water melon




思い出した。


あれから宮田 シンが騒ぎだし、いつまでもリクレーションが進まなかった事を。


女教師は宮田 シンの頭を思い切り出席簿で叩き、それから…………。



「………………本気?」



リクの口から緩やかに流れ出たんは、その言葉だけやった。


あっさり頷くと、これでいいんやって思う。

もう迷うことはない。

これでいいし、これが、いい。


「…………やったら俺も潤太郎に一緒に……謝るわ」



リクの指先が、ガラスの小瓶に入った角砂糖をつまむ。



謝るわって言うたリクの言葉が、迫田家の洗面所、鏡の中で見た私の答えなんや。


それからようやく、私はリクに今日の出来事を話す。


黙って聞いていたリクは、話の終わり、


「……携帯貸して」と言うと、


私の携帯の電源をつけ、あの世界を呼び戻した。






大好きやよ。


たった一言そう告白をしただけやのに、

なぜだかリクには伝わってしまう。


携帯を耳にあてるリク。

それを見つめ、自分の心臓の音を聞きながら、なぜここにいるんやろうと問いただしても答えは出ない。



さっき、いやそんなにすぐじゃない。


でも確かに私はあの食卓にいて、あの場の空気を思い出す事ができる。それは潤くんの息づかいまで。


『…………もし……もし』



通話と同時に会話が始まると、体に炭酸水でも注ぎ込まれた気がした。




『……ん………それが…』


そう言いながらリクがこちらを見る。


そして肩を動かし深呼吸をすると、


『…………ごめん、今一緒におる……』と答えた。


そこからのリクは相槌ばかりで、最後に強く、


『……今日はこいつ無理そうやし、悪いけど明日は必ず会うから』

と言う言葉を告げると電話を切った。



リクが庭に水を撒いていたせいか、

おばちゃんが好きで窓際に吊るしているクリスタルを貫通し、テーブルにそれができる。


「……お、虹やん」


リクはハミングするように言い、それを指先でなぞった。

それから、

「……今日はここで一緒におろうな」

と、まるで何事も無かったかのように私を見てにっこり笑った。



それからリクは何も言わない。

だから私も何も言わない。


晩御飯の買い出しをして、2人で少しだけふざけながらご飯を作る。


ようやく起き出してきたおっちゃんが、

数年ぶりに見る笑顔に似たものを浮かべ、

食パン以外のものを食べた、ただそれだけの夜。


薬を飲むとおっちゃんはまた眠る。


私たちは今日どうするのかなんて構図は頭の中には無くて、


「……ほ、ほなおやすみ。お、お二人さん」


と言うと、背筋だけぴんと伸ばして真顔で寝室に消えた。



久しぶりに入ったバスルームは、

ひび割れた壁の青タイルも水垢の色に染まるバスタブも何も変わらない。


壁のタイルの一部がそこだけスイカのタイルに変わっているのも。


両親を突然亡くした姪への、遠く微かなわかりにくい愛情。




「…………ここで寝るん?」



1階の和室。

そこに敷かれた二組の布団。

太陽の匂いが少しだけした。



「……うん、泊まる時は俺いつもここやし。

なんか落ち着く」


そば殻の音がする枕を私に投げると、


「……今日みたいな日は1人で寝たら寝られへんやろ… …?

ちょうどええやん、修学旅行みたいで」


たまに泊まるらしきリクは、

今日もそうするつもりで恐らくここに来ていた。



私が潤くんと星を見つめている間も、ご飯を食べていた時も、リクは私の背景を、きちんときちんと塗っていたのだ。


「……なんか風呂上がりに服って変やな」


布団の上に胡座をかき、眩しそうに私を見上げる。


「……パジャマも何もかもあっちやし、リクかって変。頭濡れてんのに服って。」


「……俺はここにいつも下着と靴下しか持って来えへんし。で、アオは二回履き?」


そう言うとクスクス笑う。


「……ちゃうし、ちゃんと替えたし。

新しいの持ってたから」


実家に泊まるかもしれないと云う事を、潤君からは言われていた。


月曜日は午後からしか授業がなくて、

うちの親、人泊めんの好きやからきっと言われるでって、潤君が言ったから。


だから下着をカバンの奥底何気なく押し込んだ。

その偶然とリクが重なり、迫田家と違う場所で今、布団を見下ろしている私がいる。



「…………寝ますか?」


言われ頷く。

思えば初めてこの部屋で寝る。


狭すぎて少ししか離せない布団と布団。


豆電球が遠慮がちにつき、庭に面した障子に、

木の影がぼんやりうつる。


「……潤くん………怒ってた……?」



リクも私も子供のようにうつ伏せで枕に顎をのせている。


「…………怒ってない。ただ悲しそうやった」


リクはそれだけ言うと仰向けになり、ふうっと息を吐くと天井を見上げた。


「…………悲しそう?怒ってなくて……?」

「………………うん。」


暗闇を見つめるリクの目が、天井から逸れて私を見つめる。


「……ほんまに……?」


そんな事があるのかと思う。

潤君はあそこにいた全員の前で恥をかき、途方に暮れたはずなのに。


「……うん。いなくなってみんなであちこち探したっては……言うてたけど」

「……みんなで……?」

「…………うん。アオを酷く傷つけたんやないかって、みんな思ってたんやって…。


やから例え俺と一緒でも、無事やった事は喜んでた」


リクが私を傷つけまいと言っているのかと最初は思った。

けれどよくよく考えてみれば恐らくそれは真実だ。

あのお母さんに握られた手の感触を思い出す度、

嘘ではない気がした。


「…………そんな感じでびっくりした?」

「…………うん。」

「……じゃあアオはそう言う類いの他人と、

今まで生きてこなかったんやな」


リクの声は闇の中に溶けていく。


「…………そうかも……」


おっちゃんはそれを知る前に壊れてしまったから。


「……いずれにせよ、おまえが最後に選んだ男はええ奴やで」


言ってからリクは、

「……俺の次に」と付けたし、布団の奥にある私の手を探し出すと繋いだ。


「………西瓜すいかのタイル一枚だけついてるよな?風呂場に。」

「…………うん、私がここに来た日からずっとある」

「……なんや愛されてるやん……」


リクが言い、私は微かに笑う。


「…………なんか俺変?」

「……ううん、変やない」


目が慣れた暗闇の天井に、あのシミを見つける。

ここに引っ越して来た日、

おばちゃんがこの部屋で3人、川の字になって寝ようと言った。


言われるままに真ん中に寝て、このシミを見つけて暴れだす。


『……どうしたん、何が怖いん……?』

『……だってあそこ、お化けの顔やもん』

『……ああ……あれはお化けちゃうよ、木の年輪言うてね』


涙をためて暴れながら、それでも私はおばちゃんにしがみつく事も、おっちゃんにしがみつく事もしなかった。


どうしようもない私は、

用意された子供部屋でしか結局眠れなかった。

どうしようもない私は、近づいてくる両親以外の

愛情が怖かった。



「……何見てんのん?」リク が訊く。

「……未来。」今度はリクが笑う。

「……ダッサー……」


笑うリクの横顔は、今までのどれよりも鮮明に見えた。

「…………リク、私生きるよ。リクの為に。」


説明できへん感覚は、足元からじわじわと這い上がって来る。


「………………うん」


リクが指先にぎゅっと力をこめ、


「……じゃあこれから何でも半分こやな。」


と、噛み締めるように言った。







次の日ふと気づくともうその場にいたのは、

決して大袈裟な物言いではない。

さっくりワープしたようにそこにいた。


オープンスペースのある何もかも目線の低いカフェという場所に。


午後3時を5分過ぎた。

潤くんもリクも、大学は自主休講。

丸テーブルを3人で囲み、ここで話し合うと決めたはずのに、話し出すきっかけはまだなかった。


ふいに1本の電話が鳴り、それだけで首筋が震えると、潤君が携帯をとる。


『……はい……え……今日これからですか……?

……うーん。少し遅れますけどそれで良ければ……』


歯切れの悪い応答と、彼の目が困ったように見つめる壁かけ時計。

バイト先の混雑した店内が、ただそれだけで思い出せた。


電話を切ると潤君が私たちを交互に見つめる。


「……急遽バイト出なあかん事になったし、

そんなに長くは……やけど」


そしてさりげなく私を見て、

「……あっちゃんは少しは落ち着いた?」

と訊いた。


「…………うん……」

「…………そうか。

えっととりあえずチカがごめんな。

あいつがあんな事言うて、あっちゃんがショック受けて帰ったんちゃうかってみんな言うてて…。

でもなんも言わんといなくなんのはあかんと思うで。俺もみんなもめっちゃ心配……したし」


「……ごめんなさい………どうしてあんな事…してしまったんやろ……」


泣けば後悔しているんやと思う。

けど涙が出てけえへん。

続けてここで傷ついたと言えば、チカのせいになる。でもチカのせいやない。

私はあの時、衝動ではなく何かを確かに選んだのだから。


「…………でもほんまにリクさんがいてくれて良かった。あっちゃんがちゃんと頼れる友達がいてて」


一息にそう言うと、潤くんは手付かずだったスムージーを飲み干す。

リクの瞬きにスローモーションがかかり、

何かのタイマーが鳴った気がした。


「…………あんな……潤くん……ちゃうねん……」


リクが椅子で背筋を伸ばし、私の鼓動が速くなる。


潤くんが穴の開くほどリクを見つめ、次の言葉を瞬きもせずに待つ。


「……違う……とは?」

「……うんつまり………アオは俺のとこに来た」

「……はい……、それはわかってますけど……?」


潤君の語尾がフェイドアウトしていきそうだ。


「……その意味が…違うねん。

アオはこれから君やなく俺と」

「…………ん……?えっとごめんなさい。

俺よくわかんなくて。……どう云う事……?」


最後はリクではなく私の方に向かい訊く。


「…………ごめん潤くん……私ほんまはリクが 」


「俺が頼んでん、俺がこいつを好きやから、

君と別れてこっちに来て欲しいって」


鬱積したものを吐き出すようにリクは言った。

弾かれるように眼鏡の奥、瞬きを忘れた瞳が大きく見開く。

「…………えっ……ちょっと頭が……。

リクさんがあっちゃんを好きで……あっちゃんは……」


潤くんと目があう。


また逃げ出したい衝動を押さえれたのは、

隣にリクがいてくれるから。


「……って俺よりリクさんが好きって……事……?」

「……そう云う単純な話やなくて」

「単純やん……。

つまり俺と別れたいって事やろ?

同棲したばっかりで……これから支えていくって決めた俺を切るって」


それまで冷静に見えた潤君は、顔を硬直させ沸点に到達する。


わしづかみにされたレシート。

止める間もなく出て行く背中。

潤くんのグラスの中には、残された氷にまとわりつくスムージー。


【ラインアウトォッ……!】


号令と共に、

頭の中でホイッスルが鳴り響く。

そして、こうなったからハイ終わりと言うんではない。


潤くんはその後、携帯の電源を切り、

私達の中では小さな行方不明になった。


次の日、リクと私はただ自責の念に駆られ、彼のの大学やバイト先に足を運んだが、

バイト先の人に訊くと、昨日少し来るには来たが、帰りし突然辞めたいと言われ、今日は無断欠勤で連絡も取れないと告げられた。


考えたくはなかったが、

それらしきNEWSが出ていないかをテレビで何度も確認し、潤君の実家と言う最後の砦を残してようやく、そこにいるんではと言う結論に達した。


開け放した窓からほんのり匂う湿った風で、

梅雨の季節が近づいているのがわかる。


自分が重い病気やと感じている暇などない。

恋人が逃亡の末切り出した告白が、

彼の心に深い傷を負わせてしまったのだ。


そして向かいのマンションの大家さんに訊いた潤くんの実家の電話番号。

そのメモはかける勇気を無くしたまま、

テーブルの上にある。


「……俺がかけるわ。アオはやめといた方がええ」


そう言うとリクは躊躇う気持ちを封印したまま電話をかけた。


『携帯がつながらなくて…急用があって…………』


恐らくあのお母さんを相手に説明しているリク。

眉間に幾つも見たことのない皺が何度も寄る。


『……え……?あ、はい。……わかりました。

ありがとうございます』


リクが電話を切り、

小首を傾げるようにじっとメモを見ると、


「……昨日まではやっぱり実家におったみたいやけど、今日はマンション戻るってだいぶ前に出たって」


と言う。

そして心の準備をする間も無い数分後、

玄関ドアの鍵だけが伺うようにがチャリと開いた。



「………………おか……えり……」



半分開いたドアの隙間、

憔悴の色が浮かぶ潤君の顔を見て、

私はぼんやりそう言う。


潤君はそれに答えず、

スニーカーを煩わしそうに脱ぎ、

部屋に上がると脇に抱えていた紙袋を置き、

玄関先に鎮座した。


「……ごめん……俺今君の実家に電話してもうた。

お母さんが出て」


「…………あぁ………別にかまいませんよ。

……ちょうど母親の誕生日やったから顔見せに来たって言うたし、この事はまだ誰にも言うてないし」


奇妙な位置で動かないまま、

潤君はまだ胸がムカムカしてるんですぼそり呟く。


「……マヨネーズとプリンとか、同時に食ってしまったような気分がずうっと続いてて……。

考えても考えても消化出来ないんですよね、二人の事。……俺がガキなんでしょうけども……。」


「……ごめん……。許してくれとは……言わへん」


逃げ場を奪うそんな言葉をリクが口にしても、

潤君は怯まなかった。


「……その話なんですけど、1つ提案と言うより実家で考えて……良いのを思い付いたんです。」


そう言うと潤君は立ち上がり、

リクに挑むような視線を送る。



「……提案……?」

「……ええ。一緒にここで暮らしませんか、俺達って言う提案です。」


油の中に水を一滴。

そんな提案にリクと私は言葉を失う。


「……俺達とは…俺ら3人で?」


「……はい。つまり俺はあっちゃんと別れるはこれっぽっちもないんです。

それにこの同棲ってあっちゃんが同意して始まったものじゃないですか?だったら契約違反とも言えますよね。

加えてあっちゃんは今きっと、

俺と暮らしてこんなはずじゃなかったって思い悩んでるとこやと思うんです。

やから気持ちがリクさんにいったような錯角をしている。

それでリクさんを好きやと思ってるなら、暮らすと言う同じラインにリクさんも立ってもらって、比べてもらったらどうかなと。

それで最後にあっちゃんが

審判を下せばいいんやないかと思うんです。」


「……そんな潤君私は」

「……ごめんあっちゃん、

でも俺はこうせえへんともう納得いかへん。

あっちゃんが俺の何を知ってる?

これから知っていくとこちゃうん?」


潤くんは無表情で私を遮り、

返す言葉を全て奪う。


無意味に寂しさをまぎらわす、

無意味に誰かを求めて安心する、


その罰が当たったんだと、そう思うしかなかった。


「…………それで君の気がすむんやったらそうしてもええ。ええけど俺はずっとここには」


「いてもらいます。都合の良い時だけ現れて、

そしたら俺不利じゃないですか。

リクさんもそれなりの覚悟があるなら、ここで暮らしてください」


潤君の口調が提案ではなく命令に変化する。

それに気づいているのは、私とリクだけなのだろう。


リクの睫毛が静かに伏せた。

そしてそれは降伏を意味していると言うことも伝わる。


「…………わかった。君の言う通りやな。

……けど俺にも実家があって、説明に時間もいる。

明日1日くれたらそれを全部きちんとしてくる。

そこからスタートでもええかな……?」


「……いいですよ、じゃあここで待ってます」


自分の提案が受理されたと云うのに、

潤君は少しも嬉しくなさそうだった。


そしてごく僅かな時間で何かを考え、

何事もなかったかのように行動する事を決めたようだ。


「じゃあこの話は終わりって事で。リクさんは今日は一度お家に帰って話し合いをしてきてください。」


とそこで初めてリビングに入る。


そうしなければ何かが壊れてしまうように見えたのは、きっと気のせいではないだろう。



潤君と交代するようにリクは表情を無くし、


「……ちゃんと寝るんやで……」


という短い一言を私に残すと、リュックを肩に部屋を後にする。



潤君との空間が果てしなく広がり、息が詰まりそうになった所で、潤君が思い出したように玄関先の紙袋を取りに立ち上がる。

そしてその赤い、はち切れそうな実のさくらんぼを取りだし、


「……これあっちゃんにって、お袋が。」


と言うと笑みを浮かべた。


心を探れないまま、私は渇ききった喉を押し広げ、


「…………おいしそう」と呟く。



3人で暮らす以上は、潤君との修復作業をしなければならない。


だから私は、傷ついても傷つけても、

互いに酷い損傷を負ったその心を修復する為の物質を捻りだし、さくらんぼを食べた。

そして星を見せてもらい、1つしかないベッドで寝る。

物質が枯渇する時間まで、何事もなかったかのようにそうするしかなかった。






「………………へえ……」


梅雨入りしたはずなのに、

次の日だけは突き抜けるようなスカイブルー。

病院の屋上で、藤木先生の白衣がドラマティックにたなびいた。


「…………です。」


言うと鉄柵にくるりと背を向ける。

午後のけだるい空気。

遠目にいる車椅子の患者さん以外は、先生と私だけ。


「………………ついにか。」


先生の頬に、人間らしい赤みがさす。


「……ついに?」


「……うん。ついにそうなったかって事」


曖昧に笑い、しまい忘れの聴診器をしまった。


「……先生はわかってたんですか?」

「……え、3人で暮らすの?」

「……違いますよ。つまり……リクの……」

「……ああうん……なんとなーく……ねぇ」


誤魔化すように白衣のポケットを探り、

「……あ、そや、飴ちゃん食べる?患者さんにもうてん」


と私の手の平に。

3つ載ったそれぞれのキャンディ。


「……すっかり大阪のおばちゃんですね」

言いながら選ぶ。

迷うことなくそれを取ると、先生が笑った。

「……めっちゃマイナー狙いやな。それ不味いんちゃう?ええのん?」



1人笑うと、また両手をポケットに突っ込んだ。


「……この美味しさがようやくわかったんで。」


食べずに鞄の中にしまう。


西瓜キャンディ。


夏のトラウマと、かすかな愛の味。


先生はふふと笑い、吹いては流れる風に立ち向かうに立つ。


「……そっかそっか……陸人と暮らすか……じゃあきっとうちの母親が陸人の心残りやろから、私しばらく実家に戻るわ。けど気にせんといてな」


「…………あ……」


「ええよ。父親の事とか、あんたに言うたって陸人言うてたし。ご遠慮なさるな。

……あの子結構我慢の子やから、ここらへんで解放したらなね」


「…………先生はどう思います……?3人で暮らすん」


そう告げた時、あまり気にしてないようなので、

訊きたくなった。


一般人なら顔をしかめる、そんな世界を。


「……うーん……。ええんちゃう……?

あの男の子もかわいそうやし、

あんたらのした事は隕石落としたんと一緒やろしな。

当分そうして気がすむんやったら、付き合ってあげたら……?

それでまたあーちゃんがその子を見直すってことがあるかもしれへんし、それは誰にもわからんやん」

「……え……私が……?」

「……うん。

人の気持ちなんていつでも脆くて儚くてそんなもんやと思う。

やから気楽にしといたら?」


「…………私はそんな程度で……」


リクを好きなんやありません。


つい口にしてしまいそうな言葉を押し殺す。

なのに先生は笑みを浮かべた。


「……そんなに陸人が好き……?」


「……いや好きとかそんな」


「……じゃあ嫌いなん?

あの男子にそんな事までさせて?」


「……え……いやだから」


リクの名前が出て、

あの伏せた睫毛を思い出すだけで泣きそうになる。


これがほんまに好きやと言う事を認めたくないんは、ただ 単純に怖いから。



でも藤木陸人に対する想いはそんな単純なものやないと、いつか立証できる日がくる。

いつか……そう思う。


「……一生懸命やね、あーちゃん。状況はどうあれ、そんなあーちゃん見れて良かった」



先生の目線は空ではない空を見つめていた。



「……ところで治療どうする?」


風のような色でさらりと訊く。


そして先生は私で、この非科学的な何かを立証したかったんやと初めて気づいた。


「…………しません」私は答えた。


でもこの言葉が決して否定的ではない事を、

先生は知っている。

「…………でも、リクが好きです」


先生はその言葉に深く頷き、


「……じゃあ特別治療はするって事やね」


と、私の髪を優しく撫でた。



先生と私の意見は初めてここで初めて一致した。


藤木先生の理想の治療とは、

手術をしたり、薬剤を投薬することではない。

患者が心の底から誰かを好きになり、

その活性化した細胞が病気と闘う。

そう云う治療。


「……あーちゃん、今から話すんはドクターの私やないから気にせんといてな。

……手術やその他の治療は、その患者さんによっては命を短くしてしまうもんやと私は思ってるねん。

変やよね……、治療で命が短くなるやなんて。

でもほんまにそうやし、そうなってる患者さんを

死ぬほど見てきた。


あーちゃんの場合は…少なくともそうやと私は思うねん……」


たなびく白衣が先生の歴史。

その歴史を塗り替えられる可能性があるんも私。


「……医学的には先生が言った通り……?私の命」


訊くと先生の横顔が、静かに一度頷いた。


「……医学的にはな。医者としての私は、そう言う一般的な余命宣告や治療をする為に生きてきた。

余命を曖昧にせず告げるのも、父親からの直伝。

…そうした方が患者さんにとって無駄やないと、父は言うてたわ。

でもほんまは人の余命なんて誰も決められへん。それは医者であっても…と本当の私は思ってる。

だから私父とは違う意味で、なにもかも包み隠さず、時には酷い事も告げる医者に敢えてなってん。

患者さんたちに、

……ほんまは違うんやで、自分で決めや、もっと良い治療法は病院にはないからって、心の中で叫びながら」


真っ直ぐ前を見る先生の瞳が少し赤く潤む。


鬼の目にも涙。藤木女医の目にも……?


「……やからあーちゃん全力で陸人を愛してやってな。

形はどうでも良い……。そしてそれがどんなけ命を長くするもんか、私に教えてくれへん……?」



見れば先生は完全に泣いていた。

初めて見る泣き顔に胸元をえぐられた気分になる。


「…………つまり、先生が独自で進める医学研究の実験台って事ですよね?」


この間をどうしようもなく、だから笑いながら言う。

すると先生も泣きながら笑った。


「……アホか、そんな立派なもんちゃうで。

陸人とあーちゃんやったら、夏休みの自由研究ぐらいや」


夏休みの自由研究。

大きく包み込まれた何かに安堵し、少し上を向いた。








それからの私達の生活は案外、想像していたより普通だった。

潤君は大学にいつも通りに行き、バイトに復活し、彫金にも打ち込む。

潤君の実家は何も知らないで、あんな事をしでかした私を、またおいでと呼んでくれているらしい。


先生はリクと交代に実家に戻り、リクは大学に近い友達の所で、暫く住むと親に告げた。

確執だらけの息子が出ていき、自分の道を継いだ娘が戻ってくる。

その方が父親は良さげだったと、

リクは呟くように言った。


……えっとどこまで話したっけ……?


そう、おっちゃん。


もうあんまり泊まりには来られへんとリクが言いに行った時、おっちゃんはなぜか予言したかのように玄関に立っていて、

春子さんが旅行から戻るまで、

当分兄夫婦の家に世話になると言ったそうだ。


服装以外は普通に見えたとリクは言う。


上品な黒ハットをかぶり、それこそパーティにでも出席しそうな上下のスーツを着こなして、

おっちゃんは満面の笑みで笑ったそうだ。


兄ちゃん、ありがとうな。

あーちゃんにも、よろしくな。


そう言って。




そして私は、あの狭い部屋のベッドをどけ、

川の字の真ん中眠る。


月に一度だけ、先生と約束した定期検診を受けに行く。

病気は決して良くはなっていない。

けど悪くもなっていない。

水中を漂う海月(クラゲ)のように、何かに生かされている。



「……大学辞めた。明日から予備校通う」


梅雨も終わりかけの蒸し暑い夜、

リクは突然そう告げた。


私たちは日曜の水族館にいて、3人で撮ってくれる人を、ぼんやり探している途中だった。


「…………え……それは冗談……?」


信じてない風に潤君が訊く。


潤君の全身に、ゆらゆら揺れる水の影。


水族館と云う場所は、時折夢の中と錯覚してしまう。


「……ほんまやって。医学部受け直すねん」



リクは断言し、その真横をゆったりと、ジンベイザメの影が横切った。


「……医学部……!?」


確認なのか潤君が大きな声を出し、近くにいた派手なカップルが振り向く。


その男と目が合い、その女とも目が合った。


「…………葵……」


茫然と立ち尽くす松太郎は、隣にあの何とかって言うだらしなそうな女を連れていて、

このどうしようもない偶然にうつむき、今は緑のカラーに染めた髪をかきあげた。


「…………知り合い……?」


潤君が確かめるように私に訊き、

リクは素知らぬふりで、回遊する魚を見上げた。


「…………ううん」


だが否定したしりから松太郎はこちらへ来る。

オランウータンのようにぶらさがる、

そう、思い出した…あゆみ って子と。


「……なんや葵、元気そうやん。

しかもええ男二人もはべらせて。

俺といい、おまえやっぱりええ男好きなんやなぁ」


何を思ったか、テンションを上げそう喋る。

笑ってる……。


私は笑えない。


「……ひょっとしてこの人ってぇ、

病気でもうすぐ死にそうなショーンの元カノ?で、めっさ性格悪い」


簾のような前髪の隙間からあゆみは私を見て、

ぶしつけにそう訊く。

さすがの松太郎も困ったように、

「……あ、あほ、いらん事言わんでええねんっ」

と、その赤い口紅を、指輪だらけの手で塞いだ。


潤君の瞳がこの状況に落ち着かない。


「……あっちゃん、もう……行こう」


と言う言葉だけを執拗に呟いた。


「……俺らも行くわ。ほんますごい偶然やったな。

おまえも元気で……頑張れよ」


無意味な笑みばかりを浮かべ、松太郎が私の肩を叩いた瞬間、それまで無関心だったリクがゆっくりこっちに来る。


青の世界。時折夢のように思える世界の中で。




…………触んな。



確かにそう聞こえた。


松太郎の笑顔は瞬時で抹殺され、

白目の多い目で、威嚇するようにリクを睨む。


今だぶらさがるあゆみを払いのけ、

このクソ暑いのに着ているライダースの肩を揺らす。


目の前に来たリクを上から下まで失礼な程ジロジロ眺め、


「…………やんのか?」


って言わないと、松太郎はどうにも気がすまないようだった。



「……リクさんもうええやん。行こうよ」


間を割るように潤君が立つ。


でもリクは動かなかった。

平穏な日常に降ってわいた喧嘩。

それを遠巻きに見ている家族連れやカップル。

そんなものをちらと見るとリクが言う。


「……ええけど、外でな。」


松太郎がニヤリと笑い、こいつには勝てると思った時の顔をする。

ゲームを二人でしていた時もそうやった。


「……え、ちょっと、リクさんヤバイって……!

あっちゃん、頼むし一緒に止めてや」


松太郎が出口を目指し、

その後ろを黙ってリクがついていく。

潤君が慌てふためきながらつかんだ私の手は、

潤君の手汗で酷く濡れた。



二人を追い、水族館外の防波堤沿いを歩く。



潮風と大道芸人と、

そんなものが途中にいて、やがて人気のない裏手が見える。


「……あれっ……あの二人どこ行った!?」

「……あの裏に……いると思う」


私が言うと潤君が怪訝な顔をする。

その時解放された右手は、まだやはり潤君の手汗で湿っていた。


「……そんな落ち着いて心配やないん……?

あっちゃんの元彼強そうやん」


「……強ないよ。あいつカッコだけやねん。

だからあんな奴にリクは絶対負けへん。負けて欲しくない。」


勝負はどうなるかわからない。

でもリクは無駄な闘いはきっとしない。


後ろで響くヒールの音に振り返る。

あゆみと言う女が、面倒くさげに肩をすくめた。


「……確かにそうやなぁ、それは当たってるわ。

略奪からの惰性で付き合ってるけど、ほんま明日別れようかなぁ。」


裏手からは、松太郎の妙に甲高い声だけが響いてくる。

コンクリの隙間から覗くと、水族館の中で見たまままだ、二人は向かい合わせに立っていた。


「…………あいつ、私が知ってるあいつのまま?

ハードになってへんやんな?」


とあゆみに訊くと、方眉を上げ

「……うん当然」と言った。

「……ほんまカッコだけの超ヘタレやし。

ビビりやから捕まりたくない言うてナイフとか持ち歩かへん。

持ってるとしたらしょぼいメリケンサックぐらいちゃう?」


「……メリケンサックって……めっちゃ凶器やん……」


唖然としながら潤くんは言い、静止画のような松太郎とリクを再度見た。


水風船がついにはち切れる。

微動だにしないリクに、松太郎がキレた。


「…………あっ……!」


と言う潤くんの短い声と、

メリケンサック付きの松太郎の右手。


「……かかってこんかいっ……!」

の声と共に振り上げられたその手を、

リクは左に避ける。


大した動作もなかったのに、

松太郎はバランスを失い地面に顔面を激しく打ち付けた。


「……いっ……痛たたたぁっっ!!ぎゃぁあっ!血ぃ出てるやんけぇっ!どないしてくれんねん!」


松太郎の額と鼻から血が出ている。

お気に入りのライダースが破けた事も気に入らないらしく、まるで子供のようにそこら中を転げ回った。


「…………まるでコントやん。ダっサ~……。

やっぱ明日やなくて今日別れよ」


あゆみが後ろで吐き捨てて、けだるそうに髪をいじり、

「……再入場できるんやっけ?」

と水族館のチケットをひらひらさせた。


「…………さあ……」私は答え、目線をリクに戻す。


「……きゅ、救急車呼んでくれっ!…頼むし」


松太郎は敵であるリクに懇願し、

リクは笑いを堪えるようにそれに背を向けた。



そのまた水族館に戻る気にはなれず、

施設内にある観覧車に乗る事になる。


「…………嘘…めっちゃ……高すぎ」


寸前まで乗る気満々やった潤君。

いざ目の前にすると、その高さを知り怖じ気づいた。


「……おーさか1やって、高さ」


リクも同じように見上げながら、眩しそうに目を細める。


さっきああして松太郎と外に出たんも、

今こうして潤君と反比例した態度でおるんも、

リクが私に認めて欲しくてやってるんやとしたら、それは切ない。



「…………で、どうする?」



リクはそう言うと潤君を見た。



「……も……勿論乗るでしょ…。な、あっちゃん。」


乗りたくなさそうな潤くんが答え、

「……じゃあ決まり」

とリクがコインを押し込む。


チケット3枚。


水族館で撮れなかった3ショットは、観覧車前の記念撮影システムで実現。


買っても買わなくても撮ると係員に言われ3人で並んだ。


潤くん、私、リク。やはり私は真ん中で、

直前まで躊躇していた潤くんが私の肩を抱き、

それに気づいたリクが、もう片方の肩を抱く。


「はーい、じゃあ撮りますねー!」

係員が肉マンみたいな笑顔を浮かべ。


……カシャッ……想い出の1枚。








順番まではあと1つの頃になり私が指差すと、

二人も私の目線を追った。

「……なに?あっちゃん」

「……ん……あの観覧車見て」


キャラクターものの大きなヌイグルミが、

座席にポツンと置かれていた。


「……ほんまや。一匹で乗ってるってなんか寂しげやな」


潤くんが笑い、リクが言った。


「……俺あいつと乗るわ。やから二人で次のん乗り」

「……え、そんなんリク」


言ったのに聞いてない。


リクが係員にその旨を述べ、


「ええって。ほら来たで」


乗る予の観覧車は風と共に目の前にある。


係員がドアを開け、さあどうぞと促した。


「……やったらみんなであっちの観覧車乗ったらええやん」


そんな私を潤くんが止める。


「……次待ってる人もおるし、とりあえず俺らはこれ乗ろ。リクさん、ほんなら出たとこで待ってるな」



潤くんが私の背中を押すと同時に重いカギが降り、窓ガラス向こうのリクを見ると、私を見て微かに笑う。


ただの乗り物なのに、リクと離れていくようで

怖くなった。


子供みたいにガラスとおでこをくっつけ、

気づくと潤くんの手が、私の右手を握っていた。

「……俺が怖いから、手つながして」


そう言って照れ臭そうに笑い、向かい側から私の隣に異動して。




高さが増すと、頼みもしない観覧車の説明が始まる。


日本語、そして英語。

リクは完全に見えなくなった。


松太郎の時と同じに汗ばむ潤くんの手と、


潤くんが履くチノパンのベージュ。

そんなものばかりを見ているしかない。


「……リクさん、あれに乗ったかなぁ……」



潤君が窓の外を覗きいては、

足がすくむ高さに、バネのように舞い戻る。


「……もう少し上に上がったら、リクのが見えるかも」


私がそう言うと潤くんは頷き、悪夢から覚めたように、小さな下界から目をそらした。


「……リクさん、さっき凄かったな。……俺はカッコ悪かったわ…」


思い出したように潤くんが呟く。


「……そんな事ないよ。

潤君のあれはあれで。だってドラマやないんやし、下手したらリクも怪我してたやろうし」


「……けどやん……俺もほんまはリクさんと同じ気持ちやったんやけど……ごめん」


「……ありがとう」


私は言うと窓の外を見た。


リクには私が頼んだから、だからやねん。


と言う言葉を飲み込んで。



観覧車はてっぺんまで到達し、後はおりていくだけ。


人生も同じ。


なら今はどのあたり?



「……あぁマジ無理」

潤君がてっぺんで瞼を閉じる。


閉じた方が怖い事もある。

高い所は好きやないけど、だから私は目を開けた。

もう降りていく。


そしてやっとリクを見つけた。



随分離れているのにリクは、その時こっちを見ているような気がした。


ピントが合わない。


「……もう見ても大丈夫かなぁ…ごめん、情けなくて」


まだ目を閉じたままの潤君が言い、私の視線は

リクの乗る観覧車に注がれたまま。


「……もう……大丈夫やよ」


位置状態で、もうすぐリクは見えなくなる。

それでも目を凝らしてみる。


一瞬、嘘みたいにリクと目が合う。


……アイシテルヨ。


リクの唇が動いた。










観覧車から降り、リクを待つ間、

乗る前撮った高い記念写真を潤君が買った。


撮られはするものの、あまり購入者はいないようで、肉マン係員は嬉しそうな顔をした。


「……一緒に乗ったら良かったのに」


……アイシテルヨ。


そんな事すら無かったかのように、リクは平然と観覧車から降りてきた。



「……でもあいつ1人やったし。

あ、一匹か。うん、一匹やったし」

「……せっかく3人で乗れたのに。

観覧車って、乗ろうって思わんとなかなか乗らへんやん」


むくれつつリクを見上げまた、さっきの言葉が甦る。


「……アオはそうかもしれんけど。な、潤くん」


思わせぶりに、リクがふる。


「……えっ、俺?」


地面に足をつける幸せを感じているような潤君。


「……うん。結局2人でデートしてへんし、

観覧車ぐらいはええんちゃうかなって」


……そうやった。

メールに閉じ込められたままの、

潤君との初デート予定。


「……あ……え……まあ……それは。でも今となっては…… ですよ」


私もリクも、そしてこんな関係の提案をした潤君でさえ、それをどうすればいいのか持て余している。


私が死んだら終わり……?

私が生き続けたら……?


答えは出ない。


「……なぁアオ、スイカ割りやった事ある?」


イベントが終わるとカオスになってしまう私達の矛先を変えるようにリクが訊いた。


「……無い。

だってあれってたいがい海やん。日焼けしたくないし」


「そんな友達おれへんかったし、やろ?スイカ割りは1人ででけへんもんな」



アイシテルヨ、


神様、あれは空耳でしょうか?


「……酷い。ほんまのことやけど酷い。」


「……まあまあ喧嘩はなしで。

じゃあ、あっちゃんやろうよ、今年の夏」


「そやな。やろ、アオ。今年の夏」


2人の間で未来は揺れる。


「…………うん」


頷くと、夏の匂いが一瞬した。


























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