貴族の下り階段 終息

 それは突然やってきた。しかしながら、それには前触れがあった。いきなり過ぎるそれには、随分と前から助走があった。

 しかし誰も、その前触れに気付けなかった。それはあまりにも、前の段階からされていたからだ。あまりにも平凡。普通すぎるそれは、他人ではあまりにもいつもと同じ過ぎて、気付けなかった。

 思えばいくつかの蓄積があって、これに至ったのだ。決して、憎しみだけではない。愛もそう。信頼もそう。友情も、希望すらもそう。すべては今日この日、このときのために用意された序章に過ぎなかったと思わざるを得ない。

 故にこれは突然起きた暴発でも、爆発でもない。起こるべくして起こった、一つの事故事件だった。

 その日、ミーリはごく普通に起きた。誰かに起こされるでもなく、何に起こされるでもなく、ごく普通に起床した。そして普通に着替え、部屋を出ようとした。

 しかしそこで異変に気付いた。ドアが開かない。外開きのそのドアは、鍵もかかっていないというのに開かなかった。ドアの外に何かが置かれ、塞がっているようだ。

 このときのミーリは、メイドか執事が何か荷物でも置いているのだろうくらいしか思っていなかった。しかしその考えは一瞬で変わった。足元が、濡れているのに気付いて。そしてそれが、血だと気付いて一変した。

 非常事態。そう捉えて、ミーリはドアに思い切り体当たりをする。何度も、何度も体をドアに打ち付け、開こうともがいた。

 しかしなかなか、ドアが開かない。もうただの体当たりでは開かないと見たミーリは、部屋の一番奥まで助走をつけて、そして一気に走った。

 このときはまだ意識していなかったし、ただの偶然なのだが、このときのミーリは霊力を使っていた。霊力によって強化された体当たりはいとも簡単にドアを破り、置かれていたそれを吹き飛ばした。

 そしてそのドアに置かれていたのだろうそれを、ミーリは見た。

 それは男の体だった。血に塗れた、赤く濡れた男の体。しかしその体には脚がなく、そして頭がなかった。すべて斬り落とされ、もぎ取られたようになくなっていた。

 そして、死んでいたのはその男だけではなかった。通路を埋め尽くすように倒れている、執事達。それぞれ眼球がなかったり、腕がなかったり。それぞれ肉体の一部を欠けた状態で、死に絶えていた。

 その通路を通りリビングに出ると、そこはまた惨状だった。

 メイド達が、等しく胸を貫かれて殺されている。しかも刀などの刃物ではない。まるで心臓だけを抉り切ったかのように、その部分だけがなくなっていた。

 屋敷は血塗れだった。どの通路、部屋、庭を出てすらも、最低でも一人の人間の死体があった。歩く度、進む度、血塗れの鉄臭い異臭が鼻をく。

 だが同時、ミーリは不安で仕方なかった。屋敷中、自分以外のすべての人間が殺されている。誰の仕業かわからない。快楽殺人者か、それとも強盗の類の仕業か。いずれにせよ、無事を確認しなければならなかった。他の誰でもない、妹の無事を。

 屋敷中を走り回る。部屋中探し回って、廊下を走って、ときどき人間の首を蹴飛ばしながら、ルイを探し回った。しかし見つけたのはルイではなかった。

 父アストラルの部屋。そこで見つけたのは、二人の死体だった。いや、そもそも死んでいるのかわからなかった。

 アストラルは仕事をしているときと同じく、机に向かって座っていた。違うのは、いつだって寝るときはベッドに横になるあの人が、机に突っ伏していたことだった。そして、その机から血が垂れ落ちていることだった。

 ミーリは父を揺すり起こすように、その肩を掴んだ。しかし父は動かなかった。起こしてみると、アストラルは顔がなくなっていた。目も鼻も口もなくなり、のっぺらぼうになっていた。

 そこで気付いた。あぁ、これは死んでいるんだな、と。

 だが涙は出てこなかった。むしろ、メイドや執事の死体を見たときの方が衝撃的だった。それどころか、ミーリは父を倒すとその肩にかかっていた上着を剥ぎ取った。そして、身の丈に合わないそれを肩からかけた。

 次はクローゼットの中に押し込められている方だった。だが見て気付いた。それは母ヴァナだった。

 腕も脚も妙な方向に変形し、クローゼットに納まっていた。そして頭は、首とくっついていなかった。こちらを見るように、前に置かれていた。

 衝撃的だったのは、その死に方ではない。母が目を瞑らされていたことだった。今までのメイドや執事も思えばそうだったが、ここで気付いた。

 つまり殺人犯は顔がなくなったアストラルを覗いた全員の目蓋を、わざわざ降ろしていったのである。手間暇と時間をかけて、その血にまみれた手で。

 二人の死体を見終わったタイミングで、電話が鳴り響いた。その電話を、ミーリは取った。電話なんて取ってる暇ではない。ルイを探さなければならないのに、わざわざ取った。

 事実、そのときのミーリは直感していた。この電話を取ることで、ルイに繋がる。そう、思ったのだ。

「もしもし」

「もしもしミーリ?」

 その声を聞いたとき、確信した。すべてを——少なくとも、この惨状の犯人が誰なのかを。それと同時に安堵した。犯人がまるで面識のない赤の他人だったら、どうしようかと思っていたところだった。

「ユキナ……これは、どういうこと? ルイはどこ?」

「私の家にいるわ。だから来て、ミーリ。そこで話をしましょう。すぐに来てね、でないと…………………………ルイちゃん、死んじゃうから」

 そう言って、ユキナは電話を切った。そのときのユキナの言葉に、違和感を覚えていたのは間違いない。

 殺してしまうのではなく、死んでしまうと彼女は言った。するとなんだ。ルイは自ら命を絶とうとしているとでも言うのだろうか。

 何故だ。父母は死んだ。貴族の縛りももうない。彼女を傷付ける何もかもは消え去った。なのに何故、一体ルイは何に怯えて死を選ぼうとしているのだと、ミーリは思った。

 だがそんなことを考えても、仕方ない。早く行かなければ、ルイが死んでしまう。そのことばかりを考えて、ミーリは電話が切れると同時に駆けだしていた。死体の山も通路も跳び越える勢いで外に出て、普段は馬車を引くためにいる馬を小屋から出し、その背に飛び乗った。

 馬術の訓練は時折していた。が、全力疾走で走らせたことは、今までなかった。しかしやるしかない。ミーリは直感と技術を駆使して馬を走らせた。

 ゆったりした馬車での移動なら軽く四時間はかかるが、電光石火と称するには少し遅いその馬の脚で、二時間半という短時間——あるいは中間くらいの時間で——到着した。

 しかし、そこで見た光景にミーリは絶句した。屋敷が燃え盛っていた。目を疑う余地もなく、周囲の木々を燃やし尽くす勢いで、屋敷は燃えていた。

 だが躊躇はしなかった。馬を放し、行かせ、自分は屋敷に飛び込んだ。唯一開いていた玄関から、中へと入る。そこで見た光景に、人生で一番の衝撃を受けた。

 上階へと続く階段の上に立ち尽くす、ユキナの姿。彼女の細く白い腕に、ルイが力なく抱き上げられていた。

「ユキナ……ルイは……ルイは……」

「……死んだわ。死んでしまったの」

 人生で一番だった衝撃が、一瞬で塗り替えられる。息ができなかった。心臓が止まるかと思った。そのまま、自分が死んでしまうかと思った。それくらいの衝撃が、ミーリの体を駆け巡った。

「死ん、だ……なんで、なんで死んだの? ルイが、なんで……」

「そんなの決まっているじゃない、ミーリ………………………………私が……私が殺したからよ」

 もうやめてくれ。ショック死してしまう——いや、してしまいたかった。呼吸を忘れ、鼓動を忘れ、死に絶えたかのように立ち尽くす。そしてユキナが不意に放り投げたルイを、力強く受け止めた。

 その死体は美しかった。傷も埃も血すらもついていない。心臓が勝手に停止したんじゃないかというような無傷で、ルイは死んでいた。揺すれば、また起きてくれるんじゃないかというくらいに、綺麗で、美しかった。

「なんで……なん、で……ルイ……ルイ……!」

 ここまでずっと流れなかった涙が溢れてくる。とめどなく流れ出る。その涙はルイを濡らすも、彼女は起きなかった。

 そんな中で、悲しみの絶頂の中で、ユキナは回った。その手に、キューブ状の立体パズルを手に、周囲の炎も塵も何もかもを斬り裂くがごとく、その場で回った。

「ミーリ、泣かないで? ルイは死んだ、死んじゃった。けど私が生きてる。父さんも死んだし母さんも死んだ。けど、私が生きてる。もう私達には、メイドも執事もいないけど、でも私がいる。私がいれば、もう他なんていいでしょう? だって……私はあなたの妻なのだから!」

「ユゥぅぅぅぅぅぅぅぅキィぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃナァぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!!!!」

 ルイを下ろし、玄関に飾られていた騎士の像から剣を抜き取り、階段を駆け上がる。そしてその首筋を絶とうと、振りかぶった。

 しかし届かなかった。その剣撃は繰り出された裸足の一撃によって粉砕され、跳ね返された。

 だがミーリは止まらなかった。折れた刃を握り締め、再び振りかぶる。しかしその刃はユキナの体に刺さらず、跳ね返された。刃が宙で弧を描き、ルイのすぐ側に刺さる。

「殺す! ユキナ! 君を! 君を殺す!!!!!!!!!」

 首を絞めようとして手を弾かれ、脚を払おうとして払えず、蹴り飛ばされる。さらに顔面を殴り飛ばそうとすれば、再び繰り出された裸足の一撃によって吹き飛ばされた。

 ルイの側に降り立って、ユキナを見上げる。

「ユキナ!」

 それに対して、ユキナは手を差し伸べた。猫の顎を撫でるがごとく、指が軽やかに動く。

「ミーリ、私今幸せよ……あなたが他でもない、私を見てる。父親に言われたからじゃない。婚約してるからじゃない。殺人者だからじゃない。あなたが私にだけ視線を送って、私を意識してる……天にも昇りそうな感覚よ」

 手が痛む。刃を握り締めて、切れたのだろう。それで少し頭が冷えた。この灼熱の中で、どうにか冷やすことに成功した。そして悟った。今のままでは、自分は彼女を殺せないと。

「ねぇミーリ? して? 私に告白して? 愛をささやいて? あなたの心の奥底から沸きあがる感情を、今ここで咆哮して?」

「……わかった」

 立ち上がり、肩にかけていた上着を翻して手を差し伸べる。そしてその手の上にユキナが立つように視線を配置すると、静かながらに響く声で言い放った。

「ユキナ、俺は君が好きだ。大好きだ。この世のすべてが敵に回っても、俺は君を愛しよう。君のすべてを受け入れよう。だから殺す。他の誰にも譲らない。他の誰にもやらせない。愛する君は、愛している俺の手で確実に殺す。だからユキナ……愛してるよ、殺したいくらいに」

 それを聞いたユキナの頬は紅潮し、焼け焦げるまでに真っ赤に熟し、そして満面の笑みを放った。その顔は本当に、本当に幸せそうだった。

「えぇ。私も愛してるわ。大好きよ、ミーリ……じゃあ、私は行くわ。いつかあなたが私を殺してくれるその日まで、私はあなたの愛を注がれ続けて生きる。だからミーリ……私を忘れないで、私を見失わないで。私はいつだって、あなたの胸の中……その心の中辺りに生きているはずだから」

 それだけを言い残して、ユキナはその場から姿を消した。そしてミーリもまた、ルイを抱えて屋敷を出た。燃え盛る屋敷を徒歩であとにし、その場から消えた。

 だが数時間後、ミーリはユキナを抱いたままリースフィルト家の屋敷が見えるところまで来ていた。数時間経った今でも、まだ燃えている。

 だがそのとき、ミーリの肩に何かがぶつかって弾けた。雨粒だ。その後も次々と降ってきて、次第に大雨になった。

 するとそこに、誰かがやってきた。ファーのついたコートを着た、その下は下着にも似た服だけの女性。彼女はもう一人の少女に傘を差させて、ミーリに歩み寄ってきた。

「もし。おまえ、あの屋敷の生き残りか? そのお姫様抱っこされている少女は、眠っているのか?」

「……いえ、死んでます」

「そうか……おまえ、これからどうするつもりだ?」

「妹をどこかに埋めたら、旅にでも出ようかと思っています。俺には、殺さなくちゃいけない人がいるので」

「そうか……おい、エリエステル」

 エリエステルと呼ばれた少女は、おもむろに自分の背に手を伸ばす。取り出したのは女性が使うには小さいものの、少年が使うには大きい傘だった。それを、女性は開いてミーリに差し出す。

「おまえ、強くなりたいか?」

「はい……誰よりも、誰よりも強くなりたい。あいつを殺せるくらいに、俺は……」

「ならば私の元に来い」

 このとき、ミーリは初めて女性を見上げた。ずっと視線を合わせていなかったが、合わせるとなんとも凛とした瞳をした強そうな女性だった。精神的にも、実力的にもだ。

「以前おまえの戦いを見たことがある。おまえには才能がある。他の奴らよりずっと……その才を無駄にしてしまうのは、私として惜しい。どうだ? 私がおまえを強くしてやるが」

 このときの女性の心情で言えば、これは気まぐれのようなものだった。久し振りに見込みのある戦士の卵を見つけ、喜んでいたと言える。だからなんとなく、育ててみようかなと思った次第だ。

 彼女にとって、復讐劇などどうでもよかった。くだらないことだと吐き捨てていたし、他人の事情など深入りしても、楽しいものではなかったからだ。

 だからこのときは思わなかった。まさかこの少年ミーリに今後深入りし、死なないでほしいと願うまでに至る愛弟子に成長するとは。

「……いいんですか? 俺は武術も何も持ってない。ただの人間です。そんな俺を、あなたは育ててくれるんですか?」

「あぁ、育ててやるとも。ただし死ぬまではな。死んだ後などどうでもいい。それこそ、魔物の餌にでもしてくれよう」

「……わかりました。じゃあ、お礼を先払いしないといけないですね」

 そう言って、ミーリは振り返る。その顎で差した先は、グスリカより北の方角だった。

「ここから北の方に行けば、俺の父さんが持ってる別荘のお城があります。そこを家として差し上げます。俺にはもう、必要ないものですから」

「ほぉ、わかっているな。そうだ。私もこの子も流れ者よ。今日はたまさかこの近くを通り、火の手が上がっているのが見えたのでここに来ただけのこと。住処がもらえるとはありがたい。ウム、是非使わさせてもらおう。さて、そうと決まれば早速行くか……あぁそうそう、まだ名前を聞いていなかったな。我が二番弟子よ。名を名乗れ」

「ミーリ……ミーリ・ウートガルド。師匠はなんて呼べばいいですか?」

「師匠でいい。だが世間では、スカーレット・アッシュベルなんて呼ばれてる。人類最後の希望とでも、三柱とでも呼ばれているが、おまえは私の弟子なんだ。そんな他人行儀で接してくれるなよ」

「わかりました、師匠」

「ウム……まずは口調から直してやろうか。もっとこう、親しみやすい感じでだな……」

 これが、二つの最高位貴族が死に絶えたグスリカの歴史上最大の事件。貴族の下り階段。その実態が、少女と少年の愛憎の物語だと知る者はなく、少女の仕業だと知る者が現れるのは、事件から約九年の時を経てからだった。

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