PARTⅠの2(2) 不思議な猫に導かれて

 雨に濡れて走りながら、恵美音は自分が死に装束しょうぞくを着ているのに気づいた。


――誰かに着せられたんだ。それが男だったら・・・。


 でも、ということは、一度死んで生き返ったってこと? 


 助手席の人は私を見てゾンビだって叫んだ。運転手は化け物って。


 本当にゾンビになっちゃったの? 


 腕は怪力になっているし。足も速くなっているし。とにかく、なんとか確認できないかな。


 しばらく走った恵美音は立ち止まった。 


 雨の中、一匹の白い猫が行く手にちょこんと行儀よくお座りして自分を見つめていた。


 猫は尻尾を振り、ニャ~と鳴いて立ち上がり、首を振りながら恵美音の顔を見、右手の方角に走り始めた。


 その背中にはピンクのハートの模様があった。


――いやだ、可愛い。ピンクのハートなんてありえない。


 飼い主が染めちゃったのかな。ついて来いっていってるみたいだ。よし。


 恵美音は猫について行き、林の向こうに畑と古い平屋の民家が見える場所にたどりついた。


 猫は尻尾をピンと立て、またニャ~と鳴いたかと思うと、走りだして茂みの中に姿を消した。


――誰かいるのかな? 


 留守だったら、悪いけど中に入って、鏡で自分を見て、体を拭いて、


 できたら着替えとお金とかさを無断拝借して・・・。


 恵美音は民家の脇に回った。半開きの窓があった。


 窓の中からうめき声が聞こえてきた。中を見た恵美音はびっくりした。


 パジャマを着たおばあさんが布団の脇の畳の上に横向きに横たわって胸を押さえて呻きながら苦しんでいた。


――大変だ。助けてあげなきゃ。


 恵美音は自分の状況も忘れて玄関に走った。こういう田舎の家ではありがちなことだが、カギはかかっていなかった。


 自分の見かけのことも忘れて中に走り込み、おばあさんのところにいった。


「おばあさん、大丈夫ですか? 


 私、雨でびしょぬれなんで、抱き起してあげられないんですが。


 あ、慌てて入って来ちゃったけど、濡れたところも後でちゃんと拭きますから」


 老婆は苦しみながら恵美音を見たが、驚かなかった。


「あ、あんたは?」


「私、道に迷って、道を聞きたくて来てみたら、呻き声が聞こえたんで」


 三分の二は本当のことだった。


「そ、そう。悪いけど、あたし動けないし、目もとっても悪いから。この部屋に薬箱があるでしょ?」


 老婆はあえぎあえぎ言った。


「ええ、ありました」

 赤い赤十字マークのついた木の薬箱だった。


「その中に、ニトロの、黄色いり薬があるから、心臓のところに貼って」


「わかりました。済みませんが、そこにあるバスタオルで体を吹かせてもらってもいいですか? とりあえず、自分を拭かないと・・・」


「そうして。あたしのガウンも、かかってるでしょ?」

「はい」


「それに着替えて」


 恵美音は体と髪の毛を拭き、足が剥き出しになるサイズの小さいガウンに着替え、


 濡れたタオルと死に装束は窓の外に手を出して絞って、窓のさんの上に置いた。


 薬箱を探る。すぐに黄色いパッケージに入ったニトロの張り薬が見つかった。


 恵美音はそれを老婆の心臓のところに貼ってあげた。


 少しして老婆は落ち着いてきた。横たわったまま老婆は恵美音にお礼を言った。


「ありがとう。あんたの顔は霞んでよく見えないけど、やさしい人なんだろうね?」


「ありがとうございます、でも、私そんなんじゃ」


謙遜けんそんしないでいいよ。迷っちゃったって言ってたよね?」


「ええ。悪い男の人にひどい目に合わされそうになって、体一つで逃げて来たです」


「それはとんでもない難儀だったね。


 隣の部屋、娘が昔使ってたままになってて。服なんかもあるから。


 なんでも好きなのに着替えて、着て行っていいよ。隣の部屋にあるものならなんでも持って行っていいからね」


「本当ですか?」


「ああ。あんたは命の恩人だから。着替えたら、電話使っていいよ。警察に電話しなくちゃね」


「あ、はい。ありがとうございます。でも、実は、悪い男の人って私の父で・・・」


「まあ、DVっていうやつかい?」


「そうなんです。警察に訴えたいけど、我慢している母にとにかく相談してみないと・・・」


「複雑なんだね。どうするかはあんたが考えればいい。


 あと、お風呂場には乾いたバスタオルもあるから。お風呂に入ってゆっくりしていったらいいよ。


 私はもう大丈夫。十一時半にはヘルパーさんが来てくれるから」


「そうですか。あの、もう一つ、思い切ってお願いしてもいいですか?」


「なんだい?」


「実は、お金も持たずに慌てて逃げて来たので、少し貸していただけないかと」


「お金なら、一万円くらいなら、助けてくれたお礼に上げるから。


 返さなくてもいいよ。それで大丈夫?」


「はい。でも、いただくんじゃ」


「とんでもない。ほんのお礼の気持ちだと思って、どうぞ、受け取っておくれよ」


「そうですか。では、本当に申し訳ありませんけど、お言葉に甘えて」


「そうしてくれたらうれしいよ。じゃ、悪いけど、私を布団の上に運んでくれないかい?」


 恵美音は老婆に手を貸して布団の上に導いた。


「ありがとう。あんた、冷たい手してるね。やっぱりお風呂であったまっていったほうがいいよ」


 部屋の時計を見ると、十時半だった。まだヘルパーが来るまで一時間はある。


 でも、追手がかかってるかもしれないので、そうゆっくりしてもいられない。


 できればお風呂にひたりかったが、熱いシャワーを浴びるだけで我慢することにした。


 風呂場に行った恵美音は鏡に自分を映して、我ながらギョッとした。


 顔も体も青白くて血の気がなく不健康そのもの、というよりも死人そのものだった。


――ああ、私、やっぱりゾンビになっちゃったのかな? 


 でも、まあ、いわゆるゾンビみたいに肌がただれたり崩れたりできものができたりはしていない。


 単に死体が動き出したという感じ。


 ゾンビはゾンビなのかもしれないし、見た人はやっぱり逃げ出すかもしれないけど。


 でも、ゾンビとしてはましな見栄えで、ちょっとは救われてるかも。


 裸で風呂場に入った。シャワーの温度は四十度より少し低めにセットしてあるようだった。


 シャワーをひねり、少し待ってから浴びた。体に液体が当たっている感覚はあった。


 しかし、あったかさは全く感じなかった。


――故障かな。それとも?


 シャワーの温度を目いっぱいあげてみた。シャワーは湯気を立てはじめた。それでも熱さは全く感じなかった。


 恵美音は温度を四十度以下に戻し、とにかく死体のように白く血の気のない体を洗った。


――ああ、熱さを感じないなんて、やっぱりゾンビなんだ。


 悲しんでいる暇はなかった。手早く体を洗って体を拭き、


 バスタオルを巻いたまま、老婆の娘さんが使っていた部屋に行って下着をつけ、


 Tシャツとジーンズ服を着、パーカーも着た。


 ブラジャーもなんとかフィットするサイズだったので助かった。


 その部屋には老婆の娘が使っていたと思われるドレッサーもあり、化粧品もあった。


 化粧品は古いが使えなくはなかった。


 恵美音はこれまでやったことのない厚化粧を顔にほどこし、ほおべに紅もしっかり使い、その顔を鏡に映してじっくりと見た。


――わ、ケバ。


 でも、とにかく、オバケには見えても死人の顔には見えない。


 部屋には黒いデイパック、ライトブルーのウエストポーチ、黒い布製の財布、サングラス、マスク、スカーフ、白い手袋など、


 使えそうなものがいろいろあった。


 恵美音はそれらをもらうことにした。


 恵美音は靴下を履き、老婆の部屋に行った。


 老婆は布団の上で落ち着いていた。


「おばあさん、私、人に会わなければならないので、もう行きます。お嬢さんの部屋にあったもの、いろいろ使わせていただきます」


「あんたに使って貰えれば嬉しいよ。


 あと、お金も忘れずに持っていって。


 その箪笥たんすの一番上の、右側の引き出しに財布があるから、そこから一万円持っていきなさい」


「本当にいいんですか?」


「ああ。傘も、玄関にあるのを一本持っていきなさい」


「ありがとうございます。でも、雨は上がっています。靴も、お嬢さんのが足に合ったらお借りしてもいいでしょうか?」


「いいよ。玄関の靴箱の中に何足かあるから。合うといいんだけど」


「お嬢さんの服は私にぴったりなんで、靴もなんとかなるんじゃないかって。


 じゃ、私はここで失礼します。本当にありがとうございました」


「こっちこそ、本当にありがとうね。またいつでもおいでよ」


 恵美音は窓の桟の上に置いてあった、濡れたバスタオルと死に装束を手に取った。


 バスタオルは風呂場の洗濯籠に入れ、死に装束はもう一度絞ってそばにあったスーパーの袋に入れてデイパックの中に収め、


「それじゃ、お元気で」と老婆に声をかけて玄関にいった。

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