猩魔山
一方、七骨峠の裏手
ところが一向にカラス天狗は姿を見せず、木笛の音も何処から聞こえてくるのか皆目見当がつかなかった。このような調子で、ほとんど陽の光も届かぬ高い杉の木が立ち並ぶ場所を正午まで歩くと、一同は仕方なく持参した昼食を広げた。口を利くものは少なかった。食事を取る間も、木笛の音が森にこだまし続けていた。こんなことが昼食後再び歩き始めてから午後も二時を回ろうとする頃まで続いて、とうとう一行は杉林を抜けてしまった。いつの間にか木笛の音もやんでしまっていた。
「これはどうもおかしいぞミジンコ殿。我々はここで待機して、アルクーノに数名付かせて再度探りに遣らせようかと思う」いぶかしげな面持ちでデラネテは言った。
「拙者もそう思う。カラス天狗は協力を約束した以上、迎えの者を出してもいいはずなのだ。だのにそれさえない」アルクーノはキツネに抓まれたといった表情だ。言動からは多少の苛立ちも見え、兵の多くも同様だった。ミジンコはそれに対し、
「もともとカラス天狗の援助をさほど期待していたわけでもない。必ず彼らの許を訪れるという必要はないのだが、そこでの休息を我々は当てにしていただけに残念だ。私が彼らの所で休息を得られるだろうと言ってそれが果たされないわけだから、責任を取って私自身がもう一度見てこよう。二、三名来てくれればいい。しかし今一度見に行って見つからないようなら、その時は残念だが諦めようと思う」
「いやミジンコ殿いいのだ。あなたは休んで下され。拙者が見てきますから。よし三名来い」
「待たれよ。兄者、この兵が意見があると」
その兵士の言うには、猩魔山には杉林は幾つかあるはずだと。だから最初の杉林に隠れ里はなかったのではないか。だが念のため数名で再度元の林を探させ、もし見つかれば当然この山の地形を知っていようカラス天狗に使いを遣してもらい、先へ進む本隊に場所を知らせればいいのでは、とのことであった。
「うむ。私はそれでいいと思う」ミジンコは言った。「ただ、ちょっと行って見つからないようなら、その分隊はすぐ我々に追いついてほしい。できればこの辺りにもあまり長居はしたくないのだ、気配からして。我々も、彼らの里のことはあまり気にし過ぎないようにして、もう抜けそうなら早々と裏手山を抜けて明るい場所に出て休もう。見張りを置けばたとえ土毒蜘蛛でも奇襲はできない」
「では策は採用しよう。そちらの兵、名はなんと言った?」
「ヒヨウリと申します」
「ではお前に三名を加えヒヨウリ隊とする。ヒヨウリ隊は元の杉林を探す任にあたってくれ。森に差す陽の光が減り始めたらすぐさま我々の方へ追いついてくれ」
「はっ。それまでに何とか探してみせます」
この後森は入り組んで、急勾配の斜面や木々が密生して人の通れないような場所があり、予想していたよりも進むのは困難だった。そして日が暮れてもヒヨウリ隊は追いついてこなかった。
冷えこみの激しい山の野宿を過ごし明朝発つとすぐに、再び別な杉林に入った。杉の木は最初のところのものよりまだ随分高いものになっており幹も太かった。皆ここへ踏み入れた時からものの気配を感じていたが、木笛の音はここではせず、しばらく行くと、代わりにぱたぱたせわしない物音が遥か上空に聞こえるようになった。樹冠は頭上高さ百メートルにもなろうかというほどだったが、見上げても動くものはなかった。時折幹の中に音を聞いたように思うと告げに来る兵がいたが、ミジンコの周りではそのようなことはなかった。
しかしそれが予兆だったのか、半刻もせぬうちに、一同が入り込んだ杉林は異変の様を呈した。人の頭上数メートルの高さに、カラス天狗とは明らかに異なる、全身灰色がかった黒色で、衣類などは一切纏わぬ人型の鳥がぼつぼつと何処からともなく出始め、と思うといつやらこれが大量の数に増え物凄い速度で飛び回っているのである。大きさはどれも人間の子どもくらいのものだ。頭をかがめないといけないほどではないが、この人型の鳥は徐々に高度を下げてきていた。その羽ばたきは、鳥と言うよりも
「これはどうしたことだ? こんな生き物は『ミルネステルダス』にも『地理書』にもない。かつて如何なる本で見たこともないし聞いたこともない。これは我々を狙っているのか、あるいはそもそも気付いているのか? デラネテ殿、あなたはわかるか?」
「ミジンコ殿、おそらくこいつらはユミテで呼ぶところの
数歩と進まぬうちにもこの人鳥はますますその数を増すばかりで、いよいよミジンコは前進を諦めて杉林を引き返した。杉林の入口までこの人鳥でいっぱいになっていたが、林を出た途端この生きものは全くいなくなった。しかし杉林の中ではやはり依然、生きものが飛び交っているのが確認できた。
もう道はなく、ミジンコは一度引き返し山を出ることを決めた。また一夜の野宿を経て明朝には最初の杉林へ辿り着いたのだが、驚いたことに、こちらでも人型の鳥がすでに発生しており、駆けるようにして一行は林を切り抜けた。
「すまぬミジンコ殿。すでに二日のロスだ」
「デラネテ殿。先の不慮の事態は貴殿の策とは関係ない。それより迂闊にも分隊を出す案を許可してしまった。あのおぞましく気持ちの悪い鳥のことはわからないが、ただ彼らはいずれ戻るんじゃないかと思う。カラス天狗の里が見つからなかったのも計算外だが、これもあまり気にすることはないだろう。
デラネテ殿、私はやはり霊亀県から山に入るのは避けようと思う。すまないが、兵を二人お借りできないか? 私の残りのお金で馬が三頭買える。これで山の反対側へ回ろうと思う。デラネテ殿はここへ残って分隊の帰りを待ってくれ」
「すまぬ……。しかし、兵は六人付けさせる。私の持参した軍資金で、帰りの旅費を差し引いても馬はあと四頭買える」
デラネテはミジンコが発って三日後、病に倒れてしまった。デラネテは妹ビスケミンクに十名程を率いさせ、再び山へ入り分隊ともし見つかればカラス天狗の隠れ里を探しそこに住む者を連れてくるよう命じた。カラス天狗が見つかれば間もなく毒蜘蛛と一戦交えるであろうミジンコの援軍に差し向けようと考えたのだ。しかし隠れ里とは元来人に見つかる性質のものではなく、あちらにその意志がなければ人を迎え入れるところではないのだった。探しても見つからず、迷って歩く者が偶然入り込むことが稀にあるくらいだった。ビスケミンクはカラス天狗を探す気などなく元より別な考えを持っており、探索中一人姿を消した。(ビスケミンクはミジンコの許へ山を越えて向かおうとしてカラス天狗の里に迷い込んだという神隠し説や、単に森で遭難したとする説、それからミジンコの前に現れることになったが運命の皮肉的な形だったとする説などがあるが定かではない。)その日の夜に、兵から妹の行方不明を聞いてデラネテが悲嘆にくれるところへ、ヒヨウリ分隊は帰還する。彼らは分かれ道に迷っていたのだ。ヒヨウリは幾つもの杉林を彷徨ったが、人型の鳥などは一度も見なかったらしく、ビスケミンクらしい人影もまた見る
一方ミジンコは、三日目の夕刻に、七骨峠のある山の正面口へ到達した。しかし彼は、デラネテから借りた六人の兵をその翌日の登山中、土毒蜘蛛の弟を称する怪物にむざむざその全員を食われて失ってしまったのだった(このことは、のちに彼が生涯のうちでもっとも悔やまれることになった事件の一つとして、記されている)。尚その怪物に関しては、土毒蜘蛛との関連性は実際のところは不明で、各つま先に犬、獏、キリン、カプラ、亀、幼虫の首を生やした六本脚を持つ昆虫の仲間で、その脚で獲物をおびき寄せて食う化け物が猩間山に生息したとの記述が後代数種の地理誌に見られる。(ミジンコもこの怪物は討ち果たせなかったのだ。)
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