第一話

日常

 春のうららかな日差しが降り注ぐ、とある休日の午後。活気に満ちた街中で、一組の男女が何やら揉めている雰囲気を周囲に放っていた。

 「空腹が満たされて少しは落ち着くかと思ったけど……まだ怒りが収まらないわ。商売をしているという自覚があるのか甚だ疑問ね」

 「まあまあ、いい加減機嫌を直してよ、姉さ――綾姉あやねえぇ。お店の人も次に来店した時は代金は要らないって言ってくれたんでしょ?」

 憤懣やるかたない様子で足取りも早く、ズンズンと突き進む少女とそれを宥めつつ、露骨に彼女が好む呼び方に言い直してまでご機嫌を取る少年という構図。

 足早に、といっても少女は小柄なため、差ほど距離は開いていない――歩を進めていた彼女だが、振り返り、追い縋りながら声をかけてくる少年をみて歩みを止める。

 「良いこと、京弥きょうや? よく覚えておいて。一度失った信用を取り戻すのは容易ではないの。そして私の信条は一度裏切った者は二度と信用しないってことよ」

 「そうは言ってもさぁ、綾姉ぇだって一度や二度のミスくらい……あれ?そういえば失敗してる光景が思いつかないぞ」

 「あら?そう言ってくれるのは嬉しいけど、私だって失敗くらいするわよ。ただ、それをあなたの前で見せないだけでね。あと、綾姉ぇも得点高いけれどこの場合はデートということを考慮して、綾音あやねって名前で呼ぶと効果的よ」

 一見するとデート中にトラブルが起こり、少年――京弥きょうやが、必死に彼女のご機嫌を取るというなんとも情けない状況にみえる。

 しかし、少女――綾音あやねの外見を考慮すれば世の男たちからすれば、至極当然の行動だと思うだろう。

 有り体に言って綾音は美しい。体型は小柄で肉付きこそよくないものの、それを補って有り余るほどの可憐な美少女である。そして整った目鼻立ちもさることながら、何よりもまず目を引くのはその長く美しい髪と、その輝きであろう。

 それは神秘的な、決して自然界ではあり得ない青みがかった淡い水色の髪。

 だからといって染色したようには到底見えない。そのような人工的な不自然さを感じさせない、意図せず生まれた奇跡のような存在感を放っている。

 「今までずっと一緒暮らしてきた弟に一度も失敗を見せていないってそれ、どっちにしても凄い事だよね?」

 京弥はどこか呆れ混じりの視線を綾音へと向けた。 

 「それと流石に呼び捨ては勘弁してください。知り合いに会ったら変に思われちゃうよ」

 そう言う京弥の方は、細く引き締まりつつもがっしりとした体型にピンと伸びた背筋が印象的である。180センチ近くはあるであろう身長も相まって威圧感を感じそうなものだが、その顔に張り付いた良く言えば柔和な、悪く言えばへらへらとした笑顔がそんな雰囲気を相殺している。総じてブサイクではないが、綾音と吊り合うような美男子とは言えない平凡な少年であろう。

 ならばこそ、こんな美少女と付き合っているなら、プライドなどかなぐり捨ててでも関係を繋ぎ止めようとするのは男として致し方ないことだと誰もが思うはず。

 しかし、悲しいかな、世の中とは無情である。先の二人の会話が物語る通り、二人の関係は姉弟であることが窺える。そう考えると今度は逆に、あまりにも似ていない姉弟だという印象を受けることになる。まず第一に京弥の髪は黒色であり、綾音と比べると、どうみても同じ遺伝子を共有しているとは思えないのだ。

 「まあ、いいわ。ほら、もう気持ちを切り替えたから、一緒にデートを楽しみましょ?」

 そう言って差し出す綾音の華奢な手を取りながら、京弥も横に並んで歩き出す。二人は結構な慎重差があるのだが、もう何年も一緒に過ごしてきた京弥にとって綾音に歩幅を合わすことは、ごく自然な当たり前の行動である。

 あっさりと機嫌を直して先導していく綾音を横目に見ながら、京弥は心に穏やかなものが広がるのを感じて笑顔を浮かべる。

 京弥は綾音が始めからそこまで不機嫌ではなかったことを察していた。彼女はあまり感情を表に出したりしない京弥に代わり、怒りを顕にして文句を言っていたに過ぎないのだ。

 いつだって綾音は京弥のことを一番に考えてくれている。それが京弥は嬉しくもあり、少し気恥ずかしくもある。そして大きな感謝の気持ちとほんの少しの……不安。

 そんな浮かんだくらい気持ちを振り払うかのように京弥は首を振り、そもそもこうなった原因の出来事を思い出す。




 今日は朝から二人で街に繰り出して午前中は映画を観て、メインの目的であるお洒落なレストランでランチをとってウィンドウショッピングを楽しみ、夕飯の買い物をして帰宅するというプランであった。

 綾音は一週間も前からデートだと意気込んでいたが、京弥は何も特別なことなど無い、単なる仲の良い姉弟のお出かけだと思いつつも、その気持に水を指す必要もないだろうと気にしてはいなかった。

 本人たちというか、少なくとも京弥には自覚は無いが、二人は立派なシスコン、ブラコンである。

 「ごめんなさい、少し遅れてしまったかしら?」

 「いや、そんなことは無いよ。俺も今来たばかりだからさ」

 と白々しいやり取りを待ち合わせ場所の映画館で交わす、京弥と綾音。綾音はノリノリであったようだが。

 一緒に暮らしているにも関わらず、わざわざ別々に家を出てあとで合流するという手順を踏んでいたのだ。綾音曰く、それが「デートである」とのことで、京弥も特に文句は言わない。綾音のことは深く信頼しているので、それが事実なのだろうと考えたのと、そもそも今回の件は彼女の好意から始まっているからだ。

 「上映開始までもうすぐだから、そろそろ入場しましょうか。ほら、チケット出して。私が預かっておくから」

 頷き、チケットを手渡しながら綾音に続いて中に入りつつ、京弥は何気なく告げる。

 「そう言えばさ、姉さん。その服、新しいやつだよね? 凄く似合ってるよ」

 「ふふっ。ありがとう! 京弥にそう言ってもらえると頑張って選んだ甲斐があったわね」

 心の底から嬉しげな声を上げながら、満面の笑みを浮かべた綾音に京弥も内心でドキッとしながらも、こんな簡単な言葉で喜んでくれるのならば、もう少し言葉を選べばよかったと思わず、バツが悪い表情を浮かべてしまう。

 そんな二人のやり取り、というか綾音の容姿にただでさえ注目を集めていたところに、この笑顔である。周囲の視線を感じ、気恥ずかしくなっていると、

 「ごめんなさい、京弥。少しお手洗いに行ってくるから待ってて頂戴」

 そう言う綾音に軽く頷き返すと彼女は遠ざかっていった。すると、周囲の視線も和らいだ。

 「もしかして気を使ってもらったのかな……こんなんじゃ駄目だ。せめて俺から誘ったこの映画ぐらいはリードしないと」

 一人決意を新たにする京弥であったが、今日の一日と言い切れないところに彼の限界を感じ取れる一幕であった。


 

 「それにしても京弥の方から映画に誘ってくれるなんて本当に嬉しかったわ」

 合流した綾音は言葉通りに終始ご機嫌で上品な笑顔を浮かべながら、会話を続ける。

 「そんなに喜んでくれてるなら、俺も嬉しいよ。でも、元々はもともとは姉さんがレストランを予約して食事に誘ってくれたんじゃないか」

 「そんなこと気にしなくてもいいのよ。私だってあそこのオムライス、食べてみたいと思ったもの」

 綾音はそうは言うが、映画を鑑賞したあとでランチをとる予定のレストランはもう二週間以上も前にテレビで特集されていた今話題のお店だ。ちょっとした高級店でもあり、学生の身分である京弥たちには背伸びした感がある。

 そんな番組を二人で眺めていた時にふと、京弥があのオムライスを食べてみたいなぁ、と何気なく呟いたのだ。単なる独り言であったのだが、綾音はそんな些細なことをしっかり覚えており、予約の手配をしていたという経緯があった。

 実のところ、このようなことは日常茶飯事だった。だからこそ、京弥は敬愛する姉のために何かをしてあげたいと行動に移したである。

 綾音は京弥にはとことん甘く、気を利かせてくれる。それがどんなに些細な事でも、時には京弥が直接口にしていない意志までも汲みとって実行に移すほど……。

 そんな綾音に対して最近では少し自立しなければ、と思わなくもない京弥であったが、まずは日頃の感謝の気持ちを込めて、綾音がやたらと話題に出していたとある映画に誘うことにしたのだ。結果はこの通り、想像以上に喜んでくれて大成功である。

 今思うと確かに京弥から綾音を誘って出かけることなど数えるほどしか無かったかもしれない。だいたいは綾音に連れだされるか、京弥自身の用事で出かける際に当然のように綾音も付いて来ていただけだ。

 「それよりまずは映画よ、映画。この『家庭の中で愛を叫ぶ』はとある姉弟の禁断の愛を描いた物語だそうよ。とても興味深い話よね。京弥もそう思うでしょ? 思うわよね?」

 ただでさえ寄り添うような距離なのに更に間を詰めるようにして問いかけてくる綾音。身長差があるので京弥からすると、見上げるような上目遣いになるのだが、これがまたあざとい。まるで計算しつくされたかのような角度で見上げてくる綾音は、誰が見ても魅力的に見えるだろう。それは京弥とて例外ではない。

 「いや、まあ、現実として考えると少しどうかなぁ、と思うけどさ。フィクションとしてどういう結末を迎えるのかは凄く興味あるよね、うん」

 動揺した声音でなんとか答えるが、密着する身体からはなんともいえない柔らかさが伝わってくる上に、良い香りまでしてくる始末。

 京弥はこの状況を脱するために入場口に向かう足を無意識に早めてしまう。

 一つ屋根の下での生活であり、シャンプーなどは同じものを使用しているはずなのに、どうしてこんなにも女の子体臭というのは特別なのだろうか。

 「そうね。こういった所謂、禁断の愛というテーマは度々創作の中で扱われてきてたわ。現実の世界でこの尊い愛を貫こうとするには、くだらない障害が多すぎるの。だからこそ、物語に自己を投影することによって想いを昇華させる人が後を絶たないのよ。現実に折り合いをつけて生きていくには必要なものだと私は思うわね」

 そう一息に語った綾音はそっと身体を離した。といっても寄り添うような距離は変わらずだが、これはまあいつもの距離感である。

 「なるほどね。俺はあんまり意識したことないけど、一般論としてそういった考え方があるってことかぁ」

 どこかホッとした気持ちで京弥はチケットを渡して綾音と共に劇場内へと入場する。

 「まあどっちにしろ私たちには関係のないことよね。だって本当の姉弟ではないのだから。実際問題として私たちが仮に、あくまで仮によ? 京弥にプ、プロポーズされて結婚することになっても何も問題はないの」

 さらっと何でもないことであるかのように告げているが、その透き通った肌に赤みが指しているのは気のせいではないだろう。

 内容に関しては事実であるので反論の余地はない。

 だが、この件に関して京弥は自信を持って応えることができる。

 「確かに血の繋がりは無いけれど、それでも綾姉ぇは俺のたった一人の家族で、大切な姉さんだよ」

 そう即答すると、綾音は今までのどこか楽しむような笑顔ではなく、心の奥底から湧き上がったような自然な優しい慈愛に満ちた笑顔を浮かべて、繋いだ手にそっと力を込めて握り返してきた。

 「私も同じ気持ちよ。京弥は掛け替えのない家族で、大切な弟よ」

 京弥にとって家族とは特別な存在である。孤児として育った彼には既に家族と呼べる存在は綾音だけ。その絆は血よりも濃いと断言できるほどだ。

 正直なところ、綾音がどう思っているかは口にしていること以上には分からない。もちろん、日頃の行動から大切にされている実感はあるし、言動の端々からもその想いは感じ取れる。

 しかし、やはり言葉にしなければ理解できないことや、ましてやその言葉が本気なのか冗談なのか、神ならぬ身では知りえぬことはいくらでもあるのだ。

 そしてだからこそ、今日だけでも幾度となく綾音が匂わせる、男女の仲を求めるかのような振る舞いに困惑してしまう。

 綾音の真意は理解できないが、彼女は決して後戻りできないような決定的なラインは超えてはこない。それが益々、京弥を悩ませることになる。

 (いや、そもそもこうして相手の出方を伺ってずっと受け身なこと自体どうなんだ? 俺自身は姉さんを一人の女性として意識しているのか?)

 そんな自問自答を繰り返しているといつの間にか指定された席に着いていたようだ。

 不思議そうに綾音がこちらを見上げている。

 「座らないの? それとも今更恥ずかしがってるのかしら? 本当に可愛いんだから、もう」

 クスクスとからかうように綾音は言った。京弥は一瞬何のことかと考え、目の前の席を見て理解したようだ。

 「ちょっ、これってカップルシートてやつじゃあ……」

 それは二人分の座席が一つになった恋人向けのサービス。カップルシートと呼ばれているものであった。これに男女で座るのは、流石に周囲にアピールし過ぎなのでは、と辺りをつい見回してしまう京弥である。

 「何かの間違いじゃないの? 姉さん、番号ちょっと見せてよ。俺ちゃんと普通の座席で予約したはずだけど」

 綾音がそんな初歩的なミスを犯すはず無いとは思いつつも、一応確認するため問いかける。

 「いいけど、別に間違ってなんかいないわよ。何しろ。ついさっき係員がここに変更してくれたんだもの」

 そう言ってチケットの番号を見せつつ、ふふん、と薄い胸を反らしながら、してやったりという顔を浮かべる綾音。

 確かに確認すると間違いなくここがチケットに記された座席であった。

 「それにしてもいつの間にこんなことしたの?」

 心底嬉しそうな綾音の顔に文句も言えず、映画館ならそもそも視線を集めることもないだろうと腹をくくって席に着きながら問いかける。

 「お手洗いに行った時にちょっとね。係員に購入したチケットを渡してカップルシート空いてますか? って確認したら特別に交換してくれたのよ。入り口でのやり取りを見てたらしくて、初々しいですねー。何て言われちゃった」

 そういたずらっぽく告げる綾音を見ていると、待ち合わせ場所で話の流れでさり気なくチケットを預かると言い出したところから、全ては綾音の計画通りだったのではないかと勘ぐってしまいそうになる手際であった。





 時刻はちょうどお昼時。とあるビルの展望レストランの入り口に京弥と綾音は佇んでいた。

 するとすぐに、店の奥から店員がこちらにやってきた。

「いらっしゃいませ。ようこそ、リュミエールへ。二名様でよろしいですか?」

 女性店員が完璧な笑顔でにこやかに問いかけてくる。一瞬、恐らく綾音を見て息を呑んだようだが、そこはやはりプロ意識なのだろう。すぐに切り替えて対応を始めた。

 「あの、一時半から二名で予約しているすめらぎなんですけど」

 「はい、皇様ですね。お待ちしておりました。お席へご案内しますので、こちらへどうぞ」

 席に着くと案内してくれた店員が、そのまま説明を始める。

 「本日は当店をご予約、ご利用いただきまして、誠にありがとうございます。ご注文の方ですが、ご予約時にホエールオムライスを承っております。お間違いないでしょうか? また変更をご希望であれば、こちらのメニューからお選びいただけます。その場合はまたお決まりなった頃に再度お伺いします」

 「あっ、いえ、オムライスのままで大丈夫です。ただ、その……」

 「電話で伝えてあるはずだけど、肉類は使用しないで調理するようにね。あと、一つは大盛りで」

 京弥が言いづらそうに言葉を濁していると、遮るように綾音がどこか興味なさげな態度で店員に注文をつける。店員の方は入店してから一言も発言していなかった綾音の、その鈴を転がすような声にまたしても気を取られたようだった。

 「は、はい。確かにそう承っております。当店ではオムライスに鶏肉を使用しているので、そちらを除かせていただきます。また、誠に申し訳ありませんが、お値段の方は据え置きになりますので、ご了承ください」

 「それでいいから。もう下がって」

 綾音は硬質な声で答える。

 「かしこまりました。それでは最後にご注文の方だけ繰り返させていただきます。ホエールオムライスをお二つ。こちらお一つは大盛りで、お二つ共、鶏肉を使用しないで調理致します。こちらでお間違いないでしょうか?」

 「はい。それで大丈夫です」

 今度は完璧な営業スマイルで返す店員に、既に無視を決め込んでいる綾音の代わりに、京弥は慌ててそれに答える。

 「それでは失礼します」

 一礼して去っていく店員を眺めながら、京弥はほっと一息をついたようだ。はっきり言って綾音の態度は最悪だろう。客という立場を鑑みても、やり過ぎであるといえる。

 しかし、実のところは綾音の京弥以外の他人に対する態度は多少の違いはあれ、だいたいこのような雑な対応なのだ。例えばクラスメイトなど毎日必然的に顔を会わすような立場の相手であれば、打算的ではあるが、綾音もそれなりに愛想も振りまくことはするだろう。

 それがわかってる京弥も今更その態度にどうこう言うつもりはないのだ。ただ、今の場合は先ほどの映画の影響があるのかどうか、京弥でも判断がつかないところだ。

 「ほら、元気だしてよ姉さん。あれはあれで良い結末だったと俺は思うよ? 一つの家族愛の形を表現してたじゃん」

 綾音は態度は不機嫌というよりかはショックを受けて、落ち込んでいる様子である。

 「……私が監督ならあんな結末は絶対に許さない。どうして音無おとなしが身を引かないといけないのか、理解に苦しむ展開だったわ。あんな星奈せなとかいうぽっと出の女を選ぶなんて、涼介りょうすけもどうかしてると思わない? 音無は姉として涼介を男性として意識しながらも、自分の気持ちを押し殺してずっと支えてきたのよ? そして物語中盤でその事実を知ってどうして星奈せなを選ぶという選択ができるのよ? 胸なの? 所詮男は乳の大きさでしか女を見れないの? どうなのよ! 京弥!?」

 さっきまで意気消沈していたのに語り始めたら火が着いたのか、一気に捲し立てる綾音は一端コップに注がれた水を飲み干し、一息つく。

 「で?」

どこか据わった目つきでこちらを睨み、回答を促す綾音。端正な顔立ちも相まって威圧感が凄い。

 「い、いや、む、胸の大きさは関係ないんじゃないかなあ~なんて。少なくとも俺は気にしないかな」

「そう? ならやっぱり涼介の感性が狂ってるのね。それにしても音無も駄目よね。彼女、諦めが良すぎると思わない? そもそも本気で愛しているなら、その恋が一生に一度一度きりだと確信したのなら、どんな手段を使ってでも成就させるべきなのよ。それから――」

 京弥の答えに満足したのか、一度花の咲くような満面の笑みを浮かべると再び、映画に対する不満を述べ始めた。

 先ほどの映画の内容を簡単にまとめると、とある姉弟――姉である音無と弟の涼介。この二人は成長していくうちに、お互い男女として意識しあっていく。そこに涼介と運命的な出会いを果たした星奈が登場して、三角関係に発展。紆余曲折あって、最終的に涼介は星奈を選んで結ばれ、音無は身を引くというお話。

 余談だが、そんな内容を吹き飛ばすくらい、ラストシーンで音無が滑り台で「一生独身か……」と呟くシーンは衝撃的であった。

 とまあ正直、映画に対する感想なんて人それぞれであり、綾音の意見に京弥がどうこう言うつもりは無い。だた、個人的には最初に綾音に告げたように、音無は姉として弟の幸せを願い、身を引いたと解釈している。そして、それはとても尊い愛の形だと思うのだ。

 「あ、ほら姉さん。料理が来たみたいだよ」

 まだ、綾音は言い足りないようではあったが、こちらの話題転換に乗ってくれたようだ。

 「もう、お腹と背中がくっついてしまいそうよ。早く食べたいわ」

 そう冗談を言いながら、溢れるような微笑を浮かべる綾音は、もういつも通りにみえた。

 「お待たせしました。こちらホエールオムライス大盛りでございます。こちらが普通盛りになります。以上でご注文の品はお揃いでしょうか?」

 「はい。大丈夫です」

 「かしこまりました。それでは、ごゆっくりとお召し上がりくださいませ」

 京弥が返答すると店員は伝票を置き、一礼をして去っていった。

 綾音はその間にせっせと自分の前に置かれた普通盛りの料理と、京弥の前にある大盛りの料理を交換していた。よく勘違いされることではあるのだ。綾音は見た目からは想像できないほど、大食いである。

 「さてと。それじゃあいただきます」

 まず綾音がスプーンを手に取り、その可愛らしい口にオムライスを一口分運ぶ。これは念のための確認。過保護な綾音の習慣のようなものだ。万が一にも京弥に害を与えるものが混入していないとも限らないからだ。

 そして今回はそのケースが当てはまってしまう。咀嚼を始めた綾音の美貌に、まるで一筋の亀裂が入ったかのような劇的な変化が訪れた。

 目つきは険しくなり、その表情からは強い憤りが感じとれるようだ。先ほど、京弥を威圧したような感情とは全くの別物。

 「……京弥。帰り支度をして外で待ってなさい。私は少し、責任者と話をしてくるから」

 そう優しげな声で言いながら、手に持っていたスプーンをそっと置く綾音。こちらに向けた表情は優しげで、一見して冷静その物に見えるがこれは相手が京弥だからこそである。その仮面の下では今にも噴火しそうな怒りを抑えつけているはずだ。

 「あー、うん。わかったよ。けど、お手柔らかにね?」

 京弥は不安な表情を浮かべながら告げる。

 綾音は京弥以外には全く容赦が無い。

 それが例えば、路傍の石ころであれば彼女も気にも留めない。しかし、その石ころが自らの意志で綾音の歩みを阻害したとしたら、彼女は躊躇うことなく障害を排除するだろう。

 「ええ。大丈夫よ。少し身の程をわきまえるように教育してくるだけだから」

 そう言って綾音は微笑んだ。それは優しい慈愛に満ちた笑みだったが、彼女がそんな表情を見せるのはこの世でただ一人。

 京弥はこのあと起こるであろう惨事を想像して、この店の責任者に同情を禁じ得ない思いになった。





 差し込む夕日に目を細めながら、そんな今日の出来事を京弥が公園のベンチに座って振り返っていると、飲み物を買いに行っていた綾音が戻ってくる。

 「はい、京弥の分」

 差し出されたペットボトルを軽くお礼を言いつつ受け取り、口をつける京弥。

 「あのラーメン屋は中々当たりだったわねー。怪我の功名とも言うべきかしら?」

 綾音は食べそこねたランチの代わりに入店したラーメン屋についての話題を振ってきた。

 レストランでの一件後は、まず腹ごなしをしようということになった。綾音はもともと今回のメインの目的であった食事にこだわりがあったようで、いろいろと悩んでいたようだが京弥はスマホで近くのオススメ飲食店を検索、近場にあったラーメン屋にしようと提案したのだ。

 単純に空腹というのもあったし、これ以上無駄に時間を浪費するよりはさっさと食事を済ませて綾音とせっかくの休日を謳歌したいと素直に思ったためだ。

 ちなみに綾音はここでも大盛りを注文して容易く平らげて周囲をどよめかせていた。人目を引かずにはおけない神秘的な水色の髪に、それに引けをとらない美貌。

 そんな美少女が可愛らしく垂れ下がる髪を耳の後ろにかきあげながら、その小柄な身体にチュルチュルと麺を啜って、みるみるうちにどんぶりの中身を空にする姿は物凄い違和感のある光景であった。

 「そうだね。たまにはつけ麺もいいもんだと思ったよ。でもあの店はチャーシューもネットで評判だったんだ。姉さんも俺のことなんて気にせずに食べてみればよかったのに。今日だけに限らず、姉さんが無理に俺の好みに合わせる必要なんて無いよ」

 そう、実のところ肉類を拒絶してるのは京弥だけであり、綾音は気を遣って京弥の前では自身も肉類は口にしないようにしているのだ。しかも、京弥はアレルギーなど健康上の問題でなく単なる好き嫌いなのである。

 「こらっ。そういうこと言わないの。私がそうしたいからしてるだけなんだから。でも、そうやって私を気遣ってくれるのは、ほんとに嬉しいのよ? ありがとね」

 綾音は私、怒ってますとでもいう様に整った眉根を寄せながら、つん、と白魚のような指先で軽く京弥の鼻を突く。

 もちろん、先ほどの綾音の怒りをみた後では何とも可愛らしい仕草である。その言葉もどこか小さな子供を相手にしているような柔らかいものだ。

 京弥はどこかむず痒い思いで綾音を見つめる。

 「それでも京弥が気になるっていうんだったら、いつか肉嫌いを克服して一緒にお肉料理でも食べましょ? でも無理する必要なんて決してないの。それだけは覚えておいてね? あなたには私がずっと側にいるから。それを忘れないでちょうだい」

 今度はどこか真剣な表情で綾音がそう告げた。その言葉に含まれる意味を理解した京弥は複雑な思いで今は弱々しく頷くことが精一杯だった。そんな自分が酷く情けなく、思わず歯を食いしばる。

 綾音はそんな京弥の頭を優しく両手で自らの胸元にかき抱く。京弥も抵抗することなく、全身の力を抜いてその身を委ねる。それは不純なものを全く感じさせない、どこか神聖なものにすら感じられる光景であった。

 京弥の表情は隠れて窺うことができないが、その綾音に全てを委ねている様が何よりも雄弁に彼の今の気持ちを表しているだろう。

 そして綾音はまるで慈母のような安らかな表情を浮かべながら、子供をあやすような、優しく手慣れた雰囲気で京弥の頭を繰り返し撫でていた。

 そんな厳かな空気が漂う夕日でオレンジ色に染まった公園、その静寂を無粋な電子音が切り裂く。

  綾音は心を満たしていた穏やかな気持ちに水を刺されたことに苛立った様子で、チッと小さく舌打ちをしながらも、京弥に断りを入れ、優しくその身体を引き剥がしてスマホを取り出す。

 「あの女……よりにもよってこのタイミングで……」

 画面を見た綾音はその表情により険しい物を浮かべる。

 「京弥、本当にごめんなさい。いつもの急用が入ってしまったの。悪いんだけど、夕ご飯の買い物はお願いしてもいいかしら? あまり凝ったものを作ってあげる時間も無いかもしれないわ」

 ベンチから立ち上がり、一転して申し訳無さそうな、寂しそうな表情で綾音が話しかけてくる。

 「もちろんだよ。もともと家事全般は姉さんの役目で、買い物は俺の担当だったわけだしさ」

 「もう。そんなこと気にしなくてもいいのに」

 「姉さんはそう言うけどさ。やっぱそれじゃあ気が引けちゃうよ。俺だって少しくらい姉さんの役に立ちたいって思うんだ」

 京弥はどこか照れ臭そうに笑いながら続けた。

 「メニューは簡単な物がいいよね……それじゃあオムライスでどうかな? お昼のリベンジってことでさ。ケチャップはまだあったと思うからあとは、卵と玉ねぎとか?」

 そう言いながら立ち上がると、京弥は任せておけと言わんばかりに胸を反らした。

 綾音にはしばしばこうして急用であちこちに出かけることがある。綾音に連絡を取る相手など限られているので、今回も間違いなくいつもの用件なのであろう。

 相手が誰なのか、綾音が何をしているのかなど詳細を京弥は知らされていない。ただ、それが京弥のために必要なことだと聞かされているだけだ。だが、それで充分なのだ。仮に綾音が京弥は知るべきだと判断すれば、教えてくれるだろうし、そうしないということは必要ではないということ。

 「わかった、オムライスね。腕によりをかけて作ってあげる。でもこれからも買い物は二人で行くこと。だってその方が楽しいじゃない? それとバターとマッシュルームも買ってきてちょうだい。ご飯は炊かなくても冷凍庫にある残りで大丈夫だから。それから、最後に一番大事なこと。分かっているとは思うけど、時間になったらきちんと薬を注射するのよ? いい? 絶対に忘れないこと。約束よ?」

 綾音は真剣な表情で人差し指を一本顔の前に立てて、あれもこれもとまるで子供に対する親のように言い聞かせてくる。

 「大丈夫だよ、姉さん。えっとまずバターとマッシュルームね。あとご飯は冷凍庫にある、と。最後に必ず時間になったら注射を打つこと。うん、任せておいてよ」

 京弥も特に子供扱いされたことを不満に思う様子もなく、素直に頷いた。

 「良い子、良い子。それじゃ、お願いね。いつも通りそこまで時間は掛からないと思うけど、遅くなりそうだったらまた連絡するから」

 別れ際に綾音は手を伸ばし、京弥の頭を撫でようとする。その行動を察して、京弥も少し身を屈める。ひとしきり撫で回して満足した様子の綾音。

 「京弥も何かあったらすぐに連絡をしてね?」

 如何にも上機嫌です、といった調子で別れを告げて、綾音は今度こそ手を振りながら去っていった。

 京弥もそんな綾音を見送り、近所のスーパーに向かって歩き出すのであった。

 

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