努力できる人間

 水がうねり、雷が嘶く。

 多数の霊術を折り重ねて、太公望たいこうぼうは襲い来る。

 だがリエンの聖剣は神々の後光よりも眩く、神々しく輝いてそれらをまとめて両断した。

 神霊武装ティア・フォリマ最強の聖剣と呼ばれるだけの斬撃は、そのまま太公望へと伸びて迫る。

 体を捻って斬撃を躱し、袖から伸ばした鞭で反撃。鞭は斬られても切り口から頭の数を増やして迫り、さらに斬ればまた倍の数になって迫る。

 だが、ならばと振りかぶったリエンの斬撃は光線となって迫りくる鞭の頭のすべてを焼き尽くして、跡形もなく消し去った。

「驚きました。アジ・ダハーカを相手にしていたときとは、また別人のようですね。そうも軽々と聖剣を振るうとは、まるで本物の聖剣騎士王のようだ」

「あぁ。何せ本物から、使い方を教わったからな」

 聖剣を下段から大きく振り上げる。

 地面を駆け抜けた光が宙に浮かぶ太公望の真下で止まった直後に膨れ上がって、高々と立ち上がり、辛うじて躱した太公望の片腕を切断、滅却した。

 だが太公望が驚かされたのは片腕を斬り落とされた一撃ではない。自身の片腕を斬り飛ばした光の中から、リエンが魔剣を握り締めて飛び込んで来たことに驚いた。

 反応がわずかに遅れて、辛うじて躱すものの魔剣が額を真一文字に斬り裂いて、同時に顔を隠していた布を斬り落とす。

 リエンはその場から一歩退いて、魔剣を鞘に収めて様子を窺う。

 ミーリやディアナらがやっていた、霊力による空中での足場の確保ができるようになったリエンだが、まだ慣れていない部分もあってほんの少し集中する時間が必要で、絶えず戦いながらというのはまだ難しかった。

 が、太公望は額を斬られて呻いている。今が集中するときだと、リエンは霊力操作に集中。自身の足場を補強しつつ、魔剣と聖剣の双方に手をかけて敵の次の手を待つ。

 と、斬られた額を押さえて呻いていた太公望がようやく顔を上げた。

 瞳孔も虹彩も、何もかもが血色の双眸。目尻には大きく血管が浮き出て、今にも血涙を流しそうにあった。

 そんな状態でもあれだけ静かで冷静な言葉遣いを扱えていたのが、不思議でしょうがない。見た目だけみれば、いつでも興奮状態でいそうな感じだ。

 食いしばっている歯も鋭く、まるで魔物か鬼の形相である。

おぞましいですか、この顔が。鬼のようなこの顔が」

「見た目にコンプレックスでもあるのか? だから、顔を隠していたと」

「軍師は知略が認められてこそです。恐怖や力で臆した者らを先導したところで、そんなものに意味はないのです。軍師は頭で戦うもの。自らの知恵と軍略で味方を納得させて動かしてこそ、真の軍師。そして私は、仙人にまで至った軍師の頂点……その私が、このような悍ましい顔を持って転生したことが腹立たしいのです。忌々しいのです。だから私は顔を隠し、復讐する。こんなにも悍ましい姿で転生させた、悪しき悪戯を働いた神々に!」

 顔が晒されたことで感情が噴き出したか。

 血色の目を見開き、鬼の牙を剥きだしにして吠えた太公望が一瞬で肉薄してくる。

 唐突で、しかも足場の操作がまだ不慣れなリエンは出遅れて、魔剣を握る方の腕を掴まれる。焼けるような痛みがして振り解くと、装甲が溶けて和国の漢字一字で【天】の刻印が刻まれていた。

「“番天印ばんてんいん”」

「っ、ぅぅっ……!!!」

 刻印が施された腕が焼けるように熱く、痛い。

 さらに腕から通う血が全身を巡って、体内から焼き殺さんとしてくる。冬でもないのに、熱を持った息が常温の空気に晒されて凍って白く染まる。

 もはや煙を吐き出し、全身から湯気を放つリエンは大量の負荷がかかって発火した電化製品と同じようなもので、熱く流動する血液に全身を焼かれて言葉も出ないくらいに痛い。

 リエン自身、火種もない自分の体が発火してもおかしくないとさえ思った。

「我が“番天印”は天女すらも殺す天の印。押された者は魂が焼け焦げ、忽ち天へと召される浄土の印。人の身で耐えきれるはずもなし」

「魂を焼かれるシールか……なるほど身に応える……ならば!」

 リエンは不安定な足場を自ら砕き、地上へ落ちる。聖剣を抜くと着地と同時に地面に突き刺し、自らを聖剣の光で焼き、腕に刻まれた“番天印”を焼き尽くした。

 リエンには似つかわしくない、とんでもない力技だ。

『マスター、大丈夫ですか?』

『君にしては随分と無茶をするねぇ』

「あぁ、今までの自分ならば考えられん。が、四の五の言っていられる余裕もないのでな。何せ、この後デートの約束があるんだ」

 自らを聖剣で焼き、体に刻まれた刻印をも焼き尽くすという力技。さすがの太公望もこんな作戦は完全に想定外で、驚きを禁じ得ない。

 一見、自滅覚悟の力技に見えるがそうではない。相手の力量と自身の力量を測り、これならばいけると最善手を思いついて即座に実行する。

 軍師としても、恐ろしいほどの判断力と決断力。人をまとめ、率いる才能に恵まれている証。

「エレイン、力を寄越せ」

『了解……私は眠る』

 収めた聖剣の代わりに、わずかに抜かれた魔剣から薄く伸びた漆黒の瘴気が這い出て来る。

 そして片脚を大きく後ろに引いて、さながら和国の抜刀術のような、しかし背筋を丸めて頭を低くした前傾姿勢で構えた。

 ここまでのやり取りとはまったく違う構えに、太公望は迂闊に踏み込めない。相手の攻撃を待ってから繰り出すカウンター攻撃である可能性が捨てきれないからだ。

 互いに様子を窺い、硬直が続く。リエンもまた、太公望の動きを見ようとしているのか動かない。もはや我慢比べだ。

 だが数多くの霊術と宝貝ぱおぺえを操る太公望の戦術は、接近戦よりもむしろ中、遠距離でこそ真価を発揮する。結界や印など、それこそ罠の類はお手の物だ。

 故に仕掛けようと、指先の関節が一本痙攣した程度に動いた刹那、黒い閃光が光った。

「“聖騎士殺しの狂魔剣アルタキエラ……!!!”」

 深く踏み込んで繰り出された切り上げの抜刀は、濛々もうもうと立ち込める煙のようだった瘴気を刃に変えて、咄嗟に身をよじって躱した太公望が張ろうとしていた水の膜を一瞬で蒸発させた。

 馬鹿な……一瞬で瘴気を――霊力の形状をここまで大きく変化させて……!?

 この短い間に三度目の驚愕をさせられた太公望は、完全に不意を突かれ、意表を突かれ、隙を突かれる。

 リエンを捕えようと密かに張られていた水の網が瘴気を映し、リエンがそれらを足蹴に跳んでくる。咄嗟に蜘蛛の巣状に水の網を張って防御を試みるが、魔剣の瘴気と霊力をブースターにして突進の速度と威力を上げているリエンを止めるには、あまりにも力が足りなかった。

「“語り継がれる魔剣伝説オリヴィエズ・オートクレール”!!!」

 血飛沫が跳ねる。

 漆黒の瘴気が天を貫き、太陽へと伸びて掻き消える。

 致命傷を避けた太公望だったが、顔を刃が斬り裂いて片目を両断、潰された。今まで静かだった男から、痛みを訴える絶叫が轟く。

「っ……!!! “九頭竜打神雷公鞭くずりゅうだしんらいこうべん”!!!」

 “打神鞭だしんべん”と“雷公鞭らいこうべん”。二つの宝貝が同時に、それも九つにも分かれて襲い掛かって来る。

 雷と神を討つための霊力の双方が合体、融合してリエンを乱打で襲う。

 霊力の足場を蹴って回避を繰り返しながら地上へ降り立ち、聖剣と魔剣を両方抜いて万全の態勢で待ち受ける。

 雷をまとった鞭は聖剣で、もう片方を魔剣で切り裂き、斬られてもさらに伸びて襲い来る鞭の先を何度も斬り落として防ぐ。

 だが庭園から流れ出ている大量の泡がついに自分のいる場所まで広がって来たのに気付くと、リエンは再び空中に作った霊力の足場を足蹴にして跳び上がり、太公望へと肉薄。

 聖剣と魔剣を重ねて、交差させた剣撃が太公望を襲う。

 防御のために繰り出した鞭の根元が斬り落とされると、先ほどまで追撃を繰り返していた鞭が完全に沈黙して、九つの頭すべてが腐り落ちた。

 太公望は滑るように落下して、初めて相手から距離を取る。

 顔を見られたことから始まって、すべてが太公望の想定を超えていた。巡らせる策のことごとくが斬り裂かれ、斬り開かれ、彼女を封じるに至らない。

 勝てずとも、封じることはできると思っていたのに、彼女はそれ以上の力を見せつける。本当に、アジ・ダハーカと戦ったときとは別人過ぎて計算という計算が狂わされた。

 新たに式を立てても、彼女の底辺はまた自分の想像を超えて来る――いや、下回ってまったく見せないし見えない。

 わずか一朝一夕で、人間がここまで進化できるはずがない。ここまで成長できるはずがない。

 でなければ、この程度の力を持った自分が仙人と呼ばれ、崇められた歴史は間違っていたことになる。この程度の進化と成長で、仙人だと呼ばれていたことが嘲りに変わる。

 もしも人がそんな簡単に変わることができたなら、人を動かす軍師など、必要なかったはずなのだから――

「何が、何がそこまで貴女を進化させたというのだ! 何が――!!!」

「何も、特別なことなどしていないさ。そう、何もな」

 静かに答えたリエンの口調は、激戦の中、太公望へと迫る中で酷く落ち着いていた。

 さも当然のこと、当たり前のことだと語っていた。

 だがリエンからしてみれば、本当に当然のことだし、当たり前のことだ。誰もがやってきたように、誰もが繰り返してきたように、自分も同じように、努力を続けてきただけだ。

 日々の鍛錬と研鑽を重ね、友や仲間らと戦火を潜り抜けてきた。潜り抜けるための努力を続けてきた。

 対神学園にて最強の七人を称す七騎しちきの一人に数えられ、女性最強の称号まで貰えた。が、目の前にはそれ以上の高い壁が聳えていた。

 学園最強などと小さな枠で収まり切らない、世界最強にも近付きつつある彼の背は大きく、強く、挑む以外にない高き壁だった。

 故にさらなる研鑽を重ね、挑み、負けた。そしてまた、研鑽を重ね続ける。

 自分にはディアナ・クロスのような例外的強さはなく、スキロス・ヘラクレス・ジュニアのように血統に恵まれてもおらず、挑む壁たるミーリ・ウートガルドやその大敵ユキナ・イス・リースフィルトのような、神々に愛されてその恩恵を受けられるような縁もない。

 自分にはただひたすら、努力し続けることしかない。それしか取り柄がないと、リエン・クーヴォ自身思っている。

 最強の聖剣を召喚できたのも、魔剣を手に入れることができたのも、それら努力の積み重ねの結果だと思っているからこそ、奢ることなく努力と鍛錬と研鑽を続けてきた。

 そして今ここに立っているのも、魔神相手に対抗できているのも、それら努力と研鑽の賜物だと思っている。

「……そうね。まぁこんなところかしら」

 唐突に連れて来られ、稽古を付けられた。

 まるで時間が圧縮されたかのような、濃密かつ濃厚な時間だったと思う。

 数時間のうちに数年分の汗を掻き、数年分の息を切らし、数年分の体力を使い果たして、そのまま枯れ果てて死んでしまってもおかしくないとさえ思うほどに疲れ果てた。

 しかしそれが無駄だったかと言われると、そんなことはない。辛く過酷で、死にそうにすらなったしなっているが、実に有意義な時間だったと自負している。

 今までの自分と、研ぎ澄まされている感覚が余りにも違い過ぎることに驚いてすらいた。

 今まで共に戦って来た聖剣が手に収まっている感覚が、これ以上なくしっくり来ている気がする。魔剣もそうだ。双方、まるで自分の体の一部のようだ。

「貴方たちはその聖剣を、最強の武装としているそうね。それは正しいわ。ただし、

「どういう……こと、ですか」

 目の前の女性には、敬意を払わざるを得ない。

 自分を鍛えてくれたのもそうだが、聖剣と魔剣の扱い方を教えてくれたし、何よりそれら剣を振る騎士らの頂点にいたアンブロシウス・アウレリアヌスの教えを受けられたことが、騎士の名を冠する契約を交わした自分にとって得難い名誉だった。

 彼女のお陰で聖剣も魔剣も、今まで以上に自分のものとすることができている。

 だが彼女は、それよりもさらに上の次元にいたことをこのときに知った。神になるより前から、彼女は人知を超えた存在だったのだ。

「あなた達が語り継ぐ聖剣はね、神霊武装にはなっていないの。ずっと私の中にある。私の手刀がまとう光は、その聖剣の輝きなの」

「あなたの中に、かの聖剣が……?」

 かの聖剣に近しい剣を持っているからか、リエンは鍛錬の中でも彼女の中に自身の剣に似た、しかし圧倒的質量の違う霊力の存在に気付いてはいた。

 しかしリエンはアンブロシウスが持つ本来の霊力だと思い込んでいて、聖剣の存在に気付くことはできなかった。何せそれは当然のように、彼女の中にあったからだ。

 違和感などなく、脅威すらも感じることなく、ごく自然と彼女の中にあって、言われるまで気付かなかったし、気付けなかった。

 やはり聖剣に選ばれたのは彼女なのだと、確信を得る。

「この剣の光は、人の身には強すぎる。皮肉な話、選定の剣を抜いた者が皆、この剣に触れられるものではなくてね。だから私はベディ……かの騎士に選定の剣を握らせ、それを聖剣として湖の乙女に返させ、本物は私の体に隠して逝った。そうでなければ、アーサー王を語らせた彼がこの剣を握ることになってしまったかもしれなかったから」

 アーサー王はあくまで小説や物語の中で語られる架空の存在で、アンブロシウスという王がモデルだという話を聞いたことがある。

 しかし実際はアンブロシウスの逸話を彼の逸話と仕立て上げることで、聖剣の存在を隠していたらしい。アーサー王も、自分がただ表舞台に出たくないという我儘で通しているらしく、知らないらしい。

 そこまでして護らなければならないものが、彼女の体を鞘として収まっているのだ。

「そうね。もしもこの剣を解放すれば、あの女神を斬ることもできなくもないかもしれないけれど、殺せる可能性は限りなくゼロに近いでしょうね。これはあくまで選ばれた人間が使う武器。私はすでに魔神となって、何よりこの剣の力を使えるだけの人間も存在しないから」

「私でも、ダメですか……」

「使えたとしても、確実に死ぬ」

 理由はすでに語ったと、アンブロシウスは確実に辿る結末だけを告げる。

 稽古をつけてくれている間もそうだったが、彼女は真に告げたい事実はこれ以上なく端的に、短い言葉で述べる。そうわかっていたが、死ぬの一言はさすがにリエンとて動揺を隠せない。

 だがよくよく考えてみれば、当然なのだろう。自分は実際に岩に突き刺さった選定の剣を抜いたわけではないのだから、聖剣を握る資格があるのかさえ、本来疑うべきなのだ。

 そう考えると、リエンには似合わない自身を過大評価した発言だった。

「だけどその一端だけなら、使えるでしょう……そうね。使うことを許してあげましょう」

 すべては努力の積み重ね。研鑽の積み重ね。鍛錬の積み重ね。時間の積み重ね。削った己の命の積み重ね。殺した命の積み重ね。

 強くなるため、人々を護るため、何より憧れでありライバルたる壁を超えるため、積み重ねてきたすべてが今この瞬間へと収束して、リエン・クーヴォはここにいる。

 ただそれだけのことだった。

 無論、ミーリに対する恋心やユキナを倒して人類を護りたいという思いも積み重ねて、剣を振るっていることに違いはない。

 だがならば何故、そのためにここまでの領域に達することができたかと問われれば、リエンが返せる言葉は一つだけだった。

「何が、何がそこまで貴女を進化させたというのだ! 何が――!!!」

「何も、特別なことなどしていないさ。そう、何もな……ただ私は、私ができる最大限の努力を今の今まで、続けてきただけなのだから」

「努力……?」

 驚愕が続き、困惑が続き、いよいよ自らの制御が追いつかなくなってきた太公望は痛みをも伴って今まで抑えていた感情が一挙に噴き出した。

 それこそ鬼の形相で、血眼を見開いて、鬼のような牙を剥いて吠える。

「馬鹿な! そんなはずがあるか! 人間如きがその領域に至れるまで、努力を怠らずにいるなどと――!!!」

「“我らが王令を刃に変えてコールブランド”」

 人が、そこまで努力し続けられるのならば、自分がどう努力すれば理想の領域へ至れるのか知っていたのなら、軍師など要らなかった。考える者など要らなかった。

 頭では何も考えられず、ただ目の前の敵を殺すことしか考えられぬ愚か者達を、何百何万と抱えるために仙人へと至る必要もなかった。

 こんな怪物にまでなる必要はなかった。人のまま生涯を終えることもできた。もっと周囲が、人が、自らの欲するもののために何をすればいいのか考え、研鑽を積むような生き物だったのならば――

 そこまで考えて、仙人と呼ばれるにまで至った頭は結論に至る。

 自分の生きていた時代。自分が人だった時代にはいなかった。自分のために何をすればよくて、そのための努力を続けられる人間が。

 何せその時代には権力と身分があって、それらに大きく影響されて、自分の願いを叶えるのにも、望みを唱えるのさえも限界があって、努力することさえ禁じられていたのだから。

 だとすれば、自分が負けるのは致し方ないことか。

 自分はそんな、考えることを諦めた人間を操って仙人へと至った者。

 己がさらなる高みへと昇るために努力し続けられるようになった世界で、ひたすらに努力と研鑽を続けてきた人間と真正面から対峙して勝てるわけなどなかった。

 それこそ己の感情を殺し続けてきた自分が今更、感情を曝け出したところで遅かった。

 本当に、神に復讐したいと思っていたのなら、動くべきだった。そのための策を練るべきだった。もっと考えるべきだった。

 こんな痴話喧嘩みたいな戦争に係わって、軍師気分を取り戻している場合などではなかった。

 この戦いに係わった時点で、軍師太公望の策略は失敗だったのだ。

「……」

 もはや言葉を発する力もない。

 鋭き光に両断されて、残った腕と片脚を繋ぐ胴体ごと斬り落とされた。もうすぐに死ぬことはわかっている。

 それでも呪いに呪った血眼は、落下しながらも自身を両断した現代の人間の像が遠ざかっていくのをジッと見つめていた。

 意識が完全に閉ざされるまで見続けて、考えていた。

 もしも人が、自分の意思で努力できる時代になったのならば、魔神が今の人間に負けるのは当然であった。

 魔神も結局、過去に生きた人間。その身が神に至ろうとも、古き者は新しき者にとっては歴史の遺物より価値がない。何せ時代はいつとて、進化を辿るものだから。

 その果てが繁栄か終焉かはわからないが、しかし人は、歴史は進化しかしないし先にしか進まない。そんなところに古株が揃って出しゃばったところで、太刀打ちできるはずがなかった。

 納得した。

 ならばもう言うことはない。遺言も呪言もない。

 だが強いて一言、一言だけ言えと言うのならば。

「やはり仙人になど、なるものではなかった……」

 人のまま生きて、人のまま死にたかった。そして人として、努力したかった。他人のためでなく国のためでなく、己自身のために。

 では果たして自分は何をしたいのかと問われると、忘れてしまったと答えるほかない。

 とりあえず、三途の川で釣りでもしようかと思ったときには、太公望の体は霊子となって、世界に溶けて消えていた。

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