第11話 ~魂の証明~
「ふぁぁ~終わったぁ~……」
ドーパミンの荒波から解放された途端に「ぐぅ」と分かりやすく腹の虫が鳴き、慌ててお腹を押さえる。優希の腹時計はこの上なく正確である。
ユウナと食べる約束をしていたことを思い出し、
一文字打つのにたっぷりと時間をかけ、『今から行くね』とだけ返し、
「ゆうきりん、一緒にお昼食べない?」
立ち上がろうとしたところで川越さんが声をかけてきた。どうでもいいけど、その呼び方をされると黒歴史を思い出してむず痒くなるからやめてほしい。
「では私も一緒に」
「さんせーい」
続けて川越さんと普段行動を共にしている二人がわらわらと群がってくる。こりゃあ早々に退散したほうが良さそうだ。
「ご、ごめんなさい。気持ちは嬉しいんだけど、今日は約束があるので……」
「「「ショボーン」」」
やんわりと断ったつもりが、三人が分かりやすく
「――あ、明日一緒に食べようっ。ね?」
空気に耐えられずそう提案してみると、
「言ったな、約束だゾ!!」
「明日お願いしますね」
「やっふー」
分かりやすく機嫌を取り戻して去っていく川越ズ。
「ふう……」
「ユウキちゃーん!」
教室の後ろから出ようとした時、前の方に立っていた女子から呼ばれた。今度はなんだろう?
手招きされた女子に近寄ると、クスクスと笑いながら俺を見てきた。そして甘美な声で囁いてきた。
「ユウキちゃんうらやましいなぁ。茜様からお呼び出しだなんて。後で詳しく聞かせてね」
何のことかさっぱり分からないまま教室の外に目を向けると、そこには背の高い男子が一人立っていた。
高身長、スラリと伸びた長い脚、制服の上からでも分かる男子特有の体格の良さ。
ネクタイの色は青色。ちなみに男子はネクタイ、女子はリボンの色が学年を見分ける手段の一つとなっている。どうやら目の前の男子は三年生であると推察できる。
ところで照月学園の制服はファッション性が高く『私服が面倒なら制服を着ればいいじゃない』というキャッチコピーがあるほど生徒たちの御用達の一品であるが、目の前の“茜様”と呼ばれた男子はそれをまるで国民的アイドルのように着こなし、窓から射す太陽の光すら纏ったその光景は、まさに雑誌の一ページを切り抜いたかのような完成度だった。
こんな住む世界が違う人間がいったい俺になんの用でしょうか……?
昔からよく言われたもんだ。バカと天才は
茜様はこちらに気付いたのか、鋭利な目付きで俺を睨んできた。例えるならオオカミが獲物を見据えた時のソレだった。
「な、なんですか……?」
背丈が二十センチくらい離れているせいか、それだけでかなりの威圧感があるというのに、文字通り見下ろすようにこちらを
近くまで来て立ち止まる茜様。しかし茜様はすぐには俺の問いに応えず、そのまましばらくじっと俺のことを睨んでくる。……いや、じっくり見られている? 目つきが悪く無表情な顔からは何を考えているのか想像がつかない。
やがて、
「――ったく、なんですか、じゃねえよ」
言うや否や、突如として手を伸ばしてきた。ジャブ? ストレート?
「ん。弁当」
「……ほぇ?」
茜様が差し出してきたのは、見た目に一切似合わない可愛らしいごまぐるみシリーズの動物たちが描かれているハンカチに包まれた、お弁当が二つ入った手提げだった。
「素っ頓狂な声出してないで、手、だせ」
「は、はいっ」
「受け取れ」
「あ、どうも……」
無感情な声で言われるがまま、広げた手のひらの上に手提げを載せられた。
まてまてまてまて。どういうこと? どういう状況?
この男は優希の弁当を作るほど親しい間柄なのか? 弁当を作る間柄ってなんだ? そんなの決まっているだろう。
――THE・
「あ、あー!! そうだった、そうだったね。ありがとうダーリン♪ 弁当すっごく楽しみにしてたよぉ」
と、無難な線を攻めたつもりだったが、
「は? 何言ってんだお前」
どうやら違ったらしい。ぽかんと口を開けて呆然とする茜様。ダーリンじゃないとしたら……
「そんなぁ、とぼけなくてもいいのよ、あ・な・た」
――ピコッ。
その時俺は気付いた。
完全アウトのパターンのやつだ――ッッ!!
「死ぬほどワケが分からん」
「ご、ごめんなさい……ちょっと悪ふざけしただけなんです……」
墓穴じゃ足りない……ブラジルまで掘られた穴があったら埋まりたい……。
「はぁ、何がしたいのか解んねえが、ユウナの言ってたことは本当なんだな。さすがに頭がおかしくなったとまでは聞かなかったが」
グサッ。
「まあ、明るくなったのはいいことなんじゃねえの?」
地味にフォローをしてくれているが今はそれが逆にツライ。周りにいる生徒たちはきっと俺の醜態を見て笑っているに違いない。あな悲し。
そうして悲しむ俺をよそに、なぜか茜様まで沈んでいった。
「……おまえ、本当に覚えてないんだな」
表情があまり変わらないので読み辛いが、少しだけ――寂しそう。
「……ごめんなさい」
この人も優希と深いつながりがある人なのだ。そうとも知らずに、また俺は罪を重ねてしまった。
「……そんな罰の悪い顔するなよ。話せるようになっただけ、あいつも喜んでたしな。俺のことはいいから、ユウナにも弁当渡してやってくれ」
俺が謝ると、なぜか茜様まで気まずそうに頭を掻いていた。見かけによらず、意外と純情なところもあるようだ。
「ありがとうございます。茜様」
素直にお礼を言うと、
「頼むから“様”だけはやめろ」
分かりやすく怒気を込める茜。様付けで呼ばれるのが気に食わないようだ。
「茜先輩」
別の呼び方をしてみると、茜先輩は黙って少しだけうなずいた。これならまあいい、といった具合。
「アニキ?」
「それは違う意味で捉えられそうだから却下」
願い下げられた。
「じゃあ……茜」
「一気に距離縮まったな……。てか楽しんでねえか?」
ばれた。
なんだろう、茜が狼狽えている様を見るのは心が揺すぶられるものがある。こんなイケメンを手玉にとれる機会はそうそうないからな。
「……好きに呼べよもう。じゃあな、弁当は渡したからな」
呆れて手をぶらぶらと振りながら、茜は帰って行った。ちぇっ、もう少し遊びたかったのにな。
「あ、そっか。言ってなかったね」
ユウナに先ほどの出来事を(もちろん茜のことをダーリン呼ばわりしたことは伏せて)報告すると、ユウナが口もとに手をかざしてから両の手を合わせた。
「今は違う所で暮らしているだけだけど、私以外にも三人家族がいるんだよ。二つ年上のお兄ちゃんの
頷きながら聞いていると、あるフレーズが頭の中でひっかかった。
「その二人の?」
「うん。明夫さんは私たちの本当のお父さんではないの。茜くんはあんな見た目だから少し怖いと思うけど、明夫さんも七夕ちゃんも茜くんも、私たちを本当の家族みたいに思ってくれてる素敵な家族だよ」
ユウナは優希がたった一人の家族だと言っていたけど、本当は結構いるんじゃないか。二ノ宮家には思ったよりも複雑な事情がおありの様で。
別にひとりぼっちなわけではないのに。他にも家族がいるのに。なぜユウナは辛い思いをしてまで、ひとりあの家に居続けるのだろう。ふと疑問に思ったが、
……きっとそれも優希のため。
なんせ優希のために自分の出席を犠牲にしてまで優希として振舞い続けていた程だ。
嫉妬しちゃうくらいに優希のことを思うユウナの気持ちを知るにつれて、ますます解らなくなる。
優希の苦しみは、いったいどこから来るのか。こんなにも思ってくれている人が周りにあふれているのに。
「それにしても本当にそっくりだね、なきっツインズは」
今まで黙って聞いていた綾乃がタコさんウインナーを口に加えながら俺とユウナを交互に眺めて呟いた。
「うん。よく言われるよ」
その言葉を聞いてユウナは目を細めた。俺も綾乃の言葉につい頷いてしまったが、昨晩見たアルバムで見ても、本当にそっくりだった。自分が片割れであることと関係しているか分からないが、そういえば写真を見た時に俺は双子の見分けがついていた。見た目はそっくりでも、やはりどこかが違う。他人ならまずできないはずのその判別を、俺は自然とできていた。周りには出来ないことができたことで、特別な繋がりがあるのかもしれない、と少しだけいい気になっている俺がいる。
「二人が入れ替わってても気付かないわけだよ」
綾乃は事実を知っているから言えることだが、クラスメイトは俺たちが入れ替わっていたという事実を知らない。もちろん、この屋上でお昼を食べているのは俺たち三人だけ。そもそも屋上は立ち入り禁止となっているため、誰も近付かないようになっている。俺たちが双子だという事実を知っている者はそう多くないため、広く認知されていない今はまだ、必然的に人目を忍ぶようにこの屋上に集まることが賢明だと判断した。それは入れ替わっていたことが露見しかねないということもあるが、件の騒動以来ユウキのことをあまりよく思っていない生徒が少なからずいるため、変な波風を立てられないようにという、ユウナと綾乃の配慮だった。
「う~ん……」
何やら綾乃のつぶらな瞳が俺をまじまじと見つめてきた。
「な、何やってるの……茅ヶ崎さん」
「あ、目の色が違うのか」
どうやら必死になって双子の違いを探していたらしい綾乃が手のひらを打った。
「十点かな?」
「え~、キビいよユウナん。ちなそれって難しいのだともっとポイントもらえる?」
「よかろーもん」
「ちなちなポイントって何と交換できるの?」
「んー、百ポイント貯めたらわたしオススメのおいしいスイーツスポット紹介してあげる」
「えー、紹介するだけ?」
「もちろん一緒にいくよ」
「やった! じゃあー……っと…………んー」
何やら
俺といるときはいつも振り回していて、しょっちゅう悲しい顔や辛い思いをさせていただけに、ユウナが心から笑っている姿を見ると、なんだか安心した。
「――あ、分かった!」
「なんでしょーか?」
「うふふふふ……必殺!! ルパンダーイブ!!」
突然膝に乗せていた弁当を脇に置いて綾乃がユウナに飛びかかった。
「ちょっ、綾乃ちゃん……やめっ!」
綾乃が倒れたユウナに覆いかぶさり、制服がはだけるのも気にすることなくピクニックシートの上でもつれ合う二人。生々しい二人の息遣いが乱れ飛び、何とも言えない空気が漂い始める。
見てはいけないと思いつつも、その二人の
「……!!」
綾乃はユウナの程よく膨らんだ胸に触れ、いやらしい手つきで制服の上から――
「いい加減に……しな、さいっ!」
「あっははー、満足満足。適度に可愛い娘成分補充しないと死んじゃうからねー」
「そんな大げさだよ……もう」
「かんにんにん」
「まったく……。ユウキ、ごめんね。食事中なのに……ユウキ?」
「へっ? あ、う、うん。だいじょうぶ……」
気付いた時には顔が火照り、まともに二人を見られないほどになっていた。
「おんや、
「ちょっと綾乃ちゃん、私は良いけど、あんまりユウキをからかわないでよね」
「そうは言うけどさ、ユウキいじると反応が可愛くて……」
「え、そうなの……?」
「えぇ、きっとダンナのお気に召すこと間違いなしですぜぃ」
「お、おぅう……」
「ちょっとユウナそこ迷うところじゃないよね!? あとそんな訳のわからない人のキャラに無理して合わせようとしなくていいからね!?」
まったく、ユウナまで綾乃の毒に染まったらたまったもんじゃない。
「ぷっ……あはは――っ」
と、なぜか俺の言葉を聞いた途端に噴き出すユウナ。つられて綾乃も笑いだし、果てには二人で笑い転げ、弁当そっちのけで横になってしまった。
「制服汚れても知らないんだから……」
だが楽しそうに笑う二人を見ていたら、俺も自然と笑いをこぼしていた。
あぁ、なんだかあったかいな……。こういうの、なんていうんだっけ……。
俺も少し離れたところで横になり、空を仰いだ。
青空に
俺はまた、何に対してでもなく、気が付いた時にはほころんでいた。
放課後。授業が終わり、帰り支度をしていると再び川越ズが俺のもとへとやってきた。
「ゆうきりーん、部活興味あったりしない?」
「しませんか?」
「ヘーイかのじょー」
「うーん……」
部活か。そういえばそんなものあったな。部活に入るなんて考えたこともなかった。きっと十分に時間があれば入ってもいいかもしれないが、やるべきことが他にある。
「今はまだ……」
「じゃあさ、被服部! よかったら来てね! 待ってるから!」
「ますよん」
「さん」
「「「ばいにー」」」
断ったはずなのに被服部のポスターを渡され、川越ズは嵐のように去って行った。いつみても賑やかで息の合った三人だ。
手元に残された『来れ!! 被服部!!』の豪華
あいふぉんには相変わらず非通知の着信履歴があり、ずっと無視しているせいかその数は二十三件にもなっていた。そろそろ鬱陶しいを通り越しそうだ。
「なぁに、その
「茅ヶ崎さん。それがね、昨日からずっと電話がかかってくるの」
綾乃に打ち明けると、目つきが変わった。
「相手は?」
「なんか……キモチワルイ人」
そう形容するのがピッタリだ。優希の知り合いではあるようだが、学校にいても直接コンタクトを取ってこないということは外部の人間に絞られる。結果的に陰口になってしまうが、そこは勘弁してほしい。
「ほほぅ、ユウキに嫌がらせ行為を働くとは許すまじき輩だ。次かかってきたら私に貸したまえ」
「うん」
と、俺が返事をしたまさにその瞬間。
「うわぁっ」
「どうやらこっちからかけるまでもなかったみたいね」
素早く俺の携帯を手に取り耳元にあてる綾乃。
「…………」
もともと受話音量を大きめにしていることもあり、耳をそばだてると会話の内容が駄々漏れだった。
『ああぁっ!! やっとつながったぁぁ。もぉー、ぼくちんほんと心配したんだよぉ?』
電話の相手はやはり以前かけてきた男に違いはなかった。男の声を聴くなり綾乃の顔が渋ったが、すぐに精悍な顔つきに戻り口を開いた。
「お前はだれだ?」
『んぅ? その声は……ゆうきたんではないぉ? ――ゴホンッ』
大仰な咳払いをしたかと思いきや。
『――人に名を問うならば、まずはそなたから名乗りを上げよ』
くぐもった男の声は刹那の沈黙の後、人が変わったように鋭い声を響かせた。
「はんっ。尋常に語り合うだけの気概は持ち合わせているようね。本人でないと分かってすぐに通話を切断するような腑抜けでなくて安心したわ」
一風変わってしまった男の電話越しに伝わる圧力をものともせず、一戦交える勢いで綾乃が返す。
『ふんっ。素直に名乗り上げればよいものを、我を前に
「お褒めいただき光栄です」
これは一体なんのやり取りだろうか。
『よかろう。そなたの気概に免じて、騎士道の誇りにかけて名乗りあげようではないか!! 我が姓は
「島袋靖永さんですね。はい、どうもありがとうございます」
いつまでこの胡散臭いノリが続くのかと思いきや、綾乃の間の抜けた対応でいとも容易く崩壊した。
『えぇ、ちょっと最後まで言わせてよぉ!!』
島袋靖永と名乗った男は空気をぶち壊されたことがご不満なご様子。どうでもいいが声が変わりすぎて同一人物に思えない。
「気持ち悪いストーカー風情が私に名乗りを上げろとは、どの口がそういうのかしらね? ゴミ袋さん」
もはや綾乃のキャラが崩壊している。綾乃が男の背を足蹴にしながらサディスティックに見下す様が目に浮かぶようだった。
『あぁ、はいぃ。えぇと、そのぼくちんは別にストーカーをしていたわけではなくてですね……』
「じゃあなんでアドレス帳にもないしあってはいけないあなたからユウキに電話が掛かってくるのかしら? ゴミ袋さん?」
立場が優位になったと分かるやいなや、綾乃の言い回しがどんどん攻撃的な方向へ傾いていく。あそこまで気味が悪かった男の言動も、いつの間にか誠意を見せようとかなりへりくだったものになっていた。どうやらこの勝負は決着がついたらしい。
『それはですね……はい。あの、』
「モゴモゴしない!! どもらない!! ハッキリと聞き取りやすい声で!!」
もはや何キャラなんだこれは。
『はいぃっひぃっ!! 不肖、島袋靖永はですねへぇ、このたびわたくしめが経営する店を立ち上げましてへぇぇ。えぇ、そのですねえぇ。以前お手伝い頂いたことある二ノ宮優希さんにぃぃ、その……わたくしめの経営するその店でへっへぇぇええん、アルバイトとして働いて頂けないかとぉほっほぉう。でもそんなことを言っても、あなたにはわからないでしょうけどねぇ!!』
動揺しすぎて訳の分からない口調になっている島袋靖永。
「顔見知りだったの?」
電話口をふさぎ、俺に確認する綾乃。そうは言われても。
「……覚えてないだけかも?」
「うーん……どうする?」
さすがに一存で決めるわけにもいかず、俺の意思を問う綾乃。さすがにあれだけ綾乃が叱責をかけてくれたのだ。
「わたしに貸して」
ユウキと接点がある以上、俺が接しない手はない。
「……もしもし、ユウキです」
『あはぁっ!! ユウキたん!!』
ゾクッと背筋に悪寒が走る。
「……その呼び方はやめてください」
『わかったよぅ……』
「分かってくれればいいんです。島袋さんはわたしと面識があるのでしょうけど……実はわたしは記憶を失くしてしまって、過去のことを思い出すことができません。その中にはもちろん島袋さんとの交流もあるので、島袋さんのことを変なお方だと勝手に思い込んで避けていました。ごめんなさい」
今までの非礼と、優希の身に起こった事実を告げ、頭を下げる。事実を知ることがなかった彼に、事実を告げずに無視し続けるのはいけないことだ。
『そうなのか……。ゆうきちゃん、辛かったろうに……』
「そうかもしれません。でも今は、支えてくれる人たちがいますから、過去と少なからずは向き合えていると思います。でもわたしにはまだ知らなければいけない事が多すぎます。なので、もしよければ、今度少しお話を聞かせてもらえないでしょうか?」
今となっては、もうどんな些細なきっかけだっていい。何か優希を知る機会があるのなら、何にだって食らいついてやる。
『……わかった。来週のどこかでもいいだろうか?』
「今週がいいです!! 少しの時間でもいいので、十分でも、五分でも……三分!!」
『そうか……分かった。他ならぬユウキちゃんの頼みだ。大佐でも三分の猶予は作ってくれるもんな……』
………………………………?
『ここで器を見せんと、どうして男と言えようか!!』
「お、おー……?」
「ユウキ、無理して乗っかんなくていいよ」
「あ、そか。……ありがとうございます、島袋さん!!」
時間の約束をして携帯が切れたのを確認すると、俺は一息ついた。
いつの間にか俺たちだけになっていた教室は静まり返り、外からはランニングの掛け声が聞こえてくる。
「あんな訳の分からないヤツの言葉、信じてよかったの?」
俺を心配してか、綾乃が尋ねてきた。
「うん。きっと大丈夫だよ。嘘を言っているようには聞こえなかったから」
「……何が嘘か本当かなんて解んないんだよ? そこまで無理して自分のことを調べようとしなくてもいいんだよ? ……何も覚えてないんだったら、なおさら知ることに慎重になるべきなんじゃないかな。本当は思い出したくないことがあって、忘れたのかもしれないし……」
珍しく声を荒げる綾乃。綾乃の言ったことは一理ある。昨日図書館で読んだ本にも書いてあったことで、俺がずっと考えていたことでもある。
「別に思い出さなくたって、優希はもう十分やっていけると思う。その方が、きっと優希も壊れずに済む」
昨日までの俺なら、綾乃の言う通り毎日を平穏に無難に過ごしていただけかもしれない。優希にとっても、俺にとっても楽な道を進んでいてもいいと思った。だがそれは、他ならぬ逃げることだ。そして俺は、その道を進むことが優希のためにならないことを知っている。
「いいんだよ。例え嘘だったとしても、辛いことが待ち受けていたとしても。傷つくのが――
綾乃はしばらく俯いていたが、やがてこくりとうなずいて。
「……ユウキは強いんだね」
ぼそりと呟いた。静まり返った教室内で二人きり。なんだかクサイ台詞を言った気がして急に恥ずかしくなり、「そ、そんなことないよっ」と笑ってごまかして先に教室を出た。
ユウナはまた生徒会の手伝いがあるらしく、一緒には帰れないらしい。ユウナから『一人で出歩かないように』という注意を受けていたこともあり、綾乃は特に用事もないというので俺に付き添ってくれることになった。
今でこそ俺につきっきりな綾乃だが、綾乃は別段独り身というわけではない。クラスでは発言力が強く、見ている限り友達も多い。少しばかり歪んだカタチではあるがクラスの男子からも敬愛されている。見目麗しい才女様が俺と行動を共にしてくれるなんて恐れ多いが、先のことを考えるといささか不安要素も多いため、今は誰かがそばにいてくれるということがただ嬉しくて。綾乃の厚意に素直に甘えることにした。
と、正面玄関を出てすぐの噴水広場で、見知った顔が空を眺めていた。
「新田くん」
「やあ、ユウキちゃん。学校来れるようになったんだね……そちらは?」
「茅ヶ崎綾乃ちゃん。同じクラスの友達だよ」
「どうも」
そっけなく挨拶をする綾乃。男子と話すときはいつもこんな感じだ。
「こんなところでどうしたの?」
「あぁ……ちょっと迎えを待ってるんだ。ユウキちゃんはこれから帰り?」
「うん、そうだよ」
「ちょっと寄るところがあってね」
俺の言葉に付け足すように、綾乃が続けた。
「そうか。それはそうと、ユウキちゃんって双子なんだな。今朝もお姉さんの方をユウキちゃんだと思って間違えちゃったよ」
「新田はHクラス?」
「おう。そうだけど?」
ユウナと同じクラスだなんて知らなかったが、ユウナのクラスに一人顔見知りがいるとなると心強い。
「…………」
綾乃は小さく唸って腕組みをしていた。綾乃の懐疑心は計り知れないし、どうしてここまで男を毛嫌いするのかもわからない。すぐにでも新田から離れた方が良さそうだが、どうしても気になることがある。
「ユウナ、クラスではどうかな?」
「お姉さんの方は、やっぱり休みがちだったから、まだみんなと馴染めてないみたいだな」
やはりそこに弊害が出るのも無理はない。
「だいじょうぶかな? ユウナ」
「うちのクラスの女子が何人か声かけていたみたいだし、すぐ馴染めると思うよ」
「……そうだね。そうだといいけど……」
人当たりが悪いわけではないから、すぐ周りに馴染めるとは思う。だが強そうに見えて実は繊細なユウナのことだから、どうしても心配になってしまう。
「新田くん、これからもユウナのこと気にかけてあげてくれないかな? せめて、皆と仲良くできるようになるまででいいから、ね? わたしからのお願い」
なんて、今朝はユウナのことを心配性だなんだって言ったけど、ひとのこと言えないな。
俺がお願いをすると、新田は二つ返事で聞き入れてくれた。
「ああ。ユウキちゃんのお願いとあらば、任せてよ。……っと、迎えが来たみたいだ」
彼の言葉通り、入り口の方から黒い車が走行音もたてずに走ってきた。
「わぉ……」「ほぅ……」
「じゃあ」
そう言い残し、中へ乗り込む新田。俺たちはただ唖然としながら、静かに走り去るリムジンを見送った。
「かっこいいね!!」
「かっこいい? あれが?」
「うん、なんていうか……あんなの初めてみたよ! すごく上品で、優雅だよね!」
例えていうなら、白馬に跨り駆け抜ける王子のような気品。俺には無縁な優雅な世界を垣間見て、俺の胸は高鳴った。いつかお金持ちになったら乗ってみたいな。
「ユウキ、悪いことは言わないからもっと人を選んだ方が良いよ」
隣では、なぜかあきれた様子の綾乃さん。
「ほぇっ?」
「あいつは絶対裏の顔を隠し持ってるやつだ。……私にはわかる。どことなく仮面をかぶっている気がするし……それに、何かがひっかかる……」
高級車に高揚していた俺には、綾乃の言っていることはさっぱりわからなかった。
「――にしても、あいつとはどこで知り合ったんだよう。ずいぶん仲がいいじゃないかよう」
なんだかちょっとふてくされ気味の綾乃さん。
「うーん……実は、ちょっと痴漢された時に助けてもらって」
「痴漢!? ユウキに痴漢をするとは、どこのなにやつ!! 切り捨てて成敗いたそうぞ!!」
「落ち着いてよ茅ヶ崎さん!! わたしは大丈夫だから!!」
そういえば、結局あの時の犯人には逃げられたんだっけ。
「思い出しただけで嫌になるけど、ああいう経験も必要なものだったのかもしれない」
「ユウキ……実は変態? そんな屈辱を必要な経験の一言で済ませちゃうの!?」
「いや、まあそういう訳だけどそういう訳じゃないんだよ!!」
想ってることがつい口に出てしまった。こればっかりは話しようがないので弁解するしかない。
「経験がないのとあるのとじゃ、全然違うって言うじゃない?」
「そんな変な体験から性を覚えなくても、私が教えてあげるよ?」
「いや、その、そういう意味じゃなくて!! ほら、次そういうことされても耐性がつくっていうか!!」
「そんな……穢れに順応しちゃだめ。ユウキはいつまでも純粋なままでいて?」
「なんだか言ってることがめちゃくちゃだよ……!!」
「てへぺろっ」
「ノリでなんでもするのやめてよね……」
「ユウキがかわいくて、つい」
まったく、綾乃といると調子が狂いっぱなしだ。とっても頼りがいのある素敵な女の子なんだけどな。
隣で歩く綾乃の姿をちらりと見やる。
俺より背が高くスラッとしていて、足も長い。肌はきめ細かく、うっすらと化粧をしているのが解った。特徴的なのは背中まで綺麗に伸びた黒い髪。きっと丁寧に手入れをしているのだろう、几帳面に美を追求している綾乃の姿が目に浮かんだ。
これまで色々とあったせいであまり女子として意識してこなかったけど、改めてじっくりと見ると綾乃は俺をドキドキさせるには十分すぎるほど可憐な存在だった。
「ん? どったのユウキ」
「うううん、なんでも」
「ほい」
そしてふざけているときを除き、余計な気を使う必要がないほどに、親しみやすい。何も気を使わずとも、話したいときは自然と綾乃と話せているし、沈黙も苦にならない。別に並んで歩いているだけでも、十分楽しい。
気の置けないというのは、こういう人のことを言うのかな。
もちろん相性の問題もあるかもしれないし、このことについて綾乃がどう思っているかは分からない。ユウナとの付き合いの延長線上で俺と話すきっかけがあっただけで、綾乃の気持ちを聞いたことは一度もないのだから。
俺はそこでふと、気になってしまった。
「ねえ、茅ヶ崎さん」
「どしたん」
「友達って、なんだと思う?」
「うぉっ、いきなり重い議題が飛んできたね」
「ちょっと気になって……さ」
友達の定義は、人によって様々だ。漠然と友達というものについて考えたことはあるが、記憶がないせいで定義として確立するほど十分なデータベースや理論がない。
「考えたことなかったなぁ……」
綾乃は空を見上げながら思考を巡らせていた。俺は綾乃の口から出る次の言葉を、ドキドキしながら待った。
だが、綾乃の答えが出るより先に駅に着いてしまい、話が流れてしまう。
「あれ、スイカないの?」
券売機で切符を買おうとしている俺を見て、綾乃が首を傾げた。
「西瓜? スイスイ……あ、スイカ!」
今朝ユウナからスイカなる電子定期券を頂戴していたことを思い出す。機械にかざすだけで自動で精算してくれるという。
「おぉ……」
便利じゃのう。
駅の中は嫌でも人が増える。通路を通るときは綾乃が先頭に立ってボディーガードのように他人との距離を気にしてくれた。
「今の時間はあんまし帰ったことないからどんだけ人がいるかとかわかんないな」
綾乃も同じことを心配しているようだ、その気持ちだけでも嬉しい。
やがて電車が着くと、ドアが開く。
「まぁ……そこそこだね。いける?」
「いく」
以前と同じ、隅っこを位置取り、外側に身体を向けて人を意識しないようにする。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ……」
教室の柔らかな空気とは違い、相変わらず電車の中は重たい空気が流れている。知らない人たちのにおいと、なんでもない話し声と、ひたひたと纏わりついてくる気配で満ちた、密室。
くしくも今乗っているのは以前一騒動あった電車での同じポジションをとり、同じ目的地へ向かおうとしている。
意識したくなくても、意識してしまう。
また背後から誰かの手が伸びてくる気がして、身体が自然と震えた。
まだ、俺にとってこの空気は、重すぎた。
「ユウキ」
そんな時、背中に声がかかる。
「私を見なよ、ユウキ」
言われたとおり振り向くと、そこに綾乃の顔があった。
「ほら、こうしてたら、誰もユウキに近付けないからさ」
綾乃は左手を手すりに、右手を顔の隣につきだし、俺をコーナーに追い詰めるように隔離空間を創り上げていた。たしかに、周りの人を意識しなくなるほど、綾乃が近くにいて、いくつもの気配から守ってくれている。
“知らない誰か”ではなく、綾乃の存在しかもはや感じられないほどだった。
他の人はだめでも、綾乃ならある程度は大丈夫だ。一度助けてもらったこともあってか、綾乃ならまだ耐えることができる。しかしまだ触れることはできない。そんな状況を理解している綾乃は、適度に距離を保ってくれている。
「茅ヶ崎さん……」
次の駅で結構な人が乗ってきたが、綾乃はどれだけ押されようが体勢を崩さなかった。
「ほらね?」
得意気になって笑う綾乃。
「……ありがとう」
綾乃の紳士的な対応に、目の奥だけじゃない。胸の奥がじーんとするのを感じた。
ただ、それからしばらくは別の意味でドキドキしっぱなしだったのは言うまでもない。
日が傾いてきたころ、俺たちは目的の場所に到着した。
「山田?」
「うん。親戚のおばあちゃんがいるんだ」
インターホンを鳴らし、根本さんが出てくるのを待つ。
「はーいどうぞー」
案の定奥から根本さんの声が聞こえてきて、俺は山田家の玄関を開けた。
「ごめんください。二ノ宮優希です!」
「はーいはいはい。いらっしゃい――あらまっ。可愛らしいわねぇ。それたしか照月高校の制服よね?」
「よくわかりましたね」
「ええ。まあね。でんも、あたしユウキちゃんのことてっきり中学生くらいかと思ってたわ。小さくて可愛いんだもの」
「ですよねですよね!?」
後ろに立っていたはずの綾乃がいきなりぐいっと出てきて根本さんの手を握った。
「あら、お友達もご一緒なのね」
「こんにちはっ。私は茅ヶ崎綾乃と申します!! ユウキちゃんを一人で出歩かせるのは危険なので、勝手ながら同伴させていただきました――ッ!!」
新田の時と違い、今度は元気よく挨拶をする綾乃。なんだかすごく子ども扱いされている……?
「そうねえ。世の中物騒な話が絶えないものねえ。でもそれはあなたも同じよ?」
「御心配には及びません。護身術は少なからず心得ておりますので。私はユウキちゃんのボディーガードなので」
「あらそうなの。頼もしいわねえ。ユウキちゃんって嘘つくのが下手なくらい純粋な子だから、無理しない程度に守ってあげてね」
――……ん?
「はい、お任せください!!」
「せっかくいらっしゃったんだから。ささ、あがってくださいな」
根本さんは相変わらず忙しなく動き回り、山田家へ招き入れてくれた。
「ねえ。わたしって、そんなに分かりやすいかな?」
根本さんが用意してくれたスリッパに履き替えながらこっそり耳打ちする。
「説明書不要なくらいにね」
「がーん」
「妙子さん具合が悪いんですか?」
和室のちゃぶ台はどこかへ片付けられ、代わりに部屋の中央では山田妙子が床に就いていた。
「それがねぇほんと突然だったわ。昨日ユウキちゃんが帰った後、布団を敷いてくれって言われて、そのまま朝になっても起きないもんだから……あと一時間もしたらお医者様に診てもらう予定よ」
「そうですか……」
昨日山田妙子を見た時はまだそこまで顔色は悪くなかった。それとも彼女の言葉通り、俺がここに来たことで彼女の中の何かを刺激してしまったのだろうか。
――……あんたは、あたしを迎えに来たんだろう?
昨日向けてきた色の無い瞳は閉じられ、山田妙子は生きているのか死んでいるのかも解らないような顔で眠っていた。遠い記憶の中を彷徨っているのか、夢を見ているのか。現実にはないものを、どこかへ求めて旅立っているのか。時折まぶたがぴくぴくと動いている。
和室の隅にあった座布団を寄せて、正座をした。綾乃は足元のほうであぐらをかいて座った。
「でもよかったわ。本当に」
と、根本さんが一つ溜息をついた。
「セツナさんが来なくなってから、妙子さんのこと見舞う人なんて誰もいなかったから……」
根本さんの口からでたその名前を聞いた途端、ズキリと頭が痛んだ。
「っ――セツナさん……?」
「苗字はなんていったかしら……
「御影……セツ、ナ……――ッ」
自分でその名を口にすると、頭の中に走る痛みがいっそう激しさを増した。
「そう。昔からのお知り合いだったらしくて、身寄りのない妙子さんと唯一おしゃべりしていた綺麗な奥さんだったわ。そうそう、あたしがここに来たのは、その方がもうここに来れなくなるかもしれないって言ったからなのよ」
まるで警鐘のように頭の中で鳴り響く鈍痛。なんとなくこれ以上は危ないと思ったが、質問をやめることはできなかった。
「それって……いつのことですか……?」
「あたしが来たときだから……三ヶ月前よ」
「三ヶ月前……は、」
日めくりカレンダーが逆再生される。二月二〇日の紙が繋がって止まった。
目の前に窓ガラス。突如として激しい雨が窓を叩き、ピピピという機械音がどこからともなく鳴リ渡る。
扉の前に佇む黒い影を見た時、足元で金属音が鳴った。瞬間掌に赤黒い熱が広がっていく。
そして制服まで赤黒く染めた優希の姿が鏡に映る。
鏡の中の優希が手を伸ばし、爪をたてて喉元を力強く締め上げてきた。
「はい。ありがとうございます」
綾乃の声が耳に入ってきたのとほぼ同じくして、意識が戻ってきた。
ズキズキとした頭痛と息苦しさに胸を締め付けられ、呼吸が乱れそうになるのを必死で押さえる。
「ユウキ……?」
二月。御影セツナ。山田妙子。大塚祐樹。二ノ宮優希。
頭の中を言葉が飛び交う度に妙な痛みが走り、何かを――忘れていた何かを思い出しそうな気がする。もう少しで何かが、もう少しで……。
「ユウキ、血!!」
指摘され、鼻の下に妙な感覚。いつの間にか鼻から血が滴っていた。
血で染まった指先だけが不気味に暖かく、そこから全身の熱が奪われるかのように身体が小刻みに震え、血で染まった手がみるみると腐食していく錯覚を覚えた。
嫌だ。気持ち悪い。
目の前にあったティッシュを取り、血を拭き取ろうと試みるが、何度往復させてもこびり付いた血が拭き取れない。
必死になっているその自分の姿をあざ笑うかのように見下ろす、影があった。その影はニヤリと笑って口を開き、恐ろしく冷たい声で問いかけてきた。
『どうして? どうしてあんなことしたの?』
「…………」
『ねえ、教えてよ?』
「……ちがう」
『罪を償ってよ? ねえ――優希』
「――ちがうッ!!」
「ユウキ、落ち着いてユウキ!!」
「――触らないでっ!!」
「い――ッ」
「あっ……」
我に返った俺が見たのは、頬を手で押さえて横を向いていた綾乃の姿だった。何が起こったか把握するのに時間を要するほど、頭が混乱していた。ただ、右の掌がじんわりと熱を帯びていたことに気付いてからは、己がしでかした事実を知るのに時間を要さなかった。
「あっ……その……ちがさき、さん……」
綾乃の表情は手と髪で見えず、綾乃がこちらを向くことはなかったため、彼女がどんな顔をしているのか分からない。
とんでもないことをしてしまった。俺を助けて、身を挺して守ってくれた綾乃に対して、なんてことを……。
謝らなくちゃ。頭ではそう解ってはいても、口元は思うように動いてはくれなかった。
「ちょっと……外出てくる」
言いあぐねているうちに綾乃は顔を隠したまま、
「わたしは、大丈夫だから。血、拭きなよ」
閉じる前にそう言い残し、綾乃は俺の前から姿を消した。
「はぁ……」
どうしようもない自己嫌悪に苛まれる。いったい何回同じような失敗を繰り返せば気が済むのか。いったい何回人を傷つければ学習するのか。
ズキリ。
俺なんかより、拒絶された綾乃の方が何倍も傷ついているはずなのに……。
油断していた。優希の闇と対峙して、またしても自我を保てずに取り乱してしまった。胸が張り裂けそうになるほどの熾烈な感情の渦に飲まれて、平常心でいられなかった。
まもなく三日目も終わろうとしているというのに。俺は
ちっとも前に進めていないではないか。
俺のしてきた選択は、間違っていないだろうか……?
ティッシュで押さえているとほどなくして血はとまった。それから一人の時間が流れる。
「ユウ……」
頭を垂れていると、どこからともなく掠れた声がした。この部屋にいるのは俺と、もう一人。
「おばあちゃん……?」
身体を起こし、山田妙子に向き直る。彼女は先ほどと同様に一切体勢を変えていなかったが、微かに口を動かして喉の奥から
「ユウキ……」
そのユウキは、優希かもしれない。だが、祐樹であってほしい。そんなことを願いつつ、
「うん。ユウキはここにいるよ、おばあちゃん」
身を乗り出し、山田妙子の顔を覗きこむ。瞼がゆっくりと開き、色を失った瞳が俺を覗いた。
「ユウ……キ……」
布団の中でもぞもぞと、ゆっくりと時間をかけて、自らの手を布団の外に出した。
そしてその手は宙を泳ぎ、俺の目の前に差し出される。
余計な肉が落ち骨と皮だけになった細い手を、うめき声をあげながら必死に動かしていた。
その手を取るのを一瞬ためらった。また発作が起きるかもしれない。
……いいや、何を怯える必要がある。
もしもここで手を取らなかったら、俺はこの先後悔する羽目になるだろう。身よりも親族もいない、山田妙子を突き放してしまっては、それこそおしまいだ。
なんとなく。先は長くないのかもしれないと思った。
もしそうならば、彼女を看取ってやれるのは
「妙子さん。ユウキはここにいます……!」
彼女の手を取った。
その瞬間、人に触れることを恐れ、怖がっていたことがばかばかしく思えるほどに、山田妙子の手からは人のぬくもりが感じられなかった。
こんなになるまで、あなたは一人だったのですか……?
片手でしっかりと握り、もう片方の手で優しく包み込むと、山田妙子が少しだけ表情を動かした――気がした。
「……ユウキ、すまないねぇ」
ぼそぼそとした小さな声で最初に発したのは、謝罪の言葉だった。
「どうして、謝るんですか……?」
「……もう何十年と経つけど……不思議なこともあるもんだ……。あたしは……その言葉を、あんたに言うために生きていたんじゃないかとさえ思えるくらいさ……」
山田妙子の目は二ノ宮優希を認識していた。しかし彼女は、ここにはいない“ユウキ”に向かって喋りかけていた。
彼女はなぜ、そうまでしてユウキに詫びるのか。
一つ一つの言葉を発するたびに大きく息を吸い、苦しそうにしながらもなお、山田妙子は謝りたいと申した。
いったい、そうまでして謝りたいことはなんなのか。ユウキはそこまで謝られるようなことをされてきたのか?
孤独という檻の中で生きてきた彼女に対して、何と言葉をかければいいのか。
「ユウキ……あたしを、
目だけではなく、首を動かして俺を見る山田妙子。色を失った目は、焦点すらあわず、どこか虚空を眺めていた。きっとそれだけでもかなりの体力を使うはずなのに。
「わたしは……」
俺は――
この人が何を想って罪の意識を背負い生きてきたのか知る由もない。知るはずがない。何年、何十年と時を重ねても癒されることのなかった山田妙子の苦しみを、理解してやることはできない。
そしてちっぽけな俺の一言で、この人を救えるとは、到底思えない。
だが、俺は知っている。感じ取ることができる。
大塚祐樹の魂が、呼応している気がした。
「わたしは――最初から、あなたを恨んでなどいませんでしたよ、妙子さん。恨めしく思うのは、運命に振り回されても、それに抗うこともできずに、ただのうのうと暮らしていた、わたし自身に対してです。決して、それをあなたのせいにしたことはありません。今もまだこうして自分自身に打ち勝てず、逆に周りを傷つけてしまっています。そんなわたしが……誰かを恨む権利ななんてありません。ですから、妙子さん。ボクがあなたに贈る言葉は、一つだけ」
何十年と、きっと彼女は孤独に自分の罪と向かい合ってきた。何を持って罪とし、何を持って罰とするか。もしもこの何十年もの孤独が罰だというのなら、彼女はもう十分すぎるほど、その償いを果たせているはずだ。その罪の意識から解放できるのは、大塚祐樹ただ一人。
俺が生きているときに伝えきれなかった想い。言葉。
もはや忘れ去られ、失われた記憶の中にある気持ち。
だが、それでも俺は。
「――ありがとう」
山田妙子に精一杯の感謝の気持ちを込めた一言を紡ぐ。
俺の言葉を聞き終えると、山田妙子はそっと俺から目を逸らし、顔を天井に向けた。
開いていた目もやがて、静かに閉じていく。
彼女がどんなことを考えながら眠りについたのかは知る術はない。
俺は山田妙子の手を三度優しく握ると、そっと彼女の身体に沿えて、布団をかぶせ直した。
退室する際に振り返ると、彼女の瞳からは一滴の光が零れ落ちていた。
♪
――私は、私の罪をここに書き記す。
私が初めて彼と出会ったのは、彼が七歳の時だ。
五歳で両親を亡くし、行く宛の無かった彼を最初に引き取ったのは、彼の父の弟夫婦だったという。子供がなかなか恵まれなかったということもあり、最初は家族同然に可愛がっていたが、その夫が多大な借金を抱えていることが露呈し、家庭はすぐに崩壊した。夫は借金を抱えたまま身を投げ、その一切を妻と彼に被せてこの世を去った。幸せな現実が崩れ去り、急変した生活に
「あんたがこの家に来てからうちは滅茶苦茶よ――この疫病神ッ!!」
荒んだ心は
彼は餓死直前のところをアパートの大家に発見されるまで、捨てられたという事実さえ知らずに母親の帰りを待ち続けていたという。
彼に対する悪辣な虐待の数々は、彼の身体の傷を見れば一目でわかるほどだった。その後、彼に対する虐待で問い詰められた妻は、宿泊先のホテルの一室で自ら命を絶った。
そうして、彼を引き取る者を決めるために、親族が再び集められた。私は、その時初めて同席していた。大塚の家系からはだいぶ離れ、他人同然の彼に対して私の興味は微塵もなかった。
だが、彼を引き取るために自ら手をあげる者は誰一人いなかった。それどころか、それだけひどい仕打ちを受けてきた子供が同席していないのをいいことに、皆面倒臭そうな顔で死んだ目をしていたのを覚えている。
そんな時、私はなぜか手を挙げていた。
皆が、面倒を請け負った私に対して目の色を変え、賞賛を口にした。
私は、すっかりいい気になっていた。今まで注目を浴びることのなかった私が脚光を浴びることに快感を抱いていた。
その感覚が忘れられず、私はもっと彼を利用することにした。
彼の荒んだ心を性根から叩き直すために、言うことを聞かない場合は物で殴り、蹴るなど暴行をして無理やりにでも服従させた。学校に通わせ、利口者として振舞わせ、PTAの集まりがあるたびに私は母親たちからちやほやされる、人気者になった。しかし、実のところ彼を育てる気などさらさらなく、周りの目の行き届かないところでの彼に対する態度は、以前虐待をしていたかつての義母となんら変わらないものだった。
小学校を卒業し、やがて中学も卒業すると、いよいよ彼を家に置いておく理由がなくなってきた。高校生ともなれば、もう十分に自立していける、一人の大人だと思っていた。傍に置いておいても何か特別なことができるわけでもない、ただの普通の高校生。私は、彼に対してこれまでとは違う意味で暴力をふるっていた。
教育目的でしていたものも、何の意味もないただの腹いせでするようになった。気分が乗らないときは無視をし、彼ができるであろうことは全て彼に任せた。
そうやって、気が付いた時には私は家から一歩も外へでなくなっていた。
彼の給料から私の生活費を徴収することで生計を立てていた。
それが、当たり前になっていった。
そして、そんな当たり前は彼が一六歳の時に突然崩壊した。
彼が交通事故で亡くなった。彼の死に際の行動が、私の耳に飛び込んできた。
彼は一人の少女の命を救い、死んでいったのだと。
その彼の雄姿を称え、のうのうと息をしていた私が彼の代わりに
そして、救われた少女は、私に泣きながらお礼を言ってきた。
かつて多くの目を集め、脚光を浴びて快感を抱いていた私は……そうまでされて、嬉しいとは思えなかった。きっと今までの私なら、悦に浸って心酔していたことだろう。だが、その時は違った。
穢れのない少女が零す涙のように私の心が潔白であったなら、その誉を受け取り共に彼の死を悲しむことができただろう。だが、私はそうではなかった。
私は、その時気付いた。私の心は穢れきっていて、賞賛を受けるに値しない人間であると。そして知った。私が持っていた、自らの愉悦のために彼を傷め続けていた、ある病の存在を。その病気を調べたのは、ある種の防衛本能だった。とにかく自分の身を守りたくて無我夢中に資料を漁っているうちに知った。
だが、今までの彼に対する仕打ちは病気のせいだとは言わない。私が彼を傷め続け、苦しめ続けていたことに変わりはないのだから。
きっと、彼は私のことを恨んでいるだろう。ただでさえ幸福感の欠片もみられない人生を歩んできたというのに、それを解ってやろうともせず利己的に利用し続けてきた私のことを。
こうして今でもわが身の可愛さ故に、赦しが欲しくて願っている私のことを――。
彼の遺体の損傷が激しかったために、私が彼に対してとってきた行動が明るみに出ることはなかった。
だから私は、私の罪をすべて、彼――大塚祐樹の養育者であった山田妙子の名で、ここに書き記す。
私の今の
私はどんな罰でも受けます。
どうか神様、あの子をお救い下さい。
私は赦されなくても構わない。
どうか――ど
♪
俺が外へ出るころには、すっかり日も暮れていた。綾乃は外の玄関前の石段に腰掛け、俺を待っていた。随分と居座ってしまい、先に帰られていたのではと心配したが杞憂らしかった。
「……おまたせ」
「もういいの?」
俺ができることはすべてやった。
「うん。……帰ろう」
駅までの道のりはそこそこある。その間に、俺は綾乃に伝えなければならないことがある。
どう切り出そうか悩んでいると、綾乃が先に口を開いた。
「さっきのことだけどさ」
俺はその言葉を聞いて内心ドキっとした。
「答え、分かった気がするよ」
「……答え?」
「うん。ほら、学校出てから話したこと」
"さっき"にしては随分前に飛ぶんだな……。てっきり綾乃を殴ったことについて咎められるのかと。
「……友達ってなんだと思う? って聞いたことだよね」
結局答えが出ぬまま今になってしまったけど、綾乃はその答えを出せたらしい。
「聞いても……いいかな?」
俺は、おそるおそる綾乃に尋ねた。
綾乃はしばらく黙っていた。ずっと綾乃の顔を見ているのが恥ずかしくなり、まだかすかに明るい空を眺めていると、隣から声がした。
「あたしはさ。"一緒にいたい人"のことだと思う」
「一緒にいたい人……」
「うん。話せる人はいくらでもいるし、遊べる人も何人かいる。けどさ、その中でも、一緒にどこか行きたいなとか、一緒に食事したいなって思う人は限られてる。だからってただ話す人を友達じゃないって言うわけじゃないけどさ。友達として付き合いたいのはどんな人かって言ったら、やっぱり一緒にいたい人になるかなーって」
「一緒にいたい……か。そ、それって……ちなみに、わ、わたしは含まれてたりする……?」
念のため聞いてみると、綾乃からは素っ頓狂な声が返ってきた。
「え?」
「……え?」
俺も予想外の返答に驚いてオウム返しをしてしまった。
「……どうかなー、さっきのビンタ痛かったしなぁ」
「うぐぇっ……」
それを出されたらぐうの音も出ない。
「ジョーダンジョーダン。別に怒ってないよ。痛かったのはほんとだけど」
「うっ……ごめんね」
ちょいちょい意地悪なことを口にして俺の反応を楽しんでいるような気もするが、
「よかろうもん。汝を赦そうじゃあないか」
何にせよ、見限られなくて安心した。
「良かったぁ……。あれ、それでその、わ、わたしは……?」
さっきの話に戻そうとすると、綾乃は無邪気な笑顔で俺に向かって、
「バーカ」
と言った。綾乃はスキップを始めて急に走り出した。
「バカとはなんだ!」
俺が文句を垂れると、綾乃は振り返り、
「あたしが思う一緒にいたい人っていうのは、主にユウキのことだよ。もちろん、ユウナもね」
そして、綺麗な笑顔を浮かべてそういった。
「そ、それは反則だ……」
そんな面と向かって恥ずかしいことを堂々と……。聞かされているこっちが恥ずかしい。――とはいえ、そう言うように催促していたのは自分なわけで。でも期待していた以上の言葉が返ってきてしまって……。
「おやぁ? 赤くなってますかぁ?」
「夕陽のせいですッ」
「もう陽は沈んでるんだけどなあ」
「まだかろうじて残ってるよ!!」
「ユウキ、ズっ友だよ!!」
「それはやめて」
「えー、なんで? いいじゃん。ズットモズットモ」
「友達の価値が薄れるから……」
他愛のないやり取りで、俺たちはまた笑い合った。
俺にとっても優希にとっても、綾乃の存在は大きい。そして、自身の存在を認められることの、心の支えは絶大だ。
一方的に世話になりっぱなしではあるが、それもいずれ恩を返したい。俺がたとえ返せなかったとしても、優希に返してもらえればいい。
優希。優希の周りには、とても暖かいもので溢れているよ。どんなに拒んでも、皆が優しく受け止めてくれる。もちろん、俺だって受け止めるつもりだ。
だから、もう怖がらなくていいんだ。涙を流す必要もないんだ。
綾乃との時間に心があたたかくなる中、俺の頭の片隅には微かな痛みがまだ残っていた。
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