逆転のこうべん
第十二条「非日常の中の日常」
無罪を勝ち取った裁判から三日経った。
あの日、僕は運が向いてきたと感じたが、どうやら勘違いだったようだ。
裁判の翌日、自宅では新聞を取っていないのでわざわざ近くのコンビニまで朝読新聞を買いに行った。もちろん僕の事が載っている記事を探すためだ。
一面…………にはもちろんなかった。
社会面…………にもない。
経済面、な訳はなかった。
改めて全ての紙面を文字通り隅から隅まで調べてみるが……ない。どこにもないのである。
一体どういうことなのか。
甘糟記者に電話することも考えた。
名刺は交換していたので電話番号は分かる。しかし、電話していいものだろうか、お金を払って載せてもらうわけではない。それに、新聞紙面の都合もあるだろう。
紙面?
紙面の問題でインターネット版での掲載かとも思って調べてみたが、やはりなかった。
しかし、インターネット上で新聞記事を探していて気がついたのだが、合同通信社だけでなく、どこの新聞にも記事がないのである。
合同通信社以外には取材を受けていないので僕のコメントが載った記事がないのは当然だが、有罪率九九パーセントの日本において無罪判決が出ればニュースになってもおかしくないのに、どこにもその記事はない。ただの無罪判決ならば他の事件に隠れて載らなかったということがあったとしても、今回は強盗傷害という重大事件の、しかも裁判員裁判である。さらに被害者が真犯人だったというマスコミが飛びつきそうな特上のおまけ付きであるにも関わらず。
もしや、翌日ということを期待して翌日は、図書館に行って新聞を読んでみた
が、記事は見当たらない。もちろんインターネット版にもなかった。期待していた新聞記事も掲載されず、
そもそも、事務員もおらず、お客が多く訪れるような状態になったら、高校に通えなくなってしまうので、それはそれで困るのだが、そんな心配をするまでも無かったようだ。
そんなこんなで相変わらず仕事がないため、高校生らしく学校へ登校する。
いつも通りの電車、いつも通りの通学路、そしていつも通りの学校。
今までと何の変化も無かった。無罪を勝ち取った後は、高校にも通えないくらい忙しいバラ色の弁護士人生を夢見ていたが、その夢は、
「おはよー」
クラスに入ると女の子が話しかけてくる。
「ねぇねぇ、どうだった?」
「どうだったって何が?」
「何って、この間テスト中に早退したのって裁判行くからだったんでしょ?」
「あぁ……」
「あぁ……って何よ。どうせ負けたんでしょ。あんた弱そうだし」
「ま、負けるわけねーじゃん。勝ったに決まってるだろ」
「嘘くさっ! まぁいいわ、信じといてあげる」
そういうと立ち去っていく。
「おい、お前信じてないだろ」
一応反論するが、きっと声は届いてないだろう。
女の名前は、古井戸(こいと)すみれ。僕の幼馴染で幼稚園からずっと一緒の学校だ。
名前だけ見ればおしとやかな可愛らしい女の子といった感じだが、実際は今見たように言葉遣いは悪く、男以上に粗暴な性格だ。いつからこんな事になってしまったのか……昔はこんなはずじゃなかったのだが……。
いつの間に始業のチャイムがなったのか、担任の教師が入ってくる。
「みんな座れー。ホームルーム始めるぞ」
クラス中に散っていた生徒が一斉に自分の席へと移動する。
「えーっと、みんなも知っていると思うが、最近いじめが全国的に問題になってる。うちのクラスは平和だから、そんなことはないと思うが、いじめはしないように。もし、いじめがあったら、先生でも他のクラスの先生でもいいので相談するように、以上。先生は用事があるから行くけど、お前ら大人しくしてろよ。他の先生に怒られるからな。俺が」
先生は、ホームルームをあっさりと切り上げると
よくあれで教師が務まるものだ。むしろ、あんな感じだから今まで教師を続けてこられたのかもしれない。
ホームルームから予定よりも早く解放された生徒たちは、まるでホームルーム開始時を逆再生したように元いた場所へと散り散りになっていく。
クラスを見渡すと、どこの学校にでもあるように生徒たちはいくつかのグループに分かれる。
スポーツができるグループ、勉強ができる優等生グループ、どちらもぼちぼちな普通グループ、それに一人で本を読んでいたり、机に突っ伏しているぼっちグループ。
どうやら僕は、そのぼっちグループに属してしまっているようだ。
僕は、中学三年生の時に司法試験に合格し、その翌年の四月、本来であれば高校に入学して通い始めたはずの四月から一年四ヶ月間司法修習に行っていた。つまり、一年生の時はほとんど学校に通わず、二年生になった今年の夏休みが終わって初めてクラスに加わったのだ。僕がいない間に当然、クラスのグループが決まってしまっていてその当然の帰結として僕はぼっちになってしまったのだ。始めのうちこそ話しかけてくれる人もいたが、勉強ばかりしてきたせいでテレビ番組や流行の音楽などの高校生らしい話題についていけず、次第に孤立していくようになった。
ぼっちというのは、響きは悪いが、なってみるとそれほど悪いものではない。
最初こそ困惑したが、慣れてみると煩わしい人間関係に
それにしても、みんなは同じ人と毎日毎日一体何を話しているのだろうか。ほぼ毎日顔を合わせているのによく話題が尽きないものだと感心する。
「ほらー、座れー、もう始業のベルなったぞ」
いつの間にチャイムが鳴ったのだろうか、一限の教科を担当する先生が入ってきた。
慌てて鞄から新品同様の教科書を取り出す。考えてみれば、教科書は入学と進級の際に買わされたが、買って以来、一回も開いてすらいない。
勉強に関しては、約一年半の遅れはあるが全く問題なかった。僕が受験した時の司法試験、いわゆる旧司法試験は大学に二年以上在籍して一定単位を取得した者以外は、一次試験という教養試験を受けて合格しなければ、一般的に司法試験と呼ばれる二次試験を受けることはできなかった。
この一次試験は、人文科学、社会科学、自然科学、外国語から出題され、大学二年修了レベルがあるかを測る試験なので難易度も相当高い。そのため、その試験を突破した僕にとっては、高校の授業なんて受けなくとも期末試験で高得点を取ることなど造作ないことだった。
それにしても暇だ……。
先生が
あまりに暇すぎるので一冊の雑誌を取り出す。
『月刊ロイヤー』
毎月発行されている法曹関係者向け雑誌で法改正や法律書の新刊、最近出た重要判例を解説している雑誌だ。弁護士として最新情報には目を通しておかなければいけないので通年購読しているが、その費用も馬鹿にならない。大体、法律書ってのは全体的に高すぎる……。
不満がふつふつと募るのを感じながら読み進める。改正著作権法の施行。租税特別措置法の一部改正のあらまし。弁護士の自分でもこういった分野はハッキリ言って全くわからない。
弁護士ならすべての法律を知っていると思ったら大間違いだ。胸を張って言えることではないのだが、著作権や特許などの知的財産関係や税法などは専門知識のある弁護士でないと取り扱いが非情に難しいのだ。しかし、難しいからこそ弁護士が儲かる分野でもある。いっそのこと、そういった分野を勉強し直してみようか……。
新刊の欄に目を移すと有名弁護士や著名な教授が書いた本が並んでいる。その中でもひときわ目を引くのが『弁護士のための憲法人権訴訟』。著者は、人権派の
最新の判例は……っと。スマートフォン特許訴訟判決――他に特に目新しいものはない。特許訴訟なんて見たって事務所さえない僕には関係のない話なのでスルーする。
ったく、最新判例とかいって
あぁ、空がキレイだ……。
…………
…………
「…ス、クリスったら!」
僕の名を呼ぶ声が聞こえて目が覚める。どうやら空を見ながら寝てしまったらしい。顔を上げると目の前にはすみれが立っている。
「あんたいつまで寝てんのよ。もうお昼よ」
「あ……あぁ。お昼か」
いつの間にかお昼休みになっている。退屈な授業時間は無事に過ぎ去ったようだ。周りは既に各々弁当を開いたり、学食にお昼を食べに行ったりしている。
学食にでも行くか。先ほどまで読んでいた雑誌を鞄にしまう……。
「何だこれは?」
「どうしたの?」
「いや、何か入れた覚えのないものがカバンに入ってて……」
鞄から謎の包みを取り出す。包みを持ち上げるとひらりと一枚の紙が舞い落ちる。
「何これ」
すみれが落ちた紙を拾い上げる。
「クリスへ。私の愛情弁当食べてね……はぁと……PS.あい、らぶ、ゆー!?」
すみれは、紙をわざわざ声に出して読み上げる。紙を持つ手がワナワナと震えている。
「い、い、一体何なのよ!? え!? あいらぶゆう? ふざけてんじゃないわよ。日本人なら日本語で書けってんのよ。そもそも、誰よ。これ誰よ。これは一体誰なのよ。え? え? 聞いてんの。答えないさいよ」
教室中に響き渡る大声でマシンガンのごとくまくし立てる。しまいには、僕の机を両手で叩きだす。
「は? へ? ほ?」
突然の口撃に、なぜ自分が責められているのかすら分からないまま意味不明な言葉を口走る。
「だーかーらー、一体誰なのよ、この女は!」
僕の目の前に手紙を突き出し、手紙の最後に書かれた名前をパシパシと指で叩いて音をさせながら問い詰めてくる。圧倒的な存在感、そして恐怖に驚愕。周りを見る余裕はないが、きっとクラス中がこちらに視線を送っているに違いない。
「えっと、その、一体何なのか分から……っえ?」
改めて手紙を見返すと犯人はご丁寧にも自分の名前を書き残していた。「弥生」。これが犯人の名前だった。
「やっぱり知ってるんじゃない! 誰なのよ」
「なんだ。ビックリさせるなよ。こいつならお前も知ってるだろ」
手紙の名前を指さしながら答える。
「知るわけ無いでしょ。この変態」
「変態って何だよ……はあ、弥生って姉さんの名前だから」
「は? お姉さまは、やよいさん……ってまさか、これってやよいって読むの!?」
「お前ってさ、実は馬鹿でしょ」
「……ばかぁ!」
パチンという音とともに左頬に痛みが走る。
理不尽だ。僕が一体何をしたというのだ。一言言ってやろうにもすみれはどこかへ走り去ってしまっている。
僕に強く突き刺さる周囲の好奇の目に耐えかね包を持って教室を立ち去る。
小走りで廊下を走り抜ける。夢中でクラスの同級生の目が届かない場所まで走り、たどり着いたのは音楽室など普段あまり使われない教室が集まっている場所だった。その教室群の一番奥にそれらの中では比較的小さな『準備室』という部屋があった。『準備室』という名称ながら、どこの教室とも内部で繋がっておらず何に使われているのか分からない部屋である。この部屋ならばほとんど使われていないし、誰も来なくて丁度いいと考え扉に手を掛けるが、案の定鍵がかかっている。
「そんなに都合よく扉が開いているわけないよな」
諦めて違う場所を探そうかと思い元来た道を戻るため、振り返ると部屋の壁の下に小さなドアのようなものがついている。ダメ元で手をかけてみると見事に横へとスライドした。なんてラッキーなんだ。
人一人がなんとか通れる程度の隙間が開いたドアを這いつくばって通り抜け、部屋へと侵入する。部屋に入ると、壁にくっつくようにしてダンボールの入った棚が並んでおり、部屋の奥に見える窓の下には使用されていない机とイスが積まれている。部屋の中央部分には、人が通れるようにだろうか、何も置かれていないスペースがあるのをいいことに、積まれた机とイスを一つずつ引きずり出すとその中央部へと配置する。そして、イスに腰掛けると先ほど無意識に掴んできた包の中身を確認するために開いてみる。そこには予想通り、弁当箱が現れる。二段になっている弁当箱には今流行りのゆるかわいいネコのキャラクターが所狭しと描かれている。蓋を開けてみると中にはおかずがギッシリと詰まっている。からあげ、ハンバーグ、豚肉のしょうが焼き、肉団子に卵焼き。定番の品ばかりでそれぞれの見た目は悪くない。しかし、この組み合わせはないだろう。肉、肉、肉。栄養の『え』の字もなければ彩りの『い』の字もない。ほぼ茶色一色のおかずにやや閉口しつつも弁当箱の二段目を開ける。薄焼き卵、ところどころ穴が開いているが、その下には具の入っていないケチャップご飯がこれでもかと詰まったオムライスだ。おかずもそうだが、姉に野菜を入れるという概念はなかったのだろうか。薄焼き卵の上には赤い液体がベチョっとかかっている。きっとこの前みたいにハートでも書いてあったのだろうが、箱いっぱいに詰めすぎたせいで上蓋と卵がくっついてしまい、卵にケチャップで描いたハートと思われるものは原型をとどめていない。
「ったく。またこんなの描いて……。教室で開けてたらどんな悲惨な事態に陥っていたと思ってるんだ」
苛立ちを覚えながら卵焼きに箸を突き刺し口へと運ぶ。鬱憤を晴らすかの如く卵焼きを思いきり噛み締める。
痛っ。
卵焼きを噛んだ瞬間に顎に痛みが走る。すみれに平手打ちを食らったせいだろう。すみれの平手打ちは、頬に痛みを残すだけでは物足りず、首ごと持って行こうかという様な見事なものだった。叩かれた直後は全体的な痛みで分からなかったが、どうやら顎にも見事に入っていたようである。
顎の痛さと空腹のどちらの苦痛に苦しむか一瞬迷うが、顎の痛みの方を取る。
できる限り顎が痛まないように気を使いながら一口一口ゆっくりと噛み締める。一口噛むと中からトロっと半熟の卵が溢れでてくる。さらに、ほんのりとしたどこか懐かしいような甘みと醤油の塩気が絶妙にマッチする。からあげも揚げたてとは違い、しんなりしているが、肉は冷えても柔らかく塩味が効いている、これが噂の塩麹ってやつの威力だろうか。ハンバーグも弁当用に小さめながらジューシだ。しょうが焼きもしっかりとしょうがが効いている。オムライスは昨日のとは違い薄焼き卵ではあるが、ご飯にもしっかりと味がついている。いつの間にか顎の痛みを忘れ、見事に完食していた。それほどの美味だ。昨日の料理は、まぐれではなかったようだ。まぐれで料理が上手く作れるとは思っていなかったが。
弁当を瞬く間に胃袋へ消し去ると口中に残る余韻を楽しみつつ薄暗い天井を見上げる。
お昼は食べ終わったが、午後の授業までは時間がある。どこかに行く当てもないが、教室に帰るわけにも行かない。仕方なく、この部屋を見て回るとダンボールやら昔の教科書やらが乱雑に棚に突っ込まれている。この部屋は『準備室』という名の物置のようだった。小さい部屋なのですぐに全て見終わると再びイスに座る。そのまま机に突っ伏すと食後の眠気に誘われ、夢の世界へ旅立ってしまった。
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