第四条「アンラッキーとラッキー」

 ここはどこだ?

 目を開けるとぼんやりとしているが、ふすまのようなものが横向きについている。

 否。僕が横になっているようだ。

「イタタタ……」

 意識が次第にハッキリとしてくるにつれ、後頭部が痛み出す。

 その痛みとともに、参拝中に背後から急に何か固いもので殴られたのを記憶が戻ってくる。

 起き上がろうにも、頭が何かに固定されているような感覚で身体に力が入らない。固定されていると言ってもヘッドバンドで無理やり固定されているような嫌な感じではなく、温かくて優しく包まれるような気持ちよさがある。

 頭部に傷がないか確かめるため右手を伸ばすと何もあるはずのない空中で柔らかいものに触れる。

「ん?」

 経験したことのある感触。

 柔らかくそれでいて反発力があり揉み心地がよい。

 それほど遠くない昔、いや、つい最近の出来事だった気がする。

 この柔らかい物体の正体を確かめるために再度揉んでみる。すると、

「キ、キャァァァァァ」

 という悲鳴がしたかと思うと、何かに背中を押される感触とともに目の前がグルグルとまわり出す。

「なんだ!?」

 回転が止まると、目の前には先程見えていたふすまがあった。

 何とかして立ち上がり、横になっていた場所を見るとそこには黒髪の女の子が正座していた。

 スラリとした細い太もも、どうやら気持ちよさの正体は、彼女の太ももだったようだ。

「ご、ご、ご、ごめんなさい。ウトウトしていたら急に胸を触られたからビックリして……」

 先に女の子が口を開く。

 背中の方まで伸びた長髪は、身体に隠れ見えないが、一部が肩から胸へと流れている。その髪の先には、はだけたパジャマのスキマから豊満な胸が見え隠れする。

 それをみて先ほどの柔らかい物体の正体が判明する――彼女の胸だったようだ。

「い、いや、いやいや。こ、こ、こちらこそ何かよく分からないけど……ごめんなさい」

 本日二回目の胸タッチ。それに加えて膝枕まで。何とツイている日だろうか。

「ところで、ここはどこですか?」

「わ、わ、私の自宅です。ここは一階で神社の社務所になっています。あの、その、拝殿はいでん前で倒れられたのでとりあえずこちらに運んだのです」

「そうだっ!」

 そう言えば頭を殴られたんだった。後頭部に手をやると多少切れているようだが、直ちに影響はなさそうである。

「ふぁっい!?」

「神社で誰か見なかったかい? 後ろから突然殴られたんだ」

「…………」

「どうしたの?」

「ご、ごめんなさい……そ、それ私です」

「へ?」

「に、二階の私の部屋から賽銭箱さいせんばこのぞきこむ人影が見えたので、泥棒かと思って……その……べ、べ、弁護士さんだとは思わなかったので……」

 どうやら彼女に賽銭泥棒と間違えられて殴られたらしい。

「ん?」

 ふと一つの疑問が頭をよぎる。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

「いや怒っているわけじゃないんだけど……」

「そ、そうなんです?」

 潤んだ上目遣いですがるように見てくる。これは反則だ。逆に僕の方がドギマギしてしまう。

「な、何で僕が弁護士だと知ってるの?」

「あ、あの今日の朝、さ、裁判所で名刺を頂いた――」

「え? あっ……、あの時の!?」

 頭の中を様々な情報が駆け巡る。そして出された答えは、今、目の前にいえる女の子は、今朝、裁判所の入り口でたまたまぶつかった女の子と同一人物のようだ、というものだった。

 今朝は、黒いスーツを着ていて、薄化粧でもしていたのか、化粧を落とした今の顔とは少し印象が違う。しかも、着痩せするタイプなのか、あの時は今ほど胸があるようには見えなかった。

「だ、だ、大丈夫……ですか? 頭」

「大したことはないよ」

 まだズキズキはするが犯人と原因が分かった今、傷害罪で告訴してやるという気持ちはどこかへ消え失せていた。それだけでなく彼女の胸を触れるなら殴られても――どこか新たな扉が開いた気がした。

「そ、その、な、何でこんな時間にうちの神社に……?」

「実は、ある事件の裁判を担当しているんだけどその事件の現場がこの近く――」

 そこまで言いかけた時にひらめく。

 現場の近くの神社の子ならば何かを知っているかもしれない。

「――近くでひったくり事件があったんだけど、何か知らないかい?」

「…………」

 無言の彼女。しかし、明らかに動揺をしている。まだ弁護士になりたての自分に長年培ってきたものはないが、少ないながら弁護士としての経験がそう告げてくる。

「知らなければいいんだけど……」

 彼女はどう見ても気弱で突発的な物事への対処が苦手なタイプだ。ならばここはまず引いて様子を……などと考えていたが、予想外に物事は転がり出す。

「――わ、私、見たんです」

「何を?」

「そ、その人が殴られるところを……」

「え!?」

「その、私、公園で人が殴られているのを見て――」

「ごめん。君の名前は?」

「な、名前ですか? 雅京姫(みやびみこ)です」

 『雅京姫』。みやびみこと読むのか。確か検察の証拠リストに証人として挙がっていた人物の名前だ。

「じゃあ、君が警察に通報したっていう目撃者なのか」

「は、はい」

「もし良かったら、その時に見たことを教えてくれないかな?」

「わ、わかりました」

 彼女は少し間を開け、フッと息を吐くと語り出した。

「私はあの日、塾の帰りで遅くなってしまったのです」

 彼女は、少し困惑した表情を浮かべながらも話をしてくれた。

「それで、塾から家まで一番近い道を、公園の道なのですけど、通っていたら、急に女の人の悲鳴が聞こえたのです。そ、それで、怖かったんですけど悲鳴の方へ歩いて行くと……、よ、よく見えなかったんですけど、だ、誰かが誰かに……その……馬乗りになっていて……。そしたら……『助けて』って…………こ、声が聞こえたのです。けど、怖くて……家まで走って逃げてきて……それから一一〇番したのです」

 そこまで話すとその時の恐怖が蘇ってきたのか、泣き出してしまった。

「ごめん。嫌なこと思い出させちゃって」

 誰しもが事件慣れしているわけではないということを僕は忘れていた。弁護士という職業柄、人が殴られたり、殺されたりしても動揺しなくなっていたが、一般人の、まして若い女の子が目の前で人が殴られてそれが心の傷になっていないはずがない。

 そんな無神経な自分が嫌になる。しかし、それでも僕は尋ねなければならない。僕は七篠さんの弁護人で、今、唯一、味方になれる存在なのだから。七篠さん自身が記憶をなくしている今、裁判で認められようとしている裁判上の事実と異なる事実があるとすれば、それを見つけ出せるのは自分しかいない。

 僕は心を鬼にして尋ねる。

「最後に一つ聞かせてくれないかな? よく見えなかったっていうのはどういうこと?」

「えっと、その……公園の道は灯りが少なくて暗いのでよく見えなかったのです」

「よく見えなかった……って顔は見てないってこと? 犯人も? 被害者も?」

 彼女はこっくりと頷く。

 その頷きを見て真っ暗だった世界に一筋の光が見えた気がした。

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