strawberry





思えばチカはずっと、ウェスタンブーツを履いている。

それは季節がどうであれ無関係に。


色違い、もしくは柄違いで6足持っているとチカは言った。


「……中2の時やったっけな。潤がな、

あのアホが珍しく私の靴をほめてん。

……俺そう言うの履いてる女の子好きって。

確かそんなウェスタンガールが主役の映画流行ってた頃やと思う。

……で、そっからずっとこれ。


言うた本人はすっかり忘れてるやろうけど」



3月やと言うのに雪が降って、身が縮み上がる程寒いくせに、

なんとかフラペチーノを食べているチカ。


目線をずらすと、バイト中の潤君が見えた。


誰かに言われた言葉で、

その人の人生が変わってしまう事もある。


笑顔で接客中のあの男の子もまた、目の前にいる女の子の人生を変えた。



それこそウェスタンブーツをずっと、履いている人生に。


「……それよりさ、あほい、あんた帰らんでええん?もうとっくに試験終わってんねんやろ?」



チカが不思議そうに私を見る。


「……ん?………うん。もうちょとだけ。

なんか用事ある?」



チカを呼び出したのは私。

リクの入試の最終日で、滑り止めに受けたここが最後。



試験が終わりにメールがあった。

でももうそれも2時間程も前の話で、今頃リクはきっと、マンションに戻っている。



「……別に何もないけど。

ほら……、入試終わったら話するって決めてんやろ?やからここまでずっと我慢して話に手ぇつけへんかったんちゃうん?」


チカは何の恥じらいもなく店の紙ナフキンで鼻をかみ、


「……スッキリしたら?私の鼻みたいにさ。あなたの人生を。」と、チカは言った。


「……もし今日ちゃんとあんたらが話すんねんやったら、私も告る」


「……え?」

「……だからぁ、あのアホにやん」


チカの顔に浮かぶ、赤面と言う字体。


「……いつまで逃げてたってええ事あれへんって、

あんたらを見てて思ってん。

それで潤と気まずくなんねんやったら……しゃーないわ。

でもこれってほんま死ぬ思いやで。

永遠にあのアホとの楽しいやりとりを失うかもしれへんねんし。

……やからあんたもがんばりぃや」


中身のまだらなプラカップを、チカはその手で少し歪めた。

「………………う……ん」

「……ほなもう帰り。ここに用はないやろ?

お互いの結果は……後日メールっちゅーことで」


チカは言うと私の肩を押す。

それに気づいた潤君が、満面の笑みで片手を軽くあげた。





チカといた空間がどんどん遠退いて、

目に映るこの淡く優しい世界。

少しずつそうなっているのに、ふとそれに気づいたような気にさえなる。


夏草は消え、春の上にあるまだらな雪。

駅の階段を、最後の一段降りきると、見計らったように先生から電話があった。


『……もしもし?あーちゃんあんたさぁ、これ習慣になってへん?

その日に聞いてから帰りいや』

今日の朝の検査結果。

初回はわざとやったけど2回目からは違う。

先生から後で結果を聞く。それは一種のげんかつぎであり、先生の電話は、春の鶯谷のように良い知らせをもたらす。

『……陸人……、一緒?』

『……あ、いえ、あの……試験は終わったってメールありましたけど』

『……やろうね。こんな夕方やもん。

いやさ、検査結果あの子気にしてたし、

陸人に先言おう思て電話してんけど、取れへんかってん』



そう言われ、また処理出来なくなる。


リクは私の何なんやろう……。


先生は分かっているくせに、なんでリクを私に会わせたりしたんやろう。


『……あの……先生、リクは一緒に暮らして ますけど家族やないんで、そう言う大事な事は私本人に一番最初に言って下さい』



言いながら刺だらけやなって思う。

不安が集まり塊になる。

今のリクと出会う前の自分がまだここにいるん……?



『……確かに家族やないけど、リクはあーちゃんの大事な彼氏やろ?恋人やんか……。悪かったけど……』


先生のいつにない弱々しさが嫌い。


『……恋人?彼氏……?

……笑わせんといて下さいよ。先生もほんまひどいなぁ。』

改札を出た所に、この地域の古い観光ポスターがある。

鹿と緑と青空と。


その端が風にはためくの見ながら、ひきつる喉を指先で押さえ私は言った。


何もおかしくないのに笑う。

そんな気味の悪いこと、でも出来た。

先生は何も言わず私の笑い声を聞いている。

混沌とした時間が過ぎた。




『……あーちゃん……明日会えるかな……?

勿論病院以外の場所で。

言うてくれたら……そこ行くし』


先生の駒が動く。

極めて冷静なその声は、感情をどこかに置き忘れてきたのかしら……。


『……別にいいですけど。でも私今日リクとその事について話すんで、明日先生と会うの、いらなくないですか?』


『……いらなくないよ……あーちゃん。

どんな話にでも補足は必要。

あの子は話すの下手やから、きっとあーちゃんには全部伝われへんと思うねん。

今のあの子は心にも体にもまだギブスをはめてる状態なんよ。だから私が』

『はいはいはいはい、わかりました。

会えばいいんでしょ会えば。

2人で私をどう騙したかじっくり聞きますって……!』


自分の言葉も終わらへんうち電話を切ってしまう。


手が震えて、改札をどう出たんかも記憶にない。

先生からの電話は鳴らない。結果も知らない。

ただリクが、待っている。




できもんがはぜたように思う。


長い年月蓄積された私とリクのうみ

傷口はいつしか膨大にかさを増し、

先生の言葉が針となり、そして流れ出した。

つまりリクと私の恋愛も生活も、

そんな膿だらけの上に成立していたと言う事だ。


いや、元々成立などしていない。

ごっこ、遊び、妄想、嘘。


そしてそれを知っていた私は知らないふりをして、何をしたかったんやろ。


一度はリクの全てを受け止めようとした心が、

なぜか今は穴だらけや……。


修繕の仕方、どなたか教えては貰えませんか?






マンションドアの鍵の音は、思いの外大きく響いた。


「……ただいま……」


シチューの匂いが鼻腔をくすぐり、私の刺の周りにまとわりつく。


リクはキッチンで、コンロと同じ、弱の笑みを浮かべ、また視線をシチューに戻す。


「……おかえり」

「……入試……終わったんやね」


リクの背中をすり抜け、小さな風が生まれた。


「…………うん。

でも多分第一志望のとこ受かってると思うし」


「……ふうん。すごい自信あるんや」


ソファーに沈みこみ瞼を閉じる。

その材質が肌に伝わる程、全ては過敏になっていた。



「……どうしたん?検査結果でも……悪かった?」

「……電話かかってきたけど聞かんと切ったし。

先生、リクに先に電話したって言うてたけど、

取らへんかったって」

「……ああそれ。……試験やったからマナーにしててそのままやった」


ようやくリクがコンロの火を止めた。


やがてソファーにリクの重さ分が追加され、

私が少し体をずらすと、リクは寂しげに天井を仰ぐ。


「……アオが話したい事ってそう言う事…?」

「……何が……?」

「……つまり俺と……距離置きたいとか」

「……距離……?私らに元々距離なんかないやん。笑わせんといて。それにリクは……私の彼やないやん。見かけだけいじったって……やっぱりリクは……」



最後を締めたそんな言葉に、リクは一際大きな息を吐き、顔を両手で覆った。


「…………いつから……気づいてたん……?」

「……ずっと……」

「……ずっとって……いつ?」


リクが病室に来たあの日。

そう答えれば壊れる。

私が壊れ、リクがきっと壊れる。

嘘は便利。

嘘は世界を救う。


私とリクのその間も、

大量出血させずに……すむかもしれへん。


「……一緒に暮らすように……なってから……」

「……それは、俺がアオを抱かへんから……?」

「……………………やし突然いてへんようになって……おかしいってずっと思ってて……帰ってきて……確実にそう思った……」



言いながら心の中で、そんな訳ないと思っている。

抱かれなかったからとか、いなくなっておかしかったからとか、

そんな事ぐらいでリクを、藤木 陸人やないと

見抜けるんはきっと、私しかおらへんから。


「……俺が…何してきたと思ったん?」


リクは冷静でいようとする。


でもその色を無くした頬や唇や、

それら私の大好きなパーツ全てが、

これから起こることに怯えていた。



「……そんなこと……知らんっ……!!」



そばにあったクッションを思いきりリクに投げつけ立ち上がったのは、自分が愚かすぎてムカついたから。


「……待てって……」


リクがつかんだ腕を振り払ったのは、どこまでも真っ直ぐ自分に向かうリクの愛情が、可哀想やったから。


「……今日は……と言うか

明日も明後日もその先もずーっとリクが無理っ……!

リクかってそうやろ!?

こんなんでまた一緒に笑って暮らすなんて無理やんっ……。私ずっと騙されてたんやんかっ……!

バカにせんといてっ、私は男が大好きやねん。

偽物はいらん……。病気で死にかけやからってバカにせんといてっ……!!!」


騙されてたんやない。

騙されてたふりしてたって、なんで中園 葵は言われへんのやろ。


ヒフティーヒフティーやのに、

なんで私が勝ったみたいに言うんやろ。


ほんまにあんたはあほいやな。



リクの手が、力を無くし真下に落ちる。

それが合図みたいに、私は再びバッグを抱え、

その空間から逃げ出した。




【拝啓 神様。

あなたがもし人間を作る作業に関わっているのなら、大量の不良品を出しています。

そのせいで、私もリクも、もうボロボロです。

でもきっとあな たは涼しげな顔でこう言うのでしょうね。


不良品ではないのだよ。


それは本当の愛を知らない、君の為に用意したものなんだよと】



「……はぁ……今日はここでオールかぁ。

きっついなー、明日朝イチで講義やのに」


チカは上目使いで私を見ると、ファミレスの窓から真っ暗な外を見た。

星1つない。

きっともうすぐ、雨か雪が降る外を。


「……ごめん……。おうちの人大丈夫やった?」


そう訊くとチカは苦笑する。

「……正直言うと呆れてた。出掛けてそのまま外泊ってのはようあるけど、

終電に間に合うように帰ってくるんやなくて間に合うように出て行くってのは今まで無かったから。……でもま、気にせんといて」



1人娘だからと、チカの門限は厳しかった。

大学に入り、今まで押さえつけられていたものが爆発し、チカの門限破りはひどくなる。

長い時間をかけ話し合った結果、

どれだけ外泊しても、必ず最後には家に戻る事と言う父親の寛大すぎる処置によって、

親子の長いバトルは終わった。


「……ほんまに……ごめん……」

「ええって。……で?飛び出してきたんやな」



チカが腕を組む。

彼女が注文したstrawberryシャンティはまだ届いていない。


「………………うん。あそこで息すんのも辛くて……」


飛び出した後、リクから電話はなかった。

閉じられたピンクのカーテンを見上げ、駅までの道を歩く時、胃液に似たものが何度も込み上げた。


「……そっか。うーん……ごめん……なんて言うたらええんかわからへん。アホやし私……」


結局チカを呼び出した。

1人で背負うこの事実が重すぎて。

「……いいねん、聞いてくれるだけで。友達って……ええもんやな」


その言葉にチカが笑う。


「……ふ、今さら何言うてんの。やっぱりあんたってキモいわ」


テーブルの下でコツと鳴る。

彼女は今日もウェスタンブーツ。


「……女友達とか初心者やねんもん。

……あ……そうや、潤君に言うた?」


その事で呼び出したのに、何か違うことを話していたい。

リクからもずっとずっと、遠ざかってしまいたい。


「…………うん。あんたと約束したしな。メールでやけど」


チカはあっさり言って、目の前にようやくシャンティがくる。


「……メールで告白したん……?」

「……うん。私正直メールで告白とか、別れ話とか大嫌いやねんけどでも…怖すぎてさ。予想通りまだ返事はないわ」

チカの睫毛が浅く瞬く。

「……メールまだ読んでないとか?」

「……な訳ないやん。

あんたと今日別れて帰りし送ったのに。

……読んできっとめっちゃ困ってるんやと思う。

返信でけへんほどに。

そのうち見た?って訊いたら、そんなメール届いてへんって言いそう」


ふっ切ったようにチカは笑って、

「……ま、こうなることはわかっていたさ」

と、苺を口にほうりこんだ。


「……それよりさ、告白してみて今、

私あいつの気持ちなんかなんとなーく分かるなぁ……勿論全部やないけど」

「…………あいつって……リクの……?」

「……うん。

私も潤にとっては男みたいなもんやし……男から告られてるみたいな感じやと思うねん」

「……でもチカはほんまの女の子やん……。リクとは……違うよ」



ほんまのと言う箇所がきっと気に入らなかったんだろう。

チカは少しムッとしたように、口の端をキュッと結んだ。


「……ほんまのとか、ようわからん。

それはその相手がどう見るかちゃう……?

私は例え潤が女でも……好きやったと思う。

でも潤はわからん。私の体が女でも、男にしか見えへんかもしれへん。

もしそれでしか潤が私を分類でけへんのなら、

私が望む本当の恋愛は、潤とは無理やと思う」


言いながらチカは、

……あぁ……頭ゴッチャーになってきたと、

髪の毛をやたらとかきむしった。


「……それはチカが……私の立場にないからやん。

私かって自分の事やなかったら何とでも言えるし……」

「……そやな。

でも……それ分かった上で言うてもええんやったら、相手の性 別ってそんなに大事なんかなと思うわ。それにあいつそこらへんの男より男やん。髭も生えてるし、体もあんなんやし……。

初めてあんたから訊いた時、絶対嘘やと思ったもん。潤かってきっと訊いたらひっくり返ると思うわ」

「……でも、リクは正真正銘の女や。手術したって、リクは私の大好きな男やなく、女として……生まれてきてん」


私が遮断すると、チカは黙りシャンティにも全く手をつけなくなった。


「…………じゃあ……別れるん……?

……ま、それもええかもな。

あいつがほんまに手術してしもたんも、全部が全部あんたの為やないやろし……。


あいつを受け入れようとしたり突き放したり、

ほんまあんた情緒不安定過ぎるやろ」



シャンティは苺1こを無くしたまま、中のバニラアイスが溶けて、生クリームに滲んでいく。


「…………別れるもなにも……付き合ってへんやん私ら。だって女が二人暮らしてただけの話」


…………バンッ…………!!!!!


突如響いたその音が、チカの手から出たものやと認識するのに少し時間がかかる。


まばらにいた他の客も何事かと会話を止め、

それ以上何もないと分かると、それぞれ元の世界へ戻った。

チカの手に激しく打ち付けられたテーブルが、

その怒りを分散させていく。


「……ゴチャゴチャごたくはええねん……。

あんたはあいつをほんまはどう思ってて、どうなんやって?

潤を家族の前で恥かかせといてそれでもあいつの元に行ったあんたの決意って何……!?

病気で寂しく死にたくないから潤を利用して、

こっちの方がええわと思ったらあいつにいって。

……で、なに?

女やって分かったらハイさようなら、なん!?」


「……違……」


そんな単純なものやない。

何度も出そうになる言葉を、どう説明すればいいのかもわからない。


人を愛すること。

ずっと封印してきたそれを、リクが呼びましたのだ。

長い長い年月をかけ再び、

愛してるよって伝える為に。


男の子になり、それでも隠しおおせない、あのクシャクシャの笑顔を付けたままで。


「……なんか……めっさ疲れた……」



爆発した後、一気に萎んだチカがボソリと呟く。


「……ごめん……」


言ってもその反応はない。


「……眠いからこのままこのソファーで寝るし」


頬杖をつき、降りだした雨を見るとチカが言う。


「……今めっさムカついてるから機嫌悪いけど、寝たら直るし気にせんとって」


横顔だけでそう言った。


「…………うん……。これ……食べへんの……?」


おずおずと目の前のシャンティを指差すと、

まだ頬に怒りを残したままのチカが言う。


「……見かけええけど、その苺めっさ不味かった。

……やからいらん。

どんな見かけでも、私はほんまに美味しい苺しかいらん」


意味深にそんな言葉を発し、席隣の柱にもたれ、

腕を組みそのまま眠る。


チカなりの対処法。

怒りを鎮める為に眠る。

私はただ溶けていくシャンティを見つめ、

リクをたまらなく恋しいと思う自分に苛立ってしまう。

プールに飛び込めない子供のように、

ただ揺れる水面を見つめるだけ。



午前4時過ぎに先生からメールがあった。


【あーちゃん。明日と言うかもう今日やけど、

9時に病院の近くにあるに『サンデー』と言う喫茶店に来てください。知ってるよね?一軒しかないから。


返信はいりません。とりあえず待ってます】


携帯をテーブルに置き、もう降りやみそうな窓の外に光を探す。


まだどこにも見つからない。



午前5時過ぎにチカの携帯が鳴る。

画面に点滅するメール受信。

送り主はアホの潤。



チカが起きたんは結局朝の6時で、ソファーで固まった体をほぐすように伸びをし、巨大な欠伸をした。


「……あんた寝てないん?体に悪いで」


そうあっけらかんと言うと、面倒くさげに未開封メールを開ける。

暫く画面に見いり、それから私をじっと見た。


「…………何て……?」


訊くとチカはオーバーに耳のピアスを揺らし、

指先でパチンと携帯画面をはじく。


「……暫く保留やて。

ほんまずっこいわこいつ。

潤ってこう言うとこあんねん。全てのバランスを保とうとするっちゅーか、平和主義ちゅーか、ようは八方美人やな。

私とおかしなりたないもんやから、保留しといてほとぼり覚めた頃にケロッと、違う女連れてくんねん」


忌々しげにそう言うと、

チカはでもなんかスッキリしたわと笑みを浮かべた。


伝えるってええもんやなって。


それからお腹が減ったと言って、モーニングをペロリと平らげる。

散々1限目の地学の先生の悪口を言った後、

「ほな行く」と席を立った。


「……ってあんたは?」


振り返り私を見る。

一睡もしてへんのに頭は妙にクリアやった。

「……約束あるし、

もうちょっと時間潰してから行くわ。

……えっと昨日はありがとう。で、ごめんな」


言うとチカはカラカラと笑う。

「どういたしまして。で、こっちこそごめん……。

思った事を思った時に言うてまうのが悪い癖で。

これからも迷惑かけます」


おどけてぺろりと舌を出した。



それからそのついでみたいに、

「……答えは出たん?」

と私に訊く。


「……まだ。あかんな私……。」

「……そうか。

ま、ぼちぼちやりいな。

…あいつは芯がある男やから、あんたがふったところで、強く生きていきよるやろしな。」


と言ってから、微妙な顔をする。


「……ええよ。確かにリクは……ええ男……やもん……」


「言うてくれるやん。

ま、私はそんな潤が極論カエルでも野獣でも好きやけど。んじゃま、そーゆー事で」


軽く片手をあげ、チカが店から去る。


雨上がりの窓の外、虹を探した。

いつかリクがおばちゃんちで、見つけてくれた虹を。






藤木先生はきっと、私が来るよりずっと前から、『サンデー』にいる。


それは分かっているのに、10分遅れた。


理由は虹を探していたから。


「……いらっしゃいませぇ」


カウベルのついたドアを開けると、


一番奥の窓際で背中を向け座る先生を見つけた。


病院近くにただ一軒しかないこの喫茶店は日中ほとんど人がいない。


でっぷり太ったおばさん店主が、観葉植物横で、

広げていた新聞をガサリと閉じた。


「………………先生」


呼び掛け、振り返るまでに向かいに座る。


先生の目は、おっちゃんの葬式に来てくれた時と同じように赤くて、今日はお化粧もしてへんかった。


「…………あーちゃん……ほんまにごめんな……」


先生は座ったまま深々と頭を下げ、それきり上げない。

聴診器ではなく、今日は地味なネックレスが揺れている。

「…………リクから……聞いたん……?」


そう訊くと無言で何度も頷き、

自分の両手を、

何かにすがるように固く組み合わせた。


「…………うん……。

あの子に電話したら、あーちゃんが出て行ったって……。

けどすぐなんかあーちゃんのお友達の女の子が連絡くれたとかで……。一緒にどっかにおるんやったら安心やって」


……ああ……だからか。


チカはそんな事、一言も言わへんかった。


「……どこに……おったん……?」


そこでようやく先生が、下げ続けた頭を少しだけ上げる。


……ファミレス……


そう私がぶっきらぼうに答えると、

先生は安堵したような笑顔を見せた。





店主のおばさんが私のオーダーをとり、

先生が無意味にブラックコーヒーをスプーンで混ぜる。


外来開始の時間はとっくに過ぎていて、

先生の診察を受けに遠方からやって来る患者さんも大勢いる。


「……陸人の話……どこまで聞いた?」


私がオーダーしたココアが来ると、先生がそう切り出した。


「……なんも……。


私が陸人が男やないって気づいて……あと……手術とか……」



窓の外、雲の切れ間から太陽の帯。

いくつもいくつも……金色の。


「……そう……。で……あ……じゃないわ……。

どっから……話そ」


先生の額に浅く皺がよる。

私は1人っ子やったから、

姉弟愛みたいなもんがわからへん。


でもこの皺がそうやとしたら、少し羨ましかった。


先生は何度も咳払いをし、寄ってもしない服のシワを直し、それから私にこう言った。


「……松田まつだ……純奈じゅんなちゃんって……覚えてる……?」


…………………………と。











5年生の春、その子は転校してきた。

朝会の時、校長先生の横に立ち、

幾度となく吹きつける風をもろともせず、

その子はただ真っ直ぐ前を向いていた。


その澄みきった瞳に圧倒されるように、木々が揺れる。


『……なぁ、中園、あいつええ格好しいやで絶対。

あんなん好き?』


学校は私服やから、どんな格好でもかまわない。


褐色の肌、ネイビーのトレーナー、

焦げ茶のコーデュロイパンツ。


短く切った黒髪は、春の風に揺れ、触れてもいないのに柔らかそうだと思った。


『……なんかめっちゃかっこええやん、あの転校生の男の子』


後ろの女子達のつぶやきに、私にそれを訊いた上田 トオルが憎々しげに舌打ちをした。


『………上田君の方がかっこええよ』

そう答えようとして、校長のマイクがハウリグする。


『……え、ええっとぉー、ちょっと待って下さいね。今日からみんなの新しいお友だちになる転校生を……』

……キーン……ガサッ……キーン……


幾度も繰り返す雑音。私も周りも耳を塞ぐ。


ようやくその音から解放される頃、校長がその子の前にマイクスタンドを差し向け、校庭にはまた静寂が訪れた。


名前を告げただけ、ただそれだけ。


低く、それでも心地良い声で松田 純奈です。

とその子は告げただけ。


なのに校庭にはゴミ屑のようなざわめきが起きる。


幾つも幾つも、掃いても掃いても。




学校と言うんは1つの社会で、その中で起こる出来事は子供にとって世界情勢と同じ。



松田 純奈はその後私のクラスに入り、私の斜め前の席になった。

あの朝ざわついていた子供たちも、1週間もたてばそれなりには落ち着く。


苛められてはいないが、男子にもてるがゆえに煙たがられ、結局あまり友達のいない私とは反比例して、純奈の周りには興味深げな女子が群がるようになった。



『女らきしょい。あんな男女めっさきしょいもん好きやねんてー』


上田を筆頭に、女子の配分をかっさらわれた男子達は、無意味に純奈が嫌いやった。


頭が良くて、運動もそつなくこなす。


それに抵抗する術はオトコオンナと言う言葉爆弾。



そして何をされた訳でもないのに私も純奈が大嫌いやった。


他の女子には話しかけんのに、私にだけは意地でも話しかけへん。


身体測定になったら決まって休む。


学校の女子トイレは、人気のない時にこそこそ行く。


オトコオンナ。


男子達と同じように、心の底からそう思った。



キモチワルイ。キモチワルイ。オンナヤノニオトコミタイ。オトコミタイヤノニ、オンナヤナンテ。


心の中でそんな呪文じみたものを繰返すくせに、気づけばいつも目で追っている。


小学五年の私の頭は、そんな風に興味と憎しみが常にサンドイッチされていた。





あれは確か道徳の授業。


梅雨の蒸した湿度に、役立たずの天井扇風機。


その風に煽られるだけの教科書。

スカートの内腿にひっそり汗をかく。



『差別してはいけません。』


それを教えるお話を、担任がゆっくり読み進める。


『……何か質問あるかな?』


女教師がそう言って、やる気のない教室全体を見渡した。



いつもならシンとなる。


けれどその日は、1人の男子が手をあげた。


『先生質問、

じゃあ松田さんみたいな人も差別したらあかんってことですかぁ?』



その声の直後、ほぼ全員が純奈を見た。


私にはその背中しか見えへん。

でもそれは少し震えてるようにも見えた。


それきっかけで、男子が騒ぎだす。

女教師は毅然とすればいいのにせず、少し困った顔をして、


『……松田さんは差別されるような子ではありません。その質問はもういいですね』


と切り上げると、教科書と出席簿を重ねて置いた。


『えー!でも先生、

松田さんって女やけど男やん。

そういうの何て言うんやっけ!?俺こないだテレビで見たっ!

オカマ……?ちゃうわ、なんやったっけ』


別の男子が囃し立て、女子は『かわいそうやんっ』と純奈を庇う。


『うーるー さーいなっ……!!みんな座りっ!

先生がちゃんと説明してへんかったから悪かったわ。

松田さんは男の子の格好が好きなだけで、ちゃんとした女の子ですっ!あんたらもあるやろ?

スカートはいてみたいとか』


動揺した教師がそんな事を言い出し、

隣のクラスから覗きにくるほど、教室は騒然となる。


『そんなん絶対ないわっ!

スカートはくんはオカマやんけっ。先生、松田さんって病気?』

『違うって言うてるやんか!

松田さんはボーイッシュなだけで、ちゃんと女の子やし』


教師が額の汗をハンカチで拭う。



そして私は真っ直ぐ手をあげた。

純奈の震える肩を、知っているのに。


『……あ……え……?中園さん何、トイレ……?』


『……違います……。先生……私こないだ……松田さんにスカートめくられて、パンツに手入れられて触られました……。

だから松田さん、女の子が好きなんやと思います……。けど差別してあげたら、あかんのやと思います』


『…………え……えぇっ……!?』



女教師がのけぞるように、時計の腕を額にあてた。



静まり返った教室で、


純奈の背中が一際小さくなったように思う。


幼稚、残酷、この想い、処理不能。

今ならわかる。


けれどその時の気持ちは、5年生には難解やった。


『……きっしょ!こいつほんまのオトコオンナやんけっ!中園かわいそー!』


男子か口々に言い、それでも純奈は微動だにしなかった。


たった一言でも話してみたかった。

それが、『なんであんたそんな嘘つくん?』でも何でも、この時の私には良かったのだ。



『……って松田さんほんま……!?ち、ちょっと待って、また後で二人職員室来て。みんなも騒いだらあかんっ!おうちで言うてもあかんっ!

とにかく次音楽やから音楽室行きやっ』


チャイムがタイミング悪く鳴り、教師がしどろもどろで出ていく。

とりあえず逃げた、と言ってもいい。



教師の消えた教室では、私の周囲に皆が群がり、

純奈の周りには誰もいなくなった。


『……中園さんほんまなん……?その……純ちゃんに……』


女子の1人に聞かれ、席に座ったまま私は頷く。

加速した残酷さは、止まる機会を失いながら。


純奈は座ったきり動かなかった。


『……えぇ……ほんまなんやぁ。怖かったやろ……嫌やったやんなぁ……』



ほんまは女の子やけど男の子みたいにカッコイイ。そんな友達に興味の全力を注いでいた女子達は、私の嘘を見抜くほど大人でもなく、ただ気持ち悪いと言う言葉に没頭するしかなかった。


話している間に、純奈はいつの間にかいなくなり、黒いランドセルも消えていて、その日は学校からも消えた。




放課後、純奈の家に電話をし終えた担任が、椅子を回転させこちらを向く。


『……松田さん……

どうやったか帰ってきてお母さんに何も話そうとせえへんて……。

きっと悪いことしたと思ってるんやろね……

やから中園さん、これはおうちの人には黙っててな。で、明日松田さんが来ても仲良くして、

もし……もしやけどまた何かあったら、ああしてみんなの前やなく先生にこっそり言いにきて』


教師はそんな風に、私を信じた物言いをした。

転校してから2年続きで担任のこの教師もまた、

どこか色眼鏡で純奈を見ていたに違いない。



『……はい、わかりました』


私は言い職員室を後にする。


自分のキモチが処理できない。


キモチワルイキモチワルイ、ジブンガキモチワルイ。

松田 純奈ヲ、アンナオトコトンナヲ、好キカモシレヘンジブンガ、キモイワルイ。


呪文はいつの間にか形態を変えていく。








永遠に来れないような仕打ちを私にされた純奈はでも、その次の日からまた学校に来た。

顔は固く表情を無くし、

背をどこまでも折り曲げるように、それからはずっと1人やった。



だが純奈を追い込んだ所で、

私の状況が変わった訳やない。


取り巻いていた女子も、そのうち私に興味をなくし元々のグループに戻っていく。


男子はオトコオンナ松田から中園 葵を守る会と称し、私の側を純奈が通ると、オーバーにディフェンスすると言う遊びを繰り返していたが、それも長くは続かない。

結局私と純奈は1人で、梅雨明け、夏休み前の最後のみんな遊びとして、フルーツバスケットが、始まった。


プール熱が流行っていて、隣のクラスの人数が少なくて、やから2クラス合同のみんな遊び。


フルーツバスケットのフルーツを、最初に何にするかみんなで話し合った。



お決まりのものが出て、最後の方で手を上げた純奈に、うちのクラスの担任がゴクリと唾を飲む。


『……ん、松田さん何?』


純奈がフルーツ名が書かれたブラックボードをゆっくり指差す。


『先生、苺はフルーツ違います。

檸檬がフルーツです』


そう言われた女教師は、困ったような顔を円形に並べられた椅子に向けた。


『ちゃうで、こいつ間違えてる。苺がふるーつで、檸檬は野菜や』


そう言うたんは……確か……3組の宮田 シン。



『はいはい、もーみんなうるさい!

いつまでたっても出来へんやんか。こら宮田くんも、す、わ、り、な、さ、いっ!』


教師が出席簿で教卓を叩く。

その音だけが、やけに響いた。



結局フルーツバスケットは、純奈が座ろうとするとわざと誰かがその椅子に座り、

先生に違うでしょと指摘されると、笑いながら移動するといったものになってしまう。

やから純奈はどこにも座れず、ずっとずっと真ん中で、フルーツの名前を言いながら永遠に立っていた。

最後の座れない一人に……なりながら。



放課後、忘れ物をした私は教室に戻る。

それを待っててくれる女友達もいなかったので、

ゆっくり ゆっくり階段を上がった。


汗を少しこめかみにかき、5年生の教室に行く。

そして誰もいない教室に、その背中を見つけて入るんを戸惑う。


ロッカーの道具箱を片付けていた純奈が、

手を止めないまま

『……入ったら……?何もせえへんし……』

と言った。


『……忘れ物……忘れ物……と』

週末やのに体操服を忘れた。

おばちゃんは、忘れ物が嫌い。


黙々と整理している純奈の肩。

ここで話しかけなければ永遠に話さない。そんな気がした。


『……なんで……整理……してるん……?』


訊くと純奈はようやく手を止めた。

でもこっちを振り向く訳やない。

黒いTシャツの肩先に、夕陽がじわりと溶け込んでいた。


『……転校……すんねん。

もう少ししたらお母さんが迎えに来る。

看護婦してるから、仕事終わったら迎えに来て、

職員室の先生に挨拶して……帰る』



純奈の言葉に上履きの爪先が固まる。


『……転校って……こないだ転校してきたばっかりやん。変やん……変やで 』


純奈と話せた嬉しさと、純奈にしてしまったことの悲しさと、今聞いた事への虚しさ。

それらが一気に押し寄せたのに、

11歳の私は、無意味に笑ってばかりいた。


『……元々行ってた学校に戻るねん。そこ制服やから嫌やねんけど』


淡々と言いながら、純奈は整理をし終えてしまう。ランドセルを肩にかけ、

『……じゃあお母さんに職員室の前で待ってるって言うたから……』


こっちも見ずに行こうとしたその背中を私が呼び止める。

『……私の……せい?あんな嘘ついたから……?

それでみんなに仲間はずれにされたから……?』

そう言うとその背中は暫く黙り、ランドセルをずらすように肩から下ろした。


『……ちゃうよ……。中園さんのせいやない。

ここにおんのが苦しくなったから、それだけ。

学校なんてなんぼでもあるから、死のうとかアホなこと思う前に学校から逃げたらええって……ねーちゃんが……言うたから……』


『……ほんまにほんまのほんまに私のせいちゃうん……?』


泣くつもりなど微塵もなかった。

いつだって、どこだって、簡単に泣いてしまえる11歳やったけど、この時私は初めて誰かを想い、泣く意味を知った。

私の涙に純奈は驚き私の方を見る。


『……なんで……泣いてんの?』

転校するからとか、嘘ついてたからとか色々言おうと思ってた。

でも私の口からはそんな事など出てこない。


『……好き……やから………』


鉛筆の芯の匂いの残る手で、涙がこぼれる両目をぬぐう。


ぼやけた視界の向こうに、この世界で初めて好きになった純奈がいた。


『……でも…………でも私は……男の子しか好きちゃうねん……。

やのにあんたは男の子ちゃうやん……。

そんなんキモチワルイ……そんなんキモチワルイんやって……』


転校する純奈と、永遠に会えなくなるんだと言う

気持ちだけがそこにあった。

誰かに見られたら何て言い訳するんか、そんな事も思わなかった。


純奈がゆっくりランドセルを机に置く。

私の前に来ると、曖昧に微笑んだ。


『……意地悪したんちゃうねん……ほんまに……。

でも……中園さん見ると、

胸がいつも苦しくなって、悲しくなって……ドキドキしてん。

やからよう話しかけんかった。

気持ち悪いって……思われたくなかってん。

嘘つかれた時も、違うって言えば良かったのに、

中園さんを好きやったから、なんかようわからんけど違うって言えんかった。

だって中園さんが……困るやろ?』


純奈は他のどの男子より優しくて、かっこよくて、私を好きなんや。


それが伝われば伝わるほど、怖くて切なかった。


『………私今すぐ先生のとこ行って嘘でしたって言うてくるっ……、

そしたら松田さん転校せんでええんやろ?

そしたらずっと……』

『……そんなんせんでええよ。ほんまに……ええねん』


純奈は夕陽と同じ温度の笑みを浮かべた。


『……それだけやなくて、ほんまに転校せなあかんねん。

難しい話やけど、お父さんとお母さんが離婚して、ちょっとの間は元の学校通っててんけど遠くて、おばあちゃんちに今お母さんと住んでて、ここの学校に来てん。

でもまた同じお父さんとお母さんが再婚すんねん。やからそれもあって、元の学校もどらなあかんねん……。

中園さんの……せいやないから。


やから……大きくなったらいつかまた会いたいな』


と純奈は呟いた。



『松田さーん!下にもうお母さんきてはるよー!降りてきてー』


担任の声が下から響き、純奈はまたランドセルを

肩にかける。

それから私を振り返り、


『……いつかほんまに……

中園さんの好きな男の子になったら…結婚してくれる?』


と訊いた。


大きくなったら……大きくなったら……


確かな現実など11歳にはわからない 。


やから私は純奈が大きくなったら、

ほんまに男の子になれるんやって、心の底から信じてた。


『…………うん。……でも……』

『…………でも……?』

『……大きくなったら……私、松田さんを見つけられるかなぁ……』

泣きじゃくりがら純奈を見る。


純奈は教卓の所まで行き、理科で使った生乾きのガラス板を見やった。


パリッと静かな音をたて、純奈は机の端でプレパラートを躊躇いなく割る。

そして次の瞬間、その尖った先端を自分の頬にぎゅうと押し付けると、声もなく深い傷をつけた。



『…………なに……した……ん……?』



怖さで涙も止まる。


赤マジックみたいに見える傷はでも、深すぎて血が出ないんやと知った。



『……この傷ずっと覚えてて。

もし男になっても、これやったらずっと残る。

やから……』


純奈は笑顔になると、

『……割りましたって先生に謝っとく』と、

真っ二つのガラス板を手提げカバンにしまった。



『……松田さぁーんっ、早くっ!』




業を煮やした担任が、階段をかけ上る。


純奈は慌てて道具箱を腋に抱えると、私をもう一度だけ振り返り、



『……大好きやで』と俯いて言った。



その背中に投げ掛ける。




『……今度会う時は……


好きやなくて愛してる……やで……。

ぜったい……ぜったい…男の子になって……』



いつか見た安っぽい昼ドラのセリフを借りる。

11歳の私には、それが精一杯の告白やった。



「……覚えて……ます……。そして……分かってます……。

リクが……松田 純奈なんでしょう……?」


そう吐き出した私を、

先生はただただじっと見つめた。


「……分かって……たんや……」

「……ごめんなさい。病院で初めて会った時からずっとわかってたのに……騙されてた……なんて」

「……そんな……。あやまらなあかんのは私と、それから陸人やねん……ほんまにほんまにごめんなさい……」



先生の頬を涙が伝う。

暫くその涙は止まらなくて、ようやく落ち着いた頃、先生は胸に手をあてたまま、今までのことを全て教えてくれた。



横暴な父親から一度は母親が離れ離婚し、

リクは母親の旧姓に戻り、母親の実家で暮らしていたこと。


リクの通っていた私立の小学校はスカートの制服で、リクが同一障害やとにわかに思っていた母親と先生は、リクを服装の自由な地元の小学校に通わせる方がいいと思いそうした事。


でもそこでも合わず、元の学校に戻ったこと。


そこから大学まで、リクがほんとうに辛 い日々を送り続けたこと。


「……先生その……小学校の……それは私が……」


言うと先生が笑顔で首をふる。

「……ううん……ええのよあーちゃん……

その当時陸人から全部聞いてん。

でも陸人はあーちゃんを少しも恨んでへんの。

やから私の中におった中園 葵ちゃんという子は、陸人が初めて好きになった女の子。

そしてそれからもずっと忘れられなかった女の子。ただそれだけの記憶やから」



店主のおばさんは

聞こえているんか聞こえていないのか、

暇そうにずっと晴れ渡る窓の外を眺めていた。



遠い約束。


でもそれは私が大人になり、リクが大人になり、

おとぎ話にすぎないと、悲しいくらいに淡くなる。


「……大学には勿論、 藤木 純奈として入学したの。でも表向きは藤木 陸人と言う、陸人がもし男の子で生まれてきた時に母親がつけようとしてた名前に変えてね。

色々ややこしかったけど……病院でその判定も受けてたから、ホルモン注射も打ち始めてね……。


その頃父親は、医学部にも入らへん息子でも娘でもない陸人を、気持ち悪いもんでもみるようにしてた。あいつは不良品やって、口さえ開けばそればっかり。

でも先に家を出てしまった私よりも、陸人の方が忍耐強くて、それぐらい自分のセクシャリティを受け止めてくれた母親を、愛していたんよね……」


リクにいつか聞いた家族の話。


「……大学では入学前に名前を変えたから、

みんな陸人が男やと思ってたの。そんな最中にいずみちゃん……って子との事があって。

ゼミで呑みすぎて、気づいたらその子の部屋にいてて……それでそう言う事をしたから責任とってほしいって言われたって」



言いにくそうに先生が呟く。



「……でもそんなこと……」

……ありえませんよねって言葉を飲み込んだ。


「……うん……。そんな事、ホルモン注射打ってるだけの陸人にできる訳がないの。

……でも陸人はその子とつきあった。

自分を認めて受け入れてくれる誰かが、あのときのあの子には必要やったんやと思う……。

ずるいんかもしれへんけど、その後正直にその子に告白して、でもその子もずっと陸人と付き合ってたって事は、性別やないあの子を、好きでおってくれたんやと思う。

……けど陸人は……」


ほんのたわいもない話からだったと、先生は続けた。


たまに顔を出す実家。

その日も先生は仕事帰りに顔を出し、

父親抜きのリビングで何気なく口にしたという。


「……一応……仕事やからね。

実家に帰って、こんな患者さんがとか、あんな患者さんがとか、色々……話をするのよ。

やからその日もそうやった。


あーちゃんがちょうど……私に初めて会った頃……」



思い巡らすように先生は言って、店主と同じように窓の外を見た。



……なかぞの……あおい……?




リビングでテレビを見ながら、姉の長い話をうんざりしつつも聞いていた陸人がこっちを見る。


『……うん、そう。新しい患者さん。

……そういやあんたが昔好きやった子と同姓同名やね』


……はは……と笑ってテーブルのケーキに向き直る。


『…仕事とはいえあんたもそう言うドライなの、お父さんそっくり。……お母さんはいたたまれへんわ……陸人と同じ歳やのに……』


テーブルについていた母親が、眉間にしわを寄せた。

『……あんね、あの人と一緒にせんといてくれる?

こうしてドライになってんとやってられへんねん。なぁ陸人。……あれ、陸人は?』


リビングからいつの間にか姿を消した弟。


ケーキを完食してから部屋をノックすると、

低い声で返事があった。


『……むっさくるし。なにこのラグビーボール、つまづいたらケガすんで。

あんたほんまに男の部屋やな。

なんなんどうしたん?

ん、初恋を思い出してしんみりしてんの?』


うりうりと肘で小突く。

ベッドの陸人はただじっと黙ったままだった。


『……あんたまさか、それが同一人物やと思ってる?そんな訳ないやんかー。そんな偶然』


『その子、首のとこに薄い苺の形の痣なかった?』

『……痣……?痣……痣……』


そう聞かれ、記憶に甦ったのに、わざと覚えてないふりをする。


もしその子がほんまにそうやったとして、陸人には何の得もない。


でも……確かにあった。


珍しいと思って少し見つめたから。

苺の形の、淡い痣。


『……ざんねーん。無いわ、痣』

『……嘘やろ、ねーちゃん目ぇ泳いでる……』


無表情にそう言うと、陸人はベッドの上で起き上がった。

『……え、嘘ちゃうて、ほんまやって。……はは……アホちゃう』


否定すればする程、ほどけないロープに絡まる感触があった。


……仕方ないな……。


深呼吸して弟を見下ろす。


ずっと世間に蔑まれて、打ちたくもない注射を打って、もうそれこそ身も心もボロボロになってる弟を……。



『……もしそうやったら何やの?

あんたまさかその子に名乗り出るつもり?

俺が小学生の頃、男になったら結婚してって言うた奴やでって。

そんなんしてどうするん?気持ち悪がられるだけやで!?


あんたはあんたの事よう分かって付き合ってくれてる彼女がおるやんかっ。

大事にせなバチあたるで』



へらへら笑って冗談にするしかない。


腰に手をあて仁王立ちの私を、陸人は一瞬力なく見上げ、空洞のような目を逸らした。


『……やったら……男として会わせてほしい。

どうせあっちは俺の事なんか覚えてない。

それでも会いたい……力になりたい……側に……おりたい……』


『……はぁ!?

何寝とぼけた事言うてんのん?


無駄かもしれんけど、これから治療する末期の患者にわざわざあんた紹介してどないするっちゅーんよ!?

ほなもう私マンション戻るしっ』



遮断するように背を向けた私の腕を、陸人の手が思いきりつかむ。


『……頼むし……待って……俺……ほんまに頼んでんねん……』


振り返った時見えた陸人の初めて見る涙。

どんな事があっても泣けへんかった陸人の、

初めての……涙。


「…………そこから私と陸人のバカバカし過ぎるほど悲しい今が始まってん……。

あーちゃんがすぐに分かってたなんて……思いもせえへんかったけど……」


先生は呟くように言い、長い旅を終えたような顔をした。


「……いずみちゃんと別れてまでも、あーちゃんの側におりたかったんよね。

別れるのにすごく時間はかかったみたいやけど、あの子は誠実に、なにかをしたかったんやと思う。

……あの子いきなり医学部受験したやろ……?

それなんでか……わかる……?」


私は否定の首をふる。


確かに以前、リクみたいなお医者さんがおってもええ……そう言うたんはあったけど。


「……やんね……。

私もびっくりしたもん……。

本人は色々調べてたみたいやけど。

つまり……そう言う障害の人がそう言う手術できんの。

……あ……で……受験と何の関係があるのかって事よね。

つまりね、陸人いきなりその手術を受けたいって父親に頼みに行ったの。

もう二十歳やし、親の承諾なかっても出来るんやろけど、それでも陸人は父親に頼みに行ったの。

父親は同一性障害と言う障害が自分の子供にあることすら認めてないから、はなっから相手にしてなかったでも……ある日とつぜん弟に電話して言うたの……。

おまえが医者になるんやったら認めてやってもええ。

それ以外は認めん……って。

陸人がそこまでせんやろってどっかでたかをくくってたんよね。

でも陸人は承諾した。

それは……あーちゃんをずっと愛してたからやと思う。

ほんまの男の子に、手術をした今でも陸人はなれてへんかもしれん。

でも約束を守りたかった。それだけは……わかってやってな」


話はそれだけやと、先生は憔悴しきったように言うた。

それから私の検査結果が良かった事も。


「……私午後から病院出るから、もう行くわね。

私の話を聞いたからって、あーちゃんが陸人の元に戻らなあかんとか、そんな責任感じる必要ないんよ。

でもちゃんと……、

あの子が伝えてない部分をあーちゃんに届けたかってん。

あーちゃんをちゃんとずっと、見てくれていた人はいたんやでって……伝えたかった」

そう言ってオーダーシートを持ち、先生は立ち上がる。

目尻に少し皺がいく、優しく淡い笑みを浮かべて。


「ありがとうございましたぁ」


また重い体を動かして、店主がレジの前に立つ。


先生が去った後のコップ、

そのグラスに光が反射し、テーブルの上に小さな虹ができていた。




病気で、病人で、

病院のすぐそばにいるのに病院へは行かない。


藤木先生とは真逆であるその長い一本道を、虹を頼りに私は歩く。






マンションの前に辿り着くと、何度も深呼吸する。

鍵はきっと開いたままだし、あのお鍋のシチューはそのままだろう。

午後に入ったばかりの日差しが、コートの布地に模様を作る。

リクとお揃いのキーチェーンを手の平で意味なく

ぐーぱーすると、お腹が鳴った。


案の定部屋の鍵はかかっておらず、短い廊下にはまだ、シチューの匂いが少し残っていた。

息を殺し歩き、それでも最後の数歩で、フローリングをギシとやってしまう。


リビングのテーブルの下、

うずくまるよう眠っていたリクが、うっすら片目を開けると言った。


「……おかえり……」



なんとも言えない顔をして起き上がり、肩をすくめ目線をそらす。


「……ただいま……」


言うとすぐにテーブルの上、私はそれを見つけた。

分厚くて、白くて、リクの第一志望やったK大医学部の大きな封筒。


「……合格……したん……?」

「……うん……朝イチで来た。

最初アオかと思って出たら違うかって、がっかりした」


大真面目にそう言うリクに、つい吹き出してしまう。

リクはふいをつかれたみたいに目を丸くして、

それから、ホッとしたように笑みを浮かべた。


「……おめでとう……」



リクの鼻先に小さくキスをすると、色の無かったその頬が、薄く淡い桜色になる。



私がこの時言うたおめでとうは、

合格のおめでとうではない。


ずっと言ってあげれなかっ

たおめでとうが私にはある。


リク、やっと男の子になれたね。


今までの私はそう言ってあげれなかった。

何者でも無いものにリクを追い込んだのは私で、

何者でも有るものにリクを救い上げるのも私やと、ようやく気づけた自分へのおめでとうが、そこにはあった。





























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