lemon





……………………へえ。



それだけ言うとリクは電話口で、

何か詰まらせたように咳をした。


あれから、1限だけある講義を受けに潤くんは大学へ。

それが終わればスタ〇のバイトへ。



『……びっくりした……?』


潤君とそうなった事。


『……別に、いいんちゃう。

それよりちゃんと話したん?』




リクと私の間にある白線は、潤くんとそうなった事で再び濃く引かれている。


石灰の立ち上るようなほど濃く。


『……うん。それは……した。

ずっと付き合うって……あ、つまり、

恋愛も病院もって言ってくれた。』


俺の為に生きてよ。


そう言われた事は言わずにいた。


『……ふうん。って事は……明日も?』

『……うん。』


潤君が行き、私が部屋に戻り、

その後リクが電話をかけてきた。


明日藤木先生が病院で待っている事を告げる為に。


『……じゃあ俺はもう行かんでええな。』

『……なんで……?』

『……なんでって……なんでよ?』

『……レポートは……?』


『……考えとく…………今から行くとこあるし、もう切るな。』


そそくさとリクの電話が切れると、

もうかけてはいけないと思う。


それは、俺と生きてよと言うたんが潤君であり、

リクではないと言う事実だけがここにあるから。


ブーンと小さく携帯が震え、潤君からメールがくる。



【明日、何時やったっけ?】


私の病院に付き添うせいで、大学もバイトも調整しなければならない。

それはきっと、潤くんを大切に育てた両親が望んでない事。


【無理せんでええよ、ほんまに。】


【無理してない。

あっちゃんが大好きやから】



人を想う気持ちは、スケジュール帳の無い世界へと、迷いこませてしまうものだ。



今日1日何をしていましたか?


そう訊かれ即座に答えられる人を、羨ましいと思ってしまう。


延々と流れ続けるテレビ。

一旦座ってしまった体は、携帯を持つ指しか動作がない。


自分以外誰もこの世界には存在しない。


その錯覚を打ち消すのは、潤くんからの受信メールと、テレビショッピングの奥様達の歓声。


だから潤くんがチャイムを鳴らした時、

ようやく目覚めたような気がなる。


カーテンの隙間に夜。

知らない間にまた眠ってしまっていた。


「…………大丈夫……?」


開口一番に潤君はそう言った。


眠さがしんどそうに見えたのかもしれない。

外の匂いを潤君は連れてくる。

それは大学の匂いであったり、カプチーノのような匂い。


「……その様子やったら、ごはんまだ食べてへんやろ?はい。」


コンビニの袋に沢山。


「……ありがとう。」


答えると潤君が部屋に上がった。




「……実は……さっそく考えてる事がありまして」



サンドイッチをかじっていると、

潤くんが言った。


また正座をしている。なんやろ……。


「……なに……?」

「……うん……まあ……うん。」

「……え……、気になる。」

「……やんな、ごめん。えっと………………あっちゃん…………。俺と……暮らせへん………かなって」


「……え、……なんで……?」




それぞれに部屋はあり、全く不自由はしていない。

それでも何かを必死に訴えるような潤君は、


正座したデニムの腿の上で、

何度も何度も手汗を拭った。


「……なん……でか。うーん……一緒に暮らしたいからとかしか……。」


「……つきあったばっかりやし、近いし、行き来したらええと思う。

治療するようになったら、家にもほとんどおらへんやろし。」


……間違えてる……?私。


「……そう。それは分かってるけど俺がそうしたい。あっちゃんをほっときたくないって言うか……」 


俯きながらもこのジェットコースター計画を述べる潤君を、ちらりと見た。


弱気の強気、確か小学生の頃男子がそんな表現をしたままの潤君を。


……それは有難い話やけど……


そう言おうとして、なぜだかやめてしまった。


潤くんの小さく震える肩がそうさせなかった、

と言うべきか。


真っ直ぐ向かってくる光から、逃げるスペースはどこにもない。

物事が決まるのは、いつもそんな風。


「……別……に……いいけど……。」


言うと潤くんの顔に歓喜の色がさす。


「……マジで……!?……ほんまにええん?」


「……う……ん、まあ……。」


一緒に暮らす。

それはそんなたいした事やない。

布団を持って移動するぐらいの事やから。

そう思い直した。


「……ありがとうあっちゃん。

そうと決まったら俺、とりあえず部屋戻るな。

えっとぉ……それから明日10時に病院?」


浮き足立つようなトーン。

「……うん。でも、ほんまにそれは」


「……大丈夫やって。

病院終わったらちゃんと大学行くから。

じゃあ明日、早めの8時にここに来るな。

……えっとそれと、後でメールか電話する。

んじゃあ……おやすみっ。」


承諾してからと言うもの、潤くんは急に慌ただしくなった。


玄関先で私に短いキスをし、サンダルばきのスニーカーが階段を駆け降、

やがて窓から見下ろす私に手を振り、また駆け出す。


向かいの部屋に明かりがつくと、私はなぜかカーテンをしめた。


お腹がいっぱいやから、それは心が。


悲しい事では無いはずなのに。


だが意外な事に、結局潤くんからはその夜、メールも電話も来なかった。


拍子抜けしたように濡れ髪のまま寝て、

翌日爆発した髪と共に目を覚ます。



チャイムが何度か鳴っていた。



「……ん、あれっ、あっちゃんパーマあてたん?」


……昨日の今日で?


「……な訳ないか。」



昨晩嘘のようにメールをしてこなかった潤君を部屋の中へ招き入れる。

機嫌は悪くなさそうやし……何でやったん?

的なうざい部分を隠しつつ。



「……間に合うかなぁ……。私完全ボンバーヘッドやし。」


鏡台にある楕円の鏡が、ヘアアイロンのスチームに曇る。

その中に小さく映る潤くん。


「……あうって。後ろ、俺やろか?」

「……ああうん……お願い。」


手慣れていない潤くんが、私の後ろ髪をする。


スチームと、眼鏡の奥の真剣な眼差しが、

午前の光の中にある。


「……ね……、昨日メール無かったけど…なんかあった……?」


さりげなく訊いたつもり。やらしい?


「……あぁ……うん……ごめん。電話してたら遅くなったから。」


言葉を濁す潤くん。


「……電話……?ひょっとしてチカちゃんと?」


「……違うよ。ええっと、今真剣やから、後で話す」


また言葉は濁る。


「……ふうん……わかった。」


鏡の中の私はつまらなそうな顔をしている。

白い肌に 少しあるそばかす。


「……はい、出来た。ええんちゃう。かわいい。」


生真面目に潤くんが言い、この時の話は結局この時聞けずじまい。


部屋を出て、ポスト横を抜けると、緩い太陽が額を照らした。


外を掃いていた大家のおばさんが、私と言うより潤君の方を見て笑みを浮かべる。

「……ああ、さっきの。また何かあったら言うてね。」

「……はい。ありがとうございます。またその時は声かけますんで。」


潤くんが90度近く頭を下げる。


……あの、話が見えませんが……?



「……さっきのん、なに?」


駅までの道すがら訊く。

むせかえるような緑の草は、古い舗装の道なりに続く。

「……うん……挨拶したから。」

「……挨拶?」

「……うん、あっちゃんち行く前に。

その時は……ゴミ置き場でゴミ袋をかたずけてたし、あの人。」

「……挨拶って何?」

「……ん……つまりあっちゃんと暮らす事を報告したと言うか。」


そこで私は一瞬詰まり、言葉を探した。

「……え、そんなん勝手にすればいいやん。

あそこペットがあかんだけやし、大家さんもうるさくないし」


同じ階の男の子は、たぶん女の子と同棲してる。


潤くんのスニーカーがキュッと音を鳴らし止まった。


アスファルトの割れ目から顔を出す小さな雑草。

あれこれ世話を焼かれる事には慣れていません。


「……かもしれんけど、いい加減なことしたくないねん。親にも……昨日言うたし。」


潤くんの頬は、あっちゃんの口から聞きたい、

と言うたあの時のように、固く硬直している。

「……親に……?ちょっと待って、結婚するんやないんやしそんなん……」


言ってまた言葉を無くす。


まっすぐ光を跳ね返しただけ。

でもそれは想像以上に眩しくなる。


「……迷惑……やった……?」


リュックのベルトを持つ潤くんの手に力が入る。


私の腕のブレスレットが切なく揺れる。



落ち着く為に深呼吸をした。


「……ううん……ごめん…ちょっとびっくりして……。

潤くんみたいに真面目な子と、付き合ったこと、無かったから……」


言いたい何かを、スポンジに吸収した。



こんな私にこんな事はきっと贅沢で、

普段なら受け付けないこんな話も承諾する程恐らく弱っていた。




「……そうなんや。じゃあ良かった。」


そこから潤君は、自分のマンションの契約を破棄して家賃を折半しつつ私のマンションに移り住みたいこと、そして私が重い病気だと言うことを、親に話したと言った。


会った事も、見た事もない女の子と、入ったばかりのマンションを出て暮らすと言う息子。


それを潤君の両親がどう受け止めたかと言う事は、その後の一言に凝縮されていた。


『……驚きはしてたけど……

わかってもらえるように時間をかけて……がんばる』


それはごく普通の反応だろう。

是非是非と言う親がいたら、見てみたい。


そして私は、電車を乗り継ぎいつものあの病院へ着くまで、何度も何度も、言いたい何かを、スポンジで吸い上げた。


それはただ、命の消費期限が決まったこの世界で、自分のいるべき場所の確保をしたいエゴから来るものだとしても。


病院までの曲がりくねった緩やかな坂道を上るとき、迷いや怖さが無かったかと言えば嘘になる。


酷い医者である彼女に会うのは久しぶり。


さっきまでいた太陽はどこへ?

雨こそ降らないまでも、幾重にも雲の重なる空はは灰色。



饒舌だった潤くんは、駅からのバスを降りる頃

そうではなくなり、

蒸し暑さに負け、昇降場にある自販機でジュースをに2本買った。



どっちがええ?かと訊かれる。

さわやかレモンサイダーと、ジャングル仕立ての

マイルドコーヒー。

ネーミングとしては、どっちもマイナー。

ついでに製造会社も。


「……レモン……かな」


言うと手の平に冷たい感触。

リクやったら敢えてコーヒーくれたかも。


握りながら坂道を上る。


れもん。


それで思い出す記憶は、潤くんの言葉にかき消される。


「……先生どんな人……?」

「……美人」それだけ答える。


あの人は、数秒喋ればわかる人。



リクが入れてくれていた予約あり。

だが普通の患者なので、

特別待遇無しで普通に待つ。


飲まないレモンサイダーとジャングルコーヒー。


やがて聞こえる規則正しいスニーカー底の音。

それにまず私が顔を上げ、潤くんが、気づいた。


「………………リク……さん」


潤くんの声に反応すると、リクは潤くんの隣にドサリと座った。


潤くんを挟んで向こうにいるリクは、

二缶のジュースを見比べ、

「……俺こっち」と、レモンサイダーをすばやく手にとる。


あ……と云う暇もなかった。


「……それ、潤くんに買ってもらったんやけど」


呆れながら、もう3分の2程を飲み干してる

リクに言う。


「……これ、バス停の自販機のやろ?また買うたるやん」


「……は?何言うてんの、ドロボー。」


リクから缶を奪いかえそうとして、潤くんの服にこぼれる。


甘い檸檬の匂い。

慌てて出すハンカチ。



リクがいるとロクな事がない。





リクが潤くんに謝り、私が潤くんに謝る。


デニムにすっかり染み込んだレモンサイダー。


「……ほんまにええよ、すぐ乾く。」


潤くんがそう言った所で、診察室のドアが開いた。


「……あら~、大変。あっ、リクくん」


看護婦さんが顔を出し、「中園さん、どうぞ」

と言いつつ潤くんにタオルを貸してくれた。


「………………なに?ぞろぞろと。」



藤木先生は机に向かったまま、前の患者のカルテに書き込む。


無表情プラス不機嫌。


「……しかも甘ったるいし。」


デニムのサイダーを指摘された潤くんが

頭をかいた。


なんとも言えない時間。


やがて先生の椅子がギィーとこちらを向き、


私の心臓は跳ね上がるように波打つ。


「……あーちゃん久しぶり。元気しとった……?」


無表情は変わらない。

けれどその声には温度がある。

ただそれだけの単純な事で、泣いてしまった。




「……なぁに泣いてんのん、アホやな。」


そこで初めて先生は少し笑った。


貸してもらったタオルをまた、潤くんが私の為に貸す。


甘いレモンの匂いにむせて、潤くんが私の背中

をさする。

先生は私を見捨てなかった。

男に捨てられ、おばちゃんに捨てられ、

ヘドロの池に沈む私が、息をする為這い上がるのを、ただ黙って待っていた。






「…………で、この甘い彼は……どなた?」


ひとしきり落ち着くと、3人が椅子に座る。


潤君、私、リク、の並びで、先生を半円で取り囲む形。


「……あ……すいません。迫田と言います。

中園さんの……恋人です。」


潤くんが言うと、先生は数秒黙り、


「……おニューか。」


と言った。


「……あーちゃんに恋人出来たなんて、陸人から聞いてなかったけど……なあ、陸人。」


「……別に、それとこれとは関係ないし、いちいち報告する義務ないやろ?」


ムスッとしたリクが答える。


「……ふふ、まあええわ。

よろしくね迫田くん。ここについて来るって事は……」

「……全部聞きました。けど僕は希望を捨ててません。治療すれば中園さんはきっと良くなると、信じてるんで。」


潤君の真っ直ぐな矢に、先生がニヤリと笑う。


「……優等生やね、迫田くんは。

今の答え、ハナマルあげるわ」

「……え、僕はそんな」

つもりやない、を飲み込んで、潤くんは少し溜め息をついた。


「……ま、でもそれはほんまよね。

余命宣告はあくまで私が決めたもんやもん。

あーちゃんが抵抗すればええんやんね ?


ようやく重い腰が上がったみたいやけど」



先生は意地悪く私を見る。


さっきの涙、もったいなかったわ。


「……それって……具体的にどう云う治療を?」


潤くんが訊き、リクは退屈そうに伸びをする。


藤木先生はそのどちらをも見比べながら、

少し微笑み、そして言った。


「……言うとね、今お腹を切って子宮を全部取る。

その後はただひたすら投薬治療。

それは昔も今も変わらへん。


……でも今はお金を出せば、最先端治療が受けれる。


……あーちゃんはお金、親御さんが残してくれはったん結構あるみたいやし、受けれるんちゃう?」


「……そうなん……?」


言葉を受けて、潤くんが私に訊く。


……バカ医者め……。


頷くしかない。


「……でもそれやったら何で今までそう云う事やって中園さんに」

「……だってこの子やる気ないんやもん。

死ぬよって言うたら、はいそうですかって。


治療するって言うたんは気の迷いで、もういいですって。


世の中色々な考えがあると思う。

あとこんなけですよって言われて世界旅行する人。

その逆にどんな治療でもしてみようと思う人。


それを押し付けんのは医者のエゴ。

でもな、この子は私の患者や。

やから私のエゴに付き合ってもらわれへんのやったら、はい、サヨナラやねん」


先生の目の周りが心なしか赤い。


そう思いたくなくて、意味不明……意味不明……、と心の中で繰り返してみる。


「…………もうええやん。で……?

アオは結局どっちにする訳?」


リクがのんびりと言い、

潤くんが私の代わりに答える。


「……もちろん治療します。

僕ら……今日から一緒に住むんで。僕が全面的に彼女をサポートします。」


空気がピンと張りつめた。


「……へぇ、そうなんや。じゃあ決まりやな。」


リクは感心なさげに言って、

診察室から早々に出て行った。


「……わかった。ほな、これから忙しいけど、あーちゃん大丈夫……?」


先生に問われ、そこで再び意識が目覚める。


手術のできる日を何ヵ所か教えてもらい、

様々な書類を渡された。


リクはどこへ行ったんやろ……。


戻った待ち合いの床には、さっきのレモンサイダーがつけた跡。



子宮が無くなる。

やめたい。そんな手術。


命との天秤でも、まだ女の子でいたい。



「……迷うよな……。俺はあっちゃんやないから、

ほんまにわかってあげられへんけど……辛いと思う。

その最先端ので、手術せんですまへんのかな。」



藤木先生との初対面。


ぐったり疲れた潤くんが、書類とにらめっこの私に言った。


その言葉にぐらりと揺れる。


私は骨の髄まで女なんやって、この時初めてそう思った。


「……手術……やっぱり……やめとこうかな……。」


今日出さなくてもいい。

印鑑も……無いしね。


「……帰って二人で考えよう。俺今日、大学休むわ」

「……え……あかんよ、ちゃんと行かな」

「……俺がそうしたいから。

このまま授業受けても、何も耳に入ってけえへんし。」


潤くんの言葉は逃げ場がない。


清算を済まし、手術同意承諾書は後日持って来ることになった。


バス停までの長い坂道。それをまた下る。


ジャングルコーヒーは潤くんのリュックの中転がる。

そして私のレモンサイダーは、潤くんのデニムに模様となる。


雲っていたのが嘘みたいに、心と真逆に今は晴れが広がる。



バス停まで来て、柵の上に座るリクに、気づかなかった訳やない。


次の乗車時間は10分後。最悪。


「……書類出してきたん?」


そこに到達するとリクは訊いた。


「……まだ……」

「……ふうん」

「……リクさん、あっちゃんもそんなすぐには」

「……ごめん。俺、君に訊いてへん。こいつに訊いてんねん」


潤君が黙った。


「……帰って、二人で決めんねん。」


柵にいるリクを無視するように潤くんを促し、

時刻表の前に立つ。


錆びれた看板によじのぼるナナホシ。


「……潤くん、ちょっとアオ借りてええかな?」


リクが私の腕をつかみ、潤くんがさめざめと溜め息をつく。


「……いいですけど……バスもうすぐ来るんで」

「……うん、了解。すぐすむから」


潤くんを残し、少し離れたベンチの前まで。

そのベンチの青さは、空とは違う青。

「………………なに?」

「…………ん…………っとな。……ねーちゃん……」

「…………せんせい?」

「……うん……きっと切るつもりない。

アオの……子宮」


リクの目は、ビー玉のよう。

透き通っていく、空に、風に。


「……どう云う事……?」


少し先にバスが見える。

赤信号で止まり、こちらをチラと見る潤君は視界の片隅に。

「……うまく言われへんけど……あの人手術どころか、ほんまは薬で治療する気もない。

……でもあの人は医者やから、

表向きはそう言うしかない。

それでも治療しろって言い続けたんは、

アオの生きたいって気持ちを引き出したかったから。

それがほんまに引き出せたら、あの人の治療は終わりやねん」


「……なにそれ……。やったらこの紙はなに……?

ここに書いたらあの人は私の事を切る訳やん?

けどほんまは切るつもりない?

……は?

リク、自分で言うてること分かってる?」

「……分かってるよ、アオが混乱すんのも……。


でもそれだけは、ねーちゃんの代わりに伝えたかった。

きっとあの人……これから先言わへんと思うから。

それはねーちゃんの仕事が……医者やから」


リクのスニーカーの爪先ばかり見ていた。


バスのエンジン音は大きくなり、

私は目を伏せる。


「……ようわからんけど、私は今生きたいって思ってるよ。潤くんの為に、出来る限りの治療をして

。そうやって命を伸ばすことが出来たら、潤君は喜ぶと……思うから。

先生の言うてる治療を、今更深読みしたって始まらへんやん」


リクの答えを待たず、潤くんの元に戻る。


バスは停まり、ドアはしまり、俯いたリクを残したままで。



「…………リクさん、なんて……?」


私達だけの貸しきりみたいなバス。


その一番後ろに座ると潤くんが訊いた。


「…………別に。早く書類出せよって……それだけ」

歯切れ悪く私は言うと、バスの後ろを振り返らなかった。


リクがどんどん小さくなっても、

バスの唸るようなエンジン音に身をまかせ、

潤くんの隣で息をした。


その日帰ってからのドタバタは、

まるでスノードームの中を覗くように非現実的であり、かと言って折り返す事も出来ないのでした。


『……あっちゃんに会わせろって…どうしてもって……ごめん……今すぐ会える?』



一旦自分の部屋に帰った潤くんを、出迎えたのは彼の両親でした。


朝一で家から来たらしい。


電話口でゴクリと唾を飲む。


弱々しい電話口の彼の声は、急かすような父親に何度もかき消された。


『……って……どっちに?』

私が行くのかあっちが来るのか。


『……そっちに行くんは悪いし、とりあえず……こっちに来れる?』


そう言われ覚悟した。

相手の年齢は違っても、別れ際、罵声を浴びることには慣れている。


テーブルに出したままの書類を一瞬だけ振り返り、部屋を出た。



ここに戻ってきた時、

もうそばに潤くんはいないかもしれない。


それでもいいかな……。


そう思う自分は、振り子のように曖昧だ。




「……へえ~、きれいな子やん」


そう言われ、視線を指先に落とす。


五分後、予想外の展開とは、こう言う事を言うのだろう……。


「……ほんまやな、潤にはもったいないで。」


最初は、お母さん。今のは、お父さん。


写真立てと同じ顔がそこにある。


どやされたり、呆れられたり、

そんなのを想像してたから、テストまるで出来なかったのに100点取ってしまったような気分やった。


「……俺もびっくり……。電話でめっちゃ怒ってたから……」

潤君が頭を掻く。居心地悪そう。


「そらそうやわあんた。いきなりあんな事言われて。なぁ、お父さん。」


お母さん割烹着似合いそう。


「そうや潤。


こっちはゆっくりしてんのに、いきなり同棲したいねん言われたら。」


「……どうせ酒飲んで寝とったんやろ」


安堵のせいか潤くんがお父さんに軽口をたたく。

酒やけしたように赤いお父さんの顔。


「……でもな、あおいちゃん、

ワシら夫婦、潤が全く女っ気ないから心配しとったんよ。

結構ええ男やのに、おかしいなぁ言うてな。


そら同棲って聞いたらその日は落ち着かんかったけど、今朝な、二人で潤を応援したろうって事に

なったんや。


病気のことも……聞いてるしな。」


……ちゃん…………ちゃん……ええけど別に。


「……そやな。

まあおばちゃんもな、お父さんがそう言うんやったらって。

あんた、頑張らなあかんよ。

治らへんことないそうやないの」


いきなり手を握られ、ビクリとする。

柔らかい、それでいて主婦の手。


潤くんが困ったような顔で暑苦しいシェイクハンドを見ていた。


「……で……親父とお袋は結局許してくれんのん……?一緒に住むん」


「……そう、それな。

そやけどおまえここ借りたばっりやないか。

こんなけ近かったら行き来したらええんちゃうんか?」

……おじさん……私もそう思います。



「……では納得いかへんねんやろこの子は。

あおいちゃん、この子小さい頃から言い出したら聞かへんのよ。

大学もな、芸術なんかうちには無用じゃ言うてお父さんと取っ組みあいの喧嘩なったんやけど……それでもおれへんかってん」


お母さんが言い、私を見て笑みを浮かべた。


「……やから頼むわねうちの子、あおいちゃん。……その……手術もするんやろ?」

「……あ……それは……」

「……まだ決めてへんねん。

治療の仕方も色々あるみたいやし」


潤くんが言って、まだ繋がれたままな私とお母さんの手。


「……そうなんか。

けど悪いとこあったら全部取ってもうたらスッキリするやろ。


あ、孫とかそんなんは気にせんといてや。こいつに兄貴がいるさかい。病気治す方が先や」


「…………親父……!

ごめん……あっちゃん……」


潤くんが怒り、謝り、お父さんがしょげた。


「……ほんまにデリカシーないわ、お父さんは。

あおいちゃんご両親いてへんねやてね……。

手術やら治療やら心細いやろ。

ええわ、もう潤と住みなさい」


繋いだお母さんの手に力が入り、お父さんは小さくなる。

知らないところで何かが動いていく。

それは人混みの中にいきなり投げ込まれた時と同じで、立ち尽くす事しか出来ずにいた。




スーパーの仕事が忙しいからと、その後ほんの少しで2人気忙しく帰って行った。


結局ここを出て、潤くんはあの狭い私の部屋に来ると言う流れが決定し、

荷物ほとんど開けてなくて良かったって、潤くんは言った。


「……ほんまにごめんな……

でもあの二人悪い人間やないねん。ちょっと強引やけど……」


二人だけの空間になって潤くんが言う。


普通ならきっと嬉しいこと。

……だから私は言う。

「……ううん全然。なんか……公認になって良かった。」

…………なんて。

「……それより……手術どうするん……?」

思えばずっと1人だけ、立ちっぱなしだった潤くんが座った。


ふと言ってみたくなる。


「……手術も治療もせえへんってのは……?」

「…………え……それは……」

「…………ふふ……嘘やって。病院まで付き合わせといてそれはでけへん」

言うとホッとした顔。


「……やんな。俺は信じてるから」


何を……?訊きたいけど……訊かへん。


潤くんの腕の中にすぽっと入り、柔らかく抱きしめられると私は言った。


「……潤くん…しよっか……」


拝啓 神様、

私は何をしているんでしょうか。

彼の両親の思いもよらない許しは、運命なのでしょうか。

抱いてほしいと言ったのは、

不安を消す何かの温もりがほしかったから。


それ以上でも以下でも無いのです。




「……よくなるまでは……って思ったのにな」


抱き合ったあと、ベッドの上で潤君がうつ伏せになる。

ついさっきまで母親が私の手を握っていた部屋は、もうその匂いすらしない。


「……なに……してんの……?」

片目だけ眩しそうに潤君が、

影うごめく自分の背中を見る。


「……ん……影絵……」


潤くんの背中に私の手の影。

キツネ……鳥……それから……なんやったっけ。


「……小学生の頃のあっちゃんって……どんなやった……?」


本当なら今頃大学……本当なら今頃バイト……の潤くんを引き留めている罪悪感。


「…………私…………?」

「……うん」

影絵をやめて、潤くんの隣で同じように

うつ伏せになる。


「……それが……全然覚えてへんの」

「…………え……いっこも?」

「…………うん。ほら……親がいきなり死んで、

記憶とか全部とんだみたい」

「…………あぁ……ごめん……いらんこと訊いた」


謝る 潤くんの癖毛を、クシャリと優しく撫でる。


犬みたい……。


でもほんまに潤くんが犬なら言うてたやろな。


私はほんまに嘘つきです。

そしてズルい女ですと。



真夜中の12時。

日付が変わるこの時だけ、神聖な気持ちで息をする。

『……1人……?』


仕方なくと言う風にリクは訊く。

私からかけたから文句は言わへんけど。


『…………うん。……ちょっと戸惑ってる。

けど……進むしかないし』


明日と言う日から少しずつ、潤くんの荷物たちが私の部屋にお引っ越し。


今日はバス停に置き去りにしてごめんね……。



そう伝えないまま、自分のことばかり。


『……とにかく……おめでとう……』

『……なにが……?』

『…………親公認』

『……あぁ……』



熱くなる携帯。耳に充てたままベッドで転がる。


『……なぜに潤太郎一緒やないん?』

『……ん……あっと……それは今日ぐらいは別々でと』

『…………ふうん……』


興味なさそう、リク。

私だってそれほど興味はない。


『…………けどカーテンがこんな事になるなんてな』

そう言われ、きっちり閉じられたカーテンを見る。

『…………まあ……縁ですよ』

『……やな……。おめでとう』

『……リピート……ムカつく』

『……そお?』

リクは言ったきり黙った。



『……ね……今度ごはん食べへん?』


真夜中になると、何でも言っていいような気分になる。


そしてそれは錯覚やと、リクの言葉が教えてくれる。


『……うん、ええよ。3人でやったらな。また、連絡して』

『……うん……わかった。もう切るね』

『……おやすみ……』



電話を切ると、だだっ広い野原に一人で寝転がっている、そんな錯覚に陥りました。


その日の夜、何度も金縛りにあいました。

けど霊なんてどこにもいません。

ストレスがあると、それは起こるらしいのです。


3回目くらいの金縛りから解けた朝、チャイムが鳴りました。


布団に潜り込み、それでもしつこく鳴るチャイムにいたたまれず立ち上がる。

魚眼レンズの向こうには、チカ。

「…………部屋間違えてない?」

「……全然、顔出してや」

ぶっきらぼう極まりない。

携帯のメールが鳴る。

チカをドアの向こうに放置し、枕元の携帯を手に取る。

【遅刻……!学校行ってきます。また、後程。 潤】


太陽の光をふんだんに含んだ重そうなカーテン。

開けると、携帯片手の潤君が、駅までの道を走って行った。


再びのチャイム。そろりとドアを開ける。


チカは口をヘの字に曲げ、腕組みをして立っていた。


「……あが……る……?」


そう訊くとピクリと眉を動かした。


「……ええん?

やったら上がらせてもらうけど」


朝はまだ気温が低い。

チカを仕方なく部屋に通すと、テレビの前を指差した。

「……そこ座って。狭いけど」


チカに緊張しているんやなく、女の子が 自分の部屋にいる事に動揺する。

「……うん」

チカは居心地悪そうに座り、部屋のあちこちを見渡した。

「……家……遠いんやんな……?」


来客が無ければ永遠に未開封だったであろうその紅茶缶を開け、葉っぱを取り出す。


「………………うん……まあ……そこそこ」


言ってチカは鼻水をすうと咳をした。



「……風邪?」

「……気味なだけ。あんまり早起きせえへんし、

体がついてきてへんねん」

とは言うものの少し頬も赤い。

「……熱……あるんちゃう?薬は無いから、ちょっと待って」

「……え、そんなん買いに行かんでええってば」

迷惑そうにしかめっ面。悪いけど、そこまで面倒見ようないし。


「……違うよ、紅茶したげる。風邪にきくやつ」


鍋いっぱいにミルクを入れ、そこに葉っぱを大量投入。シナモンも少々。沸騰したら濾す。


「……ほんまに……きくん……?」


表面の膜をスプーンで崩すとチカは訊いた。

「……うん。嘘みたいに」


騙されたと思って飲んでごらん。


お母さんの顔、もうはっきりとは思い出せない。


けれどそう言った時の手だけは、鮮明に覚えている。


銀のスプーン。

少し剥げた淡いマニュキャア。

玉ねぎの匂いが染み付いた指先。



「…………甘っ……」


チカは言うとちびちび飲んだ。


「……で?」

こんな朝早くから何しに?


「……聞いてん……それだけ」



チカは呟き口をつぐむ。

赤いリップがマグのふちについた。


「……潤くんに?」

「……ううん、潤とこのおじさんととおばさん。

昨日近所で会うて、今潤のとこから帰ってきて、

あいつが女の子と住む事になったって。


正直さ、…………はぁ?やん。


同棲にあんな感じの親、変やろ」



「…………ふふ、まあね……」


握られた手、母親の手。


「…………なんでなん……?なんかおかしい。

潤も……それから同棲も……」


チカは納得いかないように、下唇をギュッと噛んだ。


「…………聞いてない?」

「…………何を……?」

「…………私のこと」


そう言うとチカがマジマジと私を見る。

「…………別に」


本当に知らなさそうにそう答えた。


「…………私……あんまり生きられへんねん」

「………………へえ、病気……?」


困ったようなチカの手が、マグの模様を指でなぞった。

「………………うん。癌やねん。あと1年とか2年とか……」

こう言う告白も、慣れてしまうとどうって事ない。

「……ふうん。なんて言うて欲しい?」

「……え……別に」

「……やんな。でもそれで一緒に住むとかずっこない?

人はある日突然死ぬ。

今こうして生きてるのも、偶然が重なって生きてるんやって思うし」



チカはつとつとと語り、

しかめっ面をしながら紅茶を飲んだ。


「……この帰りに私が車にひかれて死ぬ、

と言う可能性もあるわけやん?」



チカの言葉がBGMみたいに、部屋の中を流れていく。


……確かにそう……確かに。


「……でもまあそれで……同棲することになったんや」

「…………うん」

「…………じゃあ潤を辛い目にあわすんや」

「…………かも」

「……死なへんってこと?」

「……まあ……がんばって……生きようかと」


そう呟くと、チカはほんの少し私を見た。


「……潤の為?

愛の力とか言うダサいやつで?」

「…………うん」


チカが激しく笑う。


「…………それは無理ちゃう?」

「…………な んで……?」

「……だってあんた、潤のこと全く愛してへんやん」

「…………。」

「…………図星……?」

「……違うよ、好き」

「……へえ。……寝た?」

「……興味……あるん?」

「……まあ。

ほらそれって、家族がどんなエッチするんか興味あるんと一緒」

「…………じゃあ自分で試したら?」

「……あんた変わりすぎ。で、潤を好きやないの、バレバレや。

……言うてもええ?

あの人あんたの事好きやないって、潤に」


チカはもう甘すぎて飲めんわって、紅茶のマグを私の方に押し戻した。


「……それはやめて」


とりあえず強めに言う。


「……やっぱ図星。サイテーやん。

1人で死ぬんが怖いからって潤巻き添え?

そう言う女、昔っからおるわ。安もんの恋愛ばっかして、本物知らん女」

「………勝手に決めつけんといて。ええわ、言うたらええやん。

言うたとこで私否定するし。

今の潤君がどっち信じると思う?」


チカの焦げ茶の瞳、そこに映る私。


「…………そらあんたちゃう?

潤はあんたを信じてんねんもん。やから裏切んなよって、忠告しに来たんや」


……それが出来へんねんやったら、


チカがショルダーを肩にかけた。


「……とっとと死んで。潤のトラウマにならへんうちに」


チカが立ち上がり初めて気づく。


ショルダーに揺れる、潤君の作る物事と良く似た

キーチェーン。


「…………それ……、潤くんが……?」


言うとチカが私を見下ろす。無表情に近い顔で。


「……ちゃうよ。

あいつの作品好きで、ずっと作れって言うてんのに作ってくれへんし。


やから似たん買うてん」

「……そう……なんや。

よう似てるから潤くんが作ったんかなって……」


言うと今度ははっきり、チカが私を睨み付けた。


「……こんな安物と潤の作品間違えんといて。


価値がわからんあんたの腕にされたそれが気の毒やわ。もう帰るし、ごちそーさん」


チカのつけいる制汗剤がふわりと香る。


れもん。


チカの去った部屋はまだ朝の光。




拝啓 神様。



途中中断しましたが、私はやっぱり本気の恋をするのが怖いんです。


そしてその相手を残して行くことが、怖くて怖くてたまらないんです。



私の気持ちはどうであれ、

潤くんはその日の夜から私の部屋に住む。

そして私は潤くんも、潤くんのあの家族も、撥ね付けられずにいる。


チカの話はせずにいた。

チカは今朝、潤君のことを好きやと、

私に伝えに来たんやと思う。


方向性は間違えている。

けれども若いと言うのは、そう言うもんやと思う。


「……手術せんと抗がん剤治療だけするって、

あの先生なんて言うてた?」


幾日もたったある日、潤君は訊いた。



あれから藤木先生に1人で会い、手術はしない事を告げた。


『……じゃあ……抗がん剤治療してみて、で、

様子みて違う治療もしてみると……オッケー』


そう答えた先生の心の温度はわからへん。


けどリクの言う事がほんまなんやったら、医者と言う仕事として、答えている事になる。


『………じゃあ……来月ぐらいからしてみる?

あの治療するときは、信頼出来る家族のような人がそばにおらんとキツいから、その……彼やっけ……?


付き添ってくれる彼の心の準備もいると思うし。

ここまで来たら急けへんしね』


珍しくかけてる眼鏡の奥のポーカーフェイス。

手の内を読む勇気はなかった。


「…………とりあえず……1ヶ月先に始めるみたい……」


言うと潤くんは難しそうな顔をした。


「……1ヶ月も先……?そんなんで……ええんかな」


不満そうな横顔をテレビに向ける。


ピンクのカーテンと潤くん。

男の子と住むんは初めてで慣れない。




「……潤くんあんな、治療ってほら……テレビとかであるやん。髪の毛抜けたりとか。ゲーゲーやったり……とか。…………そんなんやで?」


「…………うん。だから?」


横顔のままの潤くんを、不思議な気持ちで

見つめてしまう。



……あんたはなんでここにおるんかと。


「……俺がそんなんであっちゃんの事嫌になるとでも……?俺も結構見くびられてんな」


今日はゼミの仲間でご飯を食べに行く予定やったらし。それを止めて潤くんはここに帰ってきた。


目に見えない苛立ちが、

その友達からのメールに返信する潤くんの指先に、垣間見えたのは気のせいやない。

「……そうやない。そうやないけど潤君、

大学とかバイトとかほったらかしてまで私に付き添う事ないやん。

今日かって……行けば良かったのに」


私には分かっていた。

一目惚れした相手からの告白。

れにがんじがらめになっている潤君の心。


「……俺は少しでもあっちゃんとの時間を大切にしたいからここにおんねん。

今は治療の話だけにして。

他の事……つまり俺の事はええから」


潤くんは言うとテレビを消 した。


男の子と暮らす。

それは楽しい事ばかりやないって分かっていたけれど、時々息がつまる……。


「……ごめん」


全てがおさまるその言葉を私から言うと、

潤君はそっと私を抱きしめた。


「……天体観測でも…久々にする……?」


処理できない苛立ちを、潤くんもそんな言葉にこめて。


それから1週間。

私は潤君の嫌やと思う部分に触れないようにし、

潤くんはまたいつもの潤くんに戻った。


「……明日さ、俺の実家行かへん?」


そう訊かれて、即答できへん自分がここにいる。


「……あ……嫌とかやなくて、緊張するかも」


曖昧にそう微笑んだ。


「……緊張……?前に会うたやん。

ああ、兄貴……?あれは緊張の対象ちゃうし」

「……うん……けど……」

「……ええやん。

あっちゃんが嫌とか言うと思ってへんから、明日行くってもう言うたし」


……なんや……もう決まってたんや。


同じ強引さでも、リクと違うと思ってしまうんは切ない。


「……じゃあ……行く」


答えると潤くんが笑った。


「……じゃあって」



気にしない素振りをして、潤くんはバイト先の話をした。


私の付き添いが始まれば、お休みすることを除いて。


夜は私の部屋にある潤くんのベッドで眠る。


私のベッドは潤くんのより若干小さく、かと言って二台置けるほど広い部屋でもないので、

潤くんの従姉妹である顔も知らないみっちゃんにあげてしまった。


私は暗闇の中、腕のブレスを見る。


透明な鎖 。


そんな風に思うのは、きっと良くない。


「……お気に入り……?」


私の肩先で、潤くんが息をする。


「…………うん……」

「……じゃあ今度は……指輪作るな」

「…………うん……」


そう言いながら、チカならもっと喜んであげれるのにと思う自分がいる。


でもそんな想いはいつも、不安にかき消され夜の闇に溶けてしまうのだ。



両親が死ぬ前まで通っていたピアノ教室。

そこの先生が弾く、フラットの音が嫌いやった。


心が不安定になる音。


曲が完成するにはその音がいるって言われたけど、それでもあの、何か間違えているような音は心を乱す。


今の私はフラット。


支えてくれる潤君がいると云うのに、

それは病気を知ったあの日よりも、フラットになった。


「おっ、来たか。あがりあがりっ!」


お父さんの大きな声が響く日曜日。


潤君の家はマンションから程よく遠く、

田んぼの幾つかある静かな住宅地。


アンジェラと云うそれこそ名前の知らない駅前のケーキ屋で潤くんとケーキを買い、

15分程度歩くとそこに着いた。


大丈夫……?疲れてへん?


潤君がここに着くまで数限りなく私にかけた言葉を、出迎えたお母さんがリピートする。



思えばこうして相手の実家に行くと云う行為も、

初めてした。


昼前なのに晩御飯のような匂いが家の中に漂い、

母親の作った手料理が、居間の大きな螺鈿の卓上に、所狭しと並んでいる。


「潤、今日はあんたの好きな唐揚げめっちゃ作ったで。あっちゃんも沢山食 べてね。

あ、そうや春田さんとこも呼ぼか。

日曜やしおるやろ」


春田………春田……春田……チカ。


「……ええっ!?あいつんとこ呼ぶん?

おっちゃんとおばちゃんだけやったらええけど」


潤君が露骨に嫌そうな声をあげる。


「ええやんか別に。こんにちは、初めまして」


違う声色がふいにして、

写真で見た潤くんのお兄さんが、階段脇から

ひょっこり顔を出しました。


「なんやあんたおったん?

えみちゃんとデート行ったんちゃうの?」

「今日はあいつ中学の同窓会。

ええやろ、たまには息子二人揃うんも」


穏やかそうな笑みを浮かべ、お兄さんは言った。

写真よりも潤君に似ている。

癖毛ではないので、雰囲気は違うけど。


「……こんにちは。あの……私、中園あ」

「……あおいちゃんやろ?知ってるよ」


お兄さんのその言葉を聞くと、

何かがピクンと動く。

でも気にしないふりをした。


「親父とお袋から全部聞いてる。

……大変やけどがんばりな」


一瞬顔を曇らせて、またお兄さんは笑顔になった。


「春田んとこ呼ぶんやったら、電話しとかなあかんぞ」


お父さんがもう早々定位置に着く。


「……そんなん電話するより言うてきた方が早いやん。俺行ってくるわ」


お兄さんが出て行ってしまうと、潤君はお父さんの向かいの席にと私を促した。


台所から慌ただしそうな音が聞こえる。


「……あ……私もなんかお手伝いを」


立ち上がりかけた私をお父さんが止めた。


「ええよ、ほっとき。

あっちゃんの治療がうまくいって、それこそ結婚なんてなったらあいつにこき使われるで。

今だけやし、ゆっくりしとき」



潤くんが頷き、もう一度立つ機会を、なんとなく

失った。


「後で来るって。

潤の噂のそのきれいな彼女、見たいらしいわ」



数分後お兄さんは戻ってきて、私の顔を見ると、

照れたように笑った。


「……そう、ほなチカちゃんも?」


キッチンからお母さんが声を出す。


「うん、チカも。あいつも暇してるらしいわ」



お兄さんが階段をかけ上がる音がして、

心臓がトクトクと波打ち出した。


「……大丈夫……?疲れた?」


潤くんが心配そうにこちらを覗きこみ、

お父さんも同じように声をかける。

「……え、しんどいん?横になっとく?」


お母さんまで暖簾の隙間から顔を出し、

私は何度も首を振った。


着いて時間は少ししか経っていない。

なのにどこかぼんやり疲れた。


昼頃チャイムが鳴る。


それまでアルバムを見せてくれていた潤君が、

そっと私に耳打ちした。


『……あっちゃんの病気のことは、春田さんとこは知らんから』


さりげない横顔を見上げて『……うん』と言う。


チカがどうなのか、それは分からなかった。





玄関先にはチカの両親と、その後ろに隠れるようなチカ。


「なんや迫田、スーパーやのに日曜休んどってええんかいな」


潤君のお父さんと同じようなテンションのおじさんが言い、家から持ってきたのだろう焼酎の

瓶をかかげる。


「今日は潤の彼女が初めてうちに来る一大事やし、店は従業員とパートに任せてきたからな。大丈夫や」


私の後ろからお父さんが言い、チカの父親が豪快に笑う。


当たり前やけど、入り込めない空気がそこにはあった。


「みんなあがってー」


エプロンで手を拭いながら潤くんのお母さんが言い、

どやどやとほんまにするような音で、

春田一家が中に入る。

チカは一度も私と目を合わすことなく、


潤君や潤くんのお兄さんと仲良さげに絡み、


「おばちゃん、手伝うし」と言うと台所に消えた。


台所に二人のお母さんとチカ。

こっちには男しかいない。



そう言う中で永遠に機会を見失う。


何も変わらんのに中身が故障している、

この私の存在がそれと同じように思えた。


「べっぴんやなー。華が咲いたみたいやで」


チカの父親が言い、台所チームが大皿料理を次々運んできた。

「ほんまに。でも残念やわぁ。

チカのお婿さんには潤君がええなぁって思ってたのに。

今この子が付き合うてる耳にピアスの男の子より」


チカの母親が笑いながら言う。


チカは1人っ子。

親同士も仲良く、潤君とは幼馴染み。

その生態系を崩したんは私。


「あらっ、チカちゃんのボーイフレンドピアス空けてんの?」


潤くんの母親が唐揚げをつまみながら言う。


「そやねん。

耳だけやったらええけど、違うとこにも空いてるかもしれんで」


チカの母親が眉間にシワを寄せ、


「……あんな穴あき男、絶対認めんからなっ」


と父親が釘をさした。

「嫌やわぁ、お父さん。

こんな楽しい席でそんな顔して」


チカの母親がさりげなくフォローする。


「潤君はこんな素敵なガールフレンドが出来たんやもん。そら仕方ないわなぁ。


うちの子と比べたら月とすっぽんや」


チカはただ黙々とご飯を食べ、流れていく会話を聞き、ティッシュで口のはしを拭うと、コホッと咳をしてから、

「……私、もう別れたし」と切り出した。

「……マジで!?

おまえこないだ付き合ったばっかりちゃうんか」


言ったのは潤くん。


「……そうや、けど別れたし。

男と女なんてそんなもんやろ」


チカは言い、しれっと私を見た。


「……嘘つくんはようないって思ったしな」

「……嘘?あんた何言うてんの」


チカの母親が口をはさむ。


「やから、好きでもないのに付き合ったりすんのは人としてあかんやろ?だから別れた。

私は目の前におるこの女とは違うねん」


空気が完全に固まる。

チカの言葉に誘導されるように、全員が私を見ている気がした。


「……あんたそないに失礼なことを……。

ごめんね、潤君の彼女。それにみんなごめんやで。この子 最近おかしいねん」


「……いらん事ばっかり言うんやったら1人で家にいとけっ、アホが」

チカの父親も申し訳なさそうに私を見た。


「……いらん事……?そうかなぁ……。

私はそうは思えへん。

潤はこの女に騙されてるねん。

潤だけやない。おっちゃんもおばちゃんも、

この女がもうすぐ死ぬからって、同棲許したり家呼んだりおかしいんちゃう?

だってこの人、潤の事好きやないねんで?

自分が1人で死ぬん寂しいから、

潤を巻き添えにしてるだけやねん」


チカは無表情で言い、

チカの父親の顔色が変わる。

きっと娘を殴ろうとしているその肩を、

潤くんの父親が止めた。


「……春田、もうそこまでや。

親子喧嘩はまた帰ってからにしいや」


チカの父親が気分を害さないよう、笑顔で肩を叩き、グラスに焼酎をつぎ足すと、

「呑もや、春田」と言い、

潤君の父親がその場の空気を閉じ込めた。


「……っと、お袋、唐揚げのレモンないん?

さっき切ってたやん」


潤君のお兄さんが取り繕うように言い、お母さんがパチンと手を合わせた。


「……そうやった!

お兄ちゃんええ時に言うてくれたわ。

レモンかけんの忘れてた」


そう言い台所に消える。


私は隣に座る潤くんの顔を見れなかったし、

潤くんもまた私の顔を見なかった。


チカの父親と潤くんの父親は呑んでいる焼酎について語り、お兄さんはチカに大学の話をふる。

チカの母親は気まずそうに私と潤くんを見て、

「……こっちの家はええねぇ、南向きにベランダあるから。

うちは東向きやからもう日影やで」


などと誰に言うでもなく独り言を呟いた。



「はいはい、レモンレモン」


ただそれだけの事を潤くんの母親は大袈裟に言い、嬉しそうにレモンの入ったガラス小鉢を真ん中に置く。


「……これこれ、これが ないと」


お兄さんが言い、その指先に押し潰されたレモンが芳香を放つ。


先生、

苺はフルーツ違います。

檸檬がフルーツです。


そう言われた女教師は、困ったような顔を円形に並べられた椅子に向けた。


『ちゃうで、こいつ間違えてる。

苺がフルーツで檸檬は野菜や』


そう言うたんは確か……3組の宮田 シン。


『はいはい、もーみんなうるさい!

いつまでたってもフルーツバスケット出来へんやんか。

こら宮田くんも、す、わ、り、な、さ、いっ!』


教師が出席簿で教卓を叩く。

その音だけがやけに響いた。



「…………すいません、

コンタクトがずれて……洗面所どこですか……?」


中腰になると目を伏せた。


「……あ、ああ、潤ちゃん、洗面所の場所教えてあげて」

「……ん、ああ……こっち」


潤君が立ち上がり、台所の奥にある洗面所を

教えてくれる。


歯ブラシや大きなチューブ。

お父さんのポマードのような匂いと、お兄さんの整髪剤の匂い。

そこに私の居場所は無い気がした。


「……あ…ちょっと時間かかるし戻ってて」


洗面所の鏡に映る、物憂げな潤君に言う。


「…………だいじょうぶ……?」

「…………うん」

「……じゃあ……あっちで待ってる」


潤君は言い、ギシギシと音をたて廊下を遠ざかる。

襖の閉まる音がすると、ようやく肩の力を抜いた。


鏡の中の私は、まるで別人のようにこっちを見ている。

開けてしまった世界を見てきた目。


コンタクトなどずれてはいない。

私は何の作業も無く洗面所を後にすると、静かに迫田家から抜け出した。




どこをどう歩いたのかはあまり記憶にない。


とにかく携帯の電源を切った事だけは鮮明に覚えている。

駅に着いて、何かが追ってくるような恐怖感と共に電車を待ち、乗り込んでしまうと同時に力が抜けた。


がら空きの車内でハゲかけた座席シートに座り、

腕でよじれているブレスを直すと、いとも簡単それはほどける。


「……あらあらまあまあ大変ね」


たった1人、向かいのシートに座っていたおばあさんが、曲がった腰のまま拾い集めては私の手の平に載せてくれた。


「…………すいません……」


一緒に拾いながら、最後の【あおい】の部品に辿り着く。

頭を下げ、礼を言い、手の中に握りしめたパーツをハンカチで包むと電車が揺れ、気持ちも揺れた。


……なんて事をしてしまったのだろう。


人を殺した訳でもないのに震えが止まらない。


携帯の電源を入れればまたあの世界は動き出すだろう。


でも私はその世界のボーダーラインを越えてしまった。



おばあさんが心配げに私を見ている。


それほど顔色が悪いのだと思う。


こんな形でしか抜け出せなかった世界。

だがこれで終わった訳ではない世界。


マンションへは、当然足が向かなかった。

潤君はいない事は分かっているのに。


電車を乗り継ぎ、うんざりしながらもそこに向かう。


あの人はどうせわからないから。


私が何をして、どう生きているのかも知りはしないのだから。


でも今はそんな場所がきっと心地良い。


苔の生えた小さな門柱。

ここに来るのは引っ越して以来。

昼前でも日影だらけ。

ひんやりとしたドアノブをゆっくりと回す。


……生きてますか…?


懐かしい赤茶の玄関タイルを踏むと、息を肺の中一杯に吸った。


「…………誰ですか…………?」


ドアを開けるとその声は響く。

現れた声の主に驚くのは私の方だった。


「…………なんでここにおるん…………?」


そう訊くとリクは、ポケットに両手を突っ込んだまま肩を竦める。


「…………さあ。暇やから?」


滅多に使わない疑問形を投げ掛けて、

リクはゆっくりと壁にもたれた。


そのリクとの静けさを破るもの。


正体は分かりすぎるほど分かっている。


ここに来たくせに、足音が聞こえると後悔した。


「………………あ……あ……」

「……あーちゃんやで、おっちゃん……」


リクがさりげなくフォローすると、おっちゃんはこくこく頷いた。


「……お、お帰りやな。お帰りあーちゃん……

ずっと……ずっと……待っとったんやで……」


思いがけない言葉に目を見開く。


リクが私を見つめ、また肩を竦めた。


「……おっちゃん……私どこ行ってたかわかるん……?」



そう言うと、おっちゃんは私の手をギュッとつかんだ。


「……び、びょーきしてんやてなぁ……おっちゃん心配で心配で……。そやけどこの兄ちゃんがな、

大丈夫やって言うもんやから」


「……こいついつか帰ってくるって言うたやろ……?心配せんでええんやって」


リクの初めて見るような優しい顔。


おっちゃんはそんなリクに、神様に拝むみたいに手を合わせた。


興奮したおっちゃんをリクは手慣れた手つきで二階の寝室で寝かせる。


恐らく何度もここに来ていた事がわかる、

そんな仕種だった。


散らかし放題のはずのリビングも掃除が行き届き、おばちゃんが家出する前のような空気を放つ。


「…………片付けて……くれたん?」


ここで私は数えきれないくらい食事をした。

その懐かしいテーブルに、家人のようにリクが入れてくれた紅茶がある。


「……うん。

人間が暮らすレベルやなかったから」


向かい合わせにリクが座る。

そこはおばちゃんの指定席。

パッチワークの座蒲団がある椅子。


「…………なんで?」

「…………なんとなく。話し相手でもおったら、

少しはマシになるんちゃうかなぁって。

……でも最初はかなり拒否られた」


何があったかは知らない。

けど思い出すようにリクは笑みを浮かべた。


「……おばちゃんの事は……?」

「……それはまだ……待ってはる。

……けど最近買い物から旅行に変わったし」


私の知らない時間。

リクはここに来て、おっちゃんの頭を少しずつ

整理し、そして私の事を説明したのだ。


「…………そうなんや。

……びっくりした。おっちゃんも…リクも……」


似合う言葉か見つからない。

本来ならば私がするべきことだから……。


「……今日はあいつは……?」


恥じ入る私にリクは訊く。

訊かれた途端、閉じた世界が甦った。


「…………仲直りしいや」


私の顔を見て、推測したリクが言う。

丸テーブルの片隅には【バカ】と彫られた文字。


反抗期の私が、おばちゃん宛に彫った言葉。


「…………喧嘩……してへんし」

「……じゃあ何でそんな顔してんの?

言うとくけど俺は間に立てへんからな。

どうせしょーもない喧嘩やろ」


何も言えず黙る。



あの空間をリクにはうまく説明できない。


私がここを出た頃、枯れて死んだと思ってた植木が再生している。


私がここを出る頃、音の無かったこの部屋に音がある。

そのすべてが愛おしかった。



「…………リク…………」


呼ぶとリクが顔を上げる。

鳥のさえずりが聞こえて、鳥が来るような庭になったんやなぁと思う。


リクの目は酷く澄んでいる事、

それに初めから気づいていたのに、気づかないふりをしていた。


「…………ん……?」



仕立ての良いギンガムチェックのシャツの奥で、

リクの呼吸が上下する。


「…………大好きやよ」



私には分かっている。


きっと今のリクならもう、私を拒まない。
















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