土毒蜘蛛

 ミジンコはその日中いっぱいかけてとうとう七骨峠しちこつとうげに辿り着き、幾つもの廃墟を見た。間違いなく元温泉郷だった場所で、十分に日が当たって明るいが、幾らもせぬうちに建物の壁や瓦礫が、聞く通りいや想像上以上のものであったが、魔物のよだれか排泄物か判別つかぬような液体が染み込んで変色し、大部溶けているのが見られた。それがため廃墟は湾曲していたり、果物の皮が腐ったようなものやら何か得体の知れないものが積もっていたり、そのうちには微かな異臭も立ち込め、空は晴れているのに廃墟の街は足元付近に黄土色したもや状の気体が流れ〝あやかしの城〟と呼ばれるのも相応しい様相になってきた。人骨と思われる破片も見られたが数は少なかった。おそらくくだんの昆虫が何処かに隠しているのだろう。

 やがて猩魔山しょうまさんが見え、裏手から続く森が七骨峠側まで達している辺りで、ミジンコは土毒蜘蛛ツチグモと対面した。人の気配を察したのか、土毒蜘蛛は鐘楼の欠け落ちた寺院の、倒壊した壁の中からゆっくりと姿を現した。数十メートル隔たっているが、凄まじい奇臭が漂ってきた。古代の戦車を思わせるずんぐりとした大きな胴体で、それを支えるにはいささか貧弱にも見える短い脚が数本伸びてその先には人間の赤子のような手と指が生えていた。ただ後脚だけは異常に発達していた。そのため、形は蜘蛛というよりはむしろカマドウマに似て見える。古書の記述にもあった通り確かに、頭部が異様に大きく、顔は猫、あるいは狂人を思わせた。汚く黄ばんだ体毛で覆われていたが、剥き出しの脚には節が見え、確かに昆虫であることを示していた。土毒蜘蛛はのしのしとミジンコの方へにじり寄って来て、ミジンコの方も化け物へ歩み寄った。虫はしばらく喉の辺りでごろごろと音を立てていたが、とうとう立派な人間の言葉で口を利いた。

「よっ。来たね来たね。今日はとてもいい日でぼくもあなたも元気だね」柄にも合わず軽く挨拶をするのだった。そして、

「マコを探しているのかね」昆虫はニタリと笑った。動物の顔の下に、紛れもない昆虫のものである、鋭い口器が一瞬見えた。

「マコ……マコ……? んん~、マコやあ……んふ、んふ、いないねえ?」そのおぞましい虫は巨大な体に似合わず、首をキョキョと振って辺りを見回す振りをした。

「呼ぶのをやめろ。虫の分際で、人の名前を呼ぶのをやめろと言っているのだ」

「うへっ。虫だって……げえっ。気持ち悪いよね? ところであなたは、ぼくに何か聞きたいことでもないのかなあ。たとえば、マコは何処にいるのかとか……うぷぷ、」そこまで言うと、昆虫は突如吹き出し、ひどい声を上げてげたげたと高笑いするのだった。「めきょきょきょきょ!!」その奇声は峠中に反響した。ミジンコはとうとう剣の柄に手をかけた。虫は笑いながらもすかさずそれを見止めた。

「待て。結局最後はそうか」昆虫は笑いを止め、にわかに顔の筋肉が引き締まった。「剣など振り回してみたところで所詮無駄だ。そんなオモチャ! それに考えてもみたまえ。あまりにも悲しいではないか、せっかくこうして二人会えたのにさ。さっきのは冗談だよ、ほら、教えてほしいのではないのか、姫の髪の毛の最後の一本が何処にあるのか」

「お前……!? 知っているのか。姫のことまで何故? 騎士たるマコ、たとえ貴様に囚われ拷問されたとて喋るはずはない!」

「だからマコのことは俺は知らんよそもそも。どうせおつむのめでたいカラスのやつが吹聴ふいちょうしたんじゃねえの? それにマコが髪の毛一本のことまで知るかよ?」その声は至極真面目に聞こえた。「七骨峠で会ったが百年目、私はあんたを知っている。何故なら、私はあんたの中に巣を作ってずっと生きてきた蜘蛛だからだ」

「やめろ! 冗談は一度にしろ!」

「ないおうぃ? うい……」蜘蛛は表情が一瞬緩んでぞっとするような笑いを浮かべたが、またすぐに引き締まった。蜘蛛は言葉を続けた。

「揃いも揃って忠実に命令に従って、失われたもののしかも残骸なぞを喜んで集めている。その間におめえはまた落し物をしている。とりかえしのつかないことを、おめえは気づかぬうちにしてんだよ。もうどうにもならねえがな、見ておれ! ……そうそう、それにマコなんざ、今何してるか知ってるか? お前だけだよ、マコなんてな、教えてやる……」

「黙るがよかろう、虫屑めが! 早くそのマコを出せ、貴様が隠しているマコをだ!」ミジンコは剣を抜き、陽光が刀身に反射し蜘蛛の顔面を撃った。

 すると土毒蜘蛛の表情は虚ろになり、辺りに静けさが訪れた。ミジンコは薄気味悪さを覚え、すぐ危険を悟った。眼は死んだ虫のように白くなっていったが、段々そこにしじまが浮かんできた。口からぼたぼたと涎が落ちた。

 不意に――「マコー! マコー! 何処にいるのーーー!?」――鳥のような甲高い声で叫んだ土毒蜘蛛の顔に、憑き物の様相が現れた。

「これは、……狂っているのだ!」ミジンコは後退り、廃墟の小高い位置へ飛んで退避した。

 土毒蜘蛛は脚を強張らせたまま足早にがさがさ歩き回ると、何を思ったか、瓦礫と残骸と白骨の散在する後ろの森へと疾走しその中へ忽然と姿を消した。昆虫は立ち去り、戻って来ないように思われたが、二、三分もした頃、猩魔山しょうまさんのもうほとんど頂に近い辺りで人の名を呼ぶ声が微かにした。断末魔のようにも思われた。ミジンコが剣を抜いてそのまま待っていると、「マコー! マコー!」という土毒蜘蛛のキイキイした喉声が、その頂から降りて急速度で近づいて、森の境い目あたりで止まった。

 ミジンコは素早く、森の入り口付近の、短い城塔の一つが倒れてめり込んでいる杉へ、それを伝って上った。そして左手にレクシナとうをつがえた。

 ばりぼりと骸を貪るような見苦しい音を立て、土毒蜘蛛は、ミジンコが見当をつけていたおおよその位置の森から這い出してきて、また止まった。

 目は真っ赤で、尻部から体液を垂れ流し、涎にまみれた口器には、おそらく幾らか古いためなのか、ずたずたに痛んだ死骸を咥えていた。

「あれが?」

 ミジンコはレクシナ刀を投げるや土毒蜘蛛めがけて杉の上から踊りかかった。頭部を深くえぐって突き立った短刀に、化け物は、おののき、わめき、痛みに発狂して凄まじい速さで駆け出していた。その上に乗ったままミジンコは、昆虫の汚臭に吐き気を覚えつつも、幾度となく長剣で頭部から胸部を切り付けた。虫はすでに死相を湛え体液を溢しながら廃墟の町を奔走するばかりだったが、徐々に体力を消耗し、死に際に卵か内臓か判別のつかぬ物体を尻から数珠つながりに吐き出すと息絶えた。それを出してしまうと体は腐った果実のようにくちゃくちゃに萎んだ。

「人の死体はどの辺りに落としたろう……」

 しかし見つかったそれは、思ったより新しい死体ではあったが、噛み千切られ年齢性別の判断さえつかないものになっていた。

 その日の夕刻までミジンコは近辺を散策してみた。森の中にも入ってみたが、蜘蛛が集めたのだろう骨が所々に山積みにされているだけであった。白骨ばかりで新しい死体はもうなかった。あとはガラクタや果物の皮ばかりだった。変わったことと言えば、一度見慣れない鳥が森の中でミジンコにぶつかってきて、騎士の持つ短剣を落としていった。見てみたが、マコが所有していたものというわけではないようだった。ミジンコはこれをさきの戦闘で汚れて使えなくなったレクシナ短刀の代わりに腰に下げた。

 日も暮れる頃、森からミジンコがさきの場所へ戻ってみると、玉売りと昆虫採集家と流れの外科医が来ており、三人で数個の巨大な昆虫の排泄物を囲んでそれについて議論していたが、ともかくそれを買い取ると言い、ミジンコに、お金の代わりに高価な衣をくれたので、ミジンコは体液で汚れた鎧を脱いですぐに着替えた。

 ミジンコが山を下りると、今各地に派遣されているという騎鈴きりん州の使者に出会い、彼らはミジンコ他二名の騎士を呼び戻せという王の勅命を受けていると言う。そして王印のある書状を彼に渡した。それによると、「騎士ヨグルトが南海にて王に反旗を翻した」とのことだった。ミジンコは自分の探すものがユミテ州都で預かられていることを使者に伝え、早馬を借りると即座に思いがけぬ故郷への帰途に就いた。書面はこう結ばれていたのだった――「残る三騎士は命に従い直ちに王都へ戻ることによって潔白を証明し、兵を帯びてその地へ赴きヨグルトを討て」と。


(第I部了)

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