死神の跫音

 彼女は笑っていた。

 皆を護るために力を使い果たし、今にも朽ち果てそうになりながらも、主の帰還を喜んで彼女は笑って迎えてくれた。

 目が見えなくとも、もはや意識が薄れていようとも、彼女には主の帰還が誰よりも先にわかっていて、誰よりも先に笑って迎えてくれていた。

「お帰りなさいませ、主様」

「よく頑張ったね、ネキ」

 額にそっと口づけする。

 与えられた霊力でネキは回復し、消滅こそ避けられたものの、この戦場にて復帰することは適わないだろう。だがそれでも、消滅だけは防げた。

「主様、これを」

 ネキが渡してくれた、琥珀の髪飾り。ミーリがヘレンに買い与えたものだ。

 ヘレンが消滅したことは、霊力の消失でわかっていた。だが皮肉にもそのお陰で、盾を取り戻したアテナによってユキナを庭園から追い出すことができたこともわかっている。

 彼女が空虚うつろを庇ってくれたことも、わかっている。

 故に向けるべき感情は哀しみではなく、感謝以外にない。彼女のお陰で、自分では守り切れなかったものがたくさん護れた。

 彼女は最期まで、ミーリ・ウートガルドの最高の盾だった。

「ネキ。みんなのことを頼めるかい?」

「はい、お任せください」

 髪飾りを内ポケットにしまって、ミーリは行こうとする。すると扉の前にレーギャルンがいて、ミーリのことを強く抱き締めた。

 煉獄を司る魔剣の熱と、少女の涙の温もりとが混ざり合って、温かかった。

「ますたぁ……ますたぁ……」

 ウィンが、ヘレンが消えた。

 ネキまで死にそうになって、次は自分じゃないかとずっと怖かったのだろう。

 そんなときに側にいてやれず、また置いて行こうとしている。酷い男だと言う人もいるかもしれない――いや、いることだろう。

 しかしそれでも、ミーリ・ウートガルドはいかなくてはならない。彼女が、待っている。

「大丈夫、心配しないで。約束、したものね。俺は君を、一人にしない。だから、俺を信じて待てて欲しい――約束の印を、ここに残していくよ」

 彼女の額に口づけを施す。

 唇のマークが残るわけではないが、それでも確かな温もりを感じられて、レーギャルンは涙を両目に溜めながらも微笑んだ。

 そして目線が低くなったミーリのことを、もう一度強く抱き締める。

「帰って来てくださいね、マイマスター」

「必ず、戻ってくるよ。リストは?」

「それが、さっきから姿が見えなくて……」

 まさか――

 一抹の不安がよぎる。

 だが取り乱してはならないと、ミーリは落ち着くための深呼吸をして、落ち着けぬままにレーギャルンの頭を撫でて、無理矢理笑みを作り上げた。

「みんなを、ネキを頼んだよ。レーギャルン。俺が帰って来たら、またさっきみたいに抱き締めてくれたら、嬉しいな」

 ミーリは足早に去っていく。

 本当は緑の防壁の向こうで眠る皆にも勝って来ると言い切りたいところだったが、今はそれどころではなくなった。これ以上の犠牲など、もういらない。

「リスト……!」

 アテナは片膝を突く。剣を支えに倒れんと堪えているが、もう限界だった。

 ユキナの肉体を借りて、結界を破壊した女神イナンナがゆらりと舞うように出てくる。

 自分自身の体との感覚の違いを確かめるように手を開いたり握ったりを繰り返し、上げた片脚で文字通り目の前を一蹴すると、風の波が大地を薙いで、戦闘によって盛り上がった大地を切って平らにしてしまった。

 切り飛ばされた瓦礫が落ちて来ると、まぁまぁねと辛口の評価を今の自分の体に下す。そして、もはや虫の息のアテナを侮蔑の目で見下ろした。

「無様ねぇ、アテナ。オリンポス最高の守護神が、私相手に当然のこととはいえそこまで無様な醜態を晒すだなんて。信心なくして神はなしと誰かは言った。戯言だと吐き捨てる神もいた。けれど結局、戯言ではなかったということなのね。あなた達高名な神々でさえ、信心を失えばこの体たらくだなんて」

「そういう貴様も、人間を依り代としてようやく顕現できているという具合に見えるが」

「そうね、否定はしないわ。意識を乗っ取るのにここまで時間が掛かったのも事実ですし? まぁ不本意だし癪だけど、神は人を人間に殺せる力を持っておきながら、人間に信じて貰わなければその力を発揮することさえできない。皮肉な話よね」

「ならば、貴様は何故――!?」

「答えは単純。世界が、私を恐れているから」

 知恵の女神でさえアテナには、それだけで充分に答えに値した。

 何故イナンナがこんなにも、この世界において絶対的かつ圧倒的に強いのか。イナンナという存在を、人々が恐れているからだ。

 人間に敵対する絶対的存在として認知され、信じられたからだ。

 信心とは決して、徳信だけではなく愛情や信頼だけではない。恐怖や戦慄、畏怖の類さえ信心として数えられる。そうでなければ悪魔や、アンラ・マンユのような悪神が語り継がれるはずがない。

 そしてイナンナは今この世界にとって、ユキナ・イス・リースフィルトという殻を被った人類の敵として畏怖と恐怖を集める存在として認知され、人間達の信心を獲得したことで力を取り戻したのだ。

 もっとも、それはイナンナではなくユキナ・イス・リースフィルトとしての部分が大きいため、イナンナ自身の人格が表に出たのは当人の言う通り、自身に近しい神性の攻撃を受けたが故の一時的なものだ。

 が、イナンナはその先をすでに見据えている。金色の瞳は自身の野望成就が目の前まで来ていることに喜び、笑っていた。

「今はこの子のものだけれど、いずれ私がこの体を支配する。そのときこそ、イナンナ完全復活の時よ。楽しみよね。神々の時代がまた始まるわ。あの忌々しい英雄王だなんて呼ばれた奴もまた死んだ。私を阻める者は誰もいない。人も、神も、悪魔も、すべての命と富、財産はこのイナンナの物となる。美と豊穣を司る女神に相応しい結末だと思わない?」

「させるものか!」

 戦斧を振りかぶったアテナの右肩が裂けて、腕から力を奪われる。雷霆をまとっていた戦斧は手から滑り落ちて、そのまま消えてしまった。

「さようなら。もう私は眠ってしまうけれど、目覚めたときにはもう……貴女はどうせいないから、ね」

 アテナは倒れない。

 だが霊術を使い過ぎた。体力も気力も、消費が激し過ぎた。目が、意識が霞んできた。結界の制御ももう持たない。右腕は動かせず、左手は自分を支えるために踏ん張ることで精一杯。

 倒れずにいられていることはもはや恥を晒しながら足掻いているだけで、必死に耐えているだけで、凄くもなんともない。戦にまつわる美の象徴たるアテナにしては、見苦しい姿だと言われざるを得なかった。

 故に無様に、一切の抵抗も許されぬままに背後から頭を踏み付けられる。

 すでにイナンナ本体の意識は眠り、目覚めたユキナがアテナを足蹴にしてあくびしていた。

「なんだか意識が遠のいたような……まぁいいわ。ところで、いつ私の足の下に入ったの? そんな趣味があるなんて、知らなかった」

 一切の記憶がないらしい。一瞬とはいえ、イナンナに乗っ取られていた感覚すらないのなら、イナンナの思惑通りに事は進んでいるのだろう。

 この怪物すら、イナンナの掌で踊らされているのだと思うと背筋が凍る思いだ。

「足の裏を舐めたいの? いいわよ、舐めたいなら舐めなさい。かつて世界最高の美しさを競った女神に舐めて貰えるなんて……まぁ私も美を司る神だから、力の勝る私に傅くのは、当然のことだと思うけれどね?」

 こういう分野は、アレスの専門だ。

 同じ戦いの神であっても、こういう血生臭いような、汗臭いような、意地で戦うような力任せの戦いはこちらの分野ではない。

 だがしかし、牙を剥かずにはいられなかった。そのままでいるわけにはいかなかった。

 女神としてのプライドか。一個人としてのプライドか。世界のために戦おうとしてるのか、自分の尊厳を護るために戦おうとしてるのか、もはや自身でも理解の届かない領域に今、アテナは足を踏み入れた。

 左腕にすべての力を籠めて跳ね起きると、一歩踏み込んで、武器も持たずに拳を握り締めて殴りかかる。

 女神アテナにあるまじき、醜態と呼んでも過言ではない行為ではあったものの、そんな些事に構っていられる余裕などなかった。自分のプライドを護るためだろうと世界を護るためだろうと、なんだっていい。

 とにかく、ここで抗わないわけにはいかなかった。

 女神としての誇りなど、ドブに捨ててでも立ち向かわなければならなかった。人間らしく、足掻かなければならなかった。例えこの一歩が死に向かっていたとしても――

「可哀想。最後の最後で、自分のプライドに殺されるなんて」

 死へ向かう一歩に対して、迫りくる蹴撃。

 今まさに眼前へと迫り来ている脚が自身の頭部を蹴り砕く瞬間が鮮明に浮かんで、アテナは死を予感する。それこそ、死神の足音さえ聞こえてきた気すらした。

「聞こえたか? 死神の跫音が。ならば今、おまえの枕元に死神が立ったのだ」

 と、アテナの顔を木っ端微塵にするはずだったユキナの脚が下がる。

 アテナも咄嗟に今までと同じ反射で躱して、訪れるはずだった死を免れる。

 目の前を通過し、自分を死から助けてくれたそれが死神の鎌だと知ったときに皮肉に思えるくらいに、アテナは冷静さを取り戻しながら後退した。

「あら? あなたは確か、ミーリのところにいた……」

「憶えていてくれたとは光栄だ。そう! 我こそは死神の鎌にして英雄ミーリ・ウートガルドの魔鎌! 死を司る暗黒の巡遊! ブラックリストと見知り置け!」

 ユキナは深く溜息を吐く。

 神を取り込み、二重の武装をまとった女。名高きオリンポスの神々と来て、次は神霊武装ティア・フォリマ単体。

 順序が逆だ。

 朝ごはんにディナーを食べてしまったかのような感覚。先に美味いものを食べてしまったから、後から来た前菜と呼べばいいかわからない食べ物に興味がそそられない。

 常人よりも弱いとされる武装が単身で来たところで、なんの味気もないし歯ごたえもない。

 もはやつまらないという次元の話ではなく、自分に合う格ではない。余りにも弱すぎて、話にもならなければ相手にもならない。

 子供と大人の喧嘩以上に、手加減したところで明白に勝負が決まっている戦いだ。

「私と、戦うつもり?」

「失笑とは失礼な! 私は本気だぞ! 本気でなければ其方の前に立つ者などあるまい!」

「あら、ごめんなさい? でも立場ってものを弁えて欲しいわね。私にあなたの相手をしろと? 冗談にしたって傑作過ぎない? ミーリのところにこんな面白い子がいるなんて思わなかったんだもの」

 ユキナは失笑が止まらない。

 リストは頬を膨らませて怒り、魔鎌を振り回した後に構える。

 相手が相手なら構えざるを得ないだろうが、ユキナにそんな必要はない。

 ユキナの反射速度を以てすれば、例え両手を後ろに組んでいてもリストが鎌を振った瞬間に受け止めることなど造作もない。ましてや躱すことなど目を瞑って雑談していてもできる。

 ユキナの中ではリストなど、やはり相手にならない相手としか映っていなかったし、そうとしか映せなかった。

「もしかして、さっきの武装の子の仇討ちにでも来た? ミーリに託しておけばいいものを」

「無論、先駆者のことは信じている。最後にはおまえを倒すことだろう。しかしそれでは私の気が済まぬ。他人の手に預けての仇討ちも無論あるだろう。しかし、それでは私の気が済まぬ。魔弾の娘は其方との戦いに先駆者を繋いだ。盾の彼女もまた、先駆者がこの先生きる未来を繋いだ。同じ主を持つ者同士、私も繋ぐための戦いをせずになんとする!」

 リストは眼帯を外す。

 赤と黄色、二色の異なる双眸の瞳孔が黒く開いていく。

「我は命を刈り取る死神の鎌にして地獄への旅路の案内人、ブラックリスト! 私には誰かを癒す力もなければ誰かを助ける力もない! ならば如何にする! 戦う以外にあるまいて!」

 中途半端に来ていた上着すらも脱ぎ捨てて、より露出の多い格好になったリストは大鎌を振る。そのときユキナに映っていたリストの姿は弱者から変わらなかったが、嘲笑すべき相手ではなくなっていた。

「侮るなよ、天空の女神! 死神の鎌は平等だ! 天地万物森羅万象、一切合切の首を断ち、死を届ける存在だ! 私はその鎌にて繋ぐ! 死神の跫音にて其方に聞かす! 我らが主、ミーリ・ウートガルドの怒りと嘆き! その心を其方に繋ぎ、その首を断つ!」

「……あなた、もしかしてバカ?」

「馬鹿で結構! 大馬鹿にでもならなければ立ち上がれぬことだってある! 下手に賢い奴は死神の跫音こそ聞けば震えるが、大馬鹿ともなればそれすら聞かずに戦えるのさ! さぁさぁ侮るなかれ、ユキナ・イス・リースフィルト! 今から其方に、死神の跫音を聞かせてやろうぞ!」

 死神の足音と言う割には、静けさも妖しさもない。大振りのための大股の踏み込みは、ユキナから見ても素人同然のなんとも隙だらけの一歩だった。

 避けることは容易い。カウンターで殺すのはもっと容易い。一撃で終わる。

 ユキナの指が、眼帯を外して晒されたリストの黄金の瞳へと伸びて抉り取ろうとしたとき、ユキナの耳にわずかなノイズが響いて来た。

 ノイズが酷くてわかりにくかったが、確かに聞こえた。

 何者かの、足音だ。

 ふとその方向に振り返るが、何も見えない。誰もいない。そして次の瞬間、ユキナの指が四本斬られて飛んだ。

 血飛沫が、ユキナの指から水鉄砲の如く噴き出る。

「聞こえたか? 死神の跫音……ならば其方にも近付いているということだな。死が」

「生意気ね、あなた」

 ユキナの怒りが大気を震わせ、世界全土に知らしめる。

 天の女王が、不届き者に鉄槌を下そうとしていると。

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