greap
警察から連絡があったんは、その観覧車の日から
2週間後くらい後やった。
リクは予備校に通い始め、潤君と私はいつもと同じ生活を送る。
でももうこの関係をどうにかしないと……
と、みんなが思っていた初夏。
最初に鳴ったのは、私の携帯電話。
『……ご本人さんの携帯に連絡先はあったんですが、配偶者らしき方には繋がらずで……』
聞き慣れない警察署の名前。
おっちゃんが自殺した。
それこそ有名なその山の中で、靴をきちんと揃え、その上にあの日被っていた黒ハットを丁寧に置き、ネクタイを何本も繋いで木にくくりつけ、
遺書にはたった一言だけ。
【みなさん、ほなさようなら。】
それも泊まっていた旅館の割り箸袋に、
たった一行だけ。
その時は3人がマンションにいて、
朝で、容量オーバー気味の音で洗濯機回っていて、私は2人の間に挟まるように、テレビをぼんやり見ていた。
おっちゃんの訃報を知った時、そばに二人がいた事を、こんなに感謝したことはない。
なぜって。
私はあんなおっちゃんが死んでホッとするどころか、打ちのめされたようなショックを受けたから。
おっちゃんの親戚は、そう言えば誰1人知らなかった。
葬式をあの家でやり、その人たちの顔を見ても何もシンパシーすら感じない。
『……あぁ……伸雄の嫁さんの……』
同じ言葉を何度も受け流し、
喪服はどんどん重たくなっていく。
死んでから人が集まる。
それまでここは寂しい家やった。
「……よ、あーちゃん……」
藤木先生も来てくれた。
業者の人に指示を出しながら何かと動くリクと潤君を遠目に眺め、
「……よう働くな。あーちゃんの旦那たちは」
なんて軽口をたたいてから、おもむろに私を抱きしめる。
驚いてた途端、なぜか母親の匂いを思い出す。
先生からは消毒液の匂いしかせえへんのに。
「……それ以上泣いたら目ぇ膨れんで」
先生の声がこもる。
体は暫く離してくれない。
「……おじさんの分までしっかり生きや」
そこでようやく解放された。
先生の目、うさぎみたい。
もらい泣きやでって先生は言った。
「……ねーちゃん……」
気づくとリクが先生の後ろに立っている。
「……あら、これはこれは浪人ボーイ」
先生が涙を拭うと、またいつもの口調になる。
「……葬式でも減らず口か……。
な、このまま帰るんやろ?」
リクが喪服のネクタイをいじる。
いつもと違うリク。少し大人に見えた。
「……そやな。
オペが入ってて、火葬場まではついていかれへんわ。ごめんな、あーちゃん」
先生の言葉に私が首をふる。
それから少し、体調のことなど話して、
「……ほなまた、来月の検査お待ちしております」
とかしこまった先生は、靴の爪先を外にむけた。
「…………先生……」
その背中につい声をかける。
振り向いた藤木先生は、不思議そうに私を見つめた。
「……先生……、先生はもし私が死んだらお葬式来てくれる……?」
潤君がいて、リクがいて、
死と言う言葉を口に出すのが少しずつ怖くなっていく。
藤木木先生は少し考え、
それから「……やっぱり出えへんな」
と言った。
「…………それはなんで?」
「……なんでって、喋れへんあんたおもろないもん」
そうしれっと言ったあと、笑みを顔に浮かべる。
「……悔しかったら頑張って生きいや。
どのみちみんな最後は死ぬ。
葬式すんのが人より早かったって、全然カッコようないで」と。
喪服すらカッコよく着こなして。
お坊さんの着ている袈裟の紫が、
葡萄のような色をしている。
幾重にも積み重ねられ、階級が高い人しか着られない色。
おっちゃんのお葬式の為に私は、両親が残してくれたお金を相当額注ぎ込んだ。
おじさん普通のお葬式は出来るくらい残してはんねんし、そこまでせんでええんちゃうって、潤君は言ったけど。
リクはあの水族館と同じように何も意見はしない。
だからリクが医大を受け直すことに、私も何も言わない。
リクはリクで、きっとそうしないと気がすまないのだろうから。
火葬場に着くと、
「……おばさん……
やっぱり来えへんかったな……」
とリクが呟いた。
「…………うん……」
家出したおばちゃんは携帯を変えたりしていなかった。
ただ、私やおっちゃん、その他の電話に出なかっただけ。
探偵でも雇わなければ、自ら出て行った人の行方はつかめない。
「……警察の人かけたって言うてたけど……
留守電も入れられへんかったって」
おっちゃんの棺には、おばちゃんの写真と、最後に被っていた黒ハットが入っている。
捜しに行く訳でもなく、人を雇って捜す訳でもなく、おばちゃんが自分で帰ってくる事を願ったおっちゃん。
それはおっちゃんなりのプライドと云うやつなんやろう。
「……それでは皆様今一度お別れの」
火葬場スタッフのそんな声に異質な足音が重なり、うつむいた人達が皆、一斉に顔をあげた。
……おば……ちゃん……
喪服を着ている訳でもなく、一泊旅行みたいな出で立ちのおばちゃん。
久しぶりに見るその顔は、私を含むすべての人間をスルーして、棺のおっちゃんに向けられていた。
「……の……ぶおさんっ……!なんで……なんでえっ…!」
白髪の髪を振り乱し、涙がシミだらけの頬を伝う。
おじさんの親戚たちは耳打ちを始め、私は言った。
「……おばちゃん、もう焼かなあかんねん。
順番……あるしな」
その声に初めておばちゃんが私を見る。
説明しがたい顔と云うのは、こんな顔を言うんやろう。
私かって今どんな顔を、しているかもわからへん。
「…………あーちゃ……ん……」
名前を呼ばれ、ただおばちゃんを見つめる。
潤君が口を開いた。
「……あの、すいません、
出て行きはって何も知らんと思いますけどあっちゃんは」
「……やめとけ、今ここで言う事ちゃう」
それまで寡黙やったリクが、潤君を止めた。
潤くんの顔が怒りだけに満ちていたから。
「……あ……あのっ……皆さんほんますいませんっ……色々ご面倒かけて……」
おばちゃん はこめつきバッタのように何度も頭を下げ、ハンカチで目頭を拭う。
「……あ……の……宜しいでしょうか……?
皆様それぞれお花を1本ずつ」
時間区切りのスケジュール。
火葬場スタッフがそう言うと、
おばちゃんは後ずさりしながらその場を去った。
離れた柱の陰に、見た事のある絵画教室の先生がいる。
白髪混じりの口髭をたくわえ、私と目が合うと、
悪いことでもしているかのように、柱に隠れ見えなくなった。
「……あっちゃん…俺とリクさん……その今どっちが好き……?」
蒼い闇の中で目を開ける。
右手はリクに。左手は潤君に。
それぞれ預けたまま、天井を見上げる。
クリーニングに出した喪服3着。
それにかけられたビニールが、クーラーの風に艶かしくてらてら光る。
「…………答えな……あかん?」
おっちゃんが死んでからずっと私は考えている。
私はリクが好きで、だったらリクを選べばいい。
そう思っていたのに何かが挫けた。
それはおばちゃんに身勝手な自分を重ねたからで、火葬場で見上げた煙のおっちゃんに、潤君を重ねたから。
リクは寝ていない。
目は閉じているけど、握る指先に微かな反応がある。
「……ごめん、愚問か」
潤くんは言うと、私の手を離した。
潤君が寝たまま向き直り、私を見つめ、
闇よりも深い溜め息をつく。
「…………治療……」
「…………治療……?」
「…………うん。
俺はそんな治療の仕方……納得いかへん。
ちゃんと病院で手術とか薬とかやった方がええと思う……。
……けど、あっちゃんが決めた治療法がそれなんやったら俺は……おらへん方がええやろ?」
誰かの為に生きたいと思うこと。
それが命を伸ばすエネルギーになること。
そう言う治療の仕方もあると、先生が、先生じゃなく言った事。
これだけが、潤くんに話した全て。
「…………俺が一緒におったら、いつまでもあっちゃんはちゃんとリクさんと向き合われへん。
分かってるのに分かってないふりした。
けど、ああしておじさんの葬式間近で見て、
俺……ごめん……その棺の中に
入ってんのがもしあっちゃんやったら……って、怖くなった。
……あっちゃんは俺が初めて好きになった何もかも初めての人で……
だから生きててほしい。
この考えに到達するまで時間かかったし、こんな無茶苦茶な生活提案したけど、
あっちゃんが選んだ治療法で、その可能性が無限やったら、俺には何が出来るんやろうってようやく考えれるようになった。
そしたらそれは……いつまでも……あっちゃんに俺がぶら下がれへん事やって……。
きれい事……かな……。
なに言うてるかわからへんようなってきた……」
潤くんの声はそこで途切れた。
胸の上に重しでもあるかのように息苦しい。
リクはきっと聞いている。なのに何も言わなかった。
「…………ううん……いいねん。
私も……3人で暮らしたら……そうしたら私……もしかしたら潤くんのこと……好きになれるかも…思ったから……」
真夜中には不思議な力がある。
自分の心が浮き彫りになる。
潤くんは少し寂しそうに笑った。
「……努力して好きになんのは違うよ、あっちゃん……」
そう言 うと慈しむように私の髪を撫で、
「……でも……ありがとう。俺……やっぱり出て行くわ」
と呟き背中を向けた。
「…………おかしいかもしれへんけど、私、潤君も好きで、リクも好きやねん。
その種類が違ったらあかんの……?
もう一緒には暮らせへんの……?」
そう発した途端、リクの手に力が入る。
私は全身全霊で、
リク1人を愛してしまうことを、まだ怖がっているんだ。
「………潤くんがそうしたいんやって」
闇に浮かぶリクの声。
一瞬言葉を失った潤くんも、取り繕うように続けた。
「……うん……そうやねん、あっちゃん。俺がそうしたい。
あっちゃんから離れたくないけど……めっちゃ……辛いけど……意外に3人で……楽しかったし」
壊れる何かを守るように、潤くんは言葉を噛み締めた。
潤くんがこの部屋から出て実家に戻ったんは、
そこからまた更に1週間後の朝やった。
事情を一切知らない家族には、私と別れる事になったと、一言告げただけやと言う。
『……あの二人にしては珍しく、何も深く訊かれんかった』
と潤君は笑った。
それは私みたいな命が見えへんガールフレンドと
離れてくれてホットとしたのか、
それとも息子への愛なのか、はわからない。
でもあの時、ああして手を握ってくれたお母さんの温もりが、嘘出なければいいなと、身勝手にそう思う。
半年も一人暮らし出来なかった潤くん。
ベッドはリクが住む時点で実家に送ったので、
後は宅配ですんでしまう。
「……じゃあ……すいか割りだけ覚えてて」
玄関で私達を交互に見て、潤君は笑みを浮かべた。
「…………うん……。また……連絡するね」
言ってこのシェアハウスの終わりを感じる。
ド短期で、切なくて、とんでもないシェアハウス。
「…………携帯番号……変えんなよ」
リクの言葉に潤くんが頷く。
「…………うん。じゃあ 携帯変えても番号ポータビリティで」
潤君の右手が私に握手を求める。
今は手汗の無い温かな手と黙って握手し、
それをそのままリクの方へ。
「……あっちゃんを生かすも殺すも、リクさん次第ですから」
「……脅すなって」
リクは微笑み溜め息をついた。
「……じゃあ……ほんまに行くし」
いつものようにリュックを下げ、潤君は眼鏡の奥で微笑む。
ドアが無機質に閉まると、ふいに涙がこぼれた。
リクはそんな私の頭を腕でそっと引き寄せる。
「……潤くん……このままここにおった方が良かったか……?」
優しい声でそう訊いた。
「……そうやなくて……なんであんな別れ方をするんやろうって。
……もっと怒っても……ええはずやのに……」
潤君の唯一の抵抗は、この3人暮らしやった。
私とリクは、いつ潤くんに殺されてもおかしくない状況下でここにいたのに。
「……それは多分、アオに嫌われたくないからやで……」
リクの腕が頭から肩に落ち、その手が私の肩を抱く。
「……私に……?別れるのに……?」
別れるイコール死ぬほど嫌いになること。
そんな方程式しか存在しなかった私の世界。
「…………うん。あいつはきっとさっき感情の十分の一でアオに接してた。
……初恋には酷やったけど……」
リクの言葉に顔をあげる。
「…………リク…………」
「…………ん……?」
「……ごめん………何を言おうとしたんか忘れた」
ごまかすとリクが笑う。
「……また思い出したら言うて」
「…………うん」
気づくとリクの唇が目の前にあった。
「…………キス……してもいい……?」
答える代わりに私からキスをする。
リクの初恋はいつ……?
そう言う言葉を全部飲み込んで。
大好きやよやなく、愛してるよの意味を、
探しにいく旅に出た。
時間が経てば、本当の夏になる。
潤君からは時折私とリク、同時に同じメールが入り、私は8月までに2回検査を受けた。
何も変わらず。
その何も変わらずが大事なんやって、
藤木先生は言うた。
リクはたまに実家に帰り、
それでも泊まる事なく夕暮れには帰ってくる。
私はそれを、あのピンクのカーテンのついた窓から、ずっと子供みたいに待っている。
リクの実家には行ったことがない。
行くか?とも訊かれなかったし、
行きたいと言う事もない。ただそれだけの事。
すいか割りは、リクの夏期講習の合間で、
潤くんのバイトのない時に決まった。
すいか割りにはチカもくる。
『……まさか。
あいつがどうしてもあっちゃんに会いたいってしつこくて……』
久しぶりの電話口、
チカもええかな?って切り出した潤くんに、
やっぱり二人はそう言う事になったのかとさりげなく訊くと、そう返ってきた。
了承して電話を切る。
夏の夜。
リクは問題集を枕に、そのままテーブルで眠っている。
ペンを握ったままの左手に、数式がそのまま写っている。
左 利き。それは神様が残したヒント。
リクの黒い髪を撫でると、効きすぎたクーラーを、少しだけ緩めた。
「…………えっ……!?」
すいか割り当日。
潤君は私の隣でそう言うと、
少しだけずれた眼鏡を直す。
もう泳ぐ感じやない残暑色をした夏の海。
潤君のバイトの調整が結局うまくいかなくて、
ど真ん中を過ぎた夏の海。
天気は悪く、名残惜しげな海水浴客もそういない午後。
プライベートビーチに毛が生えたような、そんな穏やかな。
車にスイカを取りに行ったリクと、
私といることがやはり居心地悪そうにトイレにばっかり行ってるチカ。
潤くんと砂浜のパラソル下に二人残り、そんな話になぜかなった。
「……え……それは何で……?
あ……もしかして俺に遠慮してとか?」
「…………違う……なんとなく……」
リクとはキスしかしてない事。
それ以上先に、進まない事。
水平線を痛いほど見つめ、ぬるくなったサイダーを飲み干す。
「…………ふうん……。リクさん意外に奥手なんやな。俺は……意外にあっちゃんとすぐ……あっごめんこんな話……」
「……ううんええよ。
……別にそれで悩んでる訳やないし、潤君に訊かれたから、 答えただけやし」
浅く笑う私。リクと暮らす事だけで充分に思う。
時々キスをして、手をつないで、
朝目覚めれば隣に眠る。
それだけで……。
「……いやでもごめん。そうやんな。それだけが全てやないよな」
納得するみたいに潤くんは言い、今度は私が質問する。
「……チカちゃんとはどう……?
好きとか……言われた……?」
「……まさか。言われたとこでめっちゃ困るし。……それよりあいつ何で今日ついて来たかわかる?」
首を横にふる。
ずっと不機嫌そうなチカ。そのうち海と同化してしまいそうなチカ。
「……なんかな、お礼言いたかったてんて。
俺それ知らんかってんけど、あっちゃんに紅茶作ってもらった事があるって」
「……あぁ……そんなん……」
「……電話でええやろ?って言うたんやけど、
あいつどうしても連れて行けって。
最悪なやつやけどそう言うとこだけうるさいし。
ちゃんと顔見て言いたいって。
俺はたぶん紅茶やなくて、
ほんまはあの時みんなの前であんな風に言うたんを謝りたいんやと思うねんけどな……」
潤君が同じように水平線を見つめ、
チカの事を一番よくわかってるのが潤くんで、
潤くんの事を一番よくわかってるのがチカやと思った。
けどそれが恋愛に発展するかは、神様も知らんやろうけど。
「…………お待たせっと、あの子携帯も車ん中忘れてたで」
車から戻って来たリクが、大きなスイカを砂にのめり込ませる程ドンと置き、
ポケットからチカの携帯を取り出す。
リクの車で今朝、途中の駅まで潤くんとチカを迎えに行った。
「……わ、ほんまや。
あいつケータイ忘れてとかアホやし」
潤君がそれをリクから受け取り、兄妹みたいに毒気づく。
「……で、あの子は……?」
今日1日で日焼けして、思ったより逞しいリクの腕。その表面に砂がきらきらと光る。
眩しさに目を細め、
「……トイレやと思うし、私捜してくる」
携帯を受け取り、不安定な砂の上で立ち上がった。
ビーチサンダルが砂だらけになる頃、女子トイレにたどり着く。
薄暗いトイレの中、鏡の前にチカはいて、私を見ると鏡に向き直る。
「……なんか用……?」
背後に佇む私を、煙たそうに眉をしかめる。
「……これ、リクの車の中に忘れてたって」
「……中……見た……?」
奪い返すようにして、チカは私の手から携帯をもぎ取った。
「……人の携帯興味ないし」
そう言うとチカは息を吐き、バカにしたように笑う。
「……何がおかしいん?」
「……だって……ここのメールにあんたの悪口死ぬほど入ってるから」
チカの指がメールの画面を呼び出し、
何件もの中から1つを選び出す。
「…………アイリ……?」
「……そ。
これ私の親友とのメールな。
ずーっとあんたの悪口聞いてもらっててん」
あの日潤くんの実家で言われた事よりも酷い事。文字にされると自分に跳ね返る。
「……それが……何なん?とにかくあっち戻らへん?リクがスイカ持ってきたし」
「……何なん……?あんたこそ何なん……?
正直キモいわ。私あんたの悪口ここでめっちゃ言うてんねんで。ムカつかへんの!?
……じゃあこの間のんかって、別に私が言うたからじゃないん……!?……アホらし……。
謝りにきた私がほんまアホみたい」
チカが顔を背ける。
指の隙間の砂が、トイレの影で冷たくなる。
「……そりゃ……嫌やけど……
そんなん言える親友おってええやん」
「……はぁ……!?何言うてん…あんたバカ……!?
こんなん親友でも何でもないねんっ……!」
チカが携帯を床に投げつけ、蓋が開き、シュルシュルと寂しげに回転する。
「……どうし……たん……?」
渡しながら蓋を直すふりをして、さりげなく訊く。
チカは思いきり鼻水を吸い上げ、
「……泣いてないし」
と唇を曲げた。
「……なぁちょっとあっちで話せへん……?」
チカに言うと、リク達がいるのとは真逆の遊泳禁止ゾーンの砂浜を指差す。
「……でも……潤たちが」
「……ちょっとぐらいええやん。私携帯あっちに置いてきたし、チカちゃんのは電池取れてる」
入れれば繋がる。画面も壊れていない。
でもチカは少し笑うと、
「……そうやな……」と携帯を元には戻さなかった。
砂浜にそのまま座ると体に砂がまとわりつく。
もうすぐ夏が終わろうとしている。
そんな海の色やった。
「………………アイリ……」
チカが言い顔を上げる。もう涙は消えていた。
「……アイリ……あぁ……さっきのメールの子?」
「…………うん。高校から大学も一緒で……。
ずっと親友やと思っててん」
過去形が砂に落ちる。
「……今でも……やろ?だってあのメールの日付、一昨日やん……」
そう訊くとチカは首を横に振った。
「……のふりしてるだけ。ほんまはもうどうしたらええかわからへん。
あんたの悪口書いて…アイリが普通に返してきて…………それでほんまの事から逃げてる」
「……ほんまの事……?」
「…………うん……。…アイリ実はずっと私の事嫌いやってんて……。
別の友達にそうやってメール送ってんのん知ってん」
呟くとチカは遠くを見て、唾を飲むと顔をしかめた。
「……その子が教えてくれたん……?」
「…………うん。メールも見せてもらった。……私ほんまの事言うて注意したんのが親友やって思ってて、でもアイリはそれが嫌やったみたい。
高校の時からずっとずっと……嫌やったって。
でも私が……離れてくれへんって……」
「……そうなんや……。
……で……あんなメールを送ってどうしたかったん……?」
砂浜に落ちていた小枝を手に、湿った砂を無意味に掘った。
「……あんたにムカついてたんはほんまやし……アイリも乗ってきたし……
でもいつまでもあのメールが頭から離れへんねん……。
今まで自分を支えてた軸みたいなもんが無くなった感じ……」
チカのビーサンの爪先が、力なく砂を蹴った。
「……本人に直接聞いてみれば……?
喧嘩してたらそう言いたくもなるやん」
「……喧嘩とかしてへんし。やから余計無理」
チカの溜め息が潮風と混じる。
「……でもメール送ってみれば?」
私の言葉に促され、チカは携帯をもとに戻す。
何かのメールを打ち込み、「……ん」
と言う掛け声みたいなものと同時に送ると、
「……これで終わり。アイリとは」
と言った。
「……で、友達の席1つ空いたし、責任とって」
「………え?何て送ったん?」
「……迷惑……?送ったんは『マイから訊いたんやけど、私の事ずっと嫌いやったん?』やけど。」
訊かれ私は曖昧に否定する。
初めて出来た女友達。
口が悪くて、どうしようもなくて、それでもきっと、良いやつかもしれない春田 チカ。
チカはそこでようやく、紅茶のお礼を口にする。
「……あれ実はめっちゃ効いた。
いつもはあれから風邪ひどくなんのに平気やった」
「……うん、やろ……?」
チカの携帯が鳴る。
「……アイリから返信きたわ。……二度と話しかけんといてやって」
電源を切り、チカがすっと立ち上がった。
「……なあ……あの日なんであんた急におれへんようなったん……?」
逆光に黒くなるチカの体。
「……うまく説明出来へんかも……」
「……うまい説明なんかいらんし。正直……なんでなんかなって。……ま、あそこにいた連中は私のせいやって言うてるけど」
チカは遠くを見つめ、体についた砂をはらった。
「…………ごめん」
「…………ええけど別に。
一番悲惨やったんは潤やし。
……ほんまやったらもう一回潤の家で謝ってもらっても足りへん位や」
「……やんね……」
女友達第一号のチカと話すのは、男の子よりも緊張する。
「……やんねやないって。あれからみんながチカが悪いわってそればっか。
潤のおっちゃんも、兄貴もや」
チカが拗ねたようにまた砂を蹴る。
「……チカちゃんみんなに愛されてるんや」
「……はぁ……?違うって。
男は誰でもきれいな女に弱いんや。
私とあんた、同じことしても私が責められんねん」
言葉だけを受けとれば刺々しく聞こえる。
けれど今のチカに刺はない。
友達になるって、そう言うことか。
「……愛されてるよ、チカちゃんは。
潤くんにも。嘘やなくて」
きっぱり言って見上げると、
チカは照れたように鼻の下をさすった。
「……潤はどーせペット感覚の愛やろうけどな」
遥か遠くを走るヨット。
波のない海のサーファー。
それらを見ながら、時間は進む。
「……で、なんでなん?あの日いなくなったんは?」
「……あそこは私の居場所やないと気づいたから。
そしてそれはチカちゃんの言葉で気づいたから」
あの洗面所から戻り、愛想笑いを繰り返せば、
もう二度とあの世界からはみ出せなくなる。
逃亡と言う道を選んだ愚かな自分が、信じられなかったと私は言った。
「…………ふうん。
ようわからんけど、別にそれやったらご飯食べてからでも良かった気がするけど。
おばちゃんの唐揚げめっちゃおいしいねん。
あんた損したで絶対」
チカは無意味に私を責めなくなった。
唐揚げより、あの時のレモンが私を動かしたと言う事は言わずにいた。
「……ま、でも、あの身勝手なタイミングが、あんたのタイミングやったって事やんな。
……それはやっぱりあいつの方が良かったからなん?
確かにカッコええけど、それやったら潤も負けてへんと思うし。
あんたが病気なんやったら、余計潤の方が適役やと思うし……」
「…………うん……でも」
そんな単純なことやないねん。
「……あいつの方がHが良かったとか……?」
無邪気に笑い、チカの指先がさくら貝を拾う。
そして答えない私を見て、
「……何か……隠してる?」と静かに訊いた。
「……隠す……?」
「……うん……。
あんた今そんな顔しとったし。それに……」
「……なに……?」
チカがさくら貝を私にくれた。
手のひらのそれは、重さがあるのに無い。
「……隠し事してたら、ほんまの友達になんかなられへんで」
ほんまの友達なんかいらん。
今までずっとおったことないから。
……そう思うんは今までの私。
「………………うん……。あんな……」
迷えば迷うほどきっと言えなくなる。
でもそこまでチカを信じれる何かも、
まだ持つ自信はない。
「……信じてみいや。
この春田 チカさんを。
言うとくけど、そこらへんのチャラい男よりは口固いで。
その貝には……負けるかもしれんけど。
なーんてね」
チカに言っても言わなくても、事実は何も変わらない。
それを受け止めるんは、自分しかないから。
リクが私を受け止めてくれたように。
「……聞かんかった事にしたるから言うてみって」
波が岩にあたり砕ける。
この地球上には今私とチカしかいない。
そう思い込んで、唾を飲むと私は言った。
「……隣、来てくれる?」
子供みたいに欠伸をするチカ。
チカが私の隣にズサッと座ると、
メール音が間抜けに流れた。
「……はは。とらへんかったらメールきた。
どこにおんねんアホ!やって。潤笑かす。
……で……?そんな顔するほどの悩みとは?
大穴であいつ、結婚してるとか?」
茶化すチカに首をふる。
そんなことはどうでもいいと思ったから、
私はリクを選んだのだ。
「……耳貸して」
「……なんでよ?ここあんたと私の二人っきりやで」
それはそうやけど……そうしたかった。
「……も~わかったわかった。
そんな顔せんといて。耳貸すし」
チカが頬を、耳を寄せる。
ピアスのcrossがゆらゆら揺れて、私はそっと、
それを告げた。
バスッッ………………!!!!
鈍い音をたて、スイカが割れる。
目隠しを首まで下げた潤君が振り返り、
「……やったどー!」とガッツポーズ。
リクがお腹を抱えて笑い、空は曖昧な乳白色。
「おー!凄い。
でも砂まみれやんかっ、潤のアホッ!」
「アオ、やらんで良かったん?」
砕けたスイカを拾い集め、リクが訊く。
「……うん」
水着の上に着たワンピース。
その柔らかな膝を抱え、お尻の下の砂はまだ暖かい。
「……そか、鑑賞で充分か。じゃあ後で花火しよな」
リクは無邪気に笑みを浮かべ、私の頭をぽんとたたいた。
チカに囁いたことを全部、リクに言えばどうするだろうか。
去っていく……?去っていかない……?
今なら80%の確率で私の元から去っていく。
藤木 陸人とは、そう言う人だ。
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