第6話 ~キオクの在り処~
『朝ごはん用意しておいたから、温めて食べてね by な 』
十時三十五分。俺が二ノ宮優希になって二日目の朝。ユウナの姿はなく、一階の食卓の上に書置きされたメモ用紙を見つけた。この時間だともはや朝なのか昼なのか分からないんご飯になったが。
寝坊した理由は単純明快。ベッドに潜りこみいざ寝ようと目を瞑ったまではよかった。そこで同室にユウナが寝ていると気付き、ほのかに漂う甘いにおいとユウナの艶のある寝息を意識し始めたがさいご。妄想と想像を繰り返して完全に目が覚めてしまった。やっと落ち着いてきたかと思いきや、花を摘みに立ってからもまた長い時間苦悩する羽目になった。結局眠ることができたのは、睡魔が羞恥に打ち勝った後だった。
「いい加減慣れないと身体がもたないぞ……」
寝癖のついた頭のまま冷蔵庫を漁り、ユウナが用意したと思しき目玉焼きとサラダを取り出し、トーストを焼いてむさぼる。
二ノ宮家の居間は閑散としていた。テレビでもあればつけたのだが、必要最低限使うもの以外はダンボールに詰められ、隣接した和室の一角に山積みにされていた。ダンボールにはユウナの字で、中に何が入っているか一目で判別できるように張り紙が付けられている。さすがに『テレビ』の張り紙を剥がしてまで出そうとは思わない。
「そういえば、引っ越しするみたいなこと言ってたっけ」
自分がパンをかじる音と壁にかかった時計の針の音だけが、静かな空間に響いていた。
一人きりの食卓。一人きりの家。
そこに佇む、一人の存在。
この家の広さにそぐわないがために産み出される、なんともいえない寂寞とした空気。
ここには、ユウナ以外の痕跡がない。親や兄弟は他にいないのだろうか?
ユウナに直接聞けばすぐに分かるだろう。
とはいえ――
そこでふいに昨晩の新田の顔が浮かんだ。
「…………」
こんな家の様子を見てしまえば。
そして現に今この家の空気を吸っている俺からすれば。
そうなのかもしれない、と思ってしまう。
「そういえば、ユウナの手料理食べ損ねたなぁ……」
ひとりごちる。一人で摂る食事はあっけない。食器を片付けようと立ち上がった時だった。聞き覚えのある音楽が静かな室内に轟いた。
「これはたしか……」
あいふぉんの着信音だ。昨日は扱い方を知らずに出損ねたが、今は違う。
画面には昨日見たものとまったく同じ番号が表示され、緑の円と赤い円が出ている。
「今日の俺は、昨日の俺と一味違うぜ(ピコッ)――みどりをぽちっと」
画面にタッチをして、あいふぉんを耳元にあてる。地味に頭を叩かれたことは気にしない。
「もしもし?」
相手に問いかける………………が、しかし返答はなかった。
「あれ、間違えたのかな……緑で合ってるはずなんだけど……」
一度画面を確認してみたが、通話中の文字が表示されている。ちゃんと応答できているようだ。
「もしもーし?」
そこでもう一度問いかけてみる。
すると、
『……あ、つながったぁ。あ、え、っと……ぼくちんだよ、覚えてるぅ?』
少し荒い息遣いの後、くぐもった男性の声が聞こえてきた。
「えっ? えっと……」
返答に迷った。
誰だ? 優希の知り合いか? 下手にこちらから話をふると墓穴を掘りかねないな。
「うんうん、もちろん覚えてるよ! また電話してくれて嬉しいな♪」
ここは適当に話を合わせることにした。
『あ~、やっぱりぃ? ユウキたんの声がまた聴けてぼくちんも嬉しいよぉ~でゅふふ』
――ん? ユウキ“たん”?
「またまたそんな~。ところで、今日はどうしたのぉ?」
『実はねぇ、ユウキたんとの刺激的な時間を過ごしてからぁ、ぼくちんゆうきたんのこと忘れられなくってぇ』
なんだろう……さっきから話していると妙な悪寒が全身を走り抜けていく。
話しぶりから察するに、かなり親密な間柄であるようだが……。
「へ、へ~。わたしどんなことしたか覚えてないなぁー。どんなことしたか教えてくれる?」
『えぇ~、それをぼくちんの口から言わせるのぉ? ユウキたん、見かけによらずいやらしい
独特な笑い声をあげる男。
怖くなってきた。本能的に、この男とは関わってはいけない気がする。
「や、やっぱりいい。話さなくていいよ」
『もぉーう。恥ずかしがり屋さんだなぁ、ユウキたん。でもそこもまた……か・わ・い・い・よ。でゅふっ♪』
ブチッ。
急いで切断すると、携帯を食卓の上に置いた。
ところが再び着信音が鳴った。画面の表示を確認し、出るのを
このまま無視しよう。うん。無視だ無視!
…………。
………………。
いやちょっとまて、さすがに早計だ。優希にとっての大事な交友関係の持ち主であるなら、先ほどの一方的な切断はいささか失礼ではないか。今度は感情的にならず、冷静に話をしてみればいいのだ。
おそるおそる携帯を手に取った。
『ゆうきたん、ぼくちんのラブコール聞いてお顔まっかっかになっちゃった? でゅへへぇ、ゆうきたんのそういう敏感なところ、すっごくかわいいよぉ』
ブチッ。
携帯を食卓の上に投げた。
いやだ! 何がいやって、いちいち変な言い回しを囁いてくるこの男がいやだ! 聴いてると鳥肌が立ちそうになる! てか立ってる!
しかし、三度携帯は鳴る。
正直でたくはない。でたくはないのだが……。
『わーかった。これは新手のプレイなんだ、そうだろぉ? でも大丈夫。ゆうきたんからどんなことされても』
ブチッ。
『ゆうきた』
ブチッ。
『あ』
『い』
『し』
『て』
『る』
「むりぃぃぃぃいいいぃぃぃいいいぃいぃいぃいぃい――っ!!」
というかなんで何回も切ってるのにあきらめないのこの人! どんだけポジティブ思考なの! それともそういう扱いに喜びを覚えるお方ですか!?
何が嬉しくてッ、男のッ、しかもどこの馬の骨とも知れない輩にッ、愛の告白を受けねばならんのだッ!!
もう出ないぞ! 絶対この男からの着信は出ない。知るもんか。ユウキの知り合いにこんなキッショキッショマンはいない! 関連性も全くもって見えない! いや、あってほしくない!
それでも男からかかってくる着信を無視し、自室へ駆け戻った。
それから30分後。ユウナが学校へ行っている傍ら制服を着て外をうろつくわけにもいかず、俺はクローゼットの中の洋服とにらめっこをしていた。
はたして、どれを着ていくべきか……。
「うぅむぅ……」
こういったセンスを求められるものはことさら苦手だ。ましてや、異性の服装で外出するなど聞いたことがないぞ。
ワンピースやスカートのすそがひらひらしたタイプは着ていて落ち着かないし、誰かと出かけるならまだしも単独行動なのだから、なるたけ気楽な恰好がいい。となると――
一着だけあったそれっぽい洋服を手に取り、着替えることにした。
月曜の真昼間ということもあってか、通りは見事に空いていた。
昨日よりは幾分か耐性がついたような気はするが、用心に越したことはない。前後左右の警戒は怠らず、横断歩道を渡るときは右左を見てもう一度右左を見て渡った。
電車の中で座ってもかなり余裕があるほどで、順調な旅の幕開けとなった。
まず俺が向かったのは、都内にある図書館だ。頼れる人がいない以上、賢人たちの知恵と情報を借りるのも一つの手だろう。ちなみに何度か天使に呼びかけてはみたが、反応はなかった。下界では身の回りのサポートはしてくれないタイプの天使らしい。
活字に抵抗がないことから察するに、生前もよく本を読んではいた方なのだろう。いかんせん医学的な知識は持ち合わせていないので、まずは記憶喪失について調べるところから始めることにした。
適当に本棚から気になるタイトルを数冊ピックアップして運びだし、利用客が少ない机を幅広く陣取って座る。
記憶喪失の症例については、最初に開いた医学書から読み解くことができた。
記憶喪失は、全生活史
(心的外傷やストレス……。頭に傷は見られないことを考えると、やはり心因性によって引き起こされたとみるのが妥当だな。催眠療法か……難しそうだな)
記憶はふとしたことや、ある日突然思い出すというケースもあるが、長年思い出せない人もいる。また記憶を取り戻すタイミングには個人差がある。
専門的な書物をいくらか読み終え、エッセイなど個人が書いた記憶に関する書籍を読んでみる。
多くの人はゆかりのある物、場所、人、出来事などが記憶を取り戻すきっかけとなっているようだった。中には日記を書いていた人もいて、自分の字で綴られた思い出に触れることで記憶が戻った人もいるとか。
(――日記か。優希の部屋を探してもそれらしきものはなかった。あるとしたらダンボールの中か、あの鍵のかかった引き出しの中だけだな)
優希にゆかりのあるものは、きっとダンボールを漁れば何らかしら見つかる可能性がある。
それだけでいうならば、優希の記憶に関しては解決の糸口がつかめてきたと言えよう。
だが、俺の――大塚祐樹に関するものは、何があるのだろうか。
大塚祐樹がどんな生涯を送ってきたのかは分からない。どんな人々と触れ合い、どんな人が、家族が周りにいたのかも、何も分からない。
亡くなった事実は変えられない。だがどのような人生を歩んだのか、知りたい。俺は本当に生きていたのか確かめたい。その欲求は抑えようにも抑えきれなかった。
催眠療法を試してみるか? などと考えていると、気になる一説が目に飛び込んできた。
「……記憶喪失は、言わば無意識に防衛本能が働き、脳から記憶を消させた状態。無理に思い出そうとすると、帰って悪影響を及ぼすかもしれません」
思い出したくないことを忘れ、忘れたままにすることで心の負担を減らし、自身の安寧を保とうとする行為。
忘れることは、一種の防衛手段だ。
知ることを、思い出すことばかりを考えていたが、この本によれば忘れたままの方が幸せなこともあるという。はたして、思い出すことがユウキのためになるのか。
今一度浮かび上がる大きな疑念に、俺の手は完全に止まった。
優希が忘れてしまった過去を無理に詮索せず、俺が優希として幸せな思い出を積み重ねていく方が、もしかしたら彼女のためになるかもしれない。接触した時に起こる発作もいずれは緩和していき、遠い記憶の彼方に封じ込めて行けば……。
そして俺自身も、過去や生きた形跡など確かめずとも、優希として十分すぎるくらいに楽しめれば、それで満足して成仏できるのではないか。
自分の胸にそっと手を当て、目を閉じる。
優希と祐樹の記憶。俺はどこまで探り、どこまで求め、どこまで手を伸ばしていいのか。
そしてその先を見た時。俺は待ち受ける真実を受け止めることができるのか。
思えば優希の身体になってからというもの、考えさせられることが多くなった。容易には一歩を踏み出すことはできずに、一歩をこうして踏み止まる。今まではもっと、自分の性格からいえばむしろ頭より先に足が動く方だった……と思う。だが今ではどうもそうはいかない。最初は自分のことだけを考えていればよかったし、自分の行動で誰かに迷惑をかけるなんて思ってもみなかった。
つまり俺は、ある種の
“一人ではない”という、枷を。
だがその実、それは優しい枷だ。現に俺はその枷をはめられることで、縛られるどころか常に心が突き動かされる衝動を感じ、まるで外へはばたく翼を授かっているような気さえする。
俺はかつて、そのような自由を味わったことがあっただろうか。
自由を手にし、数多の可能性を前に、俺はどこへ向かうべきなのか……。
その時ふと、頭の中に文字が浮かんだ。そこから行動するのは早かった。
すぐに図書館を出て、再び電車に乗った。
理由は分からない。だが俺はどうしてもそこへいかなければならない。……気がする。
昨日目にした時からずっと記憶の淵にひっかかっているその場所は都心より西、いわば郊外に位置していた。
電車を降りるとそこは、見渡す限りのコンクリートジャングルとは打って変わって、四方を山で囲まれいつもより空が広く、どこを見ても必ず視界に緑が飛び込んでくる、片田舎という言葉の似合う場所だった。一つしかない改札を通り、大空を仰ぐ。
「ん~……――はぁ」
へんぴな場所ではあるが、はたして確かに見覚えはある……気がした。既視感とも言い切れない、心の奥底でひっかかる程度のものに過ぎないが。
山へ向かって伸びた道を見据え、記憶を辿るように歩き始める。
しばらく歩くと見渡す限り古びた住宅が建ち並びはじめ、そのほとんどが一昔前から建てられているようなものばかり。道の一本一本が狭く、高いブロック塀や木の板によって仕切られており、一件一件の敷地内はほとんど除くことができない。なんだか懐かしい感じがする。
きょろきょろしながら歩いていると、違和感を放つレンガ壁の洋風な家を見つけ、立ち止まった。
(この家……)
表札には「木下」と刻まれていた。苗字に心当たりはない。だが、この家を執拗に覗いている少年のヴィジョンが脳裏に浮かんだ。
「――ッ!」
その時突如として激しい頭痛に襲われ、倒れそうになった身体を咄嗟に壁に寄りかかって支えた。
またか――ッ!?
だが病院や公園で襲われた症状とは違い、身体の暴走は見られず脳裏がズキズキと痛むだけだった。その頭痛に伴い、不鮮明な映像が徐々に浮かび上がってくる。
この場所に立ちレンガ壁の家を眺めていた。来る日も来る日も眺めては、決まって同じ方向へ歩いていく。一人の少年の姿。この記憶は優希のものではない。
「あっちか……」
映像の中の少年を追いかけ、ひたすら紆余曲折とした道のりを歩いた。途中から少年の姿は見えなくなったが、脚が止まることはなかった。何かを思い出したかのように、迷わず道を突き進む。
そして、ある家の前までくると、やっと歩みが止まった。
ドクン。
胸が大きく波打つのを感じ、恐る恐る表札をのぞく。
その家名は『山田』だった。
そこは大塚家ではない。
だが、根拠もなく思ってしまった。
(……ここが……大塚、祐樹の家)
手入れの行き届いていない庭には木々が
こんなところにいきなり他人である優希の姿で押しかけていいものか。
そもそも「山田」という表札が出ている家だ、大塚祐樹の家族と呼べる存在が暮らしているのか、本当にここが俺の生家なのかどうかも怪しい。
そうして過去に踏み込む一歩を踏み出せないでいると、背後から声をかけられた。
「あら、山田さんに何か用かしら?」
びっくりして振り返る。そこにはエプロン姿のおばさんが買い物袋を腕に提げて立っていた。
「あ、えっと……その」
「あなた近所の子じゃないわね? 見かけない顔だけど……。それに学校はどうしたの?」
疑いの目を向けられ、必死に頭を回転させて弁解の言葉を連ねた。
「じ、実は……山田さんの息子さんの奥さんの娘の二ノ宮優希というものです! 今日はたまたま学校が休みで、親からたまには顔くらい出してきなさいって言われて――えへ、えへへへ……はぁ」
ついでにお誂えむきな笑顔でもって答える。
く、苦しい。
と、
「あらそうなの。ひょっとしてお見舞いに来てくださったの?」
人がいいのか、以外にもすんなりおばさんは信じてくれた。
ほっ。
「そうなんです!! ……いきなりご迷惑でしたか?」
「あらやだごめんなさいね。
先ほどまで向けられていた警戒心が嘘のように消え去り、おばさんは忙しなく空いた左手をバタバタと動かしながら、中へ招き入れてくれた。
「失礼ですが、あなたは……?」
「あらやだまだ言ってなかったわね。あたしは妙子さんの身の回りのお世話をしている、根本です。うふふ」
おばさんは鞄から鍵を取り出し、慣れた手つきで玄関の鍵を開けた。
「妙子さーん! 御親戚の方がお見えですよー!」
人気のない家の奥に向かって叫ぶ根本さん。声が大きい。
「うふふ。こんなこと滅多にないから、きっと妙子さん喜ぶわあ」
なぜか根本さんまで嬉しそうに、いそいそと俺の分のスリッパを並べてくれた。
根本さんのノリに負けて考える暇もなく付いてきてしまい、まだ心の準備が整っていない。だがもうここまで来てしまえば、後戻りはできなかった。
息の詰まる思いで靴を脱ぎ、きっちり揃えてからスリッパに履き替えた。
家の中はさほど広くはなく、廊下はすれ違うのがやっとの幅しかなかった。床は歩くたびにぎしぎしと古びた木の音が鳴り、バランスを崩して触れた土壁がボロボロと崩れた。外観だけでなく中も随分と老朽化が進んでいるのが分かる。
「ここよ。さぁさ、入ってくださいな」
根本さんが襖に指をかける。立てつけが悪いのか、何度かひっかかりながらも、根本さんによって一枚の隔たりが取り払われる。
俺は一呼吸おいてからその向こうを見据えた。
根本さんに通されたのは庭に面した和室だった。ただ雑草や木が生い茂っているせいであまり明るくはない。その縁側に腰を掛け、空をぼんやりと眺めているその人が――
「妙子さん、ほら。親戚の二ノ宮さんですって。今お茶持ってきますから、適当に座ってて」
根本さんが部屋から出ていくと、山田妙子と俺だけになり、途端に静かになった。
山田妙子はこちらの存在には目もくれず、なおも変わらず空をぼんやりと眺めていた。俺はその背後に立ち、唐草模様の丸まった背中に声をかけた。
「妙子さん、こんにちは。わたしは……二ノ宮優希と申します。ワケあって、妙子さんに会いに来ました」
それでも山田妙子は微動だにせず、石像のように固まっていた。生きているのかさえも怪しく思えるほどだ。
山田妙子が大塚祐樹のキーマンであると思ったが、会うだけでは記憶は戻るはずはない。彼女から何か聞き出すことができれば話は別だが。
「突然ですけど……大塚祐樹という名前に、お心当たりはありませんか?」
「……………」
「あの……」
俺の呼びかけが山田妙子に届くことはなく、
「妙子さん、何年も前からこの調子なのよ」
代わりにお盆に湯呑と茶菓子を乗せて戻ってきた根本さんが応えた。
「そうなんですか?」
「えぇ。特別何かしたいことでもない限り、一言も声を発しないのよ。あたしは慣れっこだけど、ユウキちゃんはびっくりしたでしょ。あ、どうぞ座って」
「失礼します。わたしも大丈夫ですけど……」
手際よく湯呑と茶菓子を並べる根本さんに、俺は軽く頭を下げた。根本さんは山田妙子の右の手元に湯呑を乗せたお盆を置いた。
「妙子さん、お茶ですよ。今から昼食の用意しますから、待っててくださいね」
「根本さんは、いつからこの家にいらっしゃるんですか?」
「よいしょっと。あたしは、へー……三ヶ月くらい前かしらね」
予想外にも、つい最近だった。何年も前から知った風な口振りだったのに。
「あたしはまだやることがあるから、ちょっと席外すわね。何もないけど、ゆっくりしていってちょうだい。妙子さんもあんなだけど、ユウキちゃんが来てくれて嬉しいはずだから。あ、なんならお昼一緒に食べていく?」
「お気遣いありがとうございます。でも、すぐ失礼しますのでお構いなく」
残念そうな顔をして、根本さんは和室を出ていった。慌ただしい足音が遠ざかり、再び静けさを取り戻す室内。
さて……どうしたものか。見た感じ、好意的に話をしてくれる相手ではなさそうだ。だからというべきか、他人であるはずの俺が来ても騒ぎ立てられていないのは幸いだ。結果的に根本さんを騙すような形になってしまったのは心苦しい。
想像以上に熱々のお茶に舌をヒーヒーさせていると、
「ユウキ……」
微かにだが、山田妙子が声を発したのが聞こえた。
「うん、そう。ユウキだよ、おばあちゃん」
彼女の隣にハイハイで寄り、縁側の外に足を投げ出して座った。
山田妙子の目が、ゆっくりとこちらを覗く。その片目は色を失くし、瞳は白く濁っていた。髪は白く、頬は痩せこけ、皮膚は垂れ下がり、神経が通っておらず動かし難そうな口から、かすれた声を漏らす山田妙子。
「ユウキ……」
もぞもぞと手を動かし、おもむろに手を振りかざす。
俺は思わず目を瞑り、全身を強張らせた。触れられると思った。
ところが山田妙子は俺がかぶっていた帽子を取り、傍らに置いただけだった。
帽子が外れた瞬間、まとめあげられていた髪がさらさらと落ち、肩までするりと垂れてきた。
少女優希の姿を見た山田妙子は何も言わずに目をそむけた。がっかりしているように見えた。
別に騙していたわけではないが、俺は男装していた。それで何か勘違いをさせてしまったようで、ちくりと心が痛む。
「……悪いね」
だが、俺が謝るよりも先に謝罪をしたのは、山田妙子だった。
「どうして、おばあちゃんが謝るんですか……?」
尋ねると、すぐに返事は帰ってこなかった。しばしの沈黙が訪れる。
「……あんたは、あたしを迎えに来たんだろう?」
まるで死神でも見るかのように、虚ろな目が覗いてきた。
「そんな、迎えにだなんて」
俺の否定の言葉を打ち消すように、山田妙子は小さく首を振った。
「……違うと分かっていても、あたしには分かる。あたしのことを恨んでいるあの子が、迎えにきたんだって、ね」
「あの子って……?」
問いかけ、返答を待つ。しかし、それ以降山田妙子が口を開くことはなく、来た時と同じように空を仰ぎ続ける一方だった。
その瞳は、どこか現実とは違う世界を見つめているようだった。
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