貴族の下り階段 中盤

 へブルの死から数ヶ月。全員が等しく歳を取り、ミーリとユキナが十歳となった頃。ウートガルド家もへブルの死を乗り越え、元の生活を取り戻していた。

 が、元に戻らないのは母のヴァナ。未だへブルのことを忘却し、家族は四人と思い込んでいる。へブルの死以来、彼女は夫のアストラルに毎晩何かを言われているようだが、その言葉はわからない。

 だがわかるのは、その言葉のせいでヴァナは未だに壊れたままであるということだった。

「母さんは、まだ壊れたまんまだ……俺は、どうすることもできない」

 無力。少年ならば許されるそれも、当時のミーリからしてみれば罪に等しい。今の状況に対して何もできない自分に、ミーリはいつも自責していた。

 それを慰めるのが、ユキナの役目である。家族に弱音を吐けない分、その拠り所として、未来の妻として、彼女は未来の夫を長く支えていた。

 この日もまたウートガルド家にやって来て、ミーリの支えになっていた。当時のユキナもまた十歳。だがこのときの彼女はすでに、妻として夫を支える役目を担っていた。

「ミーリ、お義母かあ様のことは、今の私達にはどうにもできないわ。でもあなたにできることもある。壊れた母から、壊した父から、ルイを……あの子を守るの。それは、あなたにしかできない。あの子のお兄さんである、あなたにしか」

「……そうだね。そうだ。俺はルイを守らないといけない。そして君を守らないといけない。俺は君の夫で、俺はルイのお兄さんだ。守らないと……」

「えぇ。でも根を詰めないでね。頑張りすぎると、壊れちゃうもの。あなたまで壊れたら……きっと、お父さんも考えてしまうわ。あなたとの婚約が、本当に正しいかどうかを……私達はもう、こんなに愛し合ってるのに」

 二人、口づけを交わす。子供ながらに舌を絡ませ、唾液を交わらせ、吐息を合わせて、唇を這わせる。濃厚な口づけを交わした二人は、その後お互いの体温を確かめるように抱き締めあった。

「大好き、ミーリ……もしあなたが壊れても、私はあなたを愛し続けるわ」

「俺も君が好きだよ、ユキナ。そう……俺達はもう愛し合ってる。愛し合えてる……なのにどうして引き離そうだなんてするもんか。大丈夫、父さんがなんとかしてくれるさ」

「……そうね」

 二人、また口づけする。お互いの愛を確かめるため、何度も何度も、寂しさと苦しさを紛らわせるための口づけを交わした。

 するとそのときだった。ルイが、勢いよく走ってきたのは。

「お兄様、お姉様! 大変です!」

 口づけなんてもう数えるのが面倒なほどしてきたのに、このときばかりはなんの抵抗か、二人は同時に距離を取った。まるで口づけしていたのを隠すがごとく、お互いそっぽを向いていた。

「ど、どうしたルイ……そんな慌てて……」

「それが……王国の警察組織が、お父様に話があるって連れて行ってしまって……」

「父さんに?」

「お義父とう様って、法律担当でしょ? なんで警察が……」

「それが……逮捕のようなんです!」

「逮捕?!」

 思わず声が裏返りそうになる。あの父アストラルが、逮捕される道理などまるでない。そもそも理由がないだろう。一体、警察はなんの事件で、父を犯罪者と見たのだろうか。まるで想像できない。

「それで、お義父様はそれに応じたの?」

「はい……お母様と私に、大丈夫。案ずることはないと言い残して……馬車に乗って行ってしまいました」

 一体何が何やら。理解がまるで追いつかない。しかし理解が追いつかなかったのは、その後のことであった。

 二日後、アストラルが帰ってきた。二人の警官に連れられて。そしてその警官は、妻ヴァナにこう告げた。

「本人たっての希望で今日に限り、帰宅を許しました。明日、改めてお迎えに上がります。おそらく、家族で過ごされる最後の時間となるでしょう。どうぞ、悔いのないように」

 妻はまるで意味がわからなかった。だから聞いた。夫は無実だったのではないのですか、と。すると警官は呆れたようにこう言った。

「ご連絡したはずです。容疑者、アストラル・ウートガルドは、息子、へブル・ウートガルド殺害の容疑で逮捕、起訴しました。本来ならすでに監獄の中です。今日のことは、最高位貴族であるが故の特別措置とお思いください」

 そう言って、警官二人は出て行った。ヴァナは何がなんだかわからず、アストラルを前に立ち尽くす。だがその目からは、とめどなく涙が溢れて止まらなかった。

「あなた……」

「ヴァナ、落ち着きなさい」

「へブルって誰……? なんで、私達と同じ姓を……? いや違う……違うわ……誰かなんてすぐにわかる。わかるの……だってへブルは……へブルは……」

「ヴァナ!」

「私達の子……だから……」

 ずっと壊れ続けていたヴァナの記憶から、引きずり出されるようにへブルとの記憶が蘇っていく。しかしそれは彼女を治すことはなく、実際はさらに深刻な傷を刻みつけた。

「そう……そうよ……なんで、なんで今まで忘れていたの? 私達は四人家族じゃない。五人家族だった……なのに、なのになんでそのことをずっと忘れて……私は、私はなんで……ねぇ、なんで?!」

 黙るアストラル。しかしヴァナは訊いていながら知っていた。

 彼だ。夫だ。言葉巧みに操って、へブルのことを忘れさせたのは。自分の大事な息子の記憶を奪ったのは。

 一体どんな言葉をあのとき言われ、自分がそうなってしまったのかはわからない。だが確実にこの男が、自分から息子を奪ったのだ。記憶どころか、命さえも。

「なんで?! なんでなの、あなた!!!」

 口では達者なはずのアストラルが、このときばかりは何も喋らない。それはすなわち無力で、このときは普段無力なはずのヴァナの方が強かった。

 そして手が出る。空気を裂いた平手打ち。その一撃はアストラルの頬に強く沁みて、頬を赤く腫れさせた。

「いつもみたいに喋ってよ! 何か弁明してよ! 違うんでしょ?! 違うと言って! あなたがへブルを殺したなんて嘘でしょう?! 誰かに濡れ衣を着せられたのでしょう?! ねぇ、そう言ってよ! ねぇ……ねぇってば!!!」

「……そうだよ」

 そのとき、ミーリもルイも、近くの壁の後ろに隠れていた。だから聞こえていた。母の怒号も泣き声も、そして、次に言った父の衝撃的な一言も。

「私だよ、へブルを殺したのは」

 ヴァナも、ルイも固まる。声が出なかった。ミーリもそのとき、肩にかけていた上着が力なく落ちたのに気付かなかった。そしてまた、父の衝撃的な言葉に聞き入った。

「あいつには仕事の話を聞かれてしまってね……迂闊だった、まったくもって私の責任だ。だがね、それでもまずかったんだ。あのときあの仕事の話を聞かれたら、今後のウートガルド家は持たなかっただろう。だから殺したんだ。手段は安易だよ。射程圏内から銃で足元を撃って落としただけさ」

「だけって……だけって!」

「落ち着け、ヴァナ。君が今こうして最高位貴族として振る舞えるのも、私があのときあの子を殺したからなんだよ。そう思えばよかったじゃないか。あの子の死が、我々を救ったんだよ」

「バカを言わないで! なんで、なんで殺す必要があったの?! あの子はまだ六歳だったのに! きっと仕事の話なんてわからなかったわ! なのに、なんで!」

「どんなに些細な情報だろうと情報は情報だ。盗まれるといけなくてね。いくらへブルの口が固くても、自分の命が危機に晒されれば、安易に喋っただろう。それは非常に困るんだよ。本当、非常にね」

「そんな、そんなことでへブルを……あの子を……」

 立っていられず、ヴァナはその場で崩れる。だが当然だった。目の前で殺人犯である夫が、ペラペラと自分の犯行を自白しているのだ。しかも、安易な犯行動機で。立っていられるはずもなかった。

「だがよく考えなさい。さっきも言ったが、あの子の死で我々は未だこの地位にいる。そう、私は一人の息子と残る三人の家族とを天秤にかけただけの話だ。ならば軽い方を捨てるのが妥当だろ? それだけの話だよ、ヴァナ」

「聞きたくない! もう聞きたくない! さっさと出て行って! ミーリもルイも私が育てます! あなたにはもう頼らない! だから出て行って! もうあなたの顔も見たくない!」

「おいおい、今言ったばかりだろう。ヴァナ、よく考えてものを言え」

 そう言って、アストラルはヴァナの顎を持ち上げる。ただ指先に顎を持ち上げられただけだというのに、ヴァナの体は硬直し切って動けなかった。

「考えろ、ヴァナ。私の力なしで、君に子供二人を育てられるか? 最高位貴族という地位を手に入れたのに、そんな簡単に手放せるのか? 今更」

「何を……あなただって、これから最高位貴族ではいられないわ……へブルを……息子を殺しておいて……!」

「そうだ。私は息子を手にかけた。しかし、それがどうした? 私は息子を犠牲に家族を、この国を守ったのだ。その功績は確かな実績だ。それが評価されるだろう。故に私は数ヶ月——いや数日で出てくる。最高位貴族としての地位も権力も保ったまま、私は返り咲くだろう。だがおまえは捨てるのか? 最高位貴族の生活を。順風満帆な生活を」

「あぁぁ……あぁぁ……ああああああああ!!!」

「心配するな。私は君達を守り抜くとも。たとえこの先何を犠牲にしようとも、必ずな」

「あぁぁぁぁっぁっぁぁぁっぁぁぁ!!!」

 母は、完全に壊れた。絶叫し、涙し、崩れた。

 アストラルは決めていたのだろう。へブルのことがわかってしまえば、再度記憶違いをさせるような優しいことはしない。完全に、言葉で破壊する。現実と脅威と、権力を突き付けて、自分の思い通りに動く人形にするために。

 その言葉は、陰で聞いていたルイの心をも壊しかけた。ただ途中から、ミーリがその耳を塞いでいた。そして彼女の涙を止めるため、力強く抱き締めた。そして何度も、何度も何度も頭を撫でた。

 それしか、できなかった。

 以降、ヴァナの感情は消え去った。まるで人形のように生気が抜け、自ら物を食べることも歩くことも、立つことすらもしなくなった。メイド達の仕事が、屋敷の管理から彼女の世話へと一変した。

 だがヴァナは時々、まるで爆発したかのように感情を弾けさせることがあった。いわゆる癇癪かんしゃくである。

 その暴走はメイド達を吹き飛ばし、屋敷中を滅茶苦茶に荒らし回り、ついにはルイにも手をかけた。屋敷の中で最もか弱いルイは彼女が暴れる度に傷付き、怪我をした。その度に執事達が総出で押さえ込んだ。

 ひとしきり暴れれば、ヴァナはまた人形に戻る。世話されなければまるで動かない、ただの人形だ。

 そんな人を、ミーリはもう母親として見れなかった。憐れとすら思ったが、でももう母親とは思えなかった。だってルイを傷付けるのだから。言葉で傷付ける父とは対照的に、この人は暴力でルイを傷付ける。そんな人に、もう頼れなかった。

 そしてそんな人を、アストラルは屋敷に置いていた。自分が戻ってくるまでも、そしてその後も。

 アストラルはすぐに戻ってきた。監獄に入れられることもなく、数日で裁判を終えて帰ってきた。裁判の結果は、十年の自宅謹慎。たったそれだけだった。非道だった。

 弟を殺めた父を、当然父親として見ることはできなかった。彼が帰って来てからも、ミーリは彼を軽蔑し、警戒した。次に何をするのか、わかったものじゃなかったからだ。

 私達は人間として、当然の道を歩まなければならない。それが法律を司る、父の格言だった。しかしそれも、このときからまるで響かない。当然だ。外道が何を、人間を語っているのだろうか。哀れみを通り越して呆れすら感じる。

 そして、そんなアストラルのことを許せなかったのは、ミーリとルイだけではなかった。

 リースフィルト家当主、クロナもまた、アストラルに憤っていた。故に決めるのは早かった。アストラルが帰ってきた初日、彼はアストラルに電話を入れた。

 君のような外道の息子に、娘は任せられない。婚約はなしにさせてもらいます。

 それだけ言って、電話を切ったという。

 結果、ミーリとユキナは二度と会うことはなくなった。だってもう出会う理由もない。二人はもう、未来繋がることはないのだから。

 それにミーリは激怒した。そして泣いた。自分の部屋で、泣き尽くした。

 この崩壊した家の中で、彼女に会えることだけが唯一の救いだったのに。ユキナだけが、自分の支えだったのに。支えを失った力は酷く脆い。そのことを、十歳にして痛感した。

 そして同時、怒りは自らの中で収束した。それは一瞬で積もり積もって、一つの感情へと落ち着いていった。それは紛れもなく、一切の迷いなく、父への殺意だった。

 あの首を斬り裂きたい。胸を貫きたい。頭を撃ち抜きたい。手段はなんでもいい。とにかく殺したい。あの人の息の根を、止めてしまいたい。

 衝動は駆り立てられ、机にあったカッターナイフすら握り締めた。だが行けなかった――いや、行かなかった。

 踏みとどまった理由はただ一つ。そこにルイがいたからだった。またヴァナに酷い目に遭わされたのだろう。酷い怪我だった。

 ミーリはすぐさまカッターを投げ捨て、ルイを抱き締めた。胸の中でワンワンと泣きじゃくる彼女に、ミーリは誓った。

「必ず俺が守るから……ルイ……俺が……俺が君を、絶対に守り抜く」

 そう、固く強く決意した翌日だった。事件は起きた。ここまでのことはすべて、貴族の下り階段、終結へのプロローグ。

 二つの最高位貴族が同時に失脚したのは、その日だった。

 一体何がそうさせたのか。言えるのは、その前日悲しみと激怒と衝動に駆られたのは、ミーリだけではなかったということだった。

 

 

 

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