第12話 ~嘘~

「何見てるの? ユウキ」

 夜。寝る前に部屋でアルバムを眺めているとお風呂あがりのユウナに声をかけられた。火照った体を冷ますためか、パジャマを肌蹴させている。ちらりと汗ばんだ肌が目に留まり、ユウナから慌ててアルバムに視線を戻した。

 黙ってアルバムの装丁を見せただけでユウナは理解してくれた。

「うげっ」

 と、ページを遡ってみていると、遠目に覗き込んでいたユウナが顔を歪める。

 そのページの写真には、

『雫希14歳 茜くんと七夕ちゃんと』

 とタイトルが記されていた。桜の木を中央に双子と二ノ宮兄妹が左右に分かれて立っていた。楽しそうにピースをして笑う優希とは対称に、手をつないでいるユウナはしかしどこか虚ろな表情を浮かべていた。反対側の茜は相変わらず無愛想な顔で、その隣の初めて見るツインテールの女の子――七夕なゆちゃんは口元にうっすらと笑みを湛えて小さくピースをしていた。兄妹というだけあってやはり雰囲気はどこか似ていて、兄同様整った顔立ちをしていた。双子より二歳年下ということは、この頃は十二歳だが、年齢の割には大人びた印象を受ける。

 だが、中でも俺が一番驚いたのは、ユウナの髪が金色をしていたことだ。

「ユウナ、染めてたの?」

「うぅ……うん。実は昔ちょこっと、ね」

「やさぐれてたワケだね」

「は、はい。わたしにもそんな時代がありました……」 

 なるほどユウナの黒歴史というやつだろうか。あまり思い出したくないその気持ちは痛いほど解る。黒歴史に関しては誰しもあまり触れられたくないものだ。俺だって、今朝のことを思い出しただけで全身がむず痒くなるからな。

「ふむ……でも、これはこれで可愛いな」

 まるでアニメに出てくる美少女のようだ。

「そ、そうかな……。周りからは不評だったんだけど」

「もちろん今の方がもっと可愛いけど、金髪にしてもそのキューティっぷりはさることながらってえぇぇぇぇぇぇ!!」

 慌てて口元を抑える。

「まさか……口に出してた?」

「思いっきり?」

 俺の問いに首をわずかに傾げて照れくさそうに笑うユウナ。頬は赤く、流し目でこちらを覗くその瞳に俺の心が射抜かれる。

「ど、どうしたの、ユウキ!?」

 こ、今夜はなんだか一段と破壊力が増している……? いや、まさか日に日に耐久値が削り取られているとでも言うのか――ッ!? 回復、回復ぅ……

「またわたし何かしたかな……?」

 屈んで覗き込んできたせいでユウナは上目遣いで心配そうな顔をしていた。ぐはっ。

「だ、だいじょうぶ……ちょっとのぼせたみたい」

 目のやり場に困ったときの常套手段となりつつある、すぐにゴマたんを抱く所作は不自然さを感じさせずに気を紛らわせる一番の方法だ。

「のぼせたっ……て、ユウキお風呂に入ったのわたしの前だよね? ……相変わらず変なユウキ」

 くすりとユウナが笑う。

 いつもながら、俺が挙動不審な行動をしても不思議と怪しまれていないのが幸いだ。記憶がないというステータスは、思った以上に俺の行動にかかる制限を減らしてくれていて助かる。変な行動をとっても、記憶が無いからという理由で早々に思慮を中断してしまうのだから。

 そうでなくては、家族であるユウナの目をごまかせるはずがない。

 明日も島袋さんと面会することになっている。彼もどうやら昔のユウキを認識しているようだし、"素の自分"がでないよう気を付けなくては。

 床に投げたアルバムを拾い、さらにページを遡ってみる。ユウナの言うとおり、ある一定の期間は髪を金色に染めていたらしく、途中何枚かの写真は金髪のユウナが写っていた。だが、どういうわけか髪を染めたユウナは、どの写真でも無表情だった。カメラに対してピースを忘れない優希とは違い、全くこちらを意識していないといった風なご様子。

 今のユウナからは想像もつかない、暗い表情のユウナ。カメラに映るユウナの目は、恐ろしく冷めた瞳をしていた。

 ズキッ。頭に激痛が走る。

 あの名前を聞いて以来、何をしていても度々頭痛がするようになった。何か、優希と関係があるのだろうか。

「ねぇ、ユウナ。――『御影セツナ』さんって、知ってる?」

 ドライヤーで髪を乾かしていたユウナに尋ねてみる。声が小さすぎて聞こえなかったのか、無反応だった。

「ユウナ」

 もう一度呼ぶと、やっと耳に届いたらしい。ユウナが動かしていた手を止めた。

「どうしたの?」

「『御影セツナ』さんって、知ってる?」

 同じ質問を投げかけるが、しかしユウナは少し考えるそぶりを見せた後、首を振った。

「知らないよ。ユウキ、その名前どこで聞いたの?」

「うーん、ちょっとね」

「そっか」

 濁した言葉を対して気に留めず、ユウナはドライヤーのスイッチを再び入れた。温風に乗って、シャンプーの甘い香りが漂ってくる。

 さすがに、ユウナが知っているはずもないか。そもそも二ノ宮家が山田妙子と繋がっているのかどうかすら怪しいというのに。

 何か重大な手がかりがつかめるかもと思ったが、そう簡単に解明できるものでもないらしい。

「そういえば、ユウナのクラスはどう、上手くやれてる?」

 気分を変えるために別の話題を振ってみる。これ自体はもともと直接聞いてみようと思っていたことでもあるが。

「それはこっちのセリフだよ。綾乃ちゃんがいるから大丈夫だとは思うけど、だいじょうぶ?」

 心配には及ばないと言わんばかりの質問返し。

「思ったよりみんな優しくて、なんとかやれてるよ」

 俺が周りとの距離を気にしているということもあるが、周り(主に綾乃)が常に目を配ってくれているおかげで、誰かと直接触れ合うことなく一日平穏無事に過ごすことができた。綾乃仕込みの大胆すぎる自己紹介(?)のおかげだとは思いたくないが、人に触れさえしなければ発作が起きることはなくなった。

 そういう点では、少しずつ人に対する恐怖心というものは減ってきている。

 しかしなぜあんなことしなければいけなかったのか、綾乃の言葉をもとに授業の合間に自分なりにいろいろ考えてみた。

 結果、これまでの優希に各々が抱いていたイメージの払拭、キャラの書き換え、クラスの中での味方の確保、存在の認知、そして入れ替わっていたかもしれないという事実のカモフラージュではないか。

 イメージの払拭は言わずもがな、あの事件を起こした狂暴性が優希にあるかもしれないということと、対人恐怖症で暗い性格になっている付き合い辛い相手であるという偏見を見事に吹き飛ばした。キャラの書き換えは、まああんな自己紹介したら嫌でも別人のように変わってしまったと思うだろう。味方に関しては綾乃も力説していたが「アイドル級にカワイイ女子に味方しない男子はいない」と。俺もまず間違いなく味方する。まあさすがに今朝のはやりすぎだが、元ネタがオーバーらしいので良しとしよう。存在の認知とカモフラージュは、昨日まではショートカットのユウナが優希を装って登校しており粛々と授業を受けていたが、今日になり髪が伸びたという、注視すれば誰しもが疑問に思うであろう事実を、その他諸々の強烈すぎるインパクトを植え付けることで、疑心の芽すら育ませないという算段だ。

 俺にはよく解らないが、そうでもして意味付けをしないと恥ずかしくて死にたくなる。もし本当に綾乃がそれらすべてのことをあの僅かな時間の中で考えて作戦を決行したのだとしたら、相当なキレ者だ。ユウナも言うように、本当に頼もしいクラスメイトである。

「良かった。私はユウキが上手くいってるなら、それでいいんだ。それじゃあ、おやすみ」

「うん。おやすみ」

 就寝の言葉を交わし、ユウナは自室へ戻っていった。

 ふぅ。と自然とため息が零れ、ベッドに倒れる。一緒に寝たのは、初日だけ。隣で寄り添って寝ることができたらどれだけ幸せだろうかと妄想を膨らませながら、開いていたアルバムを閉じ俺は静かに眠りに落ちて行った。


 ♪


 ふぅ。と自然とため息が零れ、ベッドに倒れる。

 まだ少し、心臓がバクバクしている。

 少しずつ、だが確実に状況が変化していく。

 急に優希が別人のように変わってしまったことも。急に学校に行くと言い出したことも。急に優希があの名前を口にしたことも。

「なんで……こうも現実は」

 涙が流れそうになる。自分が今まで創りあげてきたものが、いとも容易く壊されていく。

 ――優希によって。

 それは嬉しいことだ。だが同時に、不安で仕方がなかった。

 優希を守るためにしてきたことが、優希本人の手で壊されていく。

 嬉しい。でも、怖い。

 私の心は、ごちゃごちゃしていてよく解らない。

 私自身も。

 本当は何を望んでいるのか。

 ――まだ眠ったままなのかい?

 今日の放課後、出会い頭に言われた男子の一言が頭をよぎる。

 彼の目は、まるで心の奥底を見透かされているようで、嫌いだ。

 でも、私自身が解っていないことを、他人が知っているはずがない。

 だいじょうぶ。

 うん。

 私は、眠ってなんかいない。

 私は――


 ♪


「はい、これ」

 Aクラスの教室前。ユウナと別れた後、突然俺の教室を訪れたユウナが手に持った布袋を差し出してきた。

「なにこれ?」

「体操着。今日体育あるでしょ、ユウキのクラス」

「あー……」

 そういえばそんな科目が時間割に書いてあったような気もしないでもない。

「今日はとりあえずわたしの体操着使ってくれる? ユウキの時間割すっかり忘れてて」

「いまなんと!?」

「え? ユウキの時間割すっかり忘れてて体操着用意してなかったから……」

「その前!!」

「……わたしの体操着、使ってくれる?」

 ホワァァッツ!? なんだこの展開、ファンタスティックすぎる!!

 なんということだ、合法的に美少女の体操着を手にすることができる日が来るなんて!! これでユウナのニオイを誰の目も気にすることなく嗅ぐことができる!!


 ――ピコッ。


 いや待て、待つんだ少年ボーイ。そんなことして良いのか、うん? そんなふしだらなことをすれば変態路線まっしぐらではないのかッ!? そんなことして純真無垢な目の前の少女と今後顔向けできるのか――ッ!?

「あ、ひょっとしてわたしのじゃ、あれかな……イヤ?」

 ほら見ろ!! ユウナはユウキのことを心配して申し訳なさげにもじもじとしてしまっているではないか!! その間にヘイ、ボーイ。お前が考えていることはなんだ!! なんてはしたないんだ!?

「そんな、そんなことないです! そんなこと! 喜んで使わせて頂きます、むしろユウナの使用済み――」


 ――ピコッ。


「――っていうか、別にユウナのだからとかってそこまで気にしないから大丈夫!!」

「……そう? よかった」

 安堵の息を漏らすユウナ。俺は弾む心を悟られまいと、平然を装って体操袋を受け取った。

 どうしよう、俺今とてつもなくドキドキしているよ。体操袋を受け取っただけで微かに漂ってくるこのにおいは――

「一応言っておくと、ちゃんと昨日洗濯したから大丈夫だよ」

「あ、うん。そうだよね……知ってた」


 気持ちいい柔軟剤の香り。



 登校初日である昨日に比べて、自分で言うのもなんだが俺はクラスに馴染んできていた。綾乃や川越さんを始め、暖かく迎え入れてくれる人が多いというのが理由だ。皆も俺を見かけたら明るく挨拶をしてくれるようになったし、教室内で俺とぶつからないよう常に目を配ってくれている。自分の席から動くことが少ない俺の周りに集まってくる男子を、女子が払いのけてくれたりもした。とはいっても積極派の男子はごく一部で、クラスの大半の男子は俺のことを天使と称し崇め奉る派閥か、遠くから視ているだけで満足勢に分かれているらしかった。俺がもし男子のまま優希のクラスメイトだったとしたら、天使と称して崇め奉りつつ遠くから拝見して眼福を賜る勢だったことだろう。

 俺としてはガールズトーク全開の女子よりも男子と話している方が気楽でいいのだが……変に神格化されてしまった現状、男子との距離が縮まらないのなんの。

 とはいえ女子と話すのもなんだかんだ楽しい。だがしかしトークスキルのない俺は話を振られてもあまり面白い話題を返すことができないし、俺がいても居なくても女子トークの盛況度合はさして変わらない。ただ話に混ざって相槌を打っているだけということも多々あったが、他愛の無いことでも大げさに乗っかって笑いあう女子たちの平和的な歓談は、授業の合間に僅かながらも疲れを癒すまたとない機会だった。

 そうしてなんだかんだ女子と打ち解けている俺だったが、よくトイレに一緒に行かないかと誘われる。――正直これが一番困った。本当に用を足したい時はなおさらに。

 ただでさえトイレに行くときは普段誰も立ち寄らないような体育館脇のトイレまで足を運んだり、運動場へ向かう途中にある更衣室の中のトイレを使用しているというのに。

 そもそも大体女子がトイレに一緒に行かないかと言う時は、ガールズトークる人や身だしなみを整える人がほとんどで、本当に一緒に用を足しに行くわけではないのに一緒に行く必要があるのかとか、少々疑問に思うことがある。

 そのときばかりは、女の子でいるのも中々に気を張って疲れるものだ、と俺は痛感した。

「ふへぇ~」

 授業終了のチャイムが鳴ると同時に机に突っ伏し、身体を弛緩させる。

「どったのんユウキ。ひどくおつかれ?」

 そんな俺を見ていち早くやってきたのは綾乃だった。

「あぁ、綾乃様。お久しゅうございまふ」

「何言ってるのユウキ。さっきも話したばっかりじゃない」

「うん。そうだね……。そうだった……」

 これだけ腑抜けた態度でも接することができる綾乃は、やはり安心感がある。これが友達、というやつなのか?

「それよか、次は体育だけど、ユウキはどうする?」

「あ――っ」

 ついに来てしまった。この時間が――!!

 見学するというのも一つの手だが、事前に担任の安西先生に相談してみたところ「体調が悪いワケでないなら出ていいんじゃないか? 出席は取れる内に取っとくもんだぞ。幸い、まだ身体測定の授業だから他人との距離を気にする必要もないだろう」と見事なまでの正論で返されてしまった。ただでさえユウナが代理で取ってくれていた出席を無駄にするわけにも行かず、しずしず綾乃の後ろをついていくことにした。

 体育と言えば、まあ当然のようにある問題が立ちはだかるワケで……。

「何してんの? ユウキ」

 壁にそって壁だけを見ながら歩く俺を不審に思ったのか、綾乃が声をかけてきた。

「いや、その……周りを意識しないように……?」

「教室でそんな動きしてなかったけど」

「教室とここじゃ状況が大分違うんだよっ」

「そういうものなの?」

「そういうものなのっ」

 とにかく周りを見てはいけない。電車の時とは違う意味で、周りを見たらいろんな意味で死んでしまうだろう。

 だが、人間の視野というものは思ったよりも広く、意図せぬところで視界の隅に艶やかな花園がよぎってしまう。

 ロッカーの扉を開けようと指をかけた瞬間、隣にプロポーション抜群の綾乃の肌色が目に飛び込んできた。

「……っ!!」

 ダメだ。やめろ。考えるな。意識を集中しろ。コンセントレーションを高めろ。

 自分の荷物を入れるロッカーの前に立ち、深呼吸をする。

 目を瞑り、いつもやっている所作を思い出しながら手探りのみで着替えを始める。ブラウスのボタンを一つずつ解いていき、上から脱いでいく。耳に入ってくる女子たちの嬌声の中、もくもくと着替えを進め、ユウナの体操着を被る。頭を通した瞬間から柔軟剤の甘い匂いが鼻腔の周りをくすぐった。ぐッ――だがしかしいくら洗濯したと言えどユウナのモノであることに変わりはない。なんだか少し背徳的なニオイを覚えつつ、安心安全安定の心臓フル稼働で下も着替えることに成功する。

 着替えるのに若干時間がかかったおかげか、着替え終えるころには他の女子は着替えを終えていた。喋りながらでも着替えるのは俺より早いのね……。

 それにしてもさすが双子というべきか。サイズは寸分違わずぴったりだった。出口のところで待っていた綾乃と合流して、第一グラウンドへ走った。


 さんざん張り切って体を動かした体育の授業も終わり。綾乃が先にどこかへ行ってしまったため、他の女子と着替えの時間をずらして更衣室に戻ると、中にまだ誰かひとり残っていた。

「二ノ宮……」

 人気が無いせいでその子はすぐにこちらに気付き、声をかけてきた。

「お、おつかれ……赤城さん」

 彼女は俺に敵対心をむき出しにしていた赤城あかぎ由利ゆりだ。まさか赤城と二人きりになるとは思ってもみなかった。

 き、気まずい……。

 赤城と背中合わせに着替えをするが、なんともいえない重たい空気が漂っていた。それもそのはず。優希に成り代わっていたユウナに対し嫌がらせをしていた張本人だ。だが同時に優希の対人恐怖症の最初の被害者でもあった。

 教室で綾乃と口論をして以来赤城が俺に絡んでくることはなかったが、廊下ですれ違う際に睨まれることが多々あり、未だによく思っていないことは一目瞭然だった。

 何か話題を振ろうかとも考えたが、こちらからもなかなか話しかけることはできず、ただもくもくと着替えを進めていると――

「ねぇ」

 突然の赤城の呼びかけに振り向こうとした、その時だった。

「……ッ!!」

 背後から赤城が覆いかぶさるように抱き付いてきた。着替えの途中で上半身下着姿だった俺の背中に、同様に着替えの途中だったらしい赤城の地肌のぬくもりが伝わってくる。

 即座に全身に電流が走った。

 半裸の女子に抱き付かれた、なんて呑気なことを言っている状況じゃなかった。全身をぐるぐると負の感情が駆け巡り、激しい心痛が襲ってくる。――発作だ。

 すぐに意識が飛びそうになり、慌てて赤城を押し飛ばそうと防衛本能が働く。

 そこで俺はすぐさま理性を呼び起こし、突き飛ばそうとした勢いを殺す。今まで何度も感情に支配されてきたが、何度もそうさせるわけにはいかない。

 しかしそれでも赤城を振り払おうとする優希の身体は痙攣を始めた。気が狂いそうになる。今すぐにでも発狂してしまいたい。

 ――ダメだ! 気をしっかりもて! 今ここで彼女を突き飛ばしたら、また……!!

 全身がこわばり、呼吸を忘れていたことに気付き、急いで肺の奥深くまで空気を吸い込む。空気はなんとか取り込めたが、胸が押しつぶされそうな痛みが引くことはない。次第に視界が歪み、ジリジリと目の前が焦がされていくような感覚に襲われる。

 意識が飛びそうになる。身体の暴走を理性でもって止めようとしても、抑え切れそうにない。

 ところが次の瞬間、背中にまとわりついていた赤城がそっと離れていった。

 俺は咄嗟に目の前のロッカーに身体を預け、倒れそうになった体を支えた。だが脚は相変わらずガクガクと震えており、手で支えようにも神経がまるでいうことを利かないために、床に崩れ落ちてしまう。

「なんでよ……なんで抵抗しないのよ……!?」

 頭上から赤城の震えた声が降ってきた。

「嫌なんでしょ? 他人ひとに……私に触れられるのが嫌なんじゃないの!?」

「辛いよ……苦しいよ……」

「だったらなんで……? 前に私を突き飛ばしたみたいに、拒絶すればいいじゃないッ!?」

 赤城がなぜそこまで叫ぶのか俺には理由が分からなかった。

 優希に対する嫌がらせ……いや、そうじゃない。

 彼女は根っから優希が憎くて嫌がらせをしているわけではないことは、彼女の目を見てすぐに分かった。

 もしも本当に、ただ嫌がらせをするためだけにしたのだとしたら。

 彼女の目は、そんな悲しい目をしていなかったはずだから。

「……そうすれば、もっと辛いから、だよ」

「え……?」

 近くにあったパイプ椅子を使い、腕の力でなんとか身体を起こす。

「……ふっ、くっ……そんなことしたら……赤城さんが余計に辛くなっちゃうからだよ……」

「立つのもやっとのクセに、何強がってんの?」

「この苦しみは……わたしだけが耐えれば済むものだから。もう誰かを拒絶して、悲しむ顔を見るのは――優希わたしは嫌なんだよ」

 昨日の記憶が脳裏を過る。綾乃はなんてことない風を装っていたが、彼女を傷つけてしまったことは変えられない事実だ。

 ――だが、これからのことならば変えていける。祐樹おれが変えようと思えば、変えていける。負の感情に流されそうになった時、俺がなんとかしなくては――優希を守ってやらなければ、周りを傷つけ、それでまた彼女ユウキを傷つけてしまうだけだ。

「赤城さんのことも、もう傷つけたくない」

 やっとの思いで立ち上がり、赤城と対峙して告げると、彼女は表情を歪ませわなないていた。

「なんで、そんなに――これじゃあまるで本当に……!!」

 そして上着を急いで着こむと、赤城は走って更衣室から出ていった。

 俺は結局そのあとまた足元から崩れ落ち、始業のベルが鳴るギリギリまで更衣室で休むはめになった。

「無理して強がるもんじゃないね……」


昼休み。

「というわけで、クラスで一番早いで賞は、見事ユウキちゃんがとりましたー」

「ぱふぱふー」

 昨日約束した通り、俺は川越ズと綾乃と机を寄せて食を囲んだ。ユウナに確認のメールを入れると、「生徒会の人たちと一緒に食べるからいいよ」と返事がきた。

 ちなみに、今日のお弁当も茜が届けてくれたものだ。茜は相変わらずツッケンドンで、昨日ほど特に会話をすることもなく「勉強で忙しい」と言ってさっさと帰ってしまった。対照的にクラスメイトの女子は、クールな態度で可愛らしい風呂敷を持ち歩く茜様の図を拝見できたと盛り上がっていた。あの画はなんというか、ギャップがあって面白かった。

「ユウキちゃんに負けた感想はどうですか、綾乃ッち?」

 そしてなぜか昼休みに行われた短距離走の話題になり、川越さんがインタビュアーよろしく質問する。

「ほう、傷をえぐりにくるか、いい度胸だな?」

「ひゃーこわい。インタビュー中止しますっ」

 川越さんは綾乃の扱いに慣れているらしく、綾乃のキャラを逆手にとって俺の笑いを誘った。

「でも、わたしが勝てたのは短距離走くらいだよ。やっぱ綾乃ちゃんは運動神経抜群だね」

 その他の競技は遠く及ばず、改めて綾乃の運動神経の高さを思い知らされる結果となった。護身術を習っているというのは身のこなしから本当のようだ。

「そんなことないよ……」

 俺の言葉に対しては妙にしおらしく反応する綾乃だったが、

「二人とも運動神経いいんだから、運動部にでも入ればいいのに。それが嫌なら、被服部でもいいよ?」

「いいんだよ?」

「グリーンダヨー」

「断る」

 川越ズのよくわからない勧誘に対しバッサリ。

「綾乃ちゃん即答ですかっ!? ……ユウキちゃんは?」

「ことわる」

「アウチッ。痛恨のダブルテクニカルノックアウトほッ!?」

 綾乃のマネをすると川越さんは机の上に伏せてしまった。オーバーリアクションは川越さんの特徴の一つだ。

「もう少しノってくれてもいいですのに」

「いぐざくとりー」

 と、川越さんの言葉じりにいつもアクセントを加えている二人が意見を口にした。

「そういえば、まだ川越さんの名前しか聞いてなかったけど、二人の名前も聞いていい?」

 そろそろ川越ズで一括りにしておくのもアレなので尋ねてみると、突如活力を取り戻す川越さん。

「よぉし! それじゃあ――あっちゃんいつものゆったげてん♪」

「どーも。私は中田敦子あつこです」

 川越さんのノリを意にも介さず、落ち着いた調子でマイペースに自己紹介をするのは中田さん。敬語を使って話すが、ふざけたりするときは全力だった。

「あぁ、軽くスルーされたよ!? いつものあっちゃんじゃない!?」

 川越さんが発狂を始めた。

「とまあシェフのことはスルーしまして、この子は」

「シェフ――っておーい!! そんな爽やかスマイルできないようい!!」

 ……あ、隣の綾乃の目が死んでいる。

「こんにちは、ボブ・マーリーです」

「「なんでやねん!!」」

 川越ズ全力のボケ&ツッコミ。ワケが分からないが笑ってしまった。

「嘘です。笹瀬ささせ茉利奈まりなです。ヨロシク、優希ちゃん。マリナってよんで?」

「うん、よろしく、ま、茉利奈」

「あぁ……呼び捨てにされた……」

「あ、ごめん。急に馴れ馴れしかった?」

「……嬉しい」

 顔を赤らめ、両頬を抑える茉利奈。どうやら彼女は独特なテンポをお持ちらしい。突然、息をしていなかったはずの綾乃が茉利奈の言葉を聞いてガタンと勢いよく立ち上がった。

「あ、ずるい、私は『綾乃』ってよんで!!」

「じゃあ私は『美沙りん』ってよんで!!」

「じゃあ私は『キャサリン』ってよんで!!」

「じゃあ私は『マリリン・モンロー』って」

「「「それはおかしい!!」」」

「いっつまーべりっく」

 どう考えてもキャサリンもおかしい。

 そんなこんなで五人で食事をしているうちに、あっという間に昼食の時間は過ぎ去っていった。


 ♪


 おかしい。絶対におかしい。

 何がって言われても自分でも良くわからない。ハッキリとした根拠があるわけでもないが、なんとなく違和感があった。

 その程度でしかない。


 ――居場所を失った気持ちは、どこへいくんだろうね?


 どこの馬の骨とも知らない男子に言われた。

 どうでもいいやつの言葉なのに。興味もない男子の戯言だというのに。

 その言葉が、やけにずっと心に残っていた。


 ――君の考えは正しい。君は真実がちゃんと見えている。だから、君は自分を抑える必要はないんだ。


 回りくどい、なにが言いたいのかもよく解らないセリフだというのに。


 ――君が望むものを見つけるんだ、さあ。


 だが、"それ"を見た瞬間に私は確信した。

「――見つけた」

 私は、間違ってなんかいないのだと。


 ♪


 放課後。島袋さんとの約束の時間までの時間を潰すべく、俺は綾乃と共にユウナの元を訪れていた。

「え? ああ、二ノ宮さんは授業終わって早々にどっかに行っちゃったよ」

 クラスの委員長を名乗る女子が代わりに不在を教えてくれた。

「でも大変だよね。二ノ宮さん。なんて言ったっけ、対人恐怖症? 随分苦労してるんだね」

 どこからか聞いたのか、急に俺の話をし出す。

「まあ、そうだね。でも皆のおかげで大分よくなったよ」

 俺はありのまま伝えたつもりだったのだが、その女子は何故か目を丸くした。

「そんな。あたしたちは何もしてないよ。むしろなんかした方が良いのかなって思っちゃうくらい」

 ――ん?

「でもなんだかんだいって最終的には、あたしたちが変に気遣うよりも、そっとしとく方がいいのかなって」

 なんだか話が噛み合っていない。そう思うのは、当然のことだった。

「だってほら――」


 その後生徒会室を訪ねてみたが、そこにもユウナの姿はなかった。

「あれ、今日はいちねんっころの召集かけてないけど? 手伝いたいなら手伝ってってくれてもいいけどんぅ?」

「「あ、いえ、遠慮しておきます」」

 気さくな生徒会の先輩の勧誘から逃れ、俺たちはひとまず学校を出ることにした。

 島袋氏との約束の時間まではまだ大分あるが、道中何があるか解らないので早めに向うに越したことはない。

「それにしても、変だな」

 綾乃も俺と同じことを考えていたようだ。

 歩きながら、先ほどした女子との会話を思い返す。


「だってほら――ユウナちゃんってさ、ユウキちゃんみたいに、こうやって普通に話せるほど明るい子じゃないから」

「ちょっと待って、それってどういうこと?」

 予想外の言葉に、綾乃が思わず聞き返した。

「え? どうも何も、まんまの意味だけど……。だって、対人恐怖症なのってユウナちゃんのことじゃないの?」

「なんじゃそら……」

 その言葉を聞いて、綾乃が頭を押さえた。俺もまったくもって同じ気持ちだった。まさか、ユウナがしてきたことの弊害がこんなところに現れていようとは想いもしなかった。

「え、そうだったの? じゃあなおさら、あの子があたしたちを避ける理由が解らないなあ――?」

 だが、ユウナの周りに対する接し方にも問題はあるらしい。


「綾乃ちゃんがユウナと初めて会ったのって、先月だもんね」

 隣で歩きながら考え込む綾乃に確認をする。

「……うん。悪いけど、昔から知ってるわけじゃないんだ」

 一番好くしてくれている綾乃でさえ、付き合いはまだ一ヶ月足らずしかない。俺はその半分もない。その状態で、ユウナという人物を解った気になっていただけなのかもしれない。

 ひょっとしたら、俺は重要なことを見落としていたのかもしれない。

 よくよく考えればもっと早くに気付けていた。

 ユウナはユウキの代わりに学校に通い出席をとっていた。だが、決して周りとの友好関係を深めようとはしていなかった。綾乃がたまたまユウナの傍に着いてくれていたというだけだ。

 ――そう。ユウナはユウキの対人恐怖症まで演じる必要はなかった。ユウナはもっと早くに綾乃に対人恐怖症のユウキに替わって出席をとっていることを告げても良かったはずなのに、それをしなかった。Aクラスの者たちであれば、もっと早くに受け入れる体勢ができていたはずなのに、誰とも話をせず、根暗キャラであることに徹した。


 ――なぜか?


 しなかったのではなく、できなかったのではないか?

 やろうと思えばもっとうまく立ち回れただろうに、ユウナはそれができなかったのだ。

 わざわざ自分から辛い道を歩くユウナに俺は少なからずの疑問を抱いていたが、今ようやく理解した。

 なんて不器用なんだ、ユウナ……。

 挙句対人恐怖症なのは二ノ宮優雫の方ではないのかと、事情を詳しく知らない者に勘違いさせてしまうほどに、ユウナは人付き合いが不得手だった。

「全然ユウナのことわかってなかった……」

「私も『ユウナなら大丈夫だ』なんて。とんだ知ったかこいてたワケだ。あんときの自分を殴り飛ばしたいね」

 ユウナは一度壁を乗り越えてしまえば仲良くできる人柄ではある。しかしこと新しい環境でのその難しさというのは、俺も十分解っていたはずなのに。しかもユウナはあのクラスでは長期欠席扱いになっていた。歩み寄ってくれた人はいたようだが、不器用さ故にそれでも上手く馴染めなかったのだろう。

 もっとユウナのことを気にかけてやるべきだった。今まで自分がクラスで上手くやっていくことばかりで、ユウナが周りと仲良くできているかどうか考えたことなんてなかった。

「思えばユウナ、クラスでの話題とか避けてたな。昨日も上手くはぐらかされちゃったし」

「とことん自己犠牲野郎だな……。そういえば、ユウナから連絡は?」

 学校を出る前に『どこにいる?』とメールを送ったが、それに対する返信はなかった。

「――ダメ。電話もかけてみたけど、繋がらない」

「あー、もう。むしゃくしゃするなー。いったいどこで何してんだぁー」

 俺たちは胃に落ちないモノを抱えたまま、目的地へ向かうべく電車に乗った。


 ♪


 某ホテルの廊下。高級感あふれる内装。来るものを落ち着かせるためにやさしく淡く輝く燭台型のランプに映る二つの影。歩いても足音が鳴らないほど柔らかい絨毯の上を歩く二人の少女がいた。

「ねえ、本当にこんなところに――」

「しっ。いいから。あたしのこと信じてついてきてよ、ね?」

 先導する少女――赤城由利は半ば無理やりに手を引き、後ろを歩く少女――二ノ宮優雫は疑心暗鬼になりながらも抵抗することなく後ろをついて歩く。

 そして、赤城はある部屋の前まで来るとポケットに入っていた鍵を取り出し、それを鍵穴に差し込む。

 薄い割に重量感のあるドアを開き、二人は中へと足を踏み入れる。室内は二十畳ほどの広さ。壁際にダブルサイズのベッドが置かれ、その反対側の暖炉を模したインテリアの前に向かい合ったソファがテーブルを挟んで並べられている。普段見ることのないブルジョアジーな家具を前に、遅れて入ってきた優雫は目を奪われつつ、なぜここに連れてこられたのか未だ疑問に思っていた。

「じゃあ、はい。――喉乾いたでしょ? これ飲んで待ってて」

 鞄からオレンジジュースの入ったペットボトルを取り出し、赤城は活き活きとしながら外へ出て行った。

「ちょ、ちょっと……」

 呼び止めるが、その言葉は届かず虚しく響く。

 一人部屋に残され、どうしていいかわからずに右往左往する優雫。ポケットをまさぐり、しかし携帯を先ほどの少女にとられていたことを思い出し、嘆息してベッドに腰を下ろした。

「二ノ宮さん、たいへん! 妹のユウキちゃんがたいへんなの!」

 室内には一切の音はなく、優雫は心細さと先ほど赤城から告げられた言葉を思い返し、不安を募らせていった。

 胸の前で何かを包むように両の手を握り締め、目を瞑る。

 五分ほど経ったが、まだ赤城由利は戻ってこなかった。

 居てもたってもいられず、再びうろうろと室内を彷徨う。

 そのとき、視界の隅にある赤城からもらったオレンジジュースが目に留まった。

 別にそこまで飲みたいかというと、そうでもない。だが、ここに来るまでに無理やり走らされ、何より何かを口に入れれば落ち着くかもしれないと考えた。

 そうして、優雫はオレンジジュースを口に含んでしまう。

 五百ミリリットルほどの容器から飲んだ量は、僅かコップ一杯分くらい。キャップを閉め、机の上に置き、再びベッドに腰を下ろす。

 やがて、一分と経たないうちに。

 優雫は深い深い眠りの中へと落ちていった。

 それを見計らったかのように、赤城が室内に戻って来る。携帯を耳元にあて、誰かと通話をしている。

「マジだよ。すごいんだって。今までやってたことよりもずっと面白いことするから、愛美まなみさぁ、未来みく連れて来てよ。学校からそう遠くないホテルにいるから。――は? 急に何言っちゃってんの? 愛美たちだってノリノリでやってたジャン。……分かったいいよ、あたし一人で遊ぶから」

 電話の相手からは期待通りの返事はもらえず、不服そうに電話を切る赤城。

 携帯をソファの上に投げ、ベッドの上に横たわる優雫を見やる。

「すっごく面白いおもちゃ手に入れたのになぁ」

 横たわる優雫の隣に座り、静かに眠る優雫の白く透き通った顔を撫でる。柔らかな肌の弾力を愉しみつつ、優雫が確かに眠っていることを確認する。顔から首へ。首から胸へ。胸からお腹へ。ゆっくりと身体のラインをなぞらえるように手を這わせていく。

 やがてニーハイソックスに指をかけ、脱がせる。度々顔を覗き、起きないことを確かめながら。続けてスカートのホックを外し、寝返りをうたせて曲げていた脚を伸ばさせ、スカートをずり降ろすと、優雫の下着が露わになった。

 スカートのポケットに入れていた携帯を取り出し、カメラモードを起動する。

 パシャリ。

 角度を凝らし、続けて数枚撮影をする。

 これだけでも十分な露出だったが、赤城は満足せずにカーディガンとブラウスのボタンを外し、優雫の胸元を覗かせた。

「なんて可愛いんだろう……ユウキ」

 淫靡な姿をさらけ出してもなお大人しく寝息をたてている優雫に興奮し、カメラを片手に彼女の顔、胸、脚、お尻など、舐め回すようにレンズと舌を這わせていく。そうしてフォルダの中の写真が増えていくにつれ、赤城は我を忘れてどんどん陶酔していった。

 もう、赤城には妖艶な姿で横たわる優雫しか見えていなかった。

 だから、と言うべきか。

 好き放題に弄って遊んでいる赤城の背後に立つ一人の存在に、全く気付いていなかった。

「う――っ」

 短く悲鳴を上げ、意識を失い優雫の身体に寄り添うように倒れる赤城。

 急所に手刀。鮮やかに無駄のない一撃を加え、目の前の対象を沈黙させたその存在は――。

 そして、一言。

「――それは、私のおもちゃだ」


 ♪


「いらっしゃいませー。ネコ耳メイドが御もてなし。『にゃんぱらりん』いかがですかにゃー?」

「あ、えーっと……」

 秋葉原に着き、通りを歩く俺たちを恥ずかしげもなく勧誘してくるネコ耳&メイド服のお姉さんにたじたじになっていると、すかさず綾乃が手で制した。

「興味ないんで」

 綾乃が冷たくあしらうが、ネコ耳メイドお姉さんは微塵も気にすることなく、チラシ配りに徹している。

 ああいう仕事は俺にはむいてないな、とつくづく思う。心を込めて渡そうとしても、無碍にされることがあるのだ。心を強く持たねばできまい。ネコ耳メイドのお姉さんに敬意の念を込めて「ファイト」とエールを送ると、ちょうどお姉さんがこちらを向いて目が合い、ウインクを飛ばされた。

 ――チラシ、受け取っておけばよかったかなぁ。

「ユウキ、前――!」

「うわぁ……っとと」

 よそ見して歩いていると、前から歩いてくる人とぶつかりそうになってしまった。

「ありがとう、綾乃ちゃん」

「ん、ユウキ、お昼のこと忘れてない?」

「お昼のこと?」

 はて、と記憶を掘り返してみる。

「あ、そっか――」

 そういえば、そんなこと言ってたっけ。

「ありがとう、キャサリン」

「それあたしじゃないから!! ――って、はっ!! 思わずツッコミを入れてしまった……くぅ……くつ、じょく」

 拳に力を込め、心底悔しがる綾乃。どんだけ悔しいんだよ……。

「えっと……」

 それからしばらく島袋氏からSMSで送られてきた地図を頼りに進み、俺たちは目的地らしき建物の前にたどり着いた。

「ここだ」

 表に出されている看板によると、このお店の名前は――


「「新装開店!! ご奉仕メイド喫茶『にゃんぱらりん』――ッッ!?」」


「なんじゃそら! さっき思いっきり勧誘断ったお店じゃねーか!!」

「にゃにゃにゃー! やっぱりキミがマスターの言っていたユウキちゃんかにゃ? 噂通りの可愛い娘だにゃぁ」

 と、道端で人目もはばからずに大声で驚嘆していると、背後からついさっきチラシ配りをしていたネコ耳メイドのお姉さんに声をかけられた。

「あ――はいっ! 二ノ宮優希と申します。島袋さんと会う約束があってきました」

 一礼をして応える。

「にゃはは。礼儀正しい娘だにゃ。そちらのお嬢様はどちら様ですかにゃ?」

「人に名を尋ねる前に――」

「ち、茅ヶ崎綾乃ちゃんですっ! 付き添いで来てもらいました……!」

「綾乃ちゃんにゃ? 覚えたにゃ。よろしくなのにゃ」

 綾乃の敵意など意にも介さず、無邪気に笑うお姉さん。

「ちょっと、勝手に話進めないでよユウキ」

 耳打ちで不満をたれる綾乃。

「どうどう。そんなに警戒しなくて大丈夫だよ? 良い人そうだし」

「何考えてるか解らんからこの手の輩は信用できないの」

「まあまあ。ほら、自分が信じてほしいなら、人を信じようって言うじゃん? 持ちつ持たれつって……ね?」

「…………」

「ほら、スマイルスマイル。笑顔は愛の始まりだって」

「随分うさんくさい言葉だけど、それユウキが考えたの……?」

「あはは……どうだろね?」

「話しはまとまったかにゃ?」

「……しょうがないなあ」

 警戒心むき出しの綾乃をなんとか宥めることに成功し、戦隊ヒーローの変身が終わるのを控える敵キャラよろしく待ってくれていたお姉さんに連れられ、俺たちはご奉仕メイド喫茶『にゃんぱらりん』の店内へと足を踏み入れた。

 店内は看板に記述されていた通りリフォームが施されたばかりらしく、清潔感と解放感に満ちた構造になっていた。客足はそこそこで、三人のメイド服に身を包んだスタッフが忙しなく店内を回っていた。

「ここ、雇用形態はしっかりしているんでしょうね……? スタッフの年齢とかは大丈夫なの? あのキモオタ店長のお店だとは未だに信じられない……違法契約してたら訴えてやる」

 店の隅々まで目を光らせていた綾乃が早速いぶかしむ。

「大丈夫にゃ。実に健全ですにゃ。もらえるお小遣いも素晴らしいにゃ。マスターは優しい人だにゃ」

 ネコ耳メイドのお姉さんに案内される途中、男性客の視線が痛かった。俺を見て何やら話しているようだが、なんて言ってるかまでは聞き取れなかった。

「あんの変態どもめ……店内じゃなかったらぶん殴ってやるところだ」

 それに対しなぜか綾乃がおかんむり。

「この奥にマスターがいるにゃ」

 関係者扉を開けて入った先の、スタッフルームの奥。お姉さんに促され、中に入ると――


「よぉうぉおうこそ!! 愛しのユウキた――ぐぉふっ!?」


「ひっ!?」

「近付くんじゃねぇこのハゲダルマ!!」

 ドアを開けるなりイノシシの如く突進してきた島袋を、綾乃が脊髄反射して片足で地にねじ伏せた。

「ったく、油断も隙もあったもんじゃない……」

 島袋に触れた靴底を、泥を払うように靴を脱いで床に叩く。

 しかし下腹部に強烈な蹴りを受けたにもかかわらず、ニヤリと不敵に笑う男――島袋靖永。

「くふぅ……いい白であったぞ……」

 俺はなんのことか解らなかったが、隣の綾乃のスイッチが入る音が聞こえた。

「――ッッ!? ってんめえ……その腹の肉三枚におろすぞッ!!」

「落ち着いて綾乃!!」

「ぐっ……」

 綾乃の行く手を阻み、なんとか怒りを鎮めてもらう。果たして今後俺一人でこの状況を収められるのか心配になってきたぞ。もしもの時は後ろに控えているネコ耳メイドのお姉さんが何とかしてくれることを期待するしかない。

「先に言っておくぞ、ゴミ袋。わたしはあんたみたいな野蛮な男が大――っ嫌いだッ!!」

 腕を組み、吐き捨てるように言葉をぶつける綾乃。しかし、それを受けて島袋は、

「ありがとうございまぁすっ!! できればもぉっと罵りワードを織り交ぜて言って頂ければぁはぁん」

 欣喜雀躍きんきじゃくやくとしていた。

「――ッ。はんっ」

 逆効果と判断したのか、綾乃は小さく舌打ちをするとそっぽを向いて黙り込んだ。

 と、とりあえずは落ち着いた……のだろうか?

「マスター。あまり綾乃ちゃんをいじめてあげないでくださいにゃ。それより、ユウキちゃんが困ってるからさっさと本腰入れるにゃ」

 と、背後から現れた先ほどのお姉さんが実に的確な指摘をし、進行を促す。これぞ大人の対応。綾乃が子供だというわけではないが、このお姉さんほどの落ち着きがあればと思う。

「そうだったそうだった。では――」

 島袋は「オホン」と一つ咳払いをし、窓際の椅子に座り、机に肘をついて顔の前で両手を組むと何やら尋常ならざる雰囲気を纏って話し出した。

「――ようこそ、諸君。君たちに集まってもらったのは他でもない。――梢くん、あれを」

「はい、マスター」

「胡散臭い小芝居しやがって……」

 何やら堅苦しい雰囲気の中、ネコ耳メイドのお姉さん――梢さんが部屋の端に置かれていたクローゼットを開け、中から何やら取り出した。

「どうぞ、にゃ」

 丁寧にラッピングが施されたプレゼントを俺に差し出し、微笑む梢さん。

「わたしに、ですか?」

「ああそうだ。開けて見たまへ」

 島袋に促されるまま、そのプレゼントを受け取り、開封していく。

 包みを開いていくにつれ、徐々に中身が明らかになっていく。何か白と黒の洋服のようだが――

「本当は来週に届く予定だったのだが、クライアントに無理言って納期を早めてもらったんだ。その中に入っているのは、オーダーメイドして作ってもらった――」

 中に入っていたのは、


「ミニスカメイド服だ」


「ちょっ、キモッ!? あんたの下心丸出しじゃねか!! ユウキ、そんなの着なくていいよ。素直に突き返していいんだよ。…………ユウキ?」

「う……うぅ……」

「って、ちょっとユウキ、なんで泣いてんの!?」

「だ、だって……こんなにきれいなプレゼント……嬉しくて……」

「え、えぇ……」

 綾乃は引きつった顔で唖然としていた。

「メイド服もらって喜んで涙流す人初めて見たよ……」

「にゃはは。ピュアなお方ですにゃ、ユウキちゃんは」

「スリーサイズまで調べて合わせてもらった特注品だ。喜んでもらえたようで何よりだ」

「って、いったいどこでそんな情報を!?」

「きんそくじこぐふぉ――!?」

「とりあえず殴っておくに越したことはないな。うわっ、手に油が」

 涙を吹き、島袋に向き直った。

「島袋さん――ありがとうございます。大切にします……!」

「うむ。――時に梢くん、カメラにしかと収めたかね? 今のエンジェルスマイル」

「抜かりはございませんにゃ」

「よろしい」

「せめて許可取らんかい!! ――ちょっと待って、それを受け取るってことは、つまりこの店で働くってことじゃ……?」

「それが何か問題でも?」

「急すぎんだろ!! ……実際のところ、ユウキはどうするの?」

 綾乃の言うとおり、たしかに急ではあるが……。何より、俺自身が着たいかどうかは抜きにしても――

 優希のメイド姿をこの目に収めてみたい。

「あ、後でお話しを聞かせてもらうことを条件に、す、少しだけなら……」

 そのためならこのフリルがたくさんついた可愛らしいメイド服を着ることはいとわない。

「よかろう。それじゃあ、取引成立だな。ちなみに、その他アクセサリー類はすべてこちらで支給するから、自由に使いたまへ」

「やれやれ、先が思いやられる……。――やいゴミ袋。わたしの分も用意しろ」

「うぇー、どうしよっかなー」

「用意しやがれください」

「よく分からない口調になってますにゃ」

「く――っ!! ……何をすればいい…………で、しょうか……?」

 断腸の思いで敬語を使う綾乃。どんだけ使いたくないんだ。

「あはぁーん。キミにそんな綺麗な言葉は似合わないなぁー?」

「んにゃろ……下手に出ればいい気になりやがって――あぁんっ!? どこしばいてほしいんだ、言ってみろ、こんのゴミ袋ぉっ!!」

「あはぁ――っ!! もっとォ!! もっと激しくぅぅう――ッ!!」

 綾乃が変な方向に走り出さないか俺はやっぱりこの先が心配だ。


 とまあ、そんなこんなで綾乃も無事に制服を支給してもらい、俺たちはホール業務を手伝うこととなった。といっても、仕事内容は出来上がった料理を運ぶだけの簡単なお仕事。

 ユウキのメイド服姿は想像通り、オーダーメイドしたメイド服なだけあって装飾や細部のつくりにまで拘りが感じられるものだった。花びらを模したガーターベルトも特徴の一つだ。もちろん、こっそり優希の携帯あいふぉんで鏡に映る優希の姿を収めておくのを忘れずに。

 可憐なメイド服に身を包んだおかげか客受けもよく、まさに萌え冥利に尽きる。というのも、どちらかというと俺は優希がちやほやされて嬉しかった。優希に暗い世界は似合わない。けん引するなら、表舞台に立ちたい。

 優希にはたくさんいい思いをしてもらわなければならない。

 そうすることで、優希も喜んでくれるような気がするから。

 働き始めて一時間すると店内はたくさんの客で賑わっていたが、結果から言うと特に苦戦することなく業務を果たすことができた。というのも、周りのスタッフたちのサポートやアドバイス、的確な指示があったからこその完遂だ。職場の雰囲気は明るく、客もノリのいい人がほとんどで、客である男性にすら罵倒する綾乃の傍若無人な接客業でも「だがそれがまたイイ」などと言って愉しんでくれていた。そんなバカな。中には俺に対していやらしい目つきを終始向けてくる客もいたが、メイドに対する距離にもともと一線が引かれているらしく、手を出してくることはなかった。律儀なお客様さまである。

 ――と、

「ユウキちゃん。3番のご主人様がお呼びですにゃ」

 働き始めて三十分が経過したころ。ついに来てしまった……。

「初めてのご主人様からなかなか言われることはないけど、このお店を気に入ってくれたご主人様は料理を運んだときに追加サービスを求めてくるにゃ」

 と事前に梢さんから説明は受けていたが、ついに俺にもその役目が回ってきてしまった……。

 覚えたての席番を間違えないように、走らず慌てず淑やかに――

「お呼びでしょうかごしゅじんさまっ! どちらのご奉仕を、お望みですか――にゃ?」

 噛みそうになったが何とか言えた。語尾を忘れそうになり慌てて付け足す。

「ユウキくんは今日が初めてらしいな。ふむ……では、無難に1番をお願いする」

「解りました、にゃ!」

 メニューの1番。やることは簡単だ。だが、うまく出来るだろうか。こんなのまだしてもらったこともないのに……。

 不安に思う気持ちを顔に出さないように。

「それではいきます、にゃっ!!」

 度々忘れそうになる語尾を強めて気を引き締める。

「うむ」


 ドキドキ。


「ご、ご主人様……あーんしてください、にゃ?」


 ドキドキ。


 客の男性の口もとにオムライスを一口掬って乗せた銀の匙を運び、食べさせる。

「……おいしいですか、にゃ?」

 尋ねる。


 ……ドキドキ。


 客の男性はたかがオムライス。されどオムライスをたっぷりと時間をかけて舌の上を転がせ、味わっていた。そして飲み下すと、言った。

「うむ。実に美味であるぞ。よくやった、ユウキ」


 お褒めの一言を頂戴した――!!


「ありがとうございますにゃ!!」

 RPG《ロールプレイングゲーム》ならクエスト達成のファンファーレが背景で流れていることだろう。

 安堵から緊張がほどけ、笑顔でお礼を言って、裏へ引っ込む。

 なんでもこのお店では『満足いくご奉仕をされたら褒めるべし』という慣習があるらしく、お褒めの言葉をいただいた分だけ成績が上がるというのだ。一種の営業成績の指標であり、それ即ちたくさん褒められている娘は人気があるということになる。

 ご主人様の要望は簡単なものから大胆なものまであり、視界の端では顔にテープを貼り付けて無理矢理つくったような笑顔を浮かべて「おいしくなーれ、おいしくなーれ、萌え萌えにゃんっ(棒)」している綾乃の姿が目に入った。

「あれは完全にアウトだにゃ」

 様子を見ていたらしい梢さんがぼそっとつぶやいた。

「あはは……綾乃ちゃん頑張ってますけどね……」

「にゃ? ……無意識でやってのけるとは恐ろしい娘にゃ、ゆうきちゃん」

「……?」

「気にしなくていいにゃ。むしろユウキちゃんは絶好調と言えるにゃ。その調子でがんばるにゃ」

「は、はい! ありがとうございます!」

「ちなみに綾乃ちゃんを指名するご主人様には事前に説明してあるから問題ないにゃ」

 ついっと綾乃の方をみやる梢さん。


「綾乃くぅん、何ですかその態度はぁ」

「アァ? 精一杯やったんだからこれで満足しろよご主人様」

「僕はねぇっ、キミにそんな接客は求めてないんだよ分かるっ!? ねえ分かる!?」

「はあウザ。つーかなにその口調。おっさんマジキモイよ?」

「……うぉっほん。今日のところはこれくらいにしておこうか。――これを持って下がりなさい」

「はい。どうもありがとうございました(パーフェクトスマイル)」


「まるもらった」

 客から無事に褒められたらしい綾乃は、さして嬉しくなさそうに言った。

「ぐっじょぶにゃ」

 もはや接客の“せ”の字も見当たらない対応にも関わらず満足したらしいご主人様は特殊なご趣味をお持ちのご様子。

 つくづくこの手のお店を利用する客層には驚かされる。順応性の良さ、ノリの良さ、マナーの良さ。そしてここで働いている人たちにも。

「ステキな場所ですね。それに、素敵な人たちです」

 素直な感想を口にすると、梢さんもうなずいた。

「ええ。ここにいる人たちは皆、この場所に惹かれて働いているのです。『メイドたちが楽しみながら、ご主人様も一緒になって楽しめるような素敵な場所を創りたい』。私も、その経営理念の元に集まった迷える子羊の一人に過ぎません。ですからユウキちゃんさえよければ、またご一緒に、ここでご奉仕致しませんか?」

「梢さん、口調変わってます」

「おっとこれは失礼したにゃ。にゃは」

 舌を出しておどける梢さん。俺は返答に少し迷ってから。

「――えぇ、きっと」

 そうとだけ、告げた。


「まずは、何から話そうか……」

 一時間ほど経ち、客足が落ち着き仕事が一段落したところで再びスタッフルームの奥、応接室兼事務所であるこの場所で一息ついていた。それぞれの手元にはアールグレイの紅茶が入ったティーカップが並べられている。紅茶の種類は梢さんが教えてくれた。

「島袋さんは、どういう経緯で私と知り合ったんですか?」

 まずは事前にいくつか決めていた質問を一つしてみた。

「それを話すにあたって、二ノ宮くんとの関係も説明しておこうか」

 先ほどの妙なコント染みた雰囲気とは違い、いたって真剣な面持ちで島袋は語り始めた。

「ボクは、現在の君の義父――二ノ宮明夫くんと中学校時代からの長い付き合いでね。前は、ユウキちゃんが住んでいた場所の近くでごく普通の喫茶店を営んでいたんだよ。ちょうど……あの公園の近くだった。平日はまちまちだけど、休日になると通行人が一気に増えるから、それに伴って利用客もなかなか多くてね。だけど、休日に雇う人材に宛がうだけの人件費を払えるほど経済状況はまだ良くなかった。――というのも、我ながら浅はかな考えで建ててしまった店だったからね。若気の至りと言うべきかな、ははっ。そんな時、明夫くんに相談してみたところ、ある日キミを連れて来てくれたんだ。いうなれば、それがユウキちゃんとの出会いだ」

 島袋が言うには、以前も自らが経営する店で優希を店員として雇っていたらしい。電話をしたのも、またここで働いてほしいと誘うつもりだったようだ。

「その時のわたしは、どんな子でしたか?」

 もう一つ。過去の優希がどのような存在だったのかを尋ねる。今まで手探りで演じていた優希と今の俺は、いったいどこまで違うのかずっと気になっていた。

「どんな子、か……。一言でいうなら、今のキミと何ら変わりない、元気で明るくて、来る人すべてに笑顔を振りまいていたよ」

 真っ直ぐに、その瞳に映る優希の像は、まさしく俺そのもの。それはつまり、俺は意識せずとも違和感なく優希を演じられていた……ということだろうか。記憶喪失だから多めに見てもらえているのだと思っていたが、当時の優希とさほど差異はないのならば、これからも変に意識せずに行動することができそうだ。

 今の言葉を聞いただけで、少しだけ肩の荷が降りた気がした。

「わたしがそのお店で働いていたのって、いつ頃のことですか?」

 そしてもう一つ。

「それはユウキちゃんの誕生日が近かったからよく覚えているよ。当時十四歳だから、一年と少し前くらいかな? クリスマスが近くて、一緒に内装の飾り付けもしたんだ。独り身の僕にわざわざクリスマスプレゼントまでくれて……異性からクリスマスプレゼントをもらったのは初めてだった……うっ、うぅ……あの冬は、あたたかかったなあ……」

 回想に浸り、しみじみとしている島袋。

 その間に自分の中で時期を整理する。

 昨晩アルバムで見た写真は桜の木の下で撮ったもの。島袋と優希が出会ったのは、その二、三か月前ということになる。俺が優希になったのはそれから約一年後だ。これはさして重要な手がかりとは言えない。

 その後も島袋が知る限りの優希の情報を聞いてみたが、これといって優希の対人恐怖症のきっかけとなった出来事についての情報は得ることはできなかった。そもそも彼が知っている優希は一年前から数か月前にかけての断片的な記憶ばかりだった。

 あまり重要な手がかりとはいえない。

 もっとこう……何か、ユウナからは得られないような情報があれば……。

「――あぁ、もうこんな時間か。それじゃあ、次が最後の質問にしよう。ユウキちゃん。……キミが一番聞きたいことは、なんだい?」

 もともと時間がない中で無理言って取り付けた約束だ。刻限が迫っていることを告げられ、変な汗が噴き出る。

 一番、聞きたいこと。

 一番、気になること。

 それはいったい、なんだ?

 ズキリ。

「………………それじゃあ、最後に一つだけ教えてください」

 正直、この質問を彼にするのは博打に等しかった。何の関連性も見えず、何の因果関係も見当たらない。

 だが、この疑問が解ければ、核心に迫れる。そんな気がした。

 ズキズキと痛む頭。核心の一手を打つかどうかの逡巡。相手がどう応えるのかという、期待と不安。緊張から来る手足の震えと嫌な汗。

 様々な感情が織り交ざり、激しく波打つ心臓を落ち着かせ。

 ――問う。


「御影セツナさんを……ご存知ですか?」


 俺の解き放った音がやがて消えると、場を静寂が支配した。

 隣では綾乃が黙って会話を見届け。入口の傍には梢さんが待機し。対面右前方では両の手を胸の前で組み、肘掛けに肘をついてゆったりと座っている島袋。そんな周りの気配がひしひしと伝わってくるほどの沈黙の封は、島袋が姿勢を改める音によって解かれた。

 俺の視神経は島袋の口元に集中していた。その答えは、果たして……。

 やがて、島袋が重い口を開いた。

「――残念だが、その答えはNOだ」

 その答えを聞いた瞬間、一気に緊張が消え失せた。

「そ、そうですか……」

「はぁ……無駄にタメるなよな。なんかこっちまで手に汗握ったじゃないか」

 綾乃も空気に呑まれていたらしく、俺と同じようにソファに深く沈み込んだ。

「代わりと言ってはなんだが、一つアドバイスをしよう」

 人差し指を立て、眼鏡をくいっと持ち直して続ける島袋。

「本当に探しているものは、案外自分の一番近いところにあったりするものだ。もしかしたら、その答えを解くカギは、既にキミ自身が持っているのかもしれない」

「…………」

 正直、なんのアドバイスかは理解に困る言葉だった。だが、島袋のその言葉は俺の心の奥底まで届くほど、重くどっしりとした響きがあった。

「その言葉、たしかに受け取りました。島袋さん、今日はありがとうございました」

 立ち上がり、頭を下げる。最後に捨て台詞でも残していきそうな綾乃だが、綾乃は退室するまで終始無言を貫いていた。

「うむ。それじゃあ、梢くん。お二人を送ってくれないか」

「喜んでお引き受けしますにゃ」

 梢さんから店の外まで案内してもらったところで、梢さんにも頭を下げた。

「ここは優希ちゃんの帰ることができる場所の一つにしてもらえると嬉しいにゃ。もちろん、綾乃ちゃんもにゃ?」

 梢さんはにぱーっと笑って言った。大人の魅力を持ちながら、少女のように振舞う不思議な人だった。

 ちなみにメイド服は持ち帰らずに店で保管してもらうことにした。いつかまた来る、その時まで。

 帰ることができる場所。それは優希にとってとても心強い支えとなるだろう。島袋氏も梢さんも、例え俺がいなくなった後でもきっと優希の支えになってくれる。きっとあの場所は優希にも、かげがえのない場所になる。


 ♪


 優希と綾乃が帰った後。

 見送りから戻ってきた梢がやれやれと嘆息する。

「マスター。うそつきですね」

 しかし島袋は、誇らしげに笑う。

「真実とは、知るべき時にこそ真実となる。――ときに梢くん。今日の私、いつもと違ってカッコよかったであろう?」

 引き締まった顔は三秒と持たず、すぐにでろんとだらしのない顔に戻る島袋。

「その質問さえなければお褒めしていたのですがね……。差し詰め、画竜点睛を欠くと言ったところでしょうか」

「オーマイ『自主規制ピーーー』ー!!」

「不適切な発言はこちらで修正しますにゃ」

「梢くん、余計なことはするでない。そんなことしたら『自主規制ピーーー』!!」

「マスターうるさいにゃ」

「『自主規制ピーーー』!!!!」

「黙れゴミ袋」

「はい」

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