第II部 遠征篇

序幕 最初の帰還

最初の帰還

 ミジンコが騎鈴きりん州に入ったのは、冬末も終わり、暖かくなり始めの頃だった。旅立ちから約半年ぶりの、予期せぬ帰還となった。緑宝石りょくほうせきの街は何故かひっそりとし、外に出る者もなく、ましてミジンコを迎える者などなかった。城に着いても番兵が軽く会釈するだけで、ミジンコの方でも何か尋ねることはせず真っ直ぐに王の間へ向かった。

 王の近臣一同が暗い廊下に侍っていたが、王のもとへは通されず、許しが出たら通すから宿舎で待てと言われた。ケクックら彼の老騎士達には、王に会うまでの間面会してはならぬとのことだった。ヨグルトの裏切りで、自分までも警戒されているのかとミジンコは思った。ヨグルトは忠臣だったのでもっともなことではあった。

 緑鱗りょくりん城に帰還したのはミジンコだけだった。少なくともミジンコが最初だった。ヨワリスからは、手が離せないので今しばらく遅れるとの連絡があり、マコからは何の連絡もないということを、近臣から聞いた。ヨグルト謀反の話はミジンコには信じられず、これは確かな情報なのかとも聞いたが、それについては王から直接聞いてくれ、とにかく王はそのことで大変なお怒りなのだということだった。あの冷静で聡明なクシュウイン王が(今まで怒ったところなぞ見たこともない)それほど憤怒していると聞くと、いよいよヨグルトの謀反も疑い得ないのかとミジンコは思って、溜め息をついた。そして怪物ならいざ知らずヨグルトがもし実際に次の相手となるなら、とても今までのようには行くまい、と。

 ミジンコは随分長い間宿舎にて待ったが、ついにその日は王との面会は叶わなかった。他に何らかの事情があってのことなのかもわからなかった。その間彼の部屋を訪れる者もなかったし、彼も下手に動くことはせず言われた通り、ただ待った。

  

 翌日も、ミジンコは王の許へ通されなかった。その日は朝から薄暗く雲がかかり、陽は射してこなかった。朝一番と昼前に寄宿舎を出て本塔にある王の間へ向かったが、やはり近臣達が王に面会することを許さなかった。彼らは、ほの暗い回廊にもう何年も巣くっているひもじい生き物のようにへばり付いていた。

 ミジンコは仕方なく食堂へ移動したが、ちょうど昼時というのに驚くほど人が少なかった。騎士の修養中の時(彼自身は一人で食事することが多かったが)、いつも昼時は賑わっていた。なのに今は広いがらんとした食堂の所々に、二、三人ずつのグループが各々距離を置いて会話もなく、陰気な様子でスープをすすっているのだった。

「あるいはヨグルトの謀反の影響なのか? しかしまだ何ら直接の被害が及んでいるわけでもないのに。それとも王の悲嘆が伝わっているのだろうか……」

 食堂係の姿はなく、各々自分で勝手に持って行くように、幾つかの皿と記名張が台に乗せてあった。メニューは力を付けるには質素で、スープは幾分冷めていた。見渡す限りミジンコの知っている騎士は見えなかったが、帳簿に記された名も知らない名前ばかりだった。訪れた者の数自体も少ないようだった。

 ミジンコがぼやぼやと記名帳を眺めたりスープを汲んだりしている間に、二、三の集団はもう食器を片付け出て行き、長テーブルの隅や窓際の席に全部で四、五人の男が各々独りで座っているだけになった。

 窓の外の雲が厚くなると部屋は異様に暗くなり、誰の顔もよく見えなかった。ミジンコも窓際に腰かけ、手早く食事を済ませたが、その間に他の者はもう皆食堂を出ていた。

 

 城内はほとんど人の行き来がなく、午後はしばらく緑宝石の街を歩いた。王に会う前に、ヨグルトのことが少しでも聞けないかとミジンコは思った。空はますます雲が厚く、のしかかるようになっていた。

 冬末が終わりアラタナス座の月を迎えるこの時期は、いつも商人やとりわけ花売りが多い。それがほとんど見られず、人の行き来がないわけではなかったが、町民たちは妙にこそこそ歩き、小声で話をする。閉まっている店さえ目に付く。ミジンコの入ったことのある喫茶店や軽食堂は何処も開いていなかった。花を飾る家は少なく、あっても色が悪かったり、既に萎れていたりするのだった。

 そしてとうとう、小粒の雪がちらつき、とても春先の月と思えぬ風景になった。人々はまだ昼の時間のうちに通りから姿を消した。

 

 夕方前に再び面会を求めに行くと、王間の前は真っ暗で、蝋燭ろうそくを手にした老臣が三人残っていた。

「王は考えておられる」「王はお悩みだ」「王は独りで策を練っておられる」と彼らは言った。

「王の許しが出たら、こちらから迎えをる。もうここへは来るのでないぞ」と言いつけられ、翌朝には、部屋に遣わされてきた使いから、さらに「城を出てはいけない」との付け加えを受けた。

 ミジンコは図書室へ一度だけ行って本を十冊ほど借りると、やはりいつも人の少ない食堂との行き来を除いて、ずっと自室で過ごした。図書室は明かりがいておらず、閉館かと思ったが、鍵は開いていた。薄暗い中、最後に古代の訳書を見ようと奥の棚へ来た時に、隅で窓の外に目をやる一人の男がいたことに気付いた。窓際の男は厚い曇り空を眺め呟いていた。

「……アラタナス座の月は、流動を示す。羊に角が生え、群れを成して銀河を渡っていく動きが見られる月だ。宇宙の気流の激しい時期だ。それがどうやら淀んでいる」

 独り言のようだった。男は灰緑の衣に全身を包んでおり、兵士には見えなかった。

「……アラタナス座は火に属する。今は、火が淀みを示している……」

 影のかかった男の顔の不気味さに、話しかける気は起こらなかったが、見覚えのある服装のように思えた。しかし、城に呼ばれた占い師か錬金術師なのだろうと思い直した。男はミジンコに気付いている様子もなかった。

 四日を過ごすと、自室から出ることさえ禁じられ、運ばれる簡素な食事を取るだけになった。もうあらかた本も読み終えてしまっていた。その日、ミジンコは頭に浮かぶこともなく、降ったりやんだりを繰り返す粉雪を眺めるばかりだった。


 翌朝、ようやく王からのお呼びがかかった。

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