第八条「記憶」

『面会室』と書かれた部屋で七篠を待つ。七篠は、病院で検査を受けた後、元いた留置場へ戻されたらしい。

 それにしても遅い。僕が面会室に入ってから十分は経っている。

 嫌がらせだろうか――きっと嫌がらせだろう。

 刑事が僕をここへ案内する道すがら「くそっ、最近のガキは口ばっかり……」と小声でぼやいたのを聞き漏らさなかった。

 いい大人が子どもに言い負かされたら、嫌がらせの一つや二つ、したくなるのも分からなくはない。

 しばらくしてようやく七篠が入ってくる。昨日の裁判時よりも精力を失ったように見える。検察の報告によれば問題ないとのことだが、病的な顔を見る限りは大丈夫そうに見えない。

「七篠さん。大丈夫ですか?」

「……」

「七篠さん!? その……大丈夫ですか?」

「……誰ですか?」

「弁護士の三ヶ月です。記憶が戻ったと聞いていたのですが」

「いえ……そのっていうのは誰ですか?」

 そういわれて七篠三郎は本名が分からないから仮につけた名前だったことを思い出す。

「失礼。では、その……あなたのお名前は?」

久慈玲於奈くじれおなです」

 す、すごい名前だ……。漢字で書けない自信がある。

「祖父が名付けてくれたんです。ノーベル賞をとった人にちなんで付けてくれたそうです」

「おいくつですか?」

「十七歳です」

「十七歳!? 高校生?」

「はい……一応……」

「住所は覚えてますか?」

「東京都渋谷区渋谷-――です」

 かなり良いところに住んでいるようだ。

「ご両親も心配してると思うから、連絡しておくから心配しないでください」

「心配は……していないと思います。気が付いてもいないと思います」

「どういうこと?」

「一人暮らししてるから……」

 高校生で一人暮らし、しかも都内の一等地。何やら家族関係にも問題がありそうだが、そちらは僕の仕事ではない。

「そっか。でも君は未成年だし、ご両親には一応連絡しなきゃいけないんだけど、ご両親の電話番号と住所、あと名前も教えてもらえるかな?」

「……分かりました。名前は久慈來音くじらいねです。住所は、東京都中央区銀座-――アーバンクロスタワー五八〇一号室です。電話番号は、――です。」

 住所と電話番号をメモする。

 五八〇一って、五階の八〇一号室な訳ないよな……。五八階ってことだよな……。

 久慈玲於奈の話からすると実家は相当の金持ちかも知れない。

 しかし、それ以上に気になったのは父親の名前だった。どこかで聞いたことのある名だったが思い出せなかった。

「分かった。今までの反応だと記憶はちゃんと戻ってるみたいだね。よかった」

「はい……」

「けど、何で君はあんな場所にあんな遅い時間にいたの?」

「……その……おじいちゃんが病気で入院していて……あの公園の奥にある神社に撫でると病気が良くなるっていう牛がいると聞いたので……それで……」

 何と良い子なのだろうか。おじいちゃんのためにあんな夜中に神社に来るなんて。

「そうですか。おじいさんの容体についても聞いておきますので安心して下さい」

「はあ……ありがとうございます」

 久慈玲於奈は、どことなく嬉しくなさそうな表情をみせる。

「ところで事件のことについて何か思い出したことはありませんか?」

「やってないんです!」

「わかりました。落ち着いてください。でも、あなたは強盗が行われたとされる現場で倒れていたそうですね。なぜ、あなたはそこにいたのでしょう?」

「あそこで急に背後から襲われて……それでバッグを盗られそうになって……バッグから手を離さなかったら殴られて……」

 予想外の答えが帰ってきた。

 信じ難いが内容ではあるが、久慈が犯人でないとすれば一番筋の通る説明であった。

 物証であるバッグに久慈の指紋が付いていた点、久慈が一円も持っていなかった点、バッグが元々久慈の物だとすれば全て理由がつく。

 唯一の矛盾点になり得た目撃者も昨日、雅から聞いた話では、暗くて犯人も被害者も顔が見えなかったというから、被害者が久慈であったとすれば問題はない。

 では、あのの安田は一体何者なのだろうか。

「君が被害者だとするならば、君は犯人の顔を見たのかい?」

「見た。……けど、見たことない顔の人だった」

 ふと、思い出し鞄から証拠書類の入った袋を取り出す。袋の中に入った写真を一枚取り出すと僕と久慈を隔てる透明な仕切り版に押し付ける。

「この人か!?」

 その写真は、暴行の証拠として提出されたの顔の傷害状況を写した写真だった。

「こ、この人です。顔に傷はなかったけど、この人に間違い無いです」

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