氷の大陸と不思議の国と

 そこは、北にある最高位度危険地域。名を、アイシクル・クラウド。平均気温はマイナス五〇度を絶えず下回る、極寒の氷の大陸である。

 そこでもっとも巨大な氷山の中で、彼女は眠っていた。

 膝を抱え眠っているその姿は、視力にもよるが、数メートル先からでも視認できる。大陸の氷は炎に当てない限り解けないと噂で、美しく透明なのが魅力だった。

 そんな氷の中で、彼女は眠り続けている。かれこれもう二〇〇年近い。眠っているというよりは、冷凍保存されていると言った方が近いのだろうか。そんな状態の彼女が目覚めたのは、スカーレットの技が五日という期間をかけてその氷山に届き、その頂が砕かれたからだった。

 大気に濃い霊子が充満し、それに触発されて目を覚ます。何重にもなった氷の層を破壊して、彼女は削れた頂ごと、その氷山を破壊した。

 肩から生えている両腕と、背負っている亀の甲羅のような機械から伸びている左右四本ずつの腕。計十本の腕を高く伸ばし、うんと背筋を伸ばす。二〇〇年ぶりにそうしたため、背中に少し痛みが走った。

 機械の腕で、背中を叩く。だが表現として機械の腕と言ったが、彼女のそれは彼女の腕であった。ただ機会というだけで、背中にあるというだけで、彼女の腕そのものであった。

 計十本の腕がそれぞれ背筋を伸ばしたり、頭を掻いたり、組んだり、髪を整えたり、動く。そして一通り動くと、彼女はまるで動物のように鼻をヒクつかせ、自分を起こした霊力の発生源を辿り始めた。

 そしてまだ、寝起きの体に鞭を打って飛んでいく。それは決して重労働ではない。テーブルに置かれたリンゴを取るために、一度立たなくてはならないくらいのことだ。

 だがそれでもそれが、彼女にとっては億劫だった。ほんの少しの距離も移動しなければならないのなら、それは彼女にとって面倒でしかない。

 だがそれでも彼女は動いた。それはもう、面倒を通り越して空腹であるということと、霊力の正体が知りたいという興味から来るものであった。

 彼女がその興味から、スカーレットとミーリ達の元へ辿り着くのは、およそ一週間後のことであった。

 そして場所は変わり、とある王国。

 そこには一人として、人間は住んでいない。住んでいるのは狂った魔物達と、狂った神々。そして、狂った魔神であった。

魔神姫君ゴッタ・デア・プリゼッシンが死んだニャア」

「オホホ、マレフィセントもですよ、オホホ。まったくまったく、人間を滅ぼそうなどとするからです。オホホ」

「そんなこと……どうでもいい……眠い……」

 猫の耳に猫の尻尾、手には肉球までついた女の子に、三つもの帽子を被せて被っているピエロ。さらにティーポッドに入っているネズミサイズの小さな女の子が、テーブルを囲む。そこにはお茶とお茶菓子が出て、三人はお茶会の真っ最中であった。

「オホホ、まったくまったく。あれだけ大口を叩いて死ぬなんて、いや滑稽! 滑稽! まったく笑えない、オホホ」

「ニャア。なんで人間が嫌いなのかニャア。人間はおもしろいぞ? よく笑うし、よく喋るしよく死ぬし。まったくこれ以上おもしろい生き物はいないってくらいおもしろいぞ? ニャア」

「だから……どうでも、いい……寝かせて。お願いだから寝かせて」

「オホホ! オホホ! まぁまぁ待ちなさいネズミさん! もうすぐウサギさんがあの子を連れてきますから! 可愛い可愛い私達の姫! とっても可愛い私達の姫! オホホ! あぁ待ち遠しい! 待ち遠しい! あの子とのお茶会が待ち遠しい! オホホ!」

「あぁうるさい……マッドハッターがうるさいよ……チェシャ、黙らせて」

「無理無理。マッドは殺さない限り黙らないニャア。あ、でも……黙ったマッドもおもしろいかも? ニャア」

 そう言って、チェシャは舌舐め擦りをする。だがマッドハッターはそんなことどうでもよくて、待ちに待っている可愛い姫様を待ち続けていた。そんな彼のうるささは、彼女も好きではないのだが。

「仕方ニャい」

 今の言い方はわざとである。

「ちょっと遅いから様子を見てくるニャア。もしウサギが遅刻してるようだったらパイにしてもいいよね? いいよね?」

「ダメだよ……彼がいなくなったら、誰があの子を連れてくるの? もしあの子が来なくなったら、僕寝れないよぉ……」

「オホホ! さぁさぁ来なさい、私達の姫! 出てこい出てこい早く来ぉい!」

「マッドも待ちきれないみたいだし、行ってくるニャア」

 そう言って、チェシャ姿を消す。それはまるで透明になったようで、チェシャがどうやっていなくなったのかは、旧知の仲である二人にもわからないのであった。

 そしてその国へ向かう通り道で、男は少女を連れていた。酷く痩せ細っていて、まるで骨と皮だけでできているかのようなその男は、肌が全体的に白い毛に覆われていて、被っている帽子を大きな二つの耳が突き破っていた。

「さぁさぁ、もうすぐですよお嬢さん。楽しい楽しいお茶会です。みなさん待っておられますよ」

 男に連れられるその少女は、大きく深い溜め息をついた。これから気の知れた相手と大好きなお茶会だと言うのに、これから楽しい時間だというのに、乗る気ではなかったのである。

 そんな少女の気の落ちように、男は――ウサギはおやおやと顔を覗いてきた。

「どうしました? そんなに暗い顔をして。何かお悩み事ですか? だったらここで吐き出してしまいなさい。悩み事はお茶と一緒に飲むのではなく、吐き出してしまうのがいい。さぁ! 吐き出しましょう!」

「……ウサギ、あなた恋をしたことはある?」

「恋?」

「私もう生まれて一〇〇年近く経つのに、まだ恋したことないの……ねぇウサギ、恋って何? スノーホワイトもシンデレラも、ラプンツェルもしたのよ? そんなに恋っていいもの?」

 ウサギは恐れるように震える。まるでこの世の終わりを覗いてしまったかのように、彼はこの運命を呪うかのように嘆いた。強く、背を反らす。

「お嬢さん! 恋は毒だ! 触ってはいけない! 恋とは、人をときにダメにしてしまうのです。お嬢さんのような少女がするには、まだ早い……あ、一〇〇年生きてるのに少女なのっていうツッコミはなしで。ともかく、今はまだしてはならない……いけないのです」

「でもしてみたいの……してみたいのよ。ねぇウサギ、恋って一体どんなもの? どんな味がするの? イチゴ? メロン? サクランボ? それとも血? 肉? 私はしてみたいのよ」

「あぁ……お嬢さん、お嬢さん! ……わかりました。このウサギ、必ずやその回答を用意してご覧に入れましょう。ですが、一つ言っておきます」

 そう言って、ウサギは人差し指を自身と少女のまえに立てて顔を近付ける。その目は赤く充血し、飛び出てしまいそうだった。

「恋とは毒、そして薬なのです。その味は苦く、苦く、そして苦い。甘いのは、本当に希少です。それをお忘れなきよう」

「えぇ、ありがとうウサギ。じゃあ行きましょうか、お茶会に」

「えぇ、参りましょう!」

 そうして、少女はウサギに連れて行かれた。彼女の知りたがる恋の味を知るのは、実にそれから、二週間後のことであった。


 

 

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