第13話 ~異変~

 携帯を開いてみるが、相変わらずユウナからの新着メッセージも着信もない。こちらから発信してもユウナが電話に出ることはなく、留守番電話に繋がるだけだった。

 いつもならワンコールも終わらないうちに電話に出るはずなのに。

 携帯の時計を見る。19時33分。最初のメッセージを送って、既に3時間以上が経過していた。

「まだ返事来ないのか」

「うん……ユウナ、何かあったのかな」

「う~ん……。もしかして充電切れてるとか?」

「だといいけど……」

 念のため、もう一度ユウナ宛てにメッセージを送ってみることにした。

「『もう家着いた? 今から帰るね』――送信、っと」

 送信ボタンを押し、反応がないことを確かめてからケータイをポケットにしまう。

 日が暮れたにもかかわらず秋葉原の街の賑わいは劣らず、店の看板に電気が灯り始めてむしろ更に活気付いていた。俺たちは人の流れに身を任せるように歩いた。

 綾乃がポツリとつぶやくように言った。

「ユウキ、さっきのあいつの言葉聞いて……どう思った?」

「うーん…………」

 店を出てからも考えてはいたが、いざ答えるとなるとまだ上手く言葉にできなかった。

「まだ上手く言葉にできないよ」

 だからと言うわけではないが、俺は逆に一つの疑問をぶつけた。

「――そういえば、綾乃ちゃんあの時珍しく大人しかったね」

「あの時、って?」

「最後に島袋さんがアドバイスをしてくれたときだよ。今日の流れだったら、『また何カッコつけてワケの分かんねえこと言ってやがんだこのゴミ袋』って言いそうなところだったのに」

「なっ――!! ……ユウキ、可愛い顔してその言葉遣いはないわ」

「……お互い様だと思うけど」

 真正面から可愛いと言ってくる綾乃に対し、俺は目を逸らしてぼそりと呟いた。

「まあ確かに。最後に捨て台詞の一つでも吐いてやればよかったかな。きっと今頃あいつ『今日の私はカッコ良かったであろう?』とか言って、ドヤ顔かましてるに違いないね」

 綾乃の迫真のモノマネから容易に本人の言動が想像できてしまい、俺は思わず笑った。

「うまいねっ、モノマネ」

「それを言ったら、ユウキの私のマネだってなかなかだったよ」

「そんなに似てたかな?」

 本人のお墨付きをもらえたということは自負できるなこれは。

「今日初めて会ったのに、島袋さんのことよく分かってるね」

「あんな単純ノウキンバカの行動パターンなんてすぐ解るよ」

「あはは……」

 綾乃とは今でこそこんな風に気軽に話せる間柄になったが、こと男性と相対するときは警戒心を剥き出しにして、態度も別人のように変わってしまう。きっと俺の身体が優希でなかったならば、話すことはおろか目を合わせることすら叶わない相手だっただろう。

 ふと。

 俺は、もう一つ質問をした。


「綾乃ちゃんはさ。もしわたしが男の子だったら…………嫌いになったりする、かな?」


 背後霊ハンマーの制裁を覚悟の上、ギリギリの台詞だと思ったが頭を叩かれることはなかった。

 しばらく無言で歩く。隣の綾乃からの反応はない。

 不安になって横を見るといつの間にか綾乃が歩みを止め、数歩後ろで立ち止まっていたことに気付き、俺は慌てて笑顔で取り繕った。

「あっ、もしもの話だよ? 身体は知ってのとおり……ほら、女の子だから……」

「……あぁ、そうだよね。ごめん。あまりにも突然ユウキが意味不明なこと言うもんだから」

 そりゃあこんな問いを投げる人には一生かかっても会うことはないだろう。

 綾乃は先ほど同様にゆったりとした歩調で歩き出し、俺たちは再び並んで歩いた。

「どうして急にそんなこと言うの? ユウキ」

 綾乃の質問に対しどう答えたものかと迷ったが、素直に答えることにした。

「……綾乃ちゃんは、男の人を前にすると嫌いオーラ全開だから。もしわたしが男だったら、あんな風に嫌われてたのかな……って」

 綾乃は俺のことを『一緒にいたい友達』だといった。だがそれは俺が女であり――優希だからだ。

 まったく、ユウナのときもさんざん似たようなことで悩んでいたというのに……。楽しいとか幸せだとか感じているときに、必ずと言っていいほど心にひっかかる、俺が偽りの存在ニセモノであるという事実。

 罪悪感はある。

 だが、演じることで得られる幸せでは、どうしても心のわだかまりが消えることはない。

 優希を救うため。優希が笑ってすごせるように多くの人と触れ合ってきたとはいえ、結局は俺も自分自身の可愛さを捨てきれない人間エゴイストだったということだ。

 綾乃とこうして並んで歩けるのも。綾乃の友達でいられるのも――あと少し。

 友達とはなんなのか。

 昨日綾乃にその概念を聞いておきながら、自分の中ではその答えが見つかっていない。あの時逆に問われていたら、『綾乃は友達だよ』と面と向かって言えなかっただろう。でもそれでも、綾乃はもう俺にとっては特別な存在であることに変わりはない。

 身近にいてくれてとても嬉しいし、楽しい。

 優希としてそんな幸せを感じられる今だからこそ。

 俺は、そこに俺としての幸せもあるのだと――たしかなものだと実感したかった。

 それも、こんな卑怯な形でしか確かめられないのだが……。

「ユウキ」

 そのまましばらく歩き、駅前の広場にたどり着いたところで、再び足を止めていた綾乃が俺を呼び止めた。

 振り返った俺と目が合うと、綾乃の表情がふっと和らぐ。

「ユウキがもし男でも、私はユウキを嫌いになったりなんかしないよ。むしろ――」

 綾乃の言葉は、しかし駅前の人の喧騒によって途中からかき消されてしまった。

「良く聞こえなかったからもう一回――っ」

 綾乃に近付き繰り返すように促すが、綾乃は手を出して俺の勢いを制してきた。

「ユウキが男でも化け物でも嫌いになったりしないっていったの」

「化け物はさすがにないよ……」

「男もないでしょう。それともなにか? ユウキちゃんの身体検査をしたほうがいいのかなぁ?」

「そ、それはっ――!! やめてよね……もう」

 指先を怪しく動かす綾乃から逃げるように、いち早く改札に向かった。

 実際に男の姿で綾乃に会うことは一度としてないことだ。言葉に過ぎない証明の裏付けなどとる術もない。

 それでも構わない。

 俺は綾乃の言葉が嬉しくて、走りたい衝動を抑えられなかった。


「ユウキ、今かなーり人多いけど、だいじょうぶなの?」

 ホームに降りたところで、追いついた綾乃が前方に躍り出る。

「大丈夫だよ」

「その自信はどこから湧いてくるワケ?」

「綾乃ちゃんが守ってくれるでしょ?」

 上目遣いでお願いをすると、綾乃がたじろいだ。その反応が面白くて、自然に口元がほころぶ。

「うぇっ……――だぁーっ!! 分かったよ。その代り、密着しても殴らないでよね」

「善処いたします」

 周りの人への恐怖はまだある。だが、メイドとして色々な人と触れ合ったことで、昨日よりもきっと、怖くない。

 何より、もう俺は一人じゃないということを知っている。

 その分迷惑をかけてしまうことになるが、そしたら俺も何か恩返しをすればいいや、という考えは安直すぎるだろうか?


「一人で大丈夫?」

 地元の駅に着き俺だけが外へ降りた後。電車のドアが閉じる前に綾乃が俺を気遣ってか、そう声をかけてきた。

「大丈夫だよ。子供じゃああるまいし」

「おう、そうだった。忘れてたよ」

「相変わらずひどいなぁ」

「ふふっ。また明日」

「うん。またね」

 綾乃に手を振り、すっかり通いなれた家までの道を俺は一人で夜空を見上げながら歩いた。

 歩きながらふと浮かんできたのは、ユウナが口ずさんでいたあのメロディーだった。

「ふふふーん、ふんふふーん♪」

 知らないはずなのに、メロディーが頭の中を流れていく。俺はそのメロディーを音に乗せて空に放った。気分が高揚し、徐々にスキップをまじえながら軽快な足取りで家の前までやってきた。その時だった。

「おう。遅かったじゃねえか」

 家の前の電柱に背中を預け、携帯をいじっていた茜が俺に声をかけてきた。

「茜っ!! なんでここにいるの?」

 予想外の人物と出くわし、思わず目を丸くしてしまう。

「いちゃ悪いかよ」

 反応が気に食わなかったのか、携帯をポケットにしまって睥睨してくる茜。うぐっ。やはり迫力がある。

「べ、別にそんなこと言ってないよ……ただ、なんで居るのかなって不思議に思っただけで……」

「そんなことより、早く家開けろ」

 と、どこから取り出したのか茜はなぜか両手に大きな鍋を抱えていた。

「……なにそれ?」

「シチューだ。重いんだから早くしろ」

「家空いてないの?」

「空いてないから頼んでるんだろうが」

「ユウナから連絡なかった?」

「ない。いいから、は、や、く、しろ!!」

「わああかったわかったっ」

 茜に罵声を浴びせられる前に言うとおりにしたほうが良さそうだ。合鍵を鞄から取り出し、ドアを開け先導する。

「それにしてもなんでシチューを……」

 ドスンと音をだし重量のある大鍋をコンロの上に置き、火をつけて火力を調整する茜。

「知るかよ。七夕なゆの奴が持ってけって言い出したんだ。『あたしが力になれるとしたら家庭の味を提供することくらいだから』とかなんとか。はぁあ――ったく、人をこき使いやがってまったく」

 首をならし、不平をたれる茜。心底めんどくさそうだった。

「じゃあ、俺は帰るから」

 そしてもうやることはないと言わんばかりに迷いなく玄関へ向かう。

「えっ、もう帰っちゃうの!?」

「ああ。用事は済んだ。勉強で忙しい」

 またそんな学生のかがみみたいな発言を。

「一緒に食べて行けばいいのに……」

「ユウナとお前の分だ。二人で仲良く食え」

「ユウナまだ帰ってないし、量多いよ……」

「三日分くらいはあるからな。寝かせると美味いっていうから、明日はもっとおいしいシチューになってる。よかったな」

「それカレーじゃないの……?」

 俺が止める術はなく、脱ぎ散らかした靴を正して履くと、玄関のドアを半分だけ開いてからやっとこちらを振り向いた。

「さすがにユウナももうすぐ帰って来るだろ。火ぃつけてんだから目離すんじゃねえぞ。じゃな」

 そして、あっさりと玄関のドアは閉じられた。

「…………茜のバカ」

 同じ家族だというのに、どうしてこんなにも態度が違うのだろうか。それとも、俺が過度に期待しすぎているだけなのか? 家族はみんな優しくしてくれるものだという考えが間違っているのだろうか。

 茜の慌ただしい足音が無くなり、一気に静まり返る家。

 そんな静かな空気を、ピロリンという携帯あいふぉんの音が震わした。

 もしやと、すぐさまポケットに入れていた携帯あいふぉんを取り出し、確認する。

 タイムラインに、一通の新着メッセージがあった。

『今日は、友達の家に泊まります』

 そう、一言だけ。

「ユウナ……」

 電話をかけようか迷った。……が、やめた。友達と一緒であれば何も心配はいらないし、今更俺がとやかく言う必要もない。きっとお昼を共にしたという生徒会の人と、上手くやっているのだろう。

 いつもずっと俺と一緒にいて、心配かけてばっかりで、ろくに友達との時間をとれなかったのだ。せめてユウナが友達とゆっくり過ごせる時間があるのなら、邪魔はしたくない。

『わたしのことは心配いらないよ。楽しんできてね』

 ユウナがしてくれたように、語尾に顔文字を付けて返信する。顔文字は便利だ。百面相を表現できる。

 すると、すぐさまゴマたんの『ありがとっ☆』のスタンプが押された。

 もう一度キーパッドをいじりそうになったがやめて、携帯をポケットにしまう。

 家の中に、一人。

 台所に戻り、鍋の蓋を開け中身を確認すると、とろりとした美味しそうなシチューが出来上がっていた。どうやらもともと煮込んであったものをわざわざ持ってきてくれたようだ。これならすぐにでも食べられそう。

 お腹は減っているはずなのに、食欲は沸いてこなかった。昨日と一昨日は食事の時間が待ち遠しかったのに、今日はとてもじゃないがそんな気分にはなれない。

 火力を最低にまで弱め、結んでいた髪をほどく。

 手にはユウナがくれた、ポップ調の可愛らしい蜂が描かれたプラスチック製のプレートがついたヘアゴム。

「だいじょうぶ」

 それを食卓の上に置き、脱衣所へ向かった。

 いつもなら服を脱ぐのにすらいちいち顔を赤らめながらやっていたが、今日はひたすら無心で手が動いた。

 身体を洗うときだって、いちいちドキドキしながらやっていたのに。

 何故だか今日は、心が微動だにしない。

 さっきまで弾んでいた心が嘘のように黙りこくってしまっていた。

 早々に浴室から出て、ドライヤーで髪を乾かし、キッチンへ向かった。食器を二人分用意しようとしてはっとなり、慌てて余分な皿を棚に戻す。いざしゃもじを手にして炊飯器の蓋を開けてから、炊くのを忘れていたことを思い出し、今更炊くのも億劫だったので、結局シチューだけをお椀によそい、食卓についた。

「……だいじょうぶ」

 自分が動くのをやめてしまうと、痛烈に一人であることを思い知らされる。まるで時が止まったような静けさが襲ってきた。

 こんなの大げさだ。

 最初は一人でいることになんら抵抗はなく、むしろ気にしていなかったというのに。

 どうしてこんなにも。

 ……心が痛いんだ。

 一人を願ったのは、自分自身じゃなかったのか?

 自分から周りを拒絶しておいて、いざ一人にされると悲劇の主人公ぶって心を痛めて。

 一人を望んだのは。

 ユウキ。


 ――お前じゃなかったのか?


 いつからワガママになってしまったのだろう。

 いつから、こんなにも脆くなってしまったのだろう。

 どうして、あんなにも待ち遠しかった食事が――

 こんなにも辛いのだろう。

 いつもそばにいるはずの少女が、目の前にいない。

 たった、それだけのことなのに……。

「だいじょうぶ…………――じゃないよ……」

 シチューの味が、しょっぱい。いくつものしずくが、したたり落ちて入っていった。

 ごめん、綾乃。嘘ついた。

 まだ、子供だ。

 まだ子供のままでいい。

 だから。


 一人は――嫌だよ。



 目覚ましの音で、目を覚ます。

 目の周りに違和感を抱えたまま、キッチンへ行って鍋に火をつけてから洗面所へ向かう。

 顔を洗い、髪を櫛で梳かして寝癖を直し、制服に着替え、ユウナがくれた蜂のヘアゴムで後ろ髪を結い上げ、鏡で身だしなみを整え終え、キッチンへ。

 まだ温まりきっていないシチューを盛り付けて胃に流し込み、容器を手早く洗ってから家を出た。

 春も終わりに差し掛かり、梅雨シーズンの到来を予感させるような曇天の下。

 自然と歩幅は大きく、早くなった。じれったくて、途中から駆け出した。

 まだ朝が早く、人気のない住宅街を駆け抜け、改札を乱暴に通り抜け、発車時刻までまだ余裕がある電車に駆け込む。

 学校がある駅に到着し扉が開いた瞬間、ダッシュ。

 疲れなど、感じない。どうだっていい。今は少しでも早く――あの場所へ。

 道行く人を何人も追い越し、ぶつかる勢いですれ違い、脚がもつれそうになりながらも、走って、走って、走り続け。

 学校に着いた。

 ところがまだ校門は開いていないらしい。

「おはよう。朝早いね」

「おはようございます」

 そのままそこでしばらく待っていると、管理人らしきおじさんが現れ、門を開けてくれた。

 再びダッシュした。

 ところが学校の正面口にも鍵がかかっていて、また管理人のおじさんが鍵をあけてくれるのを待つ羽目になった。

「おやおやそんなに急いで……部活かい?」

「いえ……」

 管理人のおじさんが、ジャラジャラといくつもの鍵がついた輪を回し、昇降口の鍵を探しながら訊いてきた。

「――キミは、学校が好きかい?」

 管理人のおじさんは、俺の焦る気持ちとは正反対にゆったりとした口調だった。

 学校が好きか。

 優希のためと思って登校することにしたが、一週間という限られた時間を与えられたなかで、俺自身が学校へ行こうなんて選択は到底浮かばなかっただろう。

 なんとなくだが、俺は学校や周りの人に対して優希ほどではないにしろ畏怖の念を抱いていたのかもしれない。

 優希をまったくの他人と思えないのも、どこか自分に近しい何かを感じているから。

 だからきっと、昔の俺、前世の俺なら「嫌いだ」と即答していた。

 でも今は――

「好きです。大切な人たちと、会える場所だから。……これって、不純な動機になりますか?」

 勉強が好きだからと言われた方が、教育者としてより喜ばしい回答かもしれない。

 ドアのカギを開け終え、俺に向き直った管理人のおじさんが顔をしわくちゃにして笑った。

「いいや。100点の回答だと思うよ」

「ありがとうございます」

 おじさんにお礼をし、ロッカーで急いで上履きに履き替え、Hクラスの教室へ走った。

 Aクラスへの教室へはすぐ着くのに、Hクラスはじれったくなるほど遠かった。

 Hクラスの扉を開け、中へ入る。

 むろん、誰がいるはずもない。

 俺は三十ばかりある机の中から、教卓の上に置かれた席名簿を見てユウナの席に腰を下ろした。

 黒板の上に掛かっている時計を見る。

 いつもなら7時50分には学校に来ている。ユウナが友達と一緒に登校するのを考慮しても、遅くても予鈴がなる8時半にはくるはずだ。

 ユウナ、自分の席に座っている俺を見てどんな顔するだろう。

 そんなことを考えながら待っていると、廊下の方から女子の話し声が聞こえてきた。

 7時50分。時間ピッタリ。

 ガラッ。

 扉が開くが、しかし入ってきたのはユウナではなかった。

「あれ、二ノ宮さんじゃん。早いね」「おはよー」

「おはよう。……まあ、ね」

 案の定、というべきか。入ってきた二人の女子はユウナではないことに気が付かなかった。

 ショートのユウナと違い、一つに結い上げている髪形を見ればすぐに気付きそうなものだが。……やはり誰もユウナのことなど気にかけていないのだろうか。

「あれ? やっぱり二ノ宮さん髪形変えた?」

 だがしかし、自分の席に鞄を置いた女子の一人が異変に気付いたらしく声を上げた。

「あ、ほんとだ。気付かなかった。ポニー可愛いねー」

「あ、ありがとう……」

「あれ? でも二ノ宮さん昨日ショートじゃなかった?」

「たしかにー。エクステでもつけたの?」

 エク……ステ? 何のことだか解らないが、これ以上黙っているのはまずい。

「実はわたし、ユウナじゃないんだ」

 ネタばらしをすると、二人の女子の頭には一斉にクエスチョンマークが浮かんだ。

「双子の、ユウキ。Aクラスの、二ノ宮優希だよ」

 そこまで説明をして、やっと合点がいったらしく手のひらを打つ二人。

「あぁー。そうなんだ。へぇー、すごーい。全然気付かなかったー」

「うんうん。ほんとそっくり。でもなんでユウキちゃんがHクラスに?」

「ユウナを二人みたいに驚かせようと思って、待ってるんだ」

「へぇー。そうなんだー」

「多分みんなも驚くよ、絶対」

 その女子の言葉通り、後からHクラスにやってきた生徒たちは全員が十人十色に驚嘆の声を漏らした。案外雫希っツインズの存在は知れ渡っていなかったらしい。

 ところが昨日放課後に話をした女子だけはネタばらしする前に俺に気付き、逆に声をかけてきた。

「あれ、ユウキちゃんじゃ~ん。違和感なく座ってるからユウナちゃんかと思った」

「実は――」

 同様に理由を話すと、

「まああたしが言うのもなんだけど、ゆっくりしてきな」

 にへっと笑った。

「ほんとだよー。リサが言うとなんかむかつく」

「ひどいなー。我は委員長様なるぞ?」

「だからだよ。ねー?」

「ねー?」

 クラスの雰囲気は思ったより悪くない。むしろ、皆人が良い。ユウナにも少しのきっかけがあれば、すぐに仲良くなれるに違いない。

「なぁにやってんの?」

「なんか面白い話?」

 と、もともと人が集まっていたせいか、更に人だかりが増えて行った。あまりに人が多すぎてユウナが来ても気付けなくなってしまいそうだ。

「ねえ、ユウキちゃんってさ。彼氏いる?」

「へっ!?」

 女子の輪の中だというのに一切気にすることなく割り込んできた一人の男子の質問に、不意打ちをつかれ変な声を出してしまった。クラスの男子ですらここまで直球に聞いてくる人はいなかったというのに。やはりクラスカラーはあるのだろう。

「はぁ? あんた何言ってんの?」

「そーよー」

「でもでも、ちょっと気になる~」

「だろ? 今のうちに、狙い定めとかないとって思って、さ」

 恥ずかしげなポーズを決めて、ウインクまでかます男子。ユウナの傍に置いておくにはこいつは少々危険な気がしてきた。

「気持ち悪いこと言ってないでどっかいけ。ここは男子禁制だ」

「ほら、あっちいったー」

 だが、俺が答えるより早く女子たちが男子をおっぱらってくれた。ほっ。

「ねえ、リサちゃん」

 唯一俺に気付いてくれた女子。先ほどクラスの子からリサと呼ばれていた少女に一つお願いをする。

「ユウナはさ、見た目は大人しくて、暗くて話し辛そうな雰囲気出してるかもしれないけどさ。本当はすごく優しくて、お母さんみたいに私のことを心配するくせに、自分のことになるとてんで抜けまくりな子なんだ。人付き合いが苦手らしくて、あまり自分から絡みに行けない子かもしれないけど、もしよかったら仲良くしてあげてね。本当はすっごく寂しがりだから」

「はいはーい! 俺、仲良くしてあげる!」

「あんたはすっこんどけ!」

「ぐぼぁっ!?」

 即座に近くにいた男子からの反応が来るが、見事に封殺された。やはりどこにいっても男子のヒエラルキーが低い。

「いいよ。……というか、あたしらは多分、とっくに受け入れる体勢は出来てるよん。後は、ユウキちゃんみたいに、ユウナちゃんも心を開いてくれればいいんだけどねえ」

「あはは……私からも言っておきます」

 ユウナ、クラスメイトにこれだけ言わせるなんて。いったいどんだけ人付き合い苦手なんだ……。

「そういえば、ユウナちゃん遅いね」

 リサが思い出したように呟く。

 いつの間にか時間はHR開始5分前になっており、その時ちょうど予鈴が鳴り響いた。

「今回は作戦失敗……かな」

 俺がぼそっと呟くと、

「元気だしなって――」

 と、リサが俺の背中をポンッと叩いた。

 しまった。という顔をしたのはリサだった。

 ところが俺の身には発作どころか、拒絶反応どころかいつもなら湧き上がってくる負の感情すらなかった。

「ごめん。つい」

「……ううん。だいじょうぶ」

 驚きのあまり生返事になってしまい、わずかに空気が重量を増した。

「さすがにもう時間が時間だし、今日は戻りなよ」

 状況を知らない女子の一人が促す。

「う、うん。ありがとね」

 ちゃんとした笑顔がつくれないまま、俺は皆と別れを告げHクラスを後にした。



「ユウキ、今日は随分と来るの遅かったね。夜更かしでもしたの?」

 1時間目の授業が終わると、綾乃が俺の元へやってきた。今朝の一件以来心此処に在らずだった俺は、明確な意思をもって綾乃に告げる。

「綾乃ちゃん、触ってみて」

「へ?」

「だから、わたしに触ってみて?」

「ちょっ、ユウキ……それは殴られろって遠回しに言ってるようなもの」

「いいから、お願い……!」

 真剣さが伝わったのか、冗談だと思って笑っていた綾乃が黙ってうなずいた。

「……じゃあ、触るよ」

 俺は綾乃に背中を見せて座った。

「…………いいよ」

 綾乃が、おそるおそる手を伸ばしてくる気配がひしひしと伝わってくる。俺は目をつむり、その時を待った。

 やがて、一瞬だけ。背中に手が軽く触れたのを感じる。一瞬ビクッとなったが、発作が起きることはない。

 続けて背中に綾乃の手がぴったりとあてがわれる。その掌からは服の上からでもわかるほのかな熱を感じるだけで、他に心の底から湧きあがってくる何かは見当たらなかった。

「すごい……触れられる……触れられるよ、ユウキ!!」

 感極まった綾乃が、正面を向いた俺に抱き着く。

 だが、俺はすぐに綾乃を突き飛ばした。

「な……なんで……? 触れられるようになったんじゃ……?」

「い、いや……なんていうか……」

 さすがに抱き着かれるのは、発作が起きる以前の問題がある。

「まだそんなに深い接触は……その、心の準備が……」

「その言葉、なんだかいやらしい……。でもさすがにそうか。言わば治りかけで、完治したわけじゃないんだもんね」

「……うん」

 俺の場合はまたちょっと複雑だ。恥ずかしさから触れられたくないのか、怖いから触れられたくないのかの境界線が曖昧で自分でもよくわからない。けどまあそういうことにしておこう。

「じゃあさ、ユウキは自分から触れられるの?」

 そうだ。一番肝心なのはそっちだ。俺が触れられるようにならなければ、優希も自分から触れることができない。

「じゃ、じゃあ……触ってみて、いい?」

「おっぱい?」

「なぐるよ?」

「ジョークだよ。お手をどうぞ、姫」

 自らの手を差し出す綾乃。以前、ユウナにも同様に手を出してもらったことがあったが、その時は触れることができなかった。

 徐々に指先が近づくにつれて、やはり神経が重くなっていくのを感じた。

 ジリジリと火にあぶられているように、指先からの熱が全身に広がり額から汗が垂れる。

 だが着実に、おもむろに距離が詰められていく。

 ゆっくり。ゆっくりと。

 はたして……………………………………――


「おーし、せきつけー。授業始めるぞー」


 数学教師であり、担任である安西教諭によって俺の挑戦は中断を余儀なくされた。

安西先生ざいせん、空気読んでくれません?」

「茅ヶ崎ぃ。教師であり担任である俺に向かってその態度はないだろぉー? お前たちがしたくなくても、やりたくなくても、数学と言うものはだな――」

 結局、数学談義に興が乗ってしまった安西教諭が授業に本腰を入れ始めたのは、授業開始時刻を15分も過ぎた後だった。



 昼。一向に連絡が来ないユウナを探し、綾乃とHクラスを訪問した。そこでHクラスの委員長であるリサが教室の外まで出迎えてくれたのだが。

「ちょうど良かった。それがね。結局ユウナちゃん来なかったんだよ」

「えっ? 来てないの……?」

「ユウキちゃんは何か聞いてない? 心当たりあるって言っちゃったから、先生に報告しなきゃいけなくて……」

「ううん。何も……」

 携帯を確認してみるが、ユウナからの連絡はない。電話をかけてみるが、留守電にすら繋がらずに切れてしまった。

「そういや、赤城も休んでたな、今日」

 何かを思い出したかのように、ぽつりと綾乃が呟いた。

 そういえば、Aクラスにも現在二人欠席者がいる。

 一人は赤城由梨。彼女とはいろいろと揉め事があったが、体調不良という連絡を疑う余地はないだろう。

 もう一人は、天羽あまはれん。こちらは一昨日教室で偶然出くわした、ガラの悪い男子だ。彼はあれ以後隣りの席の俺ですら一切目撃していない。クラスメイトの話では、気まぐれでしか学校に来ず、一人で街をぶらぶらして気に食わない他校の生徒と喧嘩三昧の日々を送っているとかなんとか。まるで不良漫画の主人公だ。彼とユウナがつるんでいるとは到底思えない。

「嫌がらせをしていた赤城と一緒に遊んでそのまま学校休むなんて、ユウナがするとは思えないな」

「誰と遊んでたかも解らないし……そうだ、新田くんなら何か知ってるかも!」

 茜にも連絡は入っていなかったようだし、他にユウナの動向を知っていそうなのは、彼しかいない。

「そういえばいたな、そんなヤツ。新田はいる?」

「新田? あぁ、なんか体調悪いとかで今日休んでるよ」

 だが、不在。

「そっか……」

 リサとは連絡先を交換し、情報が入ればお互いに連絡を取り合うことにしてHクラスを離れた。

 明日は体育祭のため、今日は午前授業のみ。グラウンドは体育祭に向けて設備を整えるため、放課後の部活動も禁止されている。関係者あるいは設営に携わる生徒会の生徒以外は帰宅するように指示されていたが、真っ直ぐ家に帰る者はほとんどおらず、これからどこで遊ぶかの予定をたてるための話に花を咲かせている者がほとんどだった。

 本来ならば生徒会の手伝いをしているユウナも、準備に参加するはずなのだが……。

『生徒会及び保険委員の生徒は、至急第1体育館前に集まってください。繰り返し――』

 アナウンスがかかり、綾乃と思わず目を合わせる。


 東校舎の廊下を一番奥まで進み、突き当りを右に曲がって中庭を一望できる渡り廊下を越え、更に部室棟を越え、更衣室の前を通り過ぎたところで、やっと第一体育館が目の前に現れた。最初は迷いに迷ったが、更衣室隣のトイレを利用するために頻繁に通っているうちに自然と場所を覚えていた。それにしてもこの学園広すぎる。

 第一体育館入口前の幅が広い廊下には既に大勢の生徒で溢れ返っていたが、中に見知った顔はほとんどいない。が、

「あ、茜!! ……茜も生徒会のお手伝いさん?」

 背が高く、周りの女子の視線を集めているため安易に発見することができた茜の元へ駆け寄る。

「おぉ、ユウキ。まあな」

 黄色い声はひそひそと、だが茜の元に居ても聞こえているというのに、当の本人はまったく意に介さないご様子で壁に背中を預けて立っていた。

「へぇ……これが茜の言ってた義理の妹ねぇ……可愛いじゃん。チョーおれ好み。よかったら今度の休み、俺とデートしない?」

 と、隣にいた茜の友達らしき人物がいきなり腰をかがめて俺の顔を覗きこんできた。

「え、えっと……その」

 急な接近にまともに顔を見られずたじろいでいると、綾乃が割って入った。

「悪いけど、私のユウキに手を出さないでくれますか、せんぱい? それと、ユウキのお兄さん。友達は真剣に選んだ方がいいですよ。人の妹に手を出そうとするようなクズじゃなくて、ね?」

 綾乃はユウキの兄である茜の手前だからだろう。いつもの対男子モードは抑えているようだったが、それでも十分当たりは強かった。

「おいおい、そりゃあいくらなんでも――」

「安心しろ、俺はこいつを友達にした覚えはない」

 抗議の声を遮断してバッサリと言い捨てる茜。

「なら何も言うことはないです」

「ちょちょまって、茜それはなくない? ひどくなくなくない? 友情誓い合った仲だろぉ?」

 茜と綾乃のシンパシーに挟まれているその男子は見事に狼狽していた。

「そういや、あいつは?」

 茜はなおも喚き散らす男子をCQCクロースクォーターコンバットをきめて黙らせ、確認してきた。

「それが、居所が解らなくて……」

「……いつから?」

「昨日から……。生徒会の友達の家に泊まるって言ったきり」

「その友達は?」

「それが……その友達が誰だかわからないんだ」

「……ったく、あのバカ何やってんだ」

「いででっ、死ぬ!! 死ぬから力入れないであがねさぁぁん」

 茜の腕の中で男子がギブアップサインを送っているが、止める審判はどこにもいない。

「お兄さんは、普段ユウナが生徒会で誰と一緒にいるかわかりませんか?」

 綾乃が珍しく男子に対して丁寧な言葉で茜に尋ねる。だが、それに対して茜は首を振った。

「いいや。俺はこいつの手伝いで今日限り参加してるだけだ。本格的な生徒会の活動はわからん」

「つまり、このクズ男が生徒会?」

「ということは、昨日も手伝いとかありませんでした!?」

「あったけど、こいつがさぼったせいで俺まで駆り出されるハメになったんだよ」

「ででででで! ギブ、ギブだって……審判!! レフェリー!! アンパイア!!」

「じゃあ知らないんですね……」

「どうしようもないクズ男ですね。一度ゴミ収集車にごみ溜めに連れて行ってもらいましょう」

「ちょちょちょ、あんまりごみごみ言わないでよ。俺は五味太郎じゃないよ? これでも反省してぐぇっ――」


『ユウナ、どこにいる? 学校にいないから心配だよ』


 ユウナ宛てにもう一度メッセージを送信し、しばらく待って反応がないことを確かめてからポケットにしまった。

「はーい、皆さんお静かに。――それでは、ほどよく集まったようなので、これから皆さんに設営を手伝って頂きます」

 一番前に立っていた生徒会の幹部の人が声を張り上げて説明を始めたが、俺の耳には入ってこなかった。

 まだ一日しか経っていないというのに、もうずっとユウナと会っていない気がする。

 あの柔らかくて暖かい笑顔を、ずっと見ていない。

 一目見た時から、ユウナの笑顔に惹かれていた。一目見ただけで人を幸せに出来るような、あの笑顔に。ユウナと瓜二つな優希でも、きっとそれができると信じて、真似して笑い続けてきた。

 自分が笑えば、綾乃が笑ってくれる。みんなが笑ってくれる。

 いわば、人との繋がりを持つきっかけをくれたのは、ユウナだ。

 彼女の笑顔が……もしこのまま一週間が経ってしまって、二度と見られなくなってしまったら。俺は――

「おい。そんな辛気臭い顔すんなよ、ユウキ。あいつはきっと大丈夫だ。双子のなんとかってやつで、それはお前が一番わかることじゃねえのか?」

 茜が俯く俺に、小声で囁いてきた。

「ユウキ。ユウキがユウナを無事だって信じていれば、きっと大丈夫」

 隣りにいた綾乃が、優しく俺を撫でるように声をかけてくれた。実際に撫でるのはまだ遠慮したらしい。

「綾乃ちゃん……」

 その通りだ。俺が落ち込んだところで、ユウナが帰ってくるわけではない。

 俺が――優希がユウナを信じなければ、誰が信じてやれる。くよくよしていても、何も始まらない。


「ふぁいとぉぉぉぉぉぉ――っ!!」

 俺は考えるのを拒むように、がむしゃらに設営の手伝いに精を出した。

 もともとユウナがユウキとして始めた仕事だということもあり、いつかは自分でやらなければいけないことで、ユウナの代わりに自分ができることがしたかったという理由もある。

 手伝う傍ら、同学年の生徒や生徒会役員にユウナのことを聞いてみたが、誰一人行方をしっている者はいなかった。

 相変わらず携帯にユウナからの返事はなく、携帯を見ては用具や備品を運び、運んでは携帯を確認の繰り返し。

 設営開始まで何もなかっただだっ広いグラウンドには、本部・休憩所・保健所等で使用するテントが建ち並んでいった。各競技で使用する道具が揃えられ、トラックが整備されるといよいよ生徒たちの中で体育祭ムードが高まりつつあった。とはいえ、ただでさえ敷地の広い学園の端から端を重い荷物の運搬で往復させられているだけあって、徐々に生徒たちにも疲労の色が見え始めている。

「ちょっと、これ誰が持ってきたの? 誰も頼んでないんだけど!」

 設営も終わりに差し掛かり、日が傾いてきたころだった。誰に言うでもなく、本部席にいた生徒会幹部の先輩が愚痴をこぼしていた。

「わたしが戻しておきますよ」

 ちょうど手が空いていたので名乗り出る。

「ほんと!? 助かるわぁ。じゃあ悪いけど、第3用具倉庫によろしく。遠いけど頑張って」

 先輩はそれだけ言うと遠くで呼んでいた生徒会長、副会長の二人と合流しさっさとどこかへ行ってしまった。

 忙しなく動き回る生徒たちは、めんどくさいと口を揃えてはいたが、明日に控えた一大イベントを前に期待の色を滲ませていた。生徒会の役員たちはその期待に応えるべく、また自らも楽しみにしている行事を成功させようと、奔走している。

 生徒会という、誰もすすんで手を挙げたがらない役目を、どうしてユウナは引き受けたのか。

 遠くなっていく生徒会三人の背中を見つめているうちに、その理由が少しだけわかった気がした。

「よっ――いしょ」

 さてと持ち上げてみた。そこそこ重い。が、運べない重量ではない。第3用具倉庫は――第2体育館の傍だ。うぇ、確かに遠い。

 問題の第3倉庫の位置は――正方形の一角にグラウンドがあるとすれば、その対角線の先に第2体育館がある。そしてその延長線上にある、さびれた倉庫が第3用具倉庫だ。

 時間的にもこれが最後の仕事だろう。もうひと踏ん張りだ。そう意気込み、えっちらおっちら運ぶ。こうしていると頭に花を生やした某生物を思い出す。

 グラウンドから離れるにつれて、都会から田舎へ来たかのように少しずつ雑踏が離れて行った。

 第一体育館を通り過ぎ、ぐるっと回って敷地の外周に沿って歩いていく。たまに荷物を持ち上げ直したりすると、中身がゴトゴトと音をたてた。

 照月学園の景観を眺めていると、雲間から差し込んだ夕陽に目が眩んだ。一日のはじまりを知らせる太陽が、もう半分も山間に顔を隠している。

 気の遠くなるような道のりを経て、やっとの思いで第3用具倉庫の前まで来るころには、かなり汗ばんでいた。制服でやらない方がよかったかな、と遅すぎる後悔をして、開きっぱなしの鉄扉をくぐって中に入った。

 中は石灰のにおいが漂い、外とは違ってあまり陽が射していないせいかかなり冷え切っていた。

 ここに置かれてあるものは、第2体育館で使用されるものがほとんどだ。体操で使うマット類、バスケットボールがたくさん入った籠。球技で使われるネット。案の定抱えたダンボールの中に入っていたのは、ネットを張る際に使用する鉄柱に取り付ける金具類だった。たしかに体育祭では使わない用具ばかり。

「ふぅ」

 ダンボールを倉庫の奥にある所定の位置に戻し、一息ついた。

 まさに、その瞬間だった。


 ――ガシャン。


 背後で物音がしたかと思うと、一気に倉庫内に闇が降りた。振り返ると先ほどまで開いていたはずの鉄扉がしまっている。

「えっ……?」

 取っ手に指をかけ、スライドさせようと試みるが、何かに引っ掛かったように開かない。

「鍵閉められた……? すみませーん、まだ入ってます!! 誰か聞こえませんか!?」

 鉄扉を叩いて叫び、訴えかけてみるが外からの反応はない。

「うそ……。そうだ、こういうときは――っ」

 ポケットに入っていた携帯を取り出し、電話帳をひらいた途端に、プツリと画面が真っ暗になってしまった。

「充電切れ――っ!?」

 今日頻繁に携帯をいじっていたせいだ。何もこのタイミングで切れなくても……。

 自分の運の無さを恨んでいると、

「っふふふ……」

 と、うっすらと誰かの笑い声が聞こえた。外からではない。

「だれ……?」

 視界は暗く、声が反響するせいか声の主がどこにいるか判別がつかない。だが、その声の主はすぐにわかることになった。

「僕だよ、ユウキちゃん」

 その正体は、今日学校を体調不良で休んでいるはずの――

「新田……くん?」

 俺が来た時にはいなかったはずだ。ではなぜ――?

 暗がりの中に新田が現れ、にこりと笑った。

 眼が慣れてきたおかげで、新田がこちらに歩み寄ってくるのがハッキリとわかる。

「嬉しいなぁ。こんなところで会えるなんて」

 何やらいつもと雰囲気が違う新田はまどろんでいた。

「そんなことより、どうしよう。私たち閉じ込められちゃったよ?」

 俺の投げかけに、しかし新田はさして動揺することなく、なおもスローペースな歩調を変えることなく近付いてくる。

「そんなことは、別にどうだっていいんだ。大切なのは――」

 そして、俺の目の前まで来ると、

「キミとボクが二人きりだということだよ」

 その掌で俺の顔を触ってきた。

「ひゃっ――!!」

 発作が起きたからではない。純粋に身の危険を感じ、俺はその手を払いのけた。

「恥ずかしがらないでよ、ユウキちゃん。たっぷり遊んであげるから」

 だがそれでも俺に触れようとする新田の手から逃れるために、俺は身をかがめて新田の背後に回り込んだ。

「どうしちゃったの、新田くん? なにかおかしいよ……?」

「何もおかしくなんかないさ。僕はキミが――好きなんだ」

 新田が振り返り、突然の告白。

「好きで好きでたまらないんだ。ユウキちゃん」

 そしてまたにっこりとほほ笑む新田。――ゾクッ。背中に妙な寒気を感じた。

「そ、そんな……ダメだよ。そういうのは、もっと……」

「だから僕と遊ぼう――よッ」

「――ッ!!」

 新田は全力で俺を掴みにかかってきたが、間一髪で回避することに成功する。勢いを殺せず、新田はバスケットボールの籠に頭から突っ込んだが、大したダメージもなくすぐに体勢を立て直した。

「っふふふ……」

 そして不気味に笑い、じりじりとこちらに迫ってくる。俺はただ後退するしかなかった。

 さっきから妙に脚ががくがくする。手に力も入らない。きっと次捕まったら……

「ひぁっ!?」

 新田にばかり気を取られていた俺は何かにつまずき、背中から倒れてしまった。

 衝撃にそなえ、身を固くする。しかし落ちたのは体操で使うマットの上だった。

「っふぅ……――っ!?」

 安心したのも束の間。倒れた俺の上に新田が跨り、一瞬のうちに動きを封じられてしまう。

「ユウキちゃん。つーかまえた!!」

 まずい――っ!!

「はな……して――ぇ!!」

 必死に抵抗するが、すぐに腕を摑まれ、手首をマットの上に押し付けられてしまった。

「ぐっ…………!!」

 力の差は歴然だった。どれだけ踏ん張ろうが抵抗しようが、押さえこむ新田の手はピクリとも動かない。体格の差、重量の差、性別の差がのしかかってくる。

 だが、それだけではなかった。

 ――力が……入らない……!?

 ない筋肉を運搬作業で酷使しすぎたせいか、思うように力が入らなかった。

「あらら? 思ったより大人しいじゃないか。ひょっとして、ユウキちゃんもどこかで期待してたぁ?」

 普段の落ち着き払ったキャラはどこへやら。狂ったように目をひん剥いて俺を視姦しかんしてくる新田。汗ばんだ身体のにおいを嗅ぐためか、鼻をひくひくさせながら首元に顔をうずめてくる。

 不快感を覚えながら、俺は冷静に頭の中でこの状況を打破する手段を考え巡らせていた。黙ってこんな気の狂ったヤローに襲われるわけにはいかない……。

 いつもならユウナや綾乃が助けてくれた。皮肉にも一度助けられた新田に今は襲われているが……。

 だが今この状況で優希を守れるのは、俺しかいない。

 考えろ……考えるんだ……。

「さてと……そろそろお楽しみと行こうか」

 片方の手で両手首を頭の上で押さえ付けられ、もう片方の手で俺の制服のボタンを外しにかかってくる新田。およそ180センチの新田の掌の大きさは、か細い俺の両手首をつかんでおくには十分すぎた。

 ……くそっ、片手すら振りほどけないのか……っ!!

 ブラウスのボタンが一つ、また一つと外されていくに従い、俺の心は焦燥と嫌悪と恐怖に支配されていった。今でこそ人に触れても発作が起きなくなったとはいえ、一番に触れたかったのは決してこんな出歯亀野郎なんかじゃない。

「んっふふふ……いいねぇ、いいよユウキちゃん。すごくいい顔してる」

 高い位置にある狭い窓から射し込む微かな夕陽に、新田の悦に浸った顔が浮かび上がった。

 その時、俺の脳の片隅を一瞬だけ記憶がかすめた。新田の狂気に染まった顔には、なぜか既視感があった。

「――っ!!」

 ボタンを外し終え、制服の胸元を肌蹴させられ、一気に倉庫内の冷え切った空気が地肌に触れるのを感じた。

「もっと弄ってあげたら、どんな声でくのかな……? ユウキちゃんは」

 新田の手が俺のへそのあたりを撫でてきた瞬間、変な電流が身体の中を駆け巡った。

「あっ、んぅ――くッ……!!」

 声が出そうになるのを奥歯を噛み締めて必死にこらえる。こいつを喜ばせてたまるもんか。

「そんな……我慢しなくていいんだよ?」

 新田の虚ろな瞳が近付いてくる。

 ――瞬間、閃いた。

 新田は再び視線を胸元にもどし、手をかざした。

「――待って、新田くん」

 一か八か、俺はかけてみることにした。

「なんだい? ユウキちゃん」

 俺の呼びかけに応じ、動きをとめて俺の顔を覗く新田。

「ねぇ……身体で遊ぶのもいいケド……それより先に、してほしいことがあるの……」

 とろけるような、甘美な声で新田に誘いかける。

「言ってごらん? ユウキちゃんのお願い次第では、叶えてあげてもいいよ」

 俺の出す甘い雰囲気に乗り、新田まで甘ったるい声をあげる。

「その……えっとね……」

 焦らすように間を取り、

「恥ずかしがらないで言ってごらん?」

「――キス。……して?」

 魅惑の響きを音に乗せ、奏でる。

「なんだ、そんなことか。いいよ。お安い御用だ」

 新田が身を乗り出し、クチヅケを交わそうと顔を近付けてくる。ゆっくり、ゆっくりと。

 そして、目を閉じた。

 俺はその一瞬の隙を見逃さなかった。

「――ぐぉあぁ!?」

 渾身の頭突きを食らわせ、束縛から解放された両手で、痛みに悶えて重心が浮いている新田を押し飛ばし、肌蹴た胸元を隠して入口へ走った。

「誰か!! 誰かいませんか!!」

 力の限り鉄扉を叩いて叫ぶ。一時的に解放されたとはいえ、ここから出れないことには助かったとは言えない。後ろを確認し、新田がまだ起き上がっていないことを視認する。

「ここから出して!! 誰か……!!」

 しかし必死の叫びは虚しく、学園の敷地の隅に位置するこの第3用具倉庫の前を通るものは誰もいない。

「お願い……誰か…………だれ……――っ!?」

 ヒタッと首筋に、ひんやりと冷たい何かがあてがわれたのを感じた。それが何かはすぐには理解できなかったが、咄嗟に身動きを取らない方が賢明だと脳が判断し、俺の動きは強制的に封じられた。

「あまり乱暴なことはしたくなかったんだけどね……ユウキちゃんが大人しくしてないから、僕も手段を選ばせてもらうよ」

 数秒前にはまだ地面を転げていたはずの新田が、すぐ耳元でささやいてきた。唾を飲み込むのでさえ慎重にならなければいけないほど、喉元が熱い。

「僕の言うことを聞いてくれるかい?」

 俺は、新田の問いかけに黙ってうなずいた。


 あらかじめ用意してポケットに仕込んでいたのか、新田が手に構えていたのは折り畳んで帯刀できるタイプの凶器だった。下手に抵抗すると本気で殺されそうな雰囲気をまとっているため、大人しくしているしかない。

 柱に両手首を縄で縛りつけられ、成す術がないままに拘束されてしまった。こうなってしまってはもう抵抗の余地もない。こいつに言われるがままにもてあそばれてしまう……。

「そうそう。最初からそうやって大人しくしてればいいんだよ。では仕切り直しと行こうか。確か、ユウキちゃんはキスから始めたいんだってね。お望み通り、そうさせてもらうよ――ただし、また変なことしたらその時は……どうなるか解ってるよね?」

 刃先を舌の先で舐めると、頬に側面を押し付けてきた。

 抵抗しても無駄だと分かっていても、ただこいつの玩具にされるのだけは嫌だ。

「ねえ、その前に教えてよ。あんなに優しかった新田君が、どうしてこんなことをするの?」

 少しでも彼に良心が残っているのならばと訴えかける。あるいは時間を稼ぐだけでもいい。

「それはね……ユウキちゃん。僕はキミが、好きだからだよ」

「……え?」

 いたって真剣な声で再度告白する新田は、次の瞬間にはすぐに壊れた。

「好きなものってさぁ、自分の手で自分の色に染めたいって思うじゃあん? まだ誰のものにもなっていないユウキちゃんなら、なおさらにさぁ?」

 良心の欠片も持っていないんじゃないか、この男は。まるで何かに支配されているように、正気を失っているとしか――

 その時、再び記憶が脳裏をかすめていった。

 かと思いきや、今までに襲われた中でも一番激しい痛みが頭の中をほとばしった。

 そして、目の前の光景が徐々に変化していく。いや、これは――優希の記憶?


 突然雨が降り出し、狂乱に染まった男の顔が目に飛び込んでくる。手には凶器を持ったその男と、無謀にも素手で応戦する黒い影がひとつ。争いの最中、その包丁が男の手から離れ、俺の手が届く範囲まで滑り込んできた。

 黒い影がこちらに向かって何かを叫んだ。妙なスクリーンが張られており、黒い影が誰なのか、何を言っているのかさっぱりわからない。

 次の瞬間には黒い影の背後から男の顔が覗き、黒い影がドサリと崩れ落ちた。

 黒い影は地に伏してもなお、こちらに向かって何かを訴えかけ続けていた。

 ただ茫然自失と眺めていると、男は黒い影に向かって何度も蹴りを入れ、蹴って、蹴って……これでもかと暴力の限りを振るい続けた。

 むごたらしい光景から目を逸らすと、目の前で妖しく光るモノが目に留まる。

 不気味に鈍く光る――黒い凶器。

 ――そして、頭の中に重く低い声が響いた。


 ――殺せ。


「中にいる、ユウキ!?」

 鉄扉が激しく打ち鳴らされる音で我に返ると、外から聞き覚えのある声がした。

「あや…………――っ!!」

 すかさず声を出そうとするが口元を手でふさがれ、再び首筋に凶器を宛がわれた。

「しゃべったら殺すぞ……!」

 本気の殺意を込めた声で囁き、動きは封殺された。

「――もう、いったいどこにいったんだよ……ユウキ」

 外から苛立ちを含んだ綾乃の声が聞こえる。きっと居なくなった俺を心配して探してくれているのだ。

(ここにいるよ、綾乃!!)

 そんな心の声など届かないとは解っていても、祈らずにはいられなかった。

 すぐ近くに綾乃がいる。それなのに……。

「おい、いたか? ユウキのやつ……」

 もう一人、声が扉に近付いてきた。

「……お兄さんの方はどうでした?」

「いいや……他は全部探しつくしたしな。……ここは? 生徒会書記の話だと最後に運搬を頼んだのはここだって言ってたが」

「私が来た時には既にカギがかかってました」

「はぁー……」

(茜!! 中にいるよ!!)

「……本格的に手詰まりだな……」

「そうですね……」

(綾乃!! 茜!! 私はここだよ!! ここにいるんだよ!!)

「もう一度別の場所探してみましょう」

「ああ、だな」

(お願い……気付いて――ッ)

 しかし、願いは虚しくも儚く散り、二人の足音が遠ざかっていく。

 ……やがて、扉の外の気配は完全に消え失せた。

 希望の陽が、消える。

 差し込んでいた夕陽もいつの間にかなくなり、倉庫内からは光が消えた。

 水滴が、頬を伝って落ちて行った。

「――っふふふふ……はぁーっはっはっは!!」

 勝ちを確信したかのように、哄笑する新田。

 新田は俯く俺の顔を持ち上げ、恍惚とした表情で見つめてきた。

「これで、邪魔するものはもう誰もいない。キミは――僕のモノだあ!」

 新田の顔が、近付いてくる。

 もう抵抗する力など、残っていない。

 もう……――

 諦めかけた。まさに、その時だった。


 ――シャリーン。


「……鈴の音――?」

 間違いない。どこからともなく、ゆったりと柔らかく広がっていく、鈴の音がした。

「鈴……? 鈴がどうした?」

 とても懐かしくて、暖かい。


 私は――優希はこの音を、知っている。


 とても大好きな人からもらった、大切な響き。そのはずなのに……なぜこの音を忘れていたのだろう。

 大事なものをたくさん、たくさんもらってきたはずなのに。

 私は……それを忘れていた。思い出すのが、怖かった。

 大切なものが消えてしまうことが――


 ガンッ!!


 という音とともに、強烈な光が射しこんできた。光の中から黒い影が2つ飛び出して来たかと思うと、1つが新田に襲い掛かり俺の視界から姿を消すと、もう一つが俺の手を取りそのまま外へ、光の中へと連れて行かれた。

 ふんわりと甘い匂いが漂っていた。どこかで嗅いだことのある、懐かしいにおい。そして暖かくて柔らかい感触が全身を包み込み、心の奥底から込み上げてくる、安堵の気持ち。

「ユウキだいじょうぶ? 怪我してない? 何もされてない?」

 ものすごい剣幕で確認してくる綾乃に、頷くと思いっきり引き寄せられた。

「よかった……」

 俺は綾乃の胸に顔を埋めていた。見上げると可憐な一人の少女――綾乃が泣いていた。

 そこに男性に対しての反抗的で強い態度や冗談を言って笑っていた綾乃の姿はどこにもなく、整った顔を涙で滲ませ泣いていた。

「うっ……ごめんね……もう少し早く、見つけて……あげられなくて……ひぐっ」

 子供のように泣き喚く綾乃を前に、俺の心は妙に落ち着き払っていた。助けてもらえたことが心の底から嬉しいはずなのに。

 それは、触れられていても綾乃を拒むことのない自分に対する驚きと、少しの気恥ずかしさと――あともう一つ。

 思い出の中に自分を抱きしめる女性の姿を見て、今のシチュエーションとは全く別の感情がぐるぐると胸の中で渦巻いていたからだった。

 人に触れられることを拒んだのは、大切なものを失いたくないから。

 ――優希は、たしかにそう思っていた。

 けれど、今は触れることができる。

 大切なら、手放さなければいい。

 俺は綾乃を優しく抱きしめ返した。

 紛れもない、自分の意思で。

「綾乃ちゃん、ありがとう……」

 今まで突き放してきた分を報いるように。もう放すことのないように。

 だがしかし、抱擁を交わす俺と綾乃のすぐ脇を、宙に舞う新田が飛んで行ったことで感動の抱擁は終了した。

 何事かと新田が飛んできた方向、倉庫の中を見ると陽の光の届かない暗がりから誰かが出てきた。そこには制服の袖をまくり、鋭い目つきをさらに研ぎ澄まし、怒りの色に顔を染めた茜がいた。

「テメぇよくも、人の妹に手ェ出してくれたなッ!!」

 たくましい二の腕を振りかざし、新田が顔をあげたところへ重い一撃を放つ。一撃、二撃と食らった新田はそこからさらに地面に体を引きらせ、やがてどさりと倒れ伏してぴくりともしなくなった。

「まだこの程度で許されると思ったら大間違いだッ!! てめェがやったことの責任はてめェの体に叩き込んでやるッ!!」

 茜は倒れた新田の襟首をつかんで身体を起こし、さらに追い打ちをかけようと拳を構えた。

「茜、もうやめて」

 俺はその拳を、両手でそっと包み込んだ。

「なッ――!?」

 茜には普段の冷静さは微塵もなく、振り返った茜の目はいつもの3倍以上に見開かれていた。

「ユウキ、平気なのか……? っつーか、何で止めンだよ!? お前こいつに散々ひどいことされて傷付けられたんじゃねえのかよッ!? お前の分まで俺が――ッ!!」

 茜の握りしめた拳が怒りに震えていた。この手を放してしまえばすぐにでも新田を殴りに行きそうな勢いだった。

 怒りや悲しみは自分の中にだって、ある。だが綾乃や茜ほどのものはない。

 まったくこの二人は、どうしてこんなにも感情を揺り動かすことができるのか。他でもない、優希のために。

 地面に膝をつき、茜の固く握られた拳を少しずつ解いて、胸の前でやさしく抱きしめる。

「もう私はだいじょうぶ。だいじょうぶだから……殴らないであげて。ね?」

 新田は既に意識がもうろうとしていて、これ以上茜の制裁を許してしまうと下手をすれば新田が死にかねない状態だった。新田は体格だけで言えば茜に勝るとも劣らないが、刃物を持っていた新田をここまで圧倒してしまうほど、力の差は明白だった。茜の体つきが逞しいのと、素人の俺から見ても拳の筋が良いことから察するに、茜は武道経験者なのだろう。

 茜は苦虫を噛み潰したような顔でしばし苦悩していたが、すぐにいつもの冷静さを取り戻したのを確認して俺は茜の手を放した。

「ぐっ……チッ、納得いかねえが、分かったよ。だがせめてどうしてこんなことしたか理由を聞かないことには、腹の虫が収まらん。……なあおい、聞こえてんだろ。何とか言ってみろよ」

 茜はマウントポジションを取ったまま、新田の胸ぐらをつかみ上半身を揺さぶった。

「うっ……うぅ……」

 顔を赤く腫れ上がらせ、苦しそうにうめき声をあげる新田。顔にはいくつかあざができていた。

「黙ってねえで何とか言えよ!」

「茜、落ち着いて」

 またすぐに再燃しそうな茜を宥めてやっと、茜が新田を解放する。

 苦しそうに嗚咽を漏らし、息を絶え絶えにしながら呼吸を整え、やがて新田が掠れた声を絞り出した。

「うぐっ……知らないんだ……」

「は?」

「まったく……覚えていない」

「そんな言い訳が通用するとでも」

 新田の主張を聞いて、再び拳を振りかざす茜。俺は茜の動向をいち早く察知し、すぐに声を張り上げた。

「茜!! ……お願い、やめて。新田くんは嘘をついてない」

 茜は激昂の色に染めた目を俺に向けてきた。

「……おいユウキ、まさかこいつの言ってること信じるんじゃねえだろうな?」

「……まだ解らないよ。でも、私は信じたい」

「なんで…………――はぁ」

 まだ何かを言おうとした代わりに、茜はため息を吐いた。

 根拠はないが、本当に彼が嘘をついているようには思えなかったのだ。倉庫内にいた彼はどこか正気ではないように見えたし、今話している彼からは前と同じニオイがする。初めて俺を助けてくれた、あの時の優しい彼だ。倉庫の中とは別人のようだった。

 痛々しい顔で息も絶え絶えな新田に歩み寄り、俺は問うた。

「新田くん。どういうことかちゃんと説明してくれる……?」



「――ったく、お前ホントバカじゃねえの?」

 学校から駅までの帰り道。俺の数歩後ろを歩く茜が苛立ちを込めて罵ってきた。

「そんなにバカバカ言わないでよ……バカじゃないもん」

「いいや、相当なバカだ」

「もう……! 綾乃も何とか言ってよっ」

「呆れるほどのバカだね」

「綾乃までそんなこと言う……」

 隣りを歩く綾乃も俺と目線を合わせようとしてくれない。学校を出てからずっとこの調子だ。

「だって、あんな分かりやすい嘘を素直に信じるユウキがおかしい。ユウキは人のことを疑うことを覚えた方がいいよ、絶対」

「そもそもお前はあいつにひどいことされたんじゃねえのか。腹立たねえのかよ」

 口々に異議を唱える綾乃と茜。

「でも何かされる前に助かったんだからさ……」

「それはあの時私たちが引き返して新田の声をたまたま聞いたからなんだよ、分かってるのユウキ? もう少しであんたの大切な処女、全部あいつに奪われてたかもしれないのよ?」

 綾乃の言葉を聞いて爆発しそうな勢いで顔が赤くなった。

「しょ――っっ!? あ、えっと……そ、そんなこと言われなくたって……わ、分かってるよ……」

 また平然と綾乃は恥ずかしい言葉を……。

「別に、私だって誰でも信じるわけじゃないもん……」

「「どの口がそれを言うか!」」

 この二人を敵に回すと精神が極限にまで擦り減らされそうだ。

 俺自身、新田からされたことを許したわけじゃない。だが、茜と綾乃に助けてもらう前後であまりにも新田の性格に変化がありすぎることが気がかりだった。

 あの後新田に説明を求めたが、

「――今回、ユウキちゃんを襲ったことは何も覚えてない……だけど、どうしてこんなことになったか、心当たりがある。……頼む、俺に一日だけ時間をくれ!! そしたら、警察に突き出すなりなんなりしてくれて構わない……お願いだ。一度だけ……俺にチャンスをくれないか――」

 新田の語り口も、雰囲気も俺に襲い掛かってきたときとは全く違うものだった。あの必死さは、綾乃と茜は胡散臭い芝居だとしか思っていないが、俺には嘘をついているようには見えなかった。

 それに加えて、気がかりがもう一つ。

 ユウナの居場所を知っているかどうか新田に問いかけると、

「もしかしたら、ユウナちゃんがどこにいるか解るかもしれない」

 と言ったのだ。

「まだ断定はできない。確かめてみないと……。明日の夜――それまでに、そのことも含めてユウキちゃんに必ず連絡をするから。頼む。この通りだ……」

 新田の心当たりとは一体何なのか。チャンスとはなんなのか。調べればユウナの居場所を解るかもしれないとは、いったいどういうことなのか。それら全ての理由は「今はまだ言えない」としか新田は口にしなかった。

 一日経てば、すべての謎が解けるのだろうか。

 学校で少しだけ充電させてもらったが、依然としてユウナからの連絡はないままだった。

 新田を通報したところで、ユウナが帰ってくるわけではない。

 俺はどちらにせよ、ユウナの所在を掴めるかもしれない新田のことを信じる以外の選択肢がないのだ。

「ユウナのためにも……信じたいんだ」

 俺に残された時間は、もうわずかだ。ユウナに辿りつくためのほんの少しの可能性でもあるのならそれにすがりたい。

 そして最後の1秒まで、諦めはしない。

 

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