第二話

転機

 綾音は公園を出てふと、歩みを止めて自らの右手を見つめ、先ほど京弥の頭を撫でていた感触を思い出し、思わずといった感じで笑みをこぼす。

 「まるで猫みたいに目を細めちゃって……ほんといくつになっても可愛いんだからぁ」

 どこか恍惚とした表情で、甘ったるい声を上げてブルっと身悶えする綾音。はっきりいって不審者だが、幸いなことに付近に人影はない。というか仮に見ているものがいたとしても、そこは美少女の特権か、まるで素晴らしい美術品を前にして感動に打ち震えているかのような、どこか美しい様に見えてしまうだろう。

 「さて、切り替えていかないとね。まずは京弥との逢瀬を邪魔をしてくれたライラに口撃を――じゃなくて詳細を聞き出さなくちゃ。やっぱり罵詈雑言を浴びせるなら本人の目の前で、その反応を楽しみながらじゃないと」

 何やら不穏なことを嬉々として呟く綾音だが、周囲から見ればその喜色満面の笑顔は天使の微笑みのようだろう。

 「その点で彼女は正に適任よね。無駄にプライドが高いくせに、無理して耐え忍んじゃうところなんてもう最高」

 しかし、実際はこの場にいない相手に苛立ちをぶつけているところを想像して、嗜虐心を抑え切れないという酷薄な笑顔である。

 綾音はスマホを取り出して誰かへと電話をかける。すると、まるで着信が来るのを待ち構えていたかのように、ワンコールで相手と通話が繋がる。

 「私だけど、メッセージを確認したわ。さっさと詳細を教えてちょうだい。あとサービスで教えておいてあげる。今の私はあまり機嫌がよろしくないから、発言には注意して」

 その声音や、冷淡な態度は今日一日で京弥と接していた中で、一度も見せたことがない類のもの。綾音自身が不機嫌と公言してはいるが、その身に纏う雰囲気からはむしろ、こちらが彼女の本質であるかのように感じさせる。

 電話の向こうからは、ハッと息を呑むかのような気配がしたあとで何やら会話が始まった。

 「そう。それで? 適合率はどの程度だと判断しているの? ……ふーん。まあその数値ならいつ発現してもおかしくはないか。いいわ。合格よ。追跡はできているんでしょうね? ならいいわ。……ここからなら、駅のコインロッカーが一番近いかしらね」

 そう言いながら歩き出す綾音。頭の中では既に駅までの最短ルートと、そこからの行動の予定を組み始めている。

 「いい? 監視システムを過信し過ぎないようにしなさい。私が引き継ぐまで監視役は下げないで。それからくれぐれも警察に身柄を確保されるようなヘマはするんじゃないわよ? 人員にその旨を徹底させなさい。装備を回収したらまた連絡するわ」

 そういって綾音は通話を終了させてその場をあとにした。





 「こちら綾音。感度良好。そっちは? OK。ターゲットを補足したわ。監視役も確認。もう下がらせて。以降は私が引き継ぐわ。それでデータは? 遅い。早くしなさい」

 日は沈みかけ、辺りには夜の帳が下り始めていた。そんな時刻にとあるビルの屋上に綾音は佇んでいた。

 綾音の発現は一見すると独り言のようだが、実際は超小型の骨伝導スピーカーと喉元から直接音を拾うマイクを使用して会話をしているに過ぎない。

 綾音は会話を続けながらも、頭部に取り付けた暗視ゴーグルから覗く高倍率の視界の中で、対象を補足し続けていた。そして慣れた手つきで装置を操作し始める。これらの装備は全て駅のコインロッカーから回収したものだ。

 こうした事態に対応するため、この街の至る所に様々な状況に対応した装備を散りばめてあるのだ。

 「ん。データの受信を確認。今測定したデータと照合を開始するわ。へぇー。数値がさらに上昇してる。特に適合率が50%に迫るなんて久々の個体じゃない。頑張ってよく抑えてるみたいだけど、もう限界かしらねー。どこに向かっていうのか見当くらいは当然ついているのよね? ライラちゃん?」

 その端整な顔が今は無骨な装置によって半ば隠されている状況ではあるが、露出した小さな口の端を釣り上げて、どこか楽しげな、からかうような口調で告げた。

 「ふん。つまらない反応ね。まあちゃんと仕事はこなしているみたいだから、お咎め無しにしてあげる。この先にターゲットにキメラを売りつけていた売人がいるってわけね。それじゃ、これから追跡を開始するわ」

 どうやら相手から期待する反応が返って来なかったようで、可愛らしく唇を尖らせる綾音。

 ここまでの一連のやり取りからは、綾音とその相手との力関係がどのようなものなのか、否が応でも読み取れるというものだ。

 綾音の相当に理不尽な言い分にも相手は粛々として従っている様が窺うことができる。

 そんなことはどこ吹く風と言わんばかりに、綾音は装備を取り出したバックパックを背負うと移動を開始した。

 とはいってもここはビルの屋上。肉眼では地上を行き交う人々が豆粒の様に見えるほどの高さである。しかし、綾音は躊躇うことなくフェンスを手をかけて飛び越えて、その身を中空に躍らせた。

 それは通常では考えられないような、もはや飛翔とも呼べるよな大跳躍であった。助走もつけずに相当な距離を進んだが、そんな離れ技をやってのけた綾音も当然の帰結として重力に従い、落下していく。

 それでもその表情に焦りの感情は見受けられない。風になびく自身の美しい髪を、少し鬱陶しそうに片手で抑えつつ、空いている手を近場のビルに伸ばし、何かを掴む仕草をした。

 すると一拍置いて不意に変化が訪れた。先程まで垂直に落下を続けていた綾音の身体が、ガクンと何かに引っ張られたかのように、急激に伸ばした手の先にあるビルに向かって移動を始めたのだ。

 それはまるで振り子の如くビルに吸い寄せられていき、あわや激突という瞬間、今度は別のビルにいつの間にか伸ばされていた手を支点とするようにして、移動を開始した。

 「しまった……予め髪を纏めておけばよかったわ。デートのために気合入れてセットした髪が台無し」

 綾音はこの状況と酷く不釣り合いな独り言を呟きながら、同じ要領で次々と進行方向のビルへと移動を繰り返していく。何とも不可思議な光景であるが、これが日中、太陽が昇っている時間であれば、光に反射してキラキラと輝く細い糸のようなものが、綾音の手とビルの間に見えたことだろう。

 そうして何度か移動を繰り返した頃。綾音はとあるビルの壁面でその動きを止めた。これまた何とも異常な光景である。彼女はその両手を壁面にピタリと貼り付けているだけで、垂直な壁面に静止しているのだ。

 さらにあろうことか今度は片手を離して、スコープを弄りだした。恐らくピントを調整しているのであろうが、信じらないのは今綾音の全体重はか細い片腕一本で支えられているという事実。また、あれ程の移動をしながらも対象を見失わず、補足し続けてここまで辿り着いたのだ。

 「うん? あのターゲットの進行方向にいるのが、売人だとして……あの女は誰よ? ライラ? 応答しなさい。……ええ。問題かどうかはこれから判断するわ。映像は共有できてるわね? じゃあまず、この映像の男は売人で間違いない? そう、登録があるのね。なら一緒にいるこの女は? ふんっ。犯罪者リストでもヒットしないか。てことはただの巻き込まれた一般人てことかあ」

 綾音は会話をしながらも、するすると交互に両手を動かして、実にスムーズに何の取っ掛かりもない壁面をクライミングの要領で登り切って屋上に降り立つ。

 「さてと。まあ対象の発現はもう時間の問題だしね。どれどれ……わーお。もう今には破裂しそう」

 ゴーグルを通して何かしらの測定結果であろう数値を見た綾音は実に楽しそうだ。

 「売人の男は予定通り餌になるとして……。可哀想だけど、あの子には犠牲になってもらうしかないわね。ま、恨むなら不用意にそんな場所に入り込んだ、自らの愚かさを呪いなさい」

 綾音はそう吐き捨てると、意識を通信機の向こう側へと移した。

 「ライラ? 彼女は廃獣はいじゅうに御手付きされる前に、こっちでなるべく綺麗なまま処分すよう努力してみるわ。回収したら適当に薬漬けにでもして、発見され易いように人目の付く場所に放置しておきなさい。もし、間に合わなくて齧られちゃってたら、行方不明者が一人増えるってことでいいでしょ」

 恐ろしい内容をまるで今晩の献立でも考えるかの様にあっさりと決める綾音。

 今、そのスコープを通した視界の中には三人の人間がいる。

 一人は綾音が監視していたターゲットである男性。

 一人はターゲットが接触を図ろうと探していた、売人の男性。

 そして最後の一人。唯一この場においてイレギュラーな存在である少女。

 パッと見た印象で端的に彼女を表現するならば、美少女であると誰もが断言するであろう。

 綾音とは違い、癖のない大和撫子然とした腰まで届く黒髪に、新雪のような真っ白な肌がよく映えている。可愛らしいというよりか、綺麗という言葉がしっくり来るのは、その感情を感じさせない能面のような顔も関係しているだろう。

 スタイルもよく、均整の取れた体つきをしているように見える。特に豊かに膨らんだ二つの胸の膨らみは、彼女の方が綾音より男性の目を引き付けることは想像に難くないだろう。

 「ふん。まあそれなりの見てくれみたいだけど、唯一私に優っているのはあの無駄に育った二つの脂肪の塊だけみたいね。そんなだからくだらない男に目をつけられてこんな目に――ってライラ! あなた、今の間は何よ? その胸にぶら下げた塊、抉り取ってあげてもいいのよ?」

 何やらライラと呼ばれる通話相手は綾音の不興を買ってしまったようである。

 「まあいいわ。あの女、身なりもそれなりに整ってるし、どこぞの箱入り娘だったのかしらね。あんな路地裏まで連れてこられて、まだ状況を理解してないみたい」

 再び綾音は少女に視線を向ける。 

 「見てみなさいよ? あの無警戒っぷり。どうせ、売人の男に声をかけられて、ほいほいここまで着いてきたんでしょうね」

 綾音は心底見下したような、そんな呆れた声で告げた。

 流石にこの距離では声までは聞こえてこないが、売人の少女を見る瞳は情欲に満ちているようにみえた。そこにターゲットが現れたことで、何事か少女に告げて面倒くさげにそちらに向けて歩き出している。

 「あの売人もくだらない欲を出してちゃって。今回は偶然ターゲットに巻き込まれたことで、後腐れなく始末がつくけど。何事もなかったら自分一人で彼女を処理できたのかしら? それとも何も考えずに性欲のままに行動した結果、やり捨てるつもりだったの? だとしたら、簡単に足がつきそうなものだけど」

 綾音は疲れたように頭を振る。呆れたと言わんばかりの態度である。

 「理解に苦しむわ。どうして人間ってこうまで愚かなのかしら。ねぇライラ? あなた同じ人間としてどう思うの?」

 その時、綾音の視界に動きがあった。

 「――っとお喋りはこの辺までみたいね。ターゲットに変化があったわ。発現が近いわね。まあ、個人的にライラは人間の中では賢い子だとは思っているわよ?」

 そういって会話を打ち切ると綾音は視線の先に意識を集中させて、いつでも動けるように身体に力を漲らせる。

 視界の中ではターゲットが激しく痙攣を始めながら、売人の肩に掴むようにもたれ掛かっている。

 明らかに異常な状況に売人は顔に恐怖を浮かべて、必死に引き剥がそうと抵抗を試みてるようだが、上手くいかない様子。しかし、すぐ側の少女はというと未だ無表情なまま、視線だけはもつれ合う二人に向けられているだけで、逃げようという素振りすらみせない。

 ここに至り、綾音の心に僅かな違和感のようなものが芽生える。目の前であのような事態が突如起これば動揺ぐらいはしてもいいはずだが。

 「……あまりの展開に茫然自失している?」

 まあ今考えても詮無きことかと無理やり納得させ、綾音は行動を開始した。

 今度は先ほどみせたようなビルの間を飛び回るよな真似はせず、隣接する建物の屋根を跳躍を繰り返して飛び回る。激しく動いているその間も、綾音はターゲットたちの動向を視界に捉え続けている。

 綾音は肉眼で捉えられる距離まで接近したところで立ち止まり、スコープを外して背中のバックパックに仕舞う。ここまで来ると例え暗闇に包まれていようとも、綾音の人間より優れた五感は全てを把握できている。

 「そろそろ肉体の変異が始まるわね。ま、売人は死亡確定として、あの子が襲われるかは神のみぞ知るって感じかしら。せいぜい祈りなさい」

 そう呟く綾音にとって最優先事項は変異して廃獣と化したターゲットの確保である。売人はいくらでも代えの効く存在であり、必要経費として折り込み済みだ。

 そしてイレギュラーである少女に関しては無傷であれば、綾音が直接手をくだして薬物中毒で死んだように偽装してさようならだ。もし、廃獣に襲われてしまえば、死体の損壊状況からその存在が表に出ることになるので、密かに処分して表向きには行方不明者として扱われるだけ。

 どちらにしてもこの場に居合わせた時点で、彼女に待つのは死だけである。綾音にとっては事後の手間に多少の差異があるだけなので、間に合っても間に合わなくてもどちらでもいいのだ。

 移動を再開して距離を詰める綾音。

 「っ! これって!」

 その時、強烈な違和感が襲った。視線の先には三人の姿。常人にとってはまだ距離があるので、綾音のような存在でなければ、向こうがこちらに感づいているということはまず無いだろう。

 その証拠に誰もこちらに気づいている素振りはみせていない。

 綾音は先にも述べたように鋭敏な五感で情報を把握している。そしてそれに何か引っ掛かりを覚えるのだ。

 既に彼らの声も聞こえてくる距離に入った。

 まず、大声で怒鳴り散らす耳障りなだみ声が耳につくが、すぐにそれは悲痛な声に変わった。

 「お、おい! てめぇ、いい加減にしろよっ! いいから離れろって! 肩から手を離せよっ! いででで! 痛いっ! いだいいだいだいいいいい!」

 売人の肩に置かれた廃獣へと変異しつつあるターゲットの両手は、既に人間のものとは思えない鋭い爪が生え始めており、それががっちりと肩の肉に食い込んで出血していた。

 「な、なあ頼むよぉ~。お、おれ、俺が悪かったから。薬ならいくらでもやるからさ。う、うぎっ! き、ききキメラだ! ほら、これが欲しかったんだろ? だがら助けてぐださいいいぃ」

 必死に命乞いをする売人の叫びは、通じているのかいないのか。こちらからではターゲットの表情は確認できないが、

「ヒョー、ヒョー」

 と、どこか不気味で不安を掻き立てるような声を上げ続けている。

 綾音はこの独特の声がとある理由から、どうにも好きになれない。正確にはこの声自体ではなく、廃獣という存在がこの声を上げるということが、許せないのだ。

 そして売人はもう涙声混じりで懇願し始めているようだ。

 そんな様子を観察しながら、接近を続ける綾音であったが、先ほどの違和感の正体が掴めずにその足取りに迷いが生まれている。

 その瞬間――

 

 「は人間ではありません。一体何でしょう? あなたとお知り合いのようですので、よろしければご教授願えませんか?」

 

 それは硬質な、どこか無機質であると感じさせるような声音であった。

 しかし、それでいて不思議と何か無垢なもの、真っ白で純粋な好奇心のようなものを感じさせる問いかけにも感じられた。

 いずれにせよ、今この時は場にそぐわない、どこかちぐはぐな印象を受ける。

 「――そうか。匂いだ。あの女、匂いがしない。それに、耳を澄ますと鼓動さえも……まさか、あれって……」

 綾音は呆然と呟く。完全に移動を止めて、物陰に隠れて息を殺して様子を窺う。先ほどまでの楽観的な考えを改め、警戒を最高レベルに引き上げた。

 そうなのだ。綾音と感覚の度合いこそ差があるにしろ、人間という生き物は五感を通じて情報を得て、事象を把握するものである。中でも視覚から得られる情報量は80%を超えるとも言われている。

 だからこそ、普通は視覚を一番頼りにするのだ。しかし、世の中には視覚を欺く技術はいくらでもある。科学技術の分野では光学迷彩などが代表的であり、一部では既に実用化されているという話もある。

 また、自然界ではもっと昔から外敵から身を守るために擬態をして、敵の目を欺いたりする生物がいた。体色を変化させて周囲に溶けこませるカメレオンなどはその代表であろう。

 綾音自身がそのことをよく理解していたのにも関わらず、失念していたのだ。

 通常の人間では視覚に頼らざるを得ないが、綾音はその他の感覚も鋭敏である。同様の存在、例えば京弥と比べると綾音は嗅覚は劣るが、それでも嗅覚というのは人間として、五感の中でも特に鋭敏であり、本能的、原始的な感覚とされている。

 つまり、少女はそんな嗅覚に反応しない存在、そして改めて集中して雑音を意識的に排除して、耳をすませると心音さえ感じられないのだ。

 そしてそんな存在に綾音は一つ心当たりがあるのだ。

 ここまでを綾音は一瞬の間に思考して、事ここに至り接近しすぎた愚を悟って、苦々しい表情を浮かべながらも、最善手を考える。

 「ライラ? トラブ――」

 その時、状況に動きがあった。

 直前の少女の場違いな発言で生まれた刹那の空白。

 ターゲットが売人から、両手を離し、もがき苦しむように全身をその鋭利な爪で掻きむしる。周囲に飛び散る血液がまるで霧のように血煙を上げる。そして小削げ落ちた身体の下からは新たな肉体がその姿を覗かせていた。

 そしてついに完全に変異を終えて、廃獣へと生まれ変わった。

 それは異形な姿であった。人間よりも、一回りも二回りも大きく、全身は分厚い筋肉の塊に覆われており、体毛のようなものあちこちに確認できる。手足には鋭利な爪もあるようだ。

 そして腰の辺りからは成人男性の腕ほどはありそうな尻尾が伸びており、その先端は蛇の頭となっていた。さらに頭は巨大な口にびっしりと生え揃った巨大な牙があり、その見た目は特徴的な模様から辛うじて虎であると判断できるような有様である。

 全体像としては複数の生物を継ぎ足したかのような印象を受ける。しかし、それはどうしても歪さを感じさせるものだ。筋肉も無理やり成長したかのようにバランスが悪く、空気を入れて膨らませたようにみえた。

 すると、すぐ側の地面からうめき声が響く。

 「ひぃっ、あ、ああ、う……」

 売人は開放されにも関わらず、意味を成さない声をあげて、廃獣を見上げていた。

 そして廃獣が身動ぎしたかにみえた瞬間、ブチッという音が鳴り、あとには上半身を失った売人の死体が無残に地面に転がった。

 そのあと聞こえ始めたのは、柔らかいものと硬いものを一緒くたに噛み砕いているよな咀嚼音。

 綾音の耳元ではライラが必死に呼びかけているが、正直煩わしい。今は答えている余裕はないのだ。まだこの距離ならば気づかれることはないだろうが、相手はどんな知覚手段を有しているか不明だ。

 綾音は廃獣を半ば無視して、少女を観察する。一挙一動をも見逃すまいと全神経を集中させて。

 彼女はこの異常な状況下においても落ち着き払っており、自らが彫像であるかのようにその場を動かない。

 その時、彼女が背を向けて佇む廃獣に向けて、再び言葉を発する。

 「私をここまで連れてきた彼、名前はまだ聞いていませんでしたが、生命活動の停止が確認されました。残念ながら、あなたに関する情報源が失われたということです。私はあなたに興味があります。外見からすると人類ではないようですが、言語は通じますか? 現在この国における標準語である日本語で対話を試みていますが、その他の国々における主要な言語20カ国語以上に対応する準備がこちらにはあります」

 やはり、先ほどと同じように平坦な感情を感じさせない声で淡々と言葉を羅列する。はっきり言って喋ってることはトンチンカンだが、発言が本当であるならば知能は高いようだ。

 というか綾音の想像通りの存在ならば、それくらいは容易いことであろう。

 今になって言葉を発したわけは、もしかしたら廃獣と対話できるように口の中身を飲み込むのも待っていたのかもしれない。

 そんな益体もないことを考えていた綾音は、ふと未だに喚き散らしてる耳元の通信機の向こうの相手を問い詰めてやりたい思いに囚われたが、ここで少しでも相手に発見される可能性のある行動をとるわけにはいかないと自分を抑えこむ。

 すると廃獣に動きがあった。ゆっくりと振り返るとアスファルトをミシリ、と音がするほど踏みしめ、その巨体に似合わぬスピードで少女に詰め寄った。

 ドンッ!とまるでダンプカーが突っ込んだかのような、大音響が響き渡ると共に路地裏の壁に放射状のヒビが入る。

 その中心にいるのは廃獣と少女。廃獣は一足飛びで少女に接近してその頭を鷲掴みにして、そのまま凄まじい勢いで壁に叩きつけたのだ。

 正直、あの速度で突進されればその時点で普通の人間ならば、頭が胴体とおさらばしていたことだろう。しかし、少女の身体は五体満足のまま無事――といってよいのかは不明だが、壁にめり込むようにして埋もれていた。

 そこで、感じる違和感。野太い腕とその掌に遮られ、少女の姿は鮮明には観察できない。しかし、これだけの衝撃を受けながら、その周囲には血液らしきものが確認できない。

 まさか、全くの無傷で出血すらしていないとでもいうのだろうか。

 「敵対行動を確認。対象を敵対生物と認定します。これ以上の情報収集は不可能と判断します。これより自己防衛の観点から、危険を排除を実行します」

 少女の澄んだ声が響き渡る。彼女は有言実行とばかりに即座に行動を開始した。

 未だに廃獣の歪に膨れ上がった腕でその身を壁に固定されたまま、何の予備動作も無しに疾風の如き貫手を放ったのだ。

 まるで肉を鋭利な刃物が貫いたような音が、生々しく響く。完全に廃獣の胸部を貫通した少女の手中には、未だ弱々しくも脈動を続ける心臓が握られていた。

 にわかには信じられない光景だ。

 「ヒュオオオオオオオオオオオオオオオオォ!」

 一拍置いて、雄叫びのような悲痛な叫び声が辺りに轟いた。

 驚くことに廃獣は心臓を失っても生きていた。そして逞しい腕を少女目掛けて振り回す。

 肉を硬質なもので叩いたら、こんな音がするとではないかという重く、くぐもった音が何度も鳴り響く。

 「対象の生命活動の維持を観測しました。不思議です。何故なのでしょうか? これほどの体躯を誇る生物において、血液の循環は必須のはずです。そのため、心臓の機能停止は致命的と考えたのですが……」

 何度も激しく拳を叩きつけられながらも、平然としたままの少女。

 廃獣になると強靭な肉体と引き換えに、知能が著しく低下して、本能のままに行動するようになることが判明している。

 そしてこの廃獣は事ここに至り、本能的に少女に対して恐怖を感じて逃走を決意したようだ。殴打を止め、自身を縫い止めている少女のか細い腕を全力で引き抜こうとする。

 「外見は大きく変貌していますが、生体スキャンによると基本的な人体構造は人間と大差ないようです。肥大化してはいますが、心臓や動脈の位置関係から、その役割も同等であると推測します」

 さも当然のことであるかのように少女は告げると、するりと空いた片方の腕を廃獣の喉元に伸ばして掴む。

 「――ッッ!――――!!」

 廃獣はより一層もがくが、少女の腕は万力で締め付けているかのようにジワジワとその首を締めていき、いくら暴れようともビクともしない。

 「では生命維持そのものを司る脳を、物理的に切り離した場合はどうでしょうか?」

 少女は誰に問いかけるでもなくそう呟いた。

 そしてあっさりと廃獣の首を引きちぎってしまった。

 しばらくは痙攣を繰り返していた廃獣であったが、やがて完全に静止してしまう。

 「対象の生命維持活動の停止を確認しました。生体反応消失。驚異的な生命力ではあるようですが、頭部を分離するのが適切な対処法のようですね」

 こくり、と一つ頷いた少女は、廃獣の胸部を貫いたままの腕を引きぬいた。

 糸の切れた操り人形のように倒れこんだ廃獣を見下ろす少女の全身は、赤黒く返り血で染まっており、衣服も度重なる衝撃にあちこち穴が空いている状態だ。

 それでも彼女自身はどこか怪我をした様子もなく、淡々と行動し続け、今度はその手に握る心臓を無造作に投げ捨てる。

 最後に残った頭部を持っていた腕を顔の高さまで持ち上げて、しげしげと眺め始めた。

 「この特徴的な縞模様。外見だけ見れば、虎に酷似しているようです。……食肉目ネコ科ヒョウ属に分類される大型肉食獣――」

 少女はまるで資料でも読み上げるようにブツブツと独り言を呟いている。

 そんな彼女を物陰から一部始終を観察していた綾音だが、ターゲットであった廃獣の捕獲が不可能になった以上、この場に留まる意味は無いと判断した。

 (この辺が潮時かしらね……あの女の正体も予想通りで間違いないみたいだし。あとはライラに後始末を指示して、どういう事なのか白状させればいいか)

 綾音は最後まで油断せず、少女に対する警戒を解かずに細心の注意を払いつつ撤退を開始した。

 そしてその瞬間はついに訪れた。

 「――?」

 唐突に言葉を切って中空を見つめ始めた少女。

 綾音もその突然の行動に得体のしれない不安を感じて、思わずといった感じで同じ方向に目をやってしまう。

 そして綾音は全身の血の気が引く感覚を味わう。顔色は青ざめ、額には脂汗まで浮かんでいる。

 に気づいてしまったから。

 動揺しながらも繋がっている糸を確かめると間違いなく、すぐそこまで迫っていることが感じ取れる。

 「――――っ! どう……し、て…………?」

 声にならない声が綾音の唇から漏れる。

 仮に今この場に綾音をよく知る人物――例えばライラが彼女を見たら、驚愕していたことだろう。何せ今の綾音は一般人であるライラですら、赤子の手をひねるより簡単にナイフ一本で殺害できるほど無防備な様を曝け出しているのだから。

 それ程までに綾音を呆然自失にさせて、彼女の心を独占できる存在などこの世にはたった一つしかあり得ない。

 動転している綾音は一向に考えが纏まらず、様々な思いが浮かんでは消える。

 ――何故ここに向かっているのか?

 それは自らの意志なのか、――ちらりと赤く染まった凄惨な現場に目を向け、一番最悪な状況までしてしまう。

 ――この場で暴走してしまったら?……いや、もしくは既にもう…………。

 そして何よりもその存在を、この距離になるまで察知できず、あまつさえ、この瞬間まで思考の埒外においていたことが許せない。

 綾音は唇を血が出るほどに噛みしめる。

 突発的なトラブルなどは言い訳にはならない。何故なら、綾音は誓ったのだから。

 何があっても、どんな時でも、世界中全てを敵に回したって守ってみせると。

 その身を苛む悪意から遠ざけ、望むもの全てをその手中に納め、平穏な、何も心配せずに暮らしていける希望の楽園を実現すると。

 綾音は自身の内面と向き合い、その本質が揺るぎないことを再確認することで、一刻も早く冷静な自分を取り戻そうとしたが――

 無情にもタイムリミットが訪れてしまった。

 は一瞬、重力というくびきから解放されたかのように、空から舞い降りてきた。

 いや、実際には落下、それも墜落といって差し支えないような速度で降ってきたのだが、獣のが地を這うように手足を地面に付け、身体を沈み込ませて衝撃を殺し、見事な着地をしてみせたのである。

 周囲を観察するかのように、緩慢な動作でゆっくりと二本の足で立ち上がる姿は、獣ではなく紛れも無く人間。

 を見て綾音は喘ぐように告げた。


 「――――京弥ぁ」





 両手に袋を持って店をあとにする一人の買い物客。右肩にはレジ袋ではなく、所謂エコバックと呼ばれる持参したであろう肩掛けバッグを下げている。

 そこからはどこか買い物慣れした雰囲気が窺える。もう片方の腕には持ち手が付いた透明なポリ袋の中に小さな箱が入ったものを下げている。

 その箱には今しがた出てきた店の看板――洋菓子店のようだが、それと同じロゴが印刷されていた。

 その箱を顔の前まで持ち上げ、何かをやり遂げたような、満足感に満ちた表情を浮かべている客は京弥であった。

 「いやー、姉さんが大好きなロールケーキ、売れ残っててよかったぁ~」

 京弥は嬉しそうな声で独り言を呟きながら、既に日が落ちて暗くなった夜道を歩

む。

 といってもこの辺りは大通りに面しており、街灯やまだ営業中のお店の光で照らされているので、暗闇というわけでな全く無い。

 また脇道に逸れたとしても、大抵は多くの防犯灯が設置されている。流石に路地裏までは手が回っていないようだが。さらにその防犯灯は青色をしており、これは精神的に鎮静効果がということで導入が進められている。

 一説によると海外の犯罪多発地域で実際に導入したところ、実際に麻薬常習者の検挙率が下がったそうだ。だが、これには裏があり、単にその地域の麻薬常習者が腕の静脈を視認するのに不便になって仕方なく居場所を移っただけなのである。

 何ともお粗末な話ではあるが、今この街においては逆にそれこそが求められていることなのである。

 「ねぇ? 知ってる? 隣のクラスの男子が『キメラ』持ってて捕まったらしいよ?」

 「えー! マジで!? やだ、こわーい! あの薬ってよくわかんないけど、何だが凄くヤバいって聞いたよー」

 「そうそう! 何か噂だとすっっっごく気持ちいいらしくて~、一度キメるともうやめられないらしいんだあ~。しかも値段も手頃でちょー簡単に手に入っちゃうから、どんどん使いまくってあっという間に中毒になっちゃうって」

 「そうなんだ~。あたしが聞いたのは最近行方不明者が増えてて、そのほとんどがキメラの常習犯なんだって。だから、キメラを使い続けると謎の組織に実験材料として攫われちゃうんだって! キャーー!」

 「ちょっ、声デカイってばぁ。てか謎の組織てなによー。マジウケるんだけど」

 年頃は京弥と同じぐらいだろうか、派手な格好をした二人組の少女が道路を挟んだ向こう側で、会話をしながら路上に座り込んでいる。

 彼女たちの話は噂に尾ひれがついて誇張されている部分も一部あるようだが、概ね事実である。今この街ではキメラと呼ばれる麻薬が蔓延しており、深刻な問題となっている。

 二十年ほど前からここ日本では、犯罪件数が増加傾向にあった。その発端となっているのが、その頃から台頭し始めた麻薬や武器を密輸する犯罪組織の存在だ。

 政府もかなり予算を割いて対応にあたっているようだが、今日に至るまで根絶させることはできてないのが、現状である。

 その中でもこの街では数年ほど前から、犯罪件数が特に上昇しており、その裏にはこの街が麻薬と武器密売の温床になっているという事実があった。

 麻薬の流通量が急激に増え、また犯罪者が武装したことでその取り締まりも難航することになっしまった。

 そして街の治安は悪化の一途を辿ることになる。

 「それってさあ、あの例のミュータントの――」

 「君たち、こんなところで何をしているのかな? 歳はいくつ? ちょっと話をさせてもらうけどいい?」

 すると数人の警察官が先ほどの二人組の少女に声をかけている姿が目に入る。

 少女たちはバツが悪そうな顔をしながらも素直に従っているようだ。今では職務質問も特に珍しいことではないのが、この街の現状だ。

 治安の悪化に伴ってこの街では警察が増員され、あちこちで巡回中の姿が散見される。パトカーのサイレンもすっかり馴染みの音となって久しいほどに。

 そして何よりも目を引くのは、その警察官たちの装備だ。お馴染みの制服姿ではあるが、その上に分厚い防弾チョッキを着込み、無骨な小銃や、中には散弾銃を携えている者までいる。

 犯罪者の武装化によって、警察官たちが多数殉職する事態に陥り、また民間人にも被害が及び、人的被害が深刻な問題になっていた。

 そんな中で、ついに政府は警察に武装を強化させることを決断したのである。

 さらに近年、とある外国の企業で開発され、実用化されて注目されていたパワードスーツ――一般には単に『スーツ』と呼ばれる存在が導入されたことは印象深い。

 スーツは戦闘用の兵器ではなく、治安維持を目的としたあくまでも個人が装備する武器であると定義されている。

 京弥は思わず足を止めてなんとなく見入ってしまったが、余計な詮索をされて痛くもない腹を探られるのはごめんだとばかりに、足早にその場を後にした。

 自宅へと向かう道すがら、やたらと目に付くのはとある張り紙である。

 『スーツは過剰な武力である!』

 『国民の血税を返せ!』

 などと、導入に批判的な声明が掲載されている。

 「ま、気持ちはわからなくはないけどさ」

 京弥は独りごちる。

 実際のところ多額の資金を投じて導入されたスーツであるが、目立った成果を上げたという話はあまり聞かない。といってもこの場合の成果とは国民ウケが良い、大衆が納得しやすいという意味でのことだ。

 このスーツは文字通り、人間が着込んで装備し、運用する。

 見た目は中世のフルプレートアーマーをより、先鋭的に近代化させたイメージだ。全身を隈無く包み込み、目元は赤いバイザーのようなものに覆われている。

 生身が露出している部分は無く、その装甲は並の火器では貫けない。全身に張り巡らされた人工筋肉により、人間では考えられないような身体能力を発揮できる。

 そんなスーツであるが、その高額な運用コストから、全国で導入されているというわけではなく、日本での最初の実践投入はこの街で行われた。

 当時国内最大規模と目されていた、武器密売組織のアジトに強行突入する際に、ヘリから落下傘もつけずに降下して強襲をかけた。その数10人。当時この街を管轄する警察に導入されていたスーツの全てであった。

 対して犯罪組織は100人近い規模と予測されており、その全てが武装しているとの情報を得ていた。この圧倒的な差にも関わらず、この事件での死者はゼロのまま、犯罪組織の壊滅という結果で幕を閉じた。

 警察のスーツ部隊における損耗は弾薬などの消耗品を除けば全く無く、対して犯罪組織は全員殺害されることなく逮捕されていた。

 これはスーツに導入された高度な照準補正機能による正確な射撃により、次々と相手を無力化、犯罪者側の武装ではスーツに傷一つつけることが出来ないまま、抵抗する愚を悟ってあっさり投降して来たという事実があった。

 この事件はマスコミによって大々的に報道され、その驚くべき成果に当初は皆が熱狂していた。特にスーツ部隊が急降下していく映像が繰り返し流された結果、その全身黒ずくめで空から舞い降りる姿から『鴉』と日本では主に呼称されるようになった。

 この事件以後、国内では急速に武器の密輸、密売が低下していくことになる。

 最大勢力の組織が壊滅したことに加え、犯罪者の間では鴉に真っ向から挑むのはタブーという認識が一気に広まったからである。

 このため特に麻薬の密売は今までのように武装化し、抵抗するのではなく、より深く地下へと潜り、巧妙化してくことになる。

 そして凶悪な銃撃事件などが鳴りを潜める結果となったわけだが、不安定な経済状況、先行きの見えない不安など国民の不満は溜まっており、その矛先となったのが鴉だったのだ。

 例の事件での成果を理由に政府は莫大な予算を投じて、自衛隊や各地の警察に鴉の追加調達することを決めた。

 しかし、近年では鴉が出動するような凶悪事件は無く、主な問題となっているのは麻薬の蔓延である。

 そんな状況下で、ここにきて国民の怒りが爆発したのだ。各地で抗議デモや識者による講演会などが開かれるようになり、鴉は宝の持ち腐れとまで揶揄されるようになっていった。

 政府は鴉の有用性を訴え、自衛隊への導入は災害支援活動にも効果的であると声明を出して国民への理解を訴えているのが現状だ。

 もちろん冷静に考えれば、鴉の存在は犯罪者たちに対してその武力を示威することで抑止力になっているのだが、国民が求めているのはもっと分かりやすいアピールなのだ。

 そもそもこの街は例の事件の発端であり、以後目に見える形で銃撃事件などの脅威が減っているため、鴉に対する不満は他の都市に比べて少ない。

 にも関わらず、抗議運動がある背景には、この街の住民ではない者たちまで金で雇われて集会に参加しているとまで噂されている。

 「っと。そろそろ時間がヤバいな。この辺だと……さっきの公園が一番近いかな?」

 京弥は少し慌てたように早足で移動を開始する。

 そして自宅近くの先ほど綾音と別れた公園に辿り着いたところで、京弥の腕時計から無機質な電子音が鳴り響く。

 「よし。ちょうどいいタイミングだな」

 それは一日三回時間を知らせるようにセットされたアラームであった。余談だが、これはこの世に二つとない特注品である。

 値段がどうだとか、高級な素材だとかそういったことは京弥には理解できないし、興味もない。しかし、これが綾音からの自分へのプレゼントだということが大切なのだ。

 「でも、流石にアラーム音に自分の音声を登録するのはやり過ぎだよ姉さん――」

 京弥は少し遠い目をしつつ、何かを思い出しているようだ。その頬がほんのり赤いことから、何かしらその件で恥ずかしい経験をしたのであろう。

 「確か姉さんは知り合いの金持ちの社長に頼んで作らせたとか言ってたっけ? いや何か命令とか不穏な単語もあったような……」

 どこでそんな知り合いと仲良くなったのだろうかと首を傾げながらも、京弥はベンチに腰を下ろすと荷物を置きながら、洋菓子店の箱だけは大事そうに膝の上に抱える。そして、ベルトに吊り下げられたポシェットからケースを取り出す。

 蓋を開けると中にはオレンジ色の液体が詰まった、あまり見かけない形の注射器が複数本入っていた。

 これこそが、京弥が職務質問を避けたがった理由の一端である。

 建前上はインスリン注射ということになっているが、麻薬の所持を疑われ、もしその成分を分析されでもしたら、厄介なことになるだろう。

 これは京弥たちが抑制剤と呼ぶ、一般には出回っていないだろう未知の成分であるはずだから。

  今この街はここ一年でキメラと呼ばれる新しい麻薬が出回り始め、問題視されている。

 概ね先ほどの少女たちが話していた通りで、その強い依存性と入手の容易さから若者の間でも蔓延しているのだ。

 まあ実験材料がどうだとかその辺はよくある都市伝説のたぐいである。京弥自身も何度か友人から耳にしたことがあるほどだ。

 「にしてもミュータントね……」

 京弥はテキパキと慣れた手つきで消毒をして準備を進めながら、呟く。

 この街にはガーディアンズと呼ばれる世界的に有名なガリバー企業の日本法人――ガーディアンズ・ジャパンが設立した研究所がある。

 そこでは主に最新のバイオテクノロジーを用いた研究や、介護や工業用のロボットの開発がされているという話だ。

 あの鴉というスーツは外国にある本社が開発し、その他様々な兵器も販売しているらしく、どちらかというと兵器開発メーカーとしてその名を轟かせているらしい。

 実際に日本でも警察の武装化の際は当初国内で調達予定であった武器をガーディアンズから購入している。しかし、この件にはガーディアンズ側からのスーツ導入にあたり、武器の購入を迫ったとも言われていて、政府はその弱腰な姿勢を批判されていたこともあった。

 そんな企業が日本に設立したガーディアンズ日本研究所であるが、設立当時からやれ地下に巨大施設があって、核兵器開発をしているだとかそういった類の、いろいろと面白おかしく脚色された噂があったものだ。

 それが三年前に研究所で起きた爆発事故を契機に拍車がかかり、ちょうどその頃からミュータントと呼ばれる存在がこの街で目撃され、話題になったこともおかしな噂が出回る一因となった。

 あの爆発は密かに研究していた生物兵器が暴走して起こったもので、この街でまことしやかに囁かれるミュータントはその際に脱走した生き残りだとか。

 また、キメラという麻薬は伝説上の複数の生物の特徴を持った化物が名前の由来で、複数の麻薬を調合して作られているとみられている。

 そんなキメラであるが、まるで血液を乾燥させたような真っ赤な粉末であるらしく、そこからキメラはミュータントの血液由来の成分であるという話まである。

 キメラを常用しているといつしか同じミュータントへと変化してしまい、研究所に攫われて実験材料にされるというのだ。

 荒唐無稽であり、筋の通らない部分もあるが、もとより噂とはそういうものだろう。

 そして思い出すのはいつだったか綾音が話していたこと。

 ――いい、京弥? 誰かを騙すには嘘にほんの少しの真実を混ぜてあげるだけでいいの。

 この噂が意図されたものなのかどうか、京弥は判断できない。

 しかし、少なくともこの噂には真実が含まれていることを京弥は知っている。

 「まあ、考えても仕方ないか」

 京弥は準備を終えて、注射器を首筋へと宛がうと一度大きく深呼吸する。

 そして覚悟を決めたように指を押し込んだ。

 圧縮された空気が押し出されるような音がして、中の液体が一瞬で空になる。

 「っ、――?」

 僅かな違和感を感じる京弥。

 いつもなら抑制剤を打ったあとは全身に纏わり付くような、倦怠感を味わうことになるはずだが、それが襲ってこない。

 さらに抑制剤を投与する直前は感覚が鋭敏になっていて、特に聴覚や嗅覚は意識的に制御しないと、先ほどの少女たちの会話のように際限なく感じ取ってしまい、煩わしくなる。

 通常、抑制剤で五感も鈍くなるはずなのだが――――。


 それは不幸にも二つの偶然が重なってしまったことに起因する。

 ――京弥には度重なる抑制剤の投与によって、体内に抗体が出来上がっており、徐々に免疫力がついて効果が薄くなっていたこと。

 ――このタイミングで場所で事件が起こり、京弥がそれに惹かれて興味を示してしまったこと。


 「あ――血の匂い…………?」

 そして京弥の鋭敏さを増していく五感のうち、嗅覚が反応する。

 まるで糸で吊り上げられた人形のような唐突さで、無言のままで立ち上がる京弥。

 ドサリと膝の上の箱が地面に落ちて、中身がこぼれ落ちてしまう。

 あれほど喜んで大事に抱えていたというのに、京弥は気にする素振りもなく、とある方向に視線を向けている。

 この場に他に人がいれば、暗闇の中に光る二つの赤い双眸を見て、異常を感じたことだろう。

 すると京弥は唐突に一心に見つめていた先に駈け出して跳躍、重力を感じさせない飛距離をみせて、そのまま近くの建物へと飛び移った。

 次々と建物へ飛び移りながら、高速で駆け抜ける人影。しかし、それに気づくものは誰一人いなかった。





 今、夜空を駆ける京弥の思考はたった一つのことに支配されていた。

 この先の目的地から香る芳しい血の匂い。それが彼を惹きつけるのだ。

 それは原始的な本能。生きとし生けるものとして、当然の欲求。

 人間の三大欲求の一つ、食欲だ。有り体に言って彼は現在、空腹なのである。

 尤も今の京弥を人と定義していいのかは不明である。獣のような四足歩行で、凄まじいまでの速度で建物を飛び移る姿は、どうみても人間離れしている。

 京弥を突き動かすその強烈なまでの感情は、もはや飢餓感ともいえる。

 そして、そんな京弥が求めているのは、彼の渇きを癒せる食料たるものは――


 だけなのだ。


 ついに京弥が狩場と定めた、目的地である路地裏に辿り着く。一際大きく四肢に力を込め、たわませ、遥か高くまで飛び上がる。

 その場に着地した京弥はまず、その這うような姿勢のまま、辺りを見回す。

 最初に地面に広がる血だまりや、肉片に歓喜の表情を浮かべる。そして横たわる人の下半身と異形な生物に目をやると舌舐めずりをする。

 その京弥にとっては魅力的な光景から、強い誘惑を振り切ってゆっくりと立ち上がると、雲の切れ間から顔を覗かせた月が辺りを照らし出す。

 

 そこには月光を浴び、まるでスポットライトに照らしだされた舞台の主演女優のように、美しい少女が佇んでいた。その姿は血と肉に塗れ酷い有様で、片腕には不気味な頭部を抱えているが、それさえも京弥にとっては少女を着飾り、引き立てる存在にみえる。


 今の京弥は原始的な本能の赴くままに行動をしていたので、視界に入れるまでその存在に気が付かなかったようであった。その証拠に驚愕したように硬直している。

 そして認識した今、少女に向けた視線が、絡めとられたかのように動かすことができない。

 その美しい少女を褒め称える言葉はいくらでも並べ立てることができるだろう。しかし、そんなものには何の意味も無い。

 今の京弥を支配する感情はたった一つであった。

 先ほどまでの制御出来ない、飢餓感への渇望は始めから存在しなかったかのように下火になっている。

 本能が剥き出しだからこそ、より正直に、強く、激しく、狂おしく感じるのだ。この想いを。

 ――ああ、今、俺は、恋をした。一生に一度の初恋だ。


 「……あなたは人間なのでしょうか?」


 少女が言葉を発する。京弥がこちらに話しかけているのだと理解するまでに、多少の時間を要して間が空いてしまう。

 慌てて返答をしようと口を開きかけたその時――

 「京弥っっ!」

 聞き慣れた、けれど今はどこか焦燥、怒り、困惑、後悔、様々な感情を内包した、そしてこれは――怯え?そんな彼女に相応しくない声音が響き渡る。

 どこから現れたのか、綾音が京弥の真後ろに降り立ち、その手に握るオレンジ色の液体に満たされた注射器を彼の首筋に押し付けた。

 「うっ……」

 軽く呻くような声を上げた京弥に綾音は目もくれず、すかさず彼のポシェットからケースを奪うと、蓋を開けるのすらもどかしい、とばかりに中身を乱暴に取り出してケースを投げ捨てる。

 そして素早く続けざまに、全ての抑制剤を有無を言わさず京弥に打ち込んでいく。

 「っっ!」

 京弥の口から声にならない音が漏れ聞こえ、その場に力尽きたように崩れ落ちた。

 彼を宝物のように、もう二度と離さない言うようにキツく抱きしめた綾音は、片手で抱え直すと星に手を伸ばすように腕を掲げた。

 「また一人増えたようですが、あなたもどうやら……理解できません。先ほどの異形の生物とは明確に違うようですが、それでもあなた方は生体スキャンによると人間と定義できません。何故でしょうか?」

 綾音はその言葉を無視すると、何かを握りしめるかのようにその手で虚空を掴むと、膝を曲げるなどの動作も無しにいきなり、引っ張り上げられた様子で路地裏から飛び出していった。



 それを止めるでも追うこともせず、少女は動くものの無くなった路地裏で一人で物思いに耽る。

 やがてどれくらいの時が経ったのだろうか。

 不意に少女の視線が虚空を彷徨い、ある一点で固定される。そして何かと会話するかのように何度か頷いた。

 そのタイミングで滑るように路地裏の入り口を塞ぐかのように複数の黒ずくめのバンが停車した。そこから次々と吐き出されてくる人影は少女がいる奥へと歩を進めてくる。

 その整然とした動きは軍隊か何かのようで、実際彼らの格好も小銃を手にしていたりと兵士の姿を連想させる。

 周囲の凄惨な光景にはまるで見慣れているかのように、一瞬目を向けただけだった。そして少女の目の前に辿り着いた時、リーダー格らしき人物が一歩前へと進み出る。

 「あなたが森崎美月様で間違いないですね?」

 ここで何があったのかそれを知っていたかのように、少女を警戒しながらも、どこか畏怖するような声音で問いかけてくる。

 「はい。それが今回の任務を任されるに当たって、正式に与えられた個体識別名称で間違いありません。」

 どこか周りくどいような言い回しで少女――美月が告げる。

 「了解しました。既に社長、ライラ様より伝わっているかと思いますが、以後あなたの身柄は任務の完了までの間は、ガーディアンズ本社からガーディアンズ・ジャパンに移されます。それに伴ってガーディアンズ日本研究所の管轄になりますので、ご了承ください」

 「肯定しました。復唱します。私、森崎美月は以後はガーディアンズ・ジャパン所属の研究所を拠点として任務を遂行します。」

 「それではこの場の処理は私たちで済ませますので、あちらの車内でお待ち下さい。そのまま研究所までお送りします」

 美月はありがとうございます、と告げて丁寧な完璧な角度のお辞儀をすると車へと向かっていった。



 それを黙って見送ったリーダーは部下に次々と指示を飛ばす。それを受けた者たちが慌ただしく、動き出した。

 ある者は引き続き周囲の警戒を続け、車に向かった者は全身防護服に身を纏った集団を連れて死体の回収など現場の処理を始めた。

 それらを尻目にリーダーは唯一隣に残った人物に話しかける。

 「それにしてもこの目で見ても未だに信じられんな。いや、むしろ目の当たりしたからこそなのかもしれんな」

 「隊長、それは俺も同じ気持ちですよ。あんな子供が俺たちが数百時間装備して習熟した鴉よりも、遥かに強いっていうんですからね……まあ社長を疑うつもりはこれっぽっちも無いんですが」

 「それは当たり前だとも副隊長。社長のやることに間違いはない。あの方は聡明でいらっしゃる上に、常に我々部下たちを思い遣ってくださっている。ただ、ソフトはともかくとして、ハードは海外――米ガーディアンズの研究施設で製造されたそうじゃないか。職業柄、未知の部分が多いとどうしても疑り深くなってしまうものだ」

 重い溜息をつく隊長と呼ばれた男。それに対して隣に立つ男――副隊長は同意するように告げる。

 「もともと鴉の開発もこっちの手柄だってのに、ネチネチといつまでも三年前の例の事件を盾に取って、成果を掠め取っていきやがって。社長が上手く立ちまわったからこそ、何とか結果を残せたけど、米ガーディアンズの野郎共やっぱ許せないね。だいたい、あの美月って子だってもともとは――」

 ヒートアップしたかのように徐々に口調が荒くなる副隊長。

 「そこまでだ。あまりそうやって公然と批判するようなことは控えろといっただろう。どこから情報が漏れるか分からんのだ。社長の不利益に繋がるような行動はよせ。それにあの事件の件はタブーだろ? 社長が一番忌避してるんだからな」

 隊長は相手の言葉を途中で遮り、その発言を軽く咎めた。

 「申し訳ありませんでした!」

 副隊長は反省したのか少し大げさすぎる態度で頭を下げる。根は真面目で実直な正確なのだろう。ライラという社長への深い忠誠心も窺える。

 「まあいい。今度俺の家で二人きりでなら、いくらでも愚痴はきいてやるさ。それにな? 本社だってその強さは未知数にしても、あれだけ精巧に美しい少女を生み出す技術力は認めたっていいだろう?」

 「げっ!? 隊長ってロリコンだったんすか? 確かに美少女でしたけど、俺や隊長の歳から考えたら少し、いやかなり幼すぎやしません? あの……今度の休日のBBQの件、隊長はうちの娘には近付かないでもらっていいいですかね?」

 「馬鹿野郎が!お、俺はただ純粋に美しいものは美しいと感じてそれを口にしただけであってだなあ!」

 「分かってますから。ただの冗談なんですから、動揺してどもらないでくださいよー。ほんとに心配になってきますから」

 それはどこかからかうような、親しげで上下関係という壁を感じさせない口調であった。

 「おい!まだ言うかこいつめ。だいたいお前だって事前に資料には目を通しただろが。あの美月とか言う少女はボディの設計段階では二十代を想定して――っと」

 何か続けようとしたところで、他の部下が作業の終了と撤収準備の完了を報告を上げてくる。

 「ご苦労。最終確認を済ませたら、すぐに向かう。別名あるまで車で待機していろ」

 隊長と副隊長は了解の意を告げて去っていく部下を見送る。

 「さてと。お喋りの時間はここまでだな。仕事に戻るぞ、副隊長」

 「了解しました」

 すると先ほどまでの弛緩した空気は霧散し、そこには主に絶対の忠誠を誓う騎士の雰囲気を纏った二人がいた。

 確認を終え、最後に車に乗り込む隊長はふと先に美月を乗せて去っていった車の方を見つめながら、独りごちた。


 「本当に信じられんな。彼女が人間ではなく、ロボット――アンドロイドだというのだから」


 

 

 

 

 




 

 

 

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初恋を成就させるためのありとあらゆる方法 夢月九日 @mutsukikokonoka

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