神に近付く
ミーリが目を覚ますと、そこは歯車の世界だった。だから現実で言えば、まだ目を覚ましていないということなのだろう。
だがその世界で言えば起きたミーリは体を持ち上げ、隣で脚を組んで座っている女性に、視線を向けたのだった。
「起きた?」
「あぁ、うん……あれ、君は?」
「そう、まだ憶えられないのね。私達に近付いてはいるようだけれど」
ブーツを脱いだニーズソックスを履いて黒い脚が、ミーリの頭に乗せられる。だがミーリは払うこともどけることもせず、ただ黙って乗せられた。べつに、こういうことが好きというわけではないのだが。
「私はデウス。
「デウス……そっか、俺に力を貸してくれる神様か……その言い方だと、俺はここに何度も来てて、何度も君に会ってるんだよね。なんで憶えてないのかな」
「語るまでもないからよ。私とあなたの今までのやり取りが、わざわざ書き記すことも記憶しておくこともない、たわいのないものだったから。実際私達はもう何千何万回と会ってきたけど、それが全部たわいのないものだったから、あなたは憶えられないの」
「じゃあ忘れないようにするには、どうしたらいいの?」
「簡単よ。記憶に残るような、刺激的なことをすればいいの。例えば――」
頭に乗せていた脚で、今度はミーリの頬を蹴る。蹴るといっても強くはないし、蹴るというよりは踏むという感じなのだが、とにかく彼女はミーリを蹴った。ニーズソックス越しの生足の感触が、ミーリの頬を撫でる。
「こうして私の感触をあげるとかね。キスしてもよかったけれど、あなたはパートナー達と毎日のようにしてるから、あまり刺激にはならないでしょ」
「そんなことないよ。もしそうだったら、なんかキスが軽いみたいな感じでちょっとヤだ。俺はパートナーだからって、軽々しくキスはしない。キスした人は、ユキナだけだし……」
「……そう、安心した」
そう言って、デウスは脚をどけて額に口づけする。その頬は赤く紅潮し、体はわずかながらに熱を持っていた。
「私はあなたが好き。あなたの力になりたい。だから絶対、私の力をものにして頂戴。あなたの力にさせて頂戴」
「わかった……頑張る。俺、頑張るから。だから君もずっと、俺のことを呼んでいて欲しい。ずっと俺の力であってほしい」
そう言うと、彼女はニンマリと笑った。その笑みはなんというか、幼さと健気さの両方を感じられるほど、まるで子供のような笑みだった。思わず、こちらも笑ってしまいそうだ。
「うん、お兄さん」
目を覚ますとそこは自分の部屋で、白い天井が一番に視界に入った。
寝返りを打つとそこにいたのは黒髪の女の子で、その姿は全裸だった。足元にかかっているのは、彼女に着せたはずのロングコートだ。おもむろに体を起こしたミーリは、そのロングコートを彼女にかけた。
部屋を出ようとすると、彼女がしっかりと逃がさないようにシャツの裾を掴んでいた。寝ているというのにすごい握力で、無理矢理行こうとすると、シャツがちぎれてしまいそうである。
だが気持ちよさそうに寝ている彼女を、起こすわけにもいかない。そう思って、再びベッドに倒れたミーリだったが、それが勢い良すぎて彼女を起こしてしまった。
まだ眠気の残る目をこする。
「うん、ぅぅ……ミー、ミー?」
「ごめん、ティア。起こしちゃったね」
「ミーミー、おきぃ」
「はいはい、おはよう」
大きくあくびし、起き上がって背筋を伸ばす。ティアはようやくミーリから手を離し、ベッドから手、足の順に降りた。まだまだ自分から二足歩行にするには、時間がかかりそうである。
そんなティアをちゃんと脚だけで立たせ、再び裾を掴ませ連れて行く。そうして行ったのは、スカーレットが現在使っている、元は父の部屋。そこでスカーレットは椅子に片足を乗せて座り、酒瓶を逆さにしてラッパ飲みしていた。
ちなみに時間は、まだ昼である。
「おぉ、目を覚ましたかミーリ。パートナー達には、もう顔を見せたのか?」
「いえ、そのまえに師匠にお願いがあって」
「お願い、か。なんだ、言ってみろ」
師匠の元で修業したのは、およそ五年。その五年の中でも、ミーリがスカーレットに頭を下げたことは一度もない。何せ弟子入りするときも、ミーリはスカーレットに誘われた。
だから一度もなかった。というか、人生で初めてだった。お願いするために、土下座をしたのは。
「お願いします。俺をもう一度鍛えてください」
土下座の意味もわからず、ティアも真似をする。スカーレットは一番しないだろうと思っていた人物の土下座に、少々目を見開いた。最後の酒の一滴を飲み干す。
「それはあれか? 今回の修業とはべつに、私に直々に稽古をつけてほしいということか?」
「はい」
「……必要、ないだろう。おまえは充分強い。霊力をほとんど探知に回してしまう変な癖がついたようだが、それも私が直してやる。だから必要ないぞ? そんな改まった修行など」
「俺は、俺はこれから強くならないといけない。強くならなきゃ、あいつには勝てない。これからも自分で鍛錬はするし、経験も積む。だからそれなりにまだ強くはなる。だけど、それじゃあ間に合わない。俺は、俺は今すぐにでも、あいつに勝てるくらい、強く……なりたい」
スカーレットは知っている。ミーリの言うあいつのことも、二人の間に何が起こったのかも。大体のことは知っている。
ミーリの戦う理由は至って普通だし、昔ならよくあることだ。それに大事な家族を殺されて、殺した相手を憎むなんてのも自然な感情だ。だから咎めないし、止めもしない。
だが心の奥底では、やめてほしかった。そんな理由で、強くならないでほしかった。何故ならスカーレットは知っている。憎しみを糧に強くなった人が、目的を達したときどのような結末を選ぶのかを。
それは自虐的で暴力的で強制的で、自己犠牲の為せるもので、誰から見ても絶対に誰も幸せに見えないものであることは、目に見えていた。
「ユキナ・イス・リースフィルトか……そいつを倒したら、おまえはどうするつもりだ」
「死にます。それがこれの結末として、最もふさわしい最後でしょう」
死にます。
その一言を弟子から聞いて、師匠は泣きそうになった。酒が入っているからかもしれない。だが決して、死ぬという言葉を誰かがなんの考えもなく発したからではない。
最愛の弟子が人生のすべてを賭けて戦い、どちらにしても最後は死ぬという結末で閉めようとしている。そのことが酷く悲しかった。
そしてその愛弟子が、自己犠牲の美学に酔っているわけでもないことが、また悲しかった。そうであったなら、頬を引っ叩いて叱れば済むというのに。
そしてその悲しみが伝わったのか、それとも死という概念を母の死から理解しているのか、ティアはミーリを揺らす。その目には、大粒の涙を溜めていた。
「ミーミー……ぬぅ、メ。メ、ぬぅ……」
拙い言葉で、死ぬのはダメだと言っているよう。それがミーリを困らせた。ティアになんて言って聞かせればいいのかわからない。
だがそんなティアを抱きしめたのは、スカーレットだった。
「そうだな。死ぬのはダメだよな。よく言ってくれた。よく言ってくれたぞ、ティア」
「スースー……」
スカーレットの肩を、ティアが濡らす。ティアのことを撫でる一方で、スカーレットはもう一方でミーリのことを抱き寄せた。
「し、師匠――」
「死ぬな、ミーリ。私はおまえに死んでほしくない。だから死ぬな。そのためだったら鍛えてやる。おまえを強くしてやる。おまえが生き抜くために、修業をつけてやる」
姉弟子と妹弟子からしてみれば、師匠はミーリに一番甘い。境遇もあるし、彼が今辿っている運命を悲観しているからでもある。
だが一番はやはり、好きだからだ。まるでその目は母親のよう。愛しき我が子を見るようで、愛情が湧いてくるのだ。だから抱擁もできる。
「でも師匠、俺は……」
「おまえが死んだら、一体どれだけの人間が悲しむと思っている。パートナー達だってそう。おまえの友達だってそう。そしてきっといるだろう、おまえに好意を寄せてくれている人だってそうだ。そら、今出てきただけでも何人も悲しむぞ」
そうだ。それはある。死んでしまえばロンゴミアント達を置いていってしまう。そして
待て、とミーリは今、自分に好意を寄せてくれている人と聞いて、何故空虚が出てきたのかを自分に問う。リエンだってそう言ってくれたのに、何故ここでユキナではなく空虚が脳裏をよぎったのかがわからなかった。
そして同時、何故体が火照るのかがわからなかった。
「どうした?」
「い、いや……ありがとう、師匠」
師匠の部屋を出ると、ティアが顔を覗き込んできた。その顔はまだ心配そうだ。頭を撫でても、その不安は拭われないよう。だからミーリは自分の額を、彼女のにくっ付けた。
「ありがとう、ティア。そうだね。死ぬのはメ、だよね」
「うぅ、メ。ミーミー、メ」
「うん、メ、だね」
「うぅ! ミーミー、メ! ぬぅ、メ!」
メ、っていうの気に入ったのかな……。
とにかくこのあとも約束をさせるように、ティアはメ、を繰り返した。そうだねと答えるとまた嬉しそうに言うので、ミーリはどうしたものかと頬を掻いた。
一方で、ミーリが去った後のスカーレットの部屋では、スカーレットの部屋にお酒のつまみを持ってきたレジェンダがいた。一緒に飲まないかと、誘われる。レジェンダが頷くと、スカーレットは新しい酒瓶を開けて注いだ。
「今さっき、ミーリが来た。私に改めて修行をつけてほしいんだそうだ。だからまたしばらく、奴の面倒を見る。レジェンダ、食事は頼んだぞ」
「あら、そうなの? ミーリは今回二度も敵を退けたんだし、必要ないと思うのだけど」
レジェンダはミーリとユキナのことを知らない。彼がミーリと知り合ったのは、ミーリが弟子入りしてから二年後のことであったからだ。スカーレットも、教えていない。
「色々あってな。実感するところがあったんだろう。私としても、今急激な成長は望ましくない」
「あらなんで? 修行はつけてあげるんでしょ?」
「ミーリの神格化が進んでいる。おそらく、もう半身は神と同じはずだ。正直なところ、これ以上霊力が強くなると、奴は死することなく魔神になってしまうかもしれん」
「……それ、ミーリには言ったの?」
「今はまだ。だが言ったところで、歯止めにもなりはしないだろうさ。あいつは神になってまで、強くなろうとしているのだからな」
「そう。私は戦闘は専門外だから、なんとも言えないけど……」
元対神軍、特攻部部隊長の台詞か? それは。
「でもこの先、ミーリは厳しい目で見られることになるわよ。神が敵であるこの世の中で、神に近付くんだから」
「私もあいつも、重々承知さ」
スカーレットは酒を飲む。その喉の通りが普段よりも悪いことは、本人が一番わかっていた。
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