第二十九話「腐ったバームクーヘンは食べたくない」

「うわぁ~、でかいねぇ」

 バカみたいに口を開けて上を見上げるすみれ。

「無駄に高いんだよね。エレベータ乗ってると耳痛くなるし」

 玲於奈は、実家に帰ってきたというのにあまり嬉しそうではない。

 今日は、玲於奈の父親、久慈來音くじらいねが住んでいる高層マンション、アーバンクロスタワーへとやってきた。地上六十階、地下三階の超高層マンションである。以前、玲於奈に聞いた時は、確か五八階と言っていたはずだ。ほぼほぼ最上階。東京の一等地の超高層マンションの最上階。バームクーヘンというのはそんなに儲かるものなのだろうか。いっその事、弁護士を辞めてバームクーヘン屋でも始めようか。

「バカと煙は云々って言うけど、実際は金持ちと煙は~だな」

 僕は少し皮肉を込めて呟く。言ったところで何にもならないのは分かっているが、無意識に言葉として発していた。

「なにそれ、玲於奈のパパがバカだって言ってんの?」

 すみれはマンションを見上げるのを止め、突っかかってくる。

「すみれ、お前は今日、玲於奈のとして遊びに来てるだけだからな」

 玲於奈のたっての希望もあり、すみれを一緒に連れてきた。これから玲於奈の父親とする話は、すみれに聞かせるような話しではないのだが、すみれ同伴が面会の条件ならやむを得ない。

「分かってるよ」

「余計な口は出すなよ」

「余計な口って例えば何? 友達同士の会話に余計もなにもないでしょ? 私もクリスも玲於奈の友達。何の問題もノープロブレムよ」

「ぷっ」

 玲於奈が思わず吹き出す。先ほどまでの暗さが消え、明るさを少しは取り戻したようだ。

「すみれとクリスっちって本当に仲いいよね」

「「そんなことない」」

 僕とすみれが同時に反論する。

「ほら」

 玲於奈は嬉しそうに笑う。

「そ、そんなことより、そろそろ時間じゃないのか? 早く行こう」

 僕は強引に話を断ち切るとマンションの中へ入っていった。


         §         §        §


「うわぁ、耳がぁ。こう、くぃんってなる」

 すみれは、高速度で上昇するエレベータに乗り、子どものようにはしゃいでいる。

 玄関のダブルオートロックを抜け、常駐しているらしいコンシェルジュの脇を通り、エレベータホール前の再度のオートロックを通過してようやくエレベータに乗り込んだ僕たち。今のマンションというのは、これほどセキュリティがしっかりとしているのが常識なのだろうか。それとも社長という仕事柄、セキュリティのしっかりとしたマンションを選んだのか分からないが、賃貸にしろ分譲にしろ、相当高いのは間違いない。

「うわぁ、ホテルみたい」

 エレベータを降りると、すみれではないが、そこはまるでホテルのようだった。おしゃれなランタンのような照明にカーペットが一面に敷かれた床、高級感のある木製の壁、ここが高級ホテルですと言われても信じてしまいそうな作りだった。

 玲於奈の案内で辿り着いた父親の部屋は、重厚感溢れる扉がでんと構えており、ますますもって高級ホテルだった。

 ピンポーン。

 玲於奈が少し躊躇った後、呼び鈴を押すとすぐに「はい」という男性の返事が聞こえた。

「私です」

 玲於奈が一言、そう答えるとインターホンはプツッと切れる。そしてしばらくすると扉がゆっくり開いた。

「玲於奈ぁぁぁ! 会いたかったぞ!」

 扉の向こうから出てきた男が玲於奈を抱きしめる。

「や、やめてって」

 玲於奈が男を押し退けようとするが、男はビクともしない。

「ちょっと……パパ……友達……がいる、のに……」

「おお! そうだった、そうだった」

 パパと呼ばれた男は、僕とすみれの方に近づくと僕たちの手を交互にとるとブンブンと振り回す。

「やぁ、キミたちが玲於奈の友達だね。玲於奈がいつもお世話になっている。会えて嬉しいよ。父の來音です。どうぞよろしく」

 予想外にまともだった。玲於奈の裁判の時、玲於奈から番号を教えてもらって連絡した際には「任せる」の一言で電話を切られてしまった上に、新興企業の社長というからどんな人かと思っていたが、至極真っ当そうな人だ。

「立ち話もなんだから、まぁまぁまぁ」

 と玲於奈の父親に背中を押され、部屋へと入る。入ってすぐの大理石の床の玄関にも驚いたが、一番驚いたのは部屋からの眺望だった。周辺すぐにこの建物以外の超高層ビルがなく、視界を遮るものがない。遠く東京湾に架かったレインボーブリッジまで見渡せる。

「うっわぁ~、すっごぉい」

 すみれがその眺めを見て驚きの声を上げる。

「はは、玲於奈の友達にそんなに喜んで貰えるなんて嬉しいよ」

 玲於奈の父親は、冷蔵庫から飲み物を取り出しながら応える。

「いいなぁ、玲於奈。こんな家があって。ここからだと世界の全てが見えちゃいそう。私んじゃ窓から見えるのは隣の家のオバサンの昼寝姿位だよ」

「ハハハ、それはいい」

 玲於奈の父親は、玲於奈、すみれ、僕の順に飲み物を手渡す。

「これは玲於奈が子供の頃から大好きなジュースでね。いつ来てもいいように冷蔵庫に常備しているんだよ」

 嬉しそうに話す玲於奈の父親。余程娘の事が可愛いと見える。

 対照的に玲於奈は恥ずかしそうに俯いている。玲於奈があまり乗り気でなかったのは、父親の溺愛ぶりがすごいからだろうか。

「それからこれは……」

「もういい加減にして」

 玲於奈の父親が今度は別の何かを自慢しようとした時、玲於奈が切れた。

「す、すまん」

「今日はそんなこと聞きに来たんじゃないの。クリスっちがパパに用があるから来たんだから」

「クリスっちって、お前、まさか、彼氏なんて言わないよな……、冗談だろ……」

「ちが――」

「用があるってまさか、結婚の……。俺は認めないぞ。絶対に認めないぞ」

 玲於奈の父親は頭を掻きむしり、上下左右に身体を悶えさせる。

「違うって言ってるでしょ!」

「違うのか!?」

 ほっと胸をなでおろす玲於奈の父親。

「クリスっちは同級生! すみれちゃんもクリスっちも同じ学校なの!」

「そうでしたか、玲於奈も転向したばかりで友達ができるか不安でしたが、良かった良かった。ぜひ仲良くしてやってください」

「それにクリスっちはなの。私を無罪にしてくれた三ヶ月クリス弁護士!」

「え!? あなたが玲於奈の命の恩人ですか。その節は本当にありがとうございました。なんとお礼を申し上げたら良いか」

「命の恩人だなんて。大げさですよ」

「いやいや、あなたがいなければ玲於奈は今頃刑務所にいたかもしれないと思うとゾッとしますよ。玲於奈が捕まっていたと連絡を受けた時はすぐにでも会いに行きたかったのですが、生憎ニューヨーク出張で……。秘書がどうしても帰国を認めてくれなかったので……。父親として恥ずかしい」

「ニューヨーク? あの時電話に出られたのは久慈さんではなかったのですか?」

「電話? 何のことでしょうか。私は秘書から玲於奈が誤って逮捕されたが、無事無罪になったという連絡をもらっただけですが……?」

 すると僕が電話で会話したのは秘書ということだろうか。玲於奈の父親が嘘を言っているようには見えないし、今さらあれが誰だったのかを詮索したところで無意味だ。

 いずれにせよ、ここまで娘を溺愛しているのならば、娘の頼みであれば今回のお願いも協力してくれるだろう。そう考えた僕は話を切り出す。

「ところで、久慈さん、アスブライトという企業をご存知ですか?」

 玲於奈の父親の顔つきが変わる。娘にデレデレとしていた顔が一変、企業代表者としての顔になった。

「アスブライトという投資会社なのですが……」

「存じております。私の会社にも出資をして頂いています。その会社がどうかしましたか?」

「その会社に関して、ご存知のことがあれば検察とお話をしていただけないかと思いまして」

 玲於奈の父親はそれを聞いて少し黙りこむ。

「失礼ですが、三ヶ月でしたよね?」

「はい」

「なぜ弁護士の先生が検察のお話を持ってこられるのでしょうか?」

 さすがに企業の社長をしているだけあって鋭い。すみれを誤魔化すように簡単にはいかないようだ。

「実は、今、私、とある土地の立ち退きに関する事件を受任しておりまして、それにアスブライトが関係している可能性があります」

「それで、私に協力して欲しいと?」

「はい」

「それは難しいですね」

「難しい?」

「検察という事は刑事事件でしょう? アスブライトさんは私の会社の出資者ではあるが、それ以上でもそれ以下でもありませんのでお話できる事はないと思いますよ。それに私は、玲於奈が無罪になったとはいえ、無実の罪で逮捕された上に裁判までかけられたことに憤っています。出資者でもあるアスブライトを逮捕するためのでっち上げに協力するつもりはありません」

 そう言われればその通りであると僕は思った。いくら無罪になったとは言え、逮捕されて起訴までされたという事実は消えない。だが京姫たちのためにも簡単に引き下がる訳にはいかない。

「お気持ちは察しますが、これは久慈さんやレオーネのためにもなると思います」

「どういうことでしょうか?」

「とある筋から聞いた話ですが、アスブライトという会社は投資先企業をするのが得意らしいですね」

「…………」

「しかし、そのを快く思わない経営者も多いとか。久慈さんもそのお一人ではないでしょうか?」

「何の話か分かりませんね。私は先生ほど頭が良くないもので、もう少し分かりやすくお話頂けると助かるのですが」

「レオーネの決算公告を見ました」

 平静を保ってきた玲於奈の父親が一瞬眉をピクリとさせたのを僕は見逃さなかった。

「それがどうかしましたか?」

「過去の公告と比べて、売上も利益も右肩上がり、順調そうですね」

「おかげ様で」

「ただ点もいくつかありました」

「………」

「一つ目は、直近の決算では固定資産、中でも土地の科目の金額が異常に増えていたことです」

「ここ数年で人気が急騰したもので、急遽出店したせいじゃないですか?」

「ホームページを見た限り、出店の多くはデパートなどの商業施設内でした。自ら土地を買ってまで出店しているのですか? それに土地と比べて建物の科目の金額の増加率は低いようですが?」

「…………」

「もう一つは、固定負債の急減と流動負債の急増・急減です。去年までは土地の金額が増加するのに合わせて固定負債急増していました。これは土地取得費用を長期で借りていたためでしょう。しかし、去年の公告を見るとその固定負債がほとんどなくなり、代わりにそれ以上の流動負債が突如現れてきている。これはどういうわけでしょうか?」

「そ、それは、金利動向を鑑みて借り換えを含めた、資金調達方法の多様化を図った結果であって……」

「転換社債が多様化の手段ですか?」

「な、なぜそれを!?」

「決算公告の数字の変化から読み取った可能性の一つです。それまでは固定負債が増加していたのに急にその固定負債が消え、流動負債が増加。翌年の決算公告では、流動負債が急減し、純資産が同じくらい増加していた」

「それで社債が株式に転換されたと分かったわけですね」

「元々の資本額と増加した額を比べる限り、あなたの置かれている現状も理解しているつもりです」

 正確な数字は分からないが、負債が株式に転換されたせいで創業者社長である久慈來音の持ち株比率は低下し、アスブライトの持ち株比率は急増している。すなわちアスブライトのレオーネの会社運営に対する発言力が増しているというわけだ。もし玲於奈の父親がアスブライトと敵対するような態度を見せれば、アスブライトから役員が次々と送り込まれ、社長を解任されてしまうだろう。

「そうですか、そこまで把握されているのですか。それならば私があなたに協力できない理由も理解されているでしょう……」

「えぇ、まぁ」

「私は、レオーネを潰す訳にはいかないんです。らいおんばぁむを守らなければならない」

「らいおんばぁむにこだわっていらっしゃるのはもしかして、あの話は本当なのですか?」

 僕はふと気になり訪ねてみる。アスブライトとレオーネの関係を探るのに調べていた時に見つけた一つのブログ記事。まだレオーネができたばかりの個人商店だったころ、バームクーヘンのパッケージには一つ小さな手紙が付いていたらしい。その手紙にはらいおんばぁむの由来や誕生秘話が書かれていた。そのブログによると、らいおんばぁむというのは店主である久慈來音らいねの名前が読み方を変えると來音らいおんになることと娘の玲於奈のレオはラテン語でライオンを意味するところから来ているらしい。そしてこのバームクーヘンが誕生したのは、玲於奈の笑顔がきっかけだった。玲於奈は、母親を早くに亡くして以来、ずっと笑顔を失っていた。どうにかして玲於奈に笑顔を取り戻そうと父親が必死に遊園地に連れて行ったり、欲しがっていたおもちゃを買い与えたりと試行錯誤を繰り返したうまくいくことはなかった。しかしある時、玲於奈の母親が残したお菓子のレシピ集を見つけ、その中のバームクーヘンを作ったところ、「お母さんの味」と言って笑顔になったことから、娘を、そして多くの子どもたちを笑顔にしたいとらいおんばぁむを作って売るようになった。と書かれていた。

「えぇ、その通りです。私はらいおんばぁむを失う訳にはいかないんです。たとえどんなことをしたとしても、玲於奈の、そして子どもたちの笑顔を失わないために……」

「それは違うよ!」

 今まで大人しくしていたすみれが突如会話に入ってくる。

「……違う?」

「らいおんばぁむは、美味しいし、私も好きだし毎日食べても飽きないけど。けど、らいおんばぁむを守るために他の人が傷つくなら私は嬉しくないし、そんな腐ったバームクーヘンは食べたくないよ!」

「……そう…ですか」

 玲於奈の父親は悲しそうにつぶやいた。

 と、その時、それまで黙っていた玲於奈が、口を開く。

「ねぇ、本当なの?」

「それは……」

「私、自分のせいでこれ以上人が傷つくのはもう嫌だよ」

「…………」

「それに傷つけているのに、それを知らないなんてもっと嫌。本当のことを教えてよ。ねぇパパ」

「……会社のことは、玲於奈は知らなくていいんだよ」

「いっつもそればっかり! 私だってパパの役に立ちたいのに……」

「玲於奈は自分のことだけを考えていればいいんだ。会社は私がなんとかする。玲於奈には関係ないことだ」

「久慈さん、お言葉ですが、玲於奈さんに関係ない話ではありません」

「クリスっち!」

 玲於奈が静止しようと大きな声を上げる。

「玲於奈、これは言わなければダメだよ。このままじゃお互いに不幸だ。別に玲於奈に恨みがあって告げ口をするのでも、弁護士として説明するのでもない。友達として、玲於奈のためを思って言わせてもらう」

「…………」

「関係ない話ではない、というのはどういうことでしょうか?」

「玲於奈はアスブライトに脅されていました」

 玲於奈がアスブライトに脅されて神社を探っていたこと、そのせいで事件に巻き込まれたこと、その後も僕のスパイまでやらされていたこと。できるだけ玲於奈が悪者にならないように注意しながら説明した。

「本当なのか?」

 玲於奈の父親は、困惑と怒りの入り混じった声で尋ねる。

「…………うん」

「アスブライトの奴ら、そんなことを……! 許せん!」

 玲於奈の父親は頭の血管が切れるのではないかと思うほど怒りを露わにする。

「久慈さん、協力のお願いを取り下げさせてもらってもいいでしょうか?」

「なぜです? 私は怒りました。アスブライトの奴らは許せません。協力しますよ」

「やっぱり、それじゃあダメだと思うんですよ」

「どういうことでしょう?」

「久慈さんにあって考えが変わりました。娘を笑顔にしたいというのはこれ以上ない動機だと思います。家族を幸せにできない人間が他人を幸せにできるはずがありません。そんな気持ちを食い物にしようとするアスブライトは潰さなければダメだと思います」

「そんなことできるのでしょうか?」

「分かりません。ですが、私はできると信じています。一人では無理ですが、久慈さんや玲於奈さん、それに検察官の知人がいれば――」

 すみれが無言で、自分を指差し「私を忘れてる」と言わんばかりにアピールしてくるのが視界に入った。

「――ついでにすみれもいれば何とかなるかもしれません。だから、協力ではなく、一緒に闘ってくれませんか?」

「……分かりました」

 覚悟を決めたように玲於奈の父親が返答する。

「分かったよ!」

「任せといて!」

 玲於奈もすみれも躊躇なく答えた。

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