好きだったんだろ? だったら、わかるはずさ」

 アフロディーテは汗を掻く。

 泡から生まれ出た女神。美の化身。汚らしい排泄物の存在など一切許されないだろうくらいに美しい女神が汗を掻かなければならないほど、彼女は臆した。

 熱かったからではない。

 イナンナの支配下にありながら、彼女は臆し、震えあがって汗を掻いた。

 自分にはないくらいに熱く、燃え上がるような目の前の情炎が恐ろしく、霊術が乱れて燃え尽き、果てる。

 泡が完全に蒸発すると、オルアは自らを火種に燃え上がった。

「神様ならわかるはずさ。信じられるってことは、愛されるってことはとっても力が出るんだ。勇気が湧いて来るんだ。だから、僕を頼ってくれる人がいる限り、僕はまだ戦える!」

 単純な話だ。難しい話も理論もない。

 信じて貰えていると知っていると、人は強く生きられる。いつまでも戦い続けられる。だからこそジャンヌ・ダルクは聖女と呼ばれて、魔神にまで昇華された。

 神々もまた同じ。信仰されなき神はもはや神ですらなく、力など発揮されるわけがない。

 故にオルアの炎がただ操られるだけのアフロディーテの泡を燃やしても、なんら不思議なことではなく、泡が削いだ力が戻って来たとしても、おかしいことではなかった。

 が、そんな単純なことが怖い。

 神には理解できない。何せ元々信じられてきた存在だ。信じられる努力をせずとも信仰され、特別視されてきた存在だ。故に理解が届かない。

 信頼を得た人間の、底知れない力の上がり様が。ただの気力なのに、それでも本当の力として目の前に現れる原理が、わからない。理解できない。

 何せ、考えたこともないからだ。考える必要がなかったからだ。

 信じて貰えるのが当たり前で、どうすれば信じて貰えるかなど考えたことはなく、裏切られることや信頼を失う恐怖など味わったこともない。

 故に目の前の彼女が怖かった。

 誰かの信頼に応えんと、体も心も燃え上がらせている目の前の聖女に対する恐怖心が、イナンナの催眠をも凌駕し、焼き尽くした。

「悪いけれど、ここで立ち止まってられないんだ……僕にはまだ、僕を信じてくれる人がいるから。まだ、倒れるわけにはいかないんだ!」

 橙色から青色へ。色の変わった炎がアフロディーテを燃やす。泡から生まれた女神の美しき体を燃やし、蒸発させていく。

 情熱という炎に身を焼かれ、アフロディーテは痛みで叫ぶ。だがその痛みごと、青色の炎は燃やしていく。

 そしてアフロディーテの体が消滅を始めたとき、彼女の脳裏に炙り出されたのは、炎の前で赤く熱せられた鉄を打つ片脚のない男の姿。

 周囲から醜いと罵られ、しかしそれでも神々の座へと迎えられた男の姿。世界最高の美の象徴、その女神を娶った男の背だ。

 最初こそ、自分も醜いと思っていた。

 彼もまた、かつて自分を裏切った彼女を憎んでいた。

 だが彼を喪ったとき、アフロディーテにあったのは途方もない虚脱感と絶望感で、それらは日に日に増していき、ついに心と体を破壊した。

 彼はずっと、自分を信じてくれていた。だけどそれを、自分が裏切った。

 ただ彼が醜い姿だったというだけで、自分を信じて、愛してくれていた者を裏切った。

 そのことに罪悪感はなかったはずだった。別れたことも、気になど留めていないはずだった。

 なのに、なのに――

 思えば、炎の前で熱心に鉄を打つ彼を見つめていた自分がいた。汗だくになりながら、鉄を打つ彼を見つめていた自分がいた。熱心に鉄と向き合い、己の仕事をまっとうする彼を見つめている自分がいた。

――おぉ、アフロディーテ。待っていろ。これをゼウス様に献上すればきっと褒賞が得られる。そうしたら、もっといいものを喰わせてやるからな

「ヘパイストス……」

 思い出した。その瞬間、目の前の聖女に対する恐怖は消えていた。

 理解が届いた証拠だった。信じてくれる者の存在の強さ。それを喪ったときの喪失感。

 自分はずっと、ずっと理解していたはずなのに。理解できた、はずなのに。

「さようなら、美の象徴。泡の女神様。こんな方法でしか救えない無力な僕を許さないで欲しい。でないと僕は、僕を信じてくれる人に応えられなくなる気がするんだ」

「……そう」

 醜かったのは自分だった。

 美しかったのは彼だった。

 彼の外見ばかりを見て、醜いと決めつけていた自分こそが醜かった。

 自分を愛し、自分を信じてくれていた彼こそ美しかった。

 そのことに今更ながら気付いた。アレスと共に彼の網に捕らえられてしまったときの、彼の絶望と怒りの混濁した表情を思い出す。

 そう、自分は裏切ったのだ。彼からの信頼を失ったのだ。

 それに対して恐怖するのが、あまりにも遅かった。

 誰かを信じる。誰かの心に応える。それがもっと早く、それこそあの頃にできたなら、彼の美しい心に気付けたなら、女神アフロディーテは、こんなにも醜く変わることはなかったのに。

「進んで、人の子。私の分まで、信じてくれる人の思いに応えて」

「無論です」

 泡の女神は消え去った。

 炎を振り払ったオルアが部屋を出ていく。戦いによって生じる熱と泡から皆を護るため、張っていた結界を解いてその場で片膝をついた。

 泡で削がれた力が、今更になってドッと重い疲労感となって圧し掛かっていた。

「少し休憩したら、行かなきゃ……このままリタイアなんて、カッコ悪すぎるもんね」

 自分を信じてくれる彼のため、オルアは立ち上がる。壁を支えにしてでも歩みを進め、旗を杖代わりにしてでも進み続ける。

 自分を信頼してくれる、彼の下へと。

「もう少し、もう少し待っててね……ミーリくん」

 その頃ミーリは、セミラミスが皆を匿っていた部屋にいた。

 そこには皆を護るため張り巡らされた無数のツタとつるの壁と、それらを維持するために項垂れたまま動かないネキの姿があった。

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