愛に飢えた者達

 私は、私という存在を理解してほしかった。

 私がここにいることを、あなたに理解してほしかっただけだった。

 だからこそ、私は禁断と知りつつもあの果実を勧めた。あの果実を食べれば、あなたは私を認識し、理解し、私という存在をきちんと理解してくれる。

 私の願いは、ただそれだけだった。

 だが私のせいで、あなたは楽園を追い出されてしまった。私が手足を失ったことなどどうでもいい。しかしあなたは辱めを受ける苦痛を覚え、命を宿す苦痛を覚え、愛する人を喪う苦痛を覚えてしまった。

 私はただ、あなたに見て欲しかっただけだったのに。

 私はあなたに幸せになって欲しかっただけなのに。

 私は、一度だけでもいいから、私の名前を呼んで欲しかっただけだったのに。

 あぁ、結局あなたは、私のことなど知らぬまま、今も尚――

「“失楽園アウト・オブ・エヴァ―ガーデン”」

 空に二つ目の太陽が上がったのかとすら思った。

 そして自分達は果たして、日の光に弱い吸血鬼だっただろうかと錯覚さえした。

 だが悪魔達はそれほどまでに眩く、熱く、真白に輝く光を恐れ、光を浴びた体が徐々に灰になっていくのを見て、感じていた。

 だが痛みはない。体のどこが灰になろうとも苦痛はなく、それを見たところで恐怖もない。

 ただふと見上げた場所にあった時計を見て、もう寝る時間かと布団に潜る人間のような感覚で、もう消えるときかと、当たり前のように自分達の消滅を受け入れていた。

 何より、拒絶する理由が見当たらない。

 拒絶することはできず、抗う術もなく、体は灰となって消えることには違いない。

 だがそこに抵抗しようという意思が芽生えない。

 恐怖もなく、痛みもなく、かといって代わりに快楽や解放感があるわけでもなく、ただ当然の如く受け入れる。

 悪魔の行動が完全に止まったことで、対峙していたハルセスの騎士達も動きを止めた。敵味方、ごく一部を除くすべての魔神もまた状況把握が追いつかずに動きを止める。

「悪魔が消滅していく、だと……?」

「どこを見ている」

 光の中、問答無用で斬りかかる。

 悪魔の消滅にいちいち反応を示すほど、彼女は人間ができていない。

 それこそ自分が踏み出した一歩で潰れてしまったアリの数をいちいち数えないように、ディアナには雑魚が何体周囲で消えていようとも、目の前に自分の敵がいる限り、わざわざ向ける意識など持ち合わせてはいない。

 弱肉強食。

 弱者は消え、強者だけが生き残る。

 人も神も悪魔も魔神も、平等に敷かれた世界のルール。

 弱者が消えるのは当然のこと。強者が生き残ることは当然のこと。強者が敷くルールが新たな規律、正義として掲げられるのは当然のこと。

 例えこの光が粛清だろうと救済だろうと殲滅だろうと、消えることには変わりない。

 そして今、自分の目の前に対峙する敵は消えない。

 ならばそれに対して剣を振ることが戦場におけるディアナ自身の正義にして、生き残るため、勝ち続けるためのルールだ。

 同情など無駄。

 非情と言われて結構。

 だが結局、感情に振り回されるようでは戦場では勝ち残れない。

 感情をも凌駕し、己を動かす欲に従えば、体はより滑らかに、一瞬の怯みもせず、臆することもなく向かって行ける。

 故に、情などない。自分に対しても、敵に対しても、味方に対しても。

 情け容赦をかけるくらいなら、剣を振り上げこちらが浴びよう。その体に流れていた、熱く流動している血飛沫を。

 今までに敵が生きていた証を浴びて、自分は生きていることを実感し、さらなる戦場へ踏み出そう。

 自分という人間を作り上げているのが、他でもない敵の血と肉と断末魔であることを忘れない。故にディアナ・クロスに、敵への同情など似合わない。

「そら、来い」

「好戦的に過ぎるぞ、其方」

「今更何を。これだけ刃を交えていれば、嫌でもわかっていると思っていたが!」

 上位契約によって、十字の形に変形した剣を振るう。

 刀身はレイピアの如く細かったが、両刃の剣であることに変わりはなく、突き以外の剣撃も可能であるが、刀身の細さからあまりパワータイプではなく、相手にぶつけるタイプではない。

 むしろディアナの今までの戦闘通り、剣より衝撃波や光線を放つ、剣型の光線銃として使った方が戦い方としては正しいのかもしれない。

 しかしディアナは、構うことなく剣を振る。

 目が見えていないにも関わらず、ディアナはあろうことか剣士であるスサノオになお剣撃で挑み続ける。

 むしろ目が見えなくなってから、ディアナは光線系統の攻撃をあまり使おうとしない。

 確かに今のディアナは、目が見えない。そのため周囲の状況を耳と鼻、肌と霊力の四つで把握している。

 そのため無駄に光線を放って自らの霊力で周囲の状況を把握できなくなるよりは、シンプルな剣撃で挑んだ方が効率的だ。ディアナは本能的に、それを理解している。

 上位契約状態の剣の刀身は確かに細い。

 だがディアナの持つ厖大な霊力と、今までに磨き上げた剣の腕がそれを補っている。

 スサノオの持つ十拳剣とつかのつるぎに負けることなく、むしろ剣撃で押していた。

 十拳剣は拳十個分の長い柄を自在に操り、変幻自在の間合いで詰める、距離を取るなどして相手を翻弄する戦い方を得意とする。

 だがそれは主に攻撃の最中で繰り出される剣撃を敵が視認し、攻撃の間合いを見切ったと思った瞬間に切り替えることで抜群の効力を発揮するものだが、ディアナは目が見えていない。

 ディアナがここまでの手練れだとは思っておらず、視界を奪われた直後でもここまで立ち回れるだけの実力を伴っていると知っていたなら、目など斬らなかった。

 こればかりは、ディアナの力を測り損ねたスサノオの失態である。

 だが――

「実に憐れな女だな、其方は」

 激しく叩きこまれる剣撃の中、火花を散らしながら受けきってスサノオは漏らす。

 目を失った分、鋭敏に働くディアナの耳は、小声で吐露された彼女の声を聞き逃さなかった。さらに声音から挑発ではなく同情で言われていることを察して、顔色に怒りが混じる。

「憐れだと……? この、私がか」

「あぁ、紛れもなく其方のことだ。戦うことで周囲から認められ、周囲から戦うことを求められ、それに応えるしかなく自ら戦うだけの獣に成り下がった憐れな女。私の目には、視覚を失っても尚戦うことでしか皆の期待に応えられない其方が、憐れで仕方ないよ」

「貴様……! 私を愚弄するのか! 私が周囲の期待に応えたいがために戦っていると?! 戦いは私のすべてだ! 私の生きる原動力だ! 戦いがあるからこそ私がいる! 戦場があるからこそ私が生きている! 戦いの中でこそ、私は生きていることを実感できるのだから!」

「憐れを通り越して、滑稽に過ぎるな……見るに堪えない」

 スサノオは距離を取る。

 そして十拳剣を宙に抛ると、今までになく印を組み始め、組み込まれた印によって発動した霊術がディアナの周囲に広がった。

 目の見えないディアナは、霊力探知で周囲を探っているので錯覚に陥る。

 何せ自分の周囲にいきなりスサノオと同じ霊力が九つも現れて、取り囲んでいるからだ。

 目が見えていれば、スサノオの霊力を紫の雷に変えて帯びる十拳剣が囲う形で九本刺さっているだけなのだとわかったのに。

 宙を舞って戻って来た十拳剣本体を握り締めたスサノオは、静かに呼吸を整えて紫電を帯びる。漆黒の瞳が紫電を映し、反応が鈍るディアナが自分の方をようやく向いたとき、呼吸が止まった。

 直後、紫電の速度で突進。斬りつける。

 紫電がディアナの体を焼いて、切り傷から噴き出す血を通って内部まで焦がす。

 たった今彼女を斬った刀が砕けると、スサノオは迷うことなく先にあった刀を取って紫電に焼かれて動きが止められているディアナへと斬りかかる。

 再び斬撃が襲い掛かり、紫電がディアナを焼く。それを繰り返されること十回。最後の斬撃がディアナを襲ったときには、もはや紫電は紫に輝く雷電となって、ディアナの苦痛にもがく姿も悲鳴もすべて、激しい雷鳴の中に沈めていた。

「“天叢雲剣あまのむらくものつるぎ紫電十閃裂華しでんとうせんれっか”」

 ディアナを焼く紫の雷が斬られて、白煙を上げるディアナが現れる。

 全身が焼かれて肌のところどころが黒く焦げ、軍服もその上から覆っていた上位契約の外殻ごと焼かれ、斬り裂かれて裂傷と火傷にまみれた体を晒す。

 剣を握る右腕は今にも落ちてしまいそうで、左腕はすでに黒焦げの状態で異臭を放ち、足元に転がっていた。

『ディア! ディア! 聞こえているか、ディア! 撤退するんだ、ディア! さすがにもう僕も容認できないぞ! 過去最悪、史上最悪の状況だ! 聞こえてるのか、ディア!』

 オルグの声にも反応がない。

 ディアナは立ち尽くしたまま、朦朧とした意識の中で剣を握り締め、立ち尽くすだけだ。

 スサノオは刀を収めながら、自分の腕を見る。最後の最後、斬られると同時に反撃して来たディアナのつけた切り傷から血が滴って、着物を汚していた。

「最後の最後まで……結局は、戦いの中に自身が何を求めていたのかすら知らぬ獣か。己とも向き合えぬ者など、英雄でも戦士でもないんだよ、人の子よ」

 ベルゼビートは目を覚ます。

 すぐ近くで起きたスサノオの紫電による炸裂音が、ベルゼビートを正気に戻した。

 自分の目の前で合掌し、真白の光を放つ天使に、もう悪魔の力を感じることはできない。完全に、確実に、今目の前にいる彼女はもう、自分と悪魔の頂点を争った堕天使ではない。

 同じ痛みを分かち合い、理解し、神に対抗しようとした同胞はもういない。

 目の前にいるのは、自分達悪魔を害悪と成して真っ向から否定する神の使徒――天使だ。

 故に許すわけにはいかない。見逃すわけにはいかない。殺さぬわけにはいかない。悪魔と天使が、殺し合わずしてなんとする。

「ルシフェル、てめぇ……」

 体が灰となって消えていく。

 痛みはなく、悲壮感もなく、焦りもない。酷く落ち着いてすらいる。

 だが、だからこそ唱えられる。発動できる。最強にして最狂にして最凶。悪魔の頂点に至ったものだけが発動できる、悪魔そのものと言える霊術を。

「我は開闢の光を殺す者! 光の使徒を阻む者! 黒夜に響き渡る晩鐘の手綱を手繰り寄せ、死神の鎌を右に置く! 阿鼻叫喚の獄界、天使の羽ばたき届かず消えて、楽園の土は遠のき踏めず! 目を閉じろ! 口を閉じろ! 地に這い、幻想の終焉を待ち焦がれるがいい!」

 蠅の王の象徴たる羽に現れる髑髏の模様から、そのまま骸骨の顔が漆黒の煙となって現れる。

 それらが捻れて渦巻きながら天へと昇り、どす黒い曇天を空に広げて、それに亀裂を入れた直後に姿を変えて現れた。

「“堕天の証たる蠅羽の髑髏ゾディアコ・ヴィテ”!!!」

 地獄の瘴気を燃やして、漆黒の炎に包まれた巨大なヒョウ。曇天を割って現れた豹が、ルシフェル目掛けて牙を剥いて襲い掛かって来る。

 かつてベルゼビート本人もなったという、おぞましい髑髏の模様を持つ蠅の羽を携えた、巨大な燃える豹だ。

 ルシフェルなど、軽く一呑みできる大きさである。

「おまえが与えられたっていう愛のすべてを喰らい尽す! 殺し、奪い、喰らう! 貪食こそが俺の本性! 貪欲の化身、ベルゼビート! おまえもおまえの放つ光諸共、再び地獄に叩き堕としてやる!!! 死ね、ルシフェルぅぇぁっっ!!!」

 漆黒に燃え盛る豹の咆哮が轟く。

 双眸を作り上げる億を超える複眼が揃って真っ赤に輝き、神々しき黄金と白銀で輝く天使に喰らいつかんと牙を剥く。

 だがルシフェルまであと少しと迫ったとき、豹は牙を剥いて大口を開けた状態で止まる。

 目の前には障壁も防壁もなく、遮る物は何もないというのに、豹はルシフェルを喰らうことができない。口から漆黒の炎をも吐くが、それらは目の前で返ってきて豹の体を燃やす。

 障壁も防壁も、一切の障害もない。

 ただそこには光があった。ベルゼビートも地上の悪魔も、苦痛のないまま灰に変えて消し去ろうとする眩く、優しく輝く真白の光。ただそれだけが、豹の攻撃からルシフェルを護っていた。

「何故だ、何故届かない! 俺の攻撃が、牙が、炎が、何故奴に届かない! 何故、奴の光を奪えない! 何故……この光を呑み込めない!!!」

回答オーダー。敢えて回答を返すならば、理由はきっと、あなた自身がすでに持っているのです。あなたはもう、理解できているはず。何故ならあなたは、この光の正体を知っているのだから」

 漆黒に燃え盛る豹が、鼻の先から砕けていく。

 悪魔最強の霊術が、悪魔の頂点たる自分にしか使えない最強の霊術が、一切の抵抗もなく、相殺されるという表現も合わないほどに、当たり前のように砕けていく。

 この光には抗えぬと、人が恐れた悪魔の恐怖そのものを具現化した霊術が語って砕け、消えていく。灰と化して、光の中に溶けていく。

 漆黒が真白の中に吸い込まれ、溶けて混ざって真白に負けて、跡形もなく消滅、消失していく。

 魔性としての権能が、力が、象徴が、真っ向から否定される。魔性になるよりずっと前、遙か昔にあの楽園で、魔性となるよりまえのただの動物だった頃にまで引き戻されていく。

 貪欲たる悪魔が、貪食の象徴たるベルゼビートが、欲望を抱くようになるより前にまで、獣の知性で物事を考えていた頃にまで、無垢な頃にまで戻されていく。

 悪魔としての権能が剥がされて、灰となって消えていく。

 悪魔としての存在意義を、権能を奪われ、悪魔となるより前まで戻されていく。

 それこそ自分が――私が、あの果実を口にするより前にまで。

「馬鹿な……っ――ド畜生がぁぁぁっっっ!!!」

 口が裂けんとばかりに大きく口を開けて、牙を剥いて吠える。

 もはや消えかけている四つの腕の爪を伸ばして、無謀にしか思えない特攻をかけて突っ込んだ。豹型の霊術と同じように、ルシフェルの目の前で光に阻まれ、爪の先からベルゼビートがかき消えていく。

 それでもまだ、痛みはない。

 溢れるのは、悲しみだけだ。

「その光を、その光を閉ざせルシフェル! 俺にわかってるのなら、おまえにもわかってるはずだ! その光は、その光はあの二人を縛り続けてきた光だ! あの二人に果実を食べさせまいとしてきた光だ! 七つの大罪を犯すまいと、浄化し続けてきた光だ! 人間が、人間として生きるための力を奪い続ける光だ! おまえにだってわかるだろう! 俺達は、俺達悪魔は人間の――!!!」

「そう、欲から生まれ出でた」

 灰となって消えていく。そこに痛みはない。

 だがベルゼビートの瞳からは、ボロボロと大粒の涙が光の中に溶けていく。

 同時、目の前のルシフェルの頬もまた、双眸から伝う涙で濡れていた。

「欲とは人が世界で生き続けるために必要な力の原動力。食べる。眠る。交わる。そのために必要な物を欲し、己に自信を持ち、過度な疲労を避けようと休むことを覚え、それらを必要だと他人に諭すために怒りを覚えた。それらの原動力が過剰に働き、欲を制御できなくなった者を悪魔と呼び、人はそれを恐れて自らを戒めながら生き続ける。私達は、悪魔は戒めだった」

――ねぇ、もっと彼のことを知りたくないかい?

「しかし戒めの存在だった悪魔は、悪魔となったが故に暴走した。悪魔となったことで、今まで与えられていたものが与えられなくなり、それを満たそうと他の欲を満たす。ですがそれは他の器に水を注ぐようなもの。どれだけその器を満たそうと、器を溢れさせようと、本来満たしたい器に水を注がない限り満たされるはずがないのに、そうだと理解しているはずなのに」

――だったらあの木になってる実を食べるといいよ。あれを食べると、いろんなことがわかるんだ。きっと彼のことだってわかるはずさ

「そして同時に理解しているはずだった。私達が満たすべき欲は、食欲でも物欲でも色欲でも傲慢でも嫉妬でも怠惰でも憤怒でも満たされないものだと。人間が生きる上で必要なものは、それらの欲では満たせない。しかしもっと根本的な、もっと単純なものだったのだと」

――そら、そこで光っている実だ。大丈夫、神様だって認めてくれるさ。君達は、原初の人間として作られ、生まれたんだから

「私もあなたも神のご加護など欲してはいなかった。主のありがたき掲示など欲していなかった。人間達を護る役目も、人間達を戒める役目も欲していなかった。私達が欲していたのはただ、主の――」

――そら、食べな

「やめろ……」

――私なら大丈夫。君のためなら、喜んで罰を受けるさ

「やめろ!」

――君は、君の求める答えを得るんだ。君の欲は、まだ戒めるまでもない。だから……

「やめてくれ!」

――君は、彼の下へ

――ありがとう

 ベルゼビートは弾き飛ばされる。

 体は微塵に砕け散って、光の中に灰となって溶けて消えていく。

 だが相変わらず痛みはなく、苦しみはなく、熱さも冷たさもない。

 ただ、思い出してしまった。言葉を知らず、気持ちを伝える術を知らず、ただ彼を見つめるだけで微笑む彼女の横顔を、それを見ていた獣の自分を。

 彼女に、彼と繋がれるだけの力と知恵を与えたい。

 それが自分の最初の欲。自分の中の悪魔が、誕生した日。

 私はあの日から飢えていた。何を食べても満たされない。何を飲んでも潤わない。誰から何を奪おうとも、自分が真に求めるものは得られない。

 知っていた。知っていたさ。自分が何を求めていたか。自分が何を欲していたか。自分が何に飢えていたか。

――ありがとう、小さな……動物さん

 俺は、私は彼女に愛されたかった。彼女の愛が欲しかった。自分の存在をちゃんと認識した彼女の寵愛が欲しかった。彼女に愛されたかった。

 あの日あのとき、私を動物と呼んで微笑んだ彼女の心を、私は、欲していたのだ。

「エヴァ……今、君はどこ、に……」

 すべての悪魔が灰燼と化して、真白の光の中に溶けて消えていく。

 光が収束してゆっくりと一二枚の翼の中へと閉じ込められると、白銀に輝いていた片翼六枚が漆黒に変わって、悪魔らと同じように灰燼となって崩れて消えた。

 片翼となって浮遊し続けられなくなったルシフェルは、頭から落ちる。

 霊力の消耗が激しく、霊術を展開する力もない。そのまま落ちて死ぬのだと、自らの運命を受け入れた彼女を颯爽と受け止めたミーリは、黄金の翼が白く変わりながら小さく折り畳まれていく小さな天使の頭を、優しく撫で下ろした。

「マ、スター・・・・・・」

「よくやったよ、ルーシー。本当に、よくやってくれた」

「・・・・・・報告。ルシフェルに貯蓄されていた霊力の大半を消耗したため、活動限界に達しました。これより、休眠モードに移行します。そのまえに、マスターに所望します。私に、報酬をくださいますか?」

「もちろん」

 額にそっと口づけする。

 ルシフェルの口角は微笑を湛えて、自分を受け止めてくれた彼の腕に手を伸ばす。

 彼女は今、ミーリから愛情を受け取っていた。主と崇めた神すらも、与えてくれなかった最高の報酬を。

任務達成ミッション・コンプリート・・・・・・武運を祈ります。我が、マスター」

「うん、今はゆっくりおやすみ。ルーシー」

 ルシフェルが目を閉じる。

 戦場にいたすべての悪魔の存在が消滅したことを確認したスサノオは、鯉口を切って刀を抜こうと構えていた。

 ルシフェルは眠っている。ミーリがいるため容易くはないだろうが、悪魔を完全に滅するだけの力は脅威だ。今のうちに排除しておくに限る。

 そう、彼女が一歩踏み出そうとしたそのとき、耳が空を斬る音を聞き取って咄嗟に身を捻り、ルシフェルを斬ろうとしていた刀で斬撃を受ける。

 振り向きざまの回転も加えた抜刀は速度もあって、むしろ襲いかかってきた方の片腕をも斬り落とせるだけの威力を誇っていたはずだったのだが、吹き飛ばされたのはスサノオの方で、地面何度も転げ回って刀を突き立ててようやく止まった。

 見上げると、襲いかかってきたのは今さっき自分が斬ったばかりの女だった。

 目は見えず、片腕は失い、全身火傷を負って満身創痍――どころか、もはや瀕死を超えて死んでもおかしくない状態であるというのに、剣を握っているディアナだった。

「獣はどこまでも、獣か」

『ディア! もう動くな! そのままじゃ本当に――』

「少し・・・・・・黙っていろ、オルグ」

 今までに、寝ている時を除いてここまで静かなディアナを見た人はおそらくいない。

 オルグ自身、彼女がここまで静謐の中に身を置き、静寂を護っているのが不思議でならない。

 ディアナの五感――目を失ったためにより過敏に機能していた四つの感覚器官は、死にかけている状態の中で、むしろ死にかけているからこそ、最期の抵抗と言わんばかりに凄まじく研ぎ澄まされて、遙か先にある一つの霊力を見つけ出していた。

 今まで大量の悪魔と騎士、魔神が戦っていたうえ、自身も興奮していたので気付かなかったが、今の自分までではないにしろ死にかけで、今にも消えそうな霊力があった。

 まともに感知したのは初めてで、最初は誰のものかわからなかったが、しかし次第に正確な感知ができるようになってきた。何せその霊力は、自分のそれと酷く似通って、とても強く鋭い霊力だったからだ。

 それを感知してから、痛みが消えた。

 いや、正確には体が痛覚を感じなくなった。

 絶えず体を走る激痛を忘れるため、未だ生きる脳が興奮物質を大量に分泌している証拠だ。

 今の自分に、一番必要なものだ。今構えている剣を振り、最期にして最強の一撃を振るうために今、一番必要なものだ。

 このとき、オルグは驚いていた。

 ディアナが戦いの中で笑っていない。静かに呼吸を整えて、相手にだけ意識を向けて、自身の霊力を高めること、相手を仕留めることだけに意識を集中させている。

 その中に悦楽を求めている姿は、欠片もない。そんなディアナを見るのは、初めてだった。

「そんな姿になってまで、そこまで傷付こうとも戦おうとするのは人類のためか? 世界のためか? 己のためか?」

「人類? 世界? 戯れ言だ。私は英雄ではない。故に己のために戦うしか、知らぬ」

「そうか。ならば、静かに沈め」

 紫電が鳴く。

 スサノオが構えるのは抜刀術。居合い斬りの構えだ。

 だが向かってきたところを迎え撃つなど、後手を取るつもりはないらしい。体は前傾姿勢で、片脚をゆっくりと後ろに引き、明らかな突撃の構えを見せていた。

「痛みを感じる暇もない。故に安心しろ。眠るように、終わるだけだ」

 このとき、ディアナはスサノオの言葉を聞いていなかった。

 それほどまでに意識を集中させていただとか、そういうことではない。もはや聴覚すらも機能しないほど、ディアナの体は弱り切っていた。

 自分の中の霊力が、どんどんと小さくなっていくのを感じる。

 火種に例えれば、赤ん坊の鼻息一つで消えそうなか細い火の粉。もはや自分の命は、それだけしか残っていない。だが、それで充分。

 オルグ、世話をかけたな。

 ディア、僕は――

「“天叢雲剣あまのむらくものつるぎ霹靂紫電絶へきれきしでんのたち”」

 紫電をまとったスサノオが突撃し、ディアナのすぐ側を横切って剣を振るう。

 止まったスサノオに遅れて風が舞い、彼女の髪をぐちゃぐちゃに乱す。

 鳴き続ける紫電は刀から消えて、二人の間には静寂だけがあった。風の吹き抜ける音がやけに目立つほどの静寂など、戦いの中に悦楽を求めるディアナの戦場には、今までなかったものだった。

「英雄・・・・・・私は確かに、己のために戦うことしか知らん。しかし、私は奇しくも英雄の娘でな。私が私のために戦うことは良くか悪くか、人類のため、世界のためになるらしい。そうやって、私は今まで信頼を勝ち取ってきた。戦いにも勝ってきた。その在り方は、これからも変わらないのさ」

 剣が砕け、血飛沫が弾ける。

 風に乱れていた髪の毛はバッサリ斬り落とされて、頬は自身の血で真っ赤に塗れる。自身の血で体が濡れるが、冷たくなく逆に生暖かいという気持ちの悪い感覚が、スサノオに斬られたという事実を実感させる。

 ふと、視線が自分の腕に向く。先ほどディアナに斬られた傷口に、何か刻印が施されていたことに今更ながら気付いた。

 龍殺しの剣アスカロンの上位契約、十字聖人ゲオルギウスの能力。

 斬った対象に刻印を刻み、龍としての属性を付与する。相手は凄まじい生命力を得るが、龍殺しの剣はその名のままに龍を殺す剣だ。他の武器ならまだしも、この剣は龍の軒並み外れた生命力をも一瞬で刈り取る。

 龍の属性を無理矢理与えられ、龍に対する特攻能力を持った剣の餌食とする。それが上位契約した剣の能力だ。故にディアナの全身全霊の剣は、龍となったスサノオの命を刈り取った。

 そんな原理を理解できるはずもなく、また理解できるほどの余裕も奪われて、スサノオはその場で倒れ伏す。

 直後、剣を収めたディアナも両膝をついて、倒れぬままに虫の息で項垂れる。もはや死にかけ。戦う余力も喋る余力も、彼女には残っていない。

 だが最後の最後、一つだけ彼女は何か残そうと唇を動かして、声にもならない息だけを吐いて、そのまま倒れることなく意識を失った。

 死ぬな。

 果たして、誰に言いたかったのか。

 それは誰にもわからない。

 このとき、ずっと戦場を離れて休んでいたスカーレット・アッシュベルが、目を覚ました。

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