無罪のこうべん

第一条「名前のない依頼人」

 ガチャ。

 法廷への扉を開くと席に座った人々が一斉に振り向く。

 裁判というのは、一般人には縁遠い存在であまり知られていないが、誰でも無料で見ることができ、これを傍聴と言う。そのため法廷には裁判官や裁判の当事者の他に見に来る人のために席が用意されている。これが傍聴ぼうちょう席である。

 大々的ではないにしろニュースで報道されていることもあって傍聴席はほぼ満席に近い。

 法廷には、検察官が着席しているのみで裁判官も裁判員もいない。きっとまだ控え室で待機しているのであろう。

 開廷時間を過ぎ痺れを切らしている傍聴人の後ろを通り、弁護人の席へと向かうと傍聴人たちが一斉にざわつき出す。

 それも当然のことだろう。学校の制服を着ている少年が傍聴席の脇を通り抜けて弁護人席に座ったのに誰も止めもないのだから。事情を知らない傍聴人がざわつくのも無理はない。

 弁護人席に着き荷物を置くと黒い法衣を来た女性が近寄ってくる。

「今日はどうされたのですか?」

 薄笑いを浮かべながら話かけてくる。

「あの、試験に予想外の時間がかかってしまって……」

 事務官は、口元をさらに緩めた後、「そうですか」というと裁判官控え室へと消えて行く。遅れていた弁護人が到着したことを裁判官に伝えに行ったのだろう。

 裁判官と裁判員が来たら、とりあえず謝罪しよう。裁判官はともかく、裁判員の心証を少しでも良くしなければいけない。

 そう考えていると刑務官二人に連れられて被告人が入廷してくる。

 背は百六十五センチメートル程度。四肢は細く、留置場で貸与されたと思われる服はサイズが合っていない。自殺防止のためにズボンの紐は抜かれているためにぶかぶかである。短髪ではあるが顔は俯いているせいもあり、前髪に隠れて見えない。

 腰縄を巻かれ、手錠をされた被告人の姿は正に『犯人』である。

 あまりに酷い姿だが、これでもマシになった方なのだ。

 裁判員裁判が始まる以前、腰縄と手錠は裁判官入廷後に外されていたが、『手錠』をつけていると犯人であるかのように見えてしまうおそれがあるため裁判官と裁判員が入廷する前に外されるようになったのである……だったはずだが、実際のところは教科書で読んだだけなので分からない。

 手錠を外された被告人は、弁護人用の机の前に用意されたイスに刑務官二人に挟まれる形で座る。

「すいません遅れてしまって」

 机から身を乗り出し、小声で依頼人である被告人だけに聞こえるように耳元で囁く。

 しかし、被告人は何も言わず、振り返ることすらしない。

 怒っているのだろうか?

 遅刻した理由を説明しようか迷っていると、

「ご起立願います」

 という声が法廷内に響く。

 黒い法衣を着た裁判長と思しき年長の男性、続いてもう一人の裁判官を先頭に、続いて裁判員が入廷してくる。最後にもう一人の裁判官が入廷しドアを閉める。

 裁判長と裁判官二人、裁判員は六人で男性が三人、女性も三人の計六人だ。

 裁判官と裁判員が席の前に立つと全員礼をして着席する。

「それでは、開廷します」

 裁判長が開廷を宣言する。

「被告人は、証言台へ移動してください」

 刑事裁判において最初になされるのは『人定質問じんていしつもん』である。

 人定質問とは、起訴された人物が本人であるかを確かめるものでトラブルが起こることはまずないと言っていい。

「氏名を述べてください」

「…………」

「被告人、氏名を述べてください」

「――わかりません」

 傍聴人が一斉にざわつき出す。傍聴席のみならず裁判員もお互いに顔を見合わせ「え?」「どういうこと?」という小声が聞こえてくる。

「みなさん」

 法廷内がざわつく中、検察官が突然立ち上がる。

「えーっとですね。被告人は、解離性障害かいりせいしょうがいないし全生活史健忘ぜんせいかつしけんぼう、いわゆる記憶喪失ですね、におちっていると主張しています。また、被告人のID、身分を示すものですね、もなく、本名および本籍は不明であるため『江戸警察署留置番号三六番』、通称『七篠三郎ななしのさぶろう』として起訴されています」

 ざわつく法廷がさらにざわつく。

 記憶喪失?

 江戸警察署留置番号三六番?

 ななしのさぶろう?

 法廷のざわつきもやむを得ないだろう。僕自身も裁判員や傍聴人の立場ならば思わず「ふざけているのか!」と言ってしまったかもしれない。

 検察官の説明が終わると裁判長が傍聴人に注意する。

「静粛に願います。これ以降、裁判の進行に影響があると判断される行為をされた場合、退廷させます。あと、検察官は不規則な発言は控えるように」

 裁判長の一言で法廷内が一気に静まる。

 検察官も裁判長の注意を受けてしゅんとして席につく。

 裁判長が横に座る二人の裁判官に何か話しかけた後、裁判員全員にも何かを話しかける。

 『七篠三郎』こと『江戸警察署留置番号三十六番』について話しているのだろう。

 通常の刑事裁判であれば、被告人は当然、被告人自身の本名で裁かれる。しかし、今回は被告人の本名が分からないため、仕方なく被告人が留置されていた留置場の番号で起訴されたのだ。

 記憶喪失の場合、多くの場合、『責任能力』が問題となる。『責任能力』というのは、文字通り責任を負うことが出来る能力の事である。

 刑務所は、犯罪を行った人に罰を与える役割に加えて、二度と犯罪をしないように反省させる矯正きょうせい施設の役割がある。そのため、精神疾患しっかん等により『反省』が期待出来ない場合には、矯正施設である刑務所ではなく治療施設に入れることになる。

 この『責任能力』というのは弁護人にとっては都合のいい言葉で、言ってしまえば、どんな時でも使える、伝家の宝刀のようなものである。

 『責任能力』が認められなければ、刑務所に入れても意味が無いので、犯罪は成立せず被告人は無罪となる。

 『責任能力』が一部欠ける場合でも、減刑にすることが出来る。

 自らの捜査機関を持たない弁護人にとって検察官が提出する証拠をひっくり返せるような反対証拠を用意するなんてのは、ほぼ不可能である。

 それでも、依頼者である被告人が争うことを望めばできる限りのことをしなければならない。そこで出てくるのが魔法の言葉こそが『責任能力』である。

 今回の場合も公判前整理手続きで開示された証拠を見る限り、有罪は避けられそうにない。

 『七篠三郎』の指紋しもんのついた物証ぶっしょう

 現場を見たという目撃者。

 そして精神科医の鑑定書。

 どうやら検察官は、七篠三郎に責任能力があることを確信しているのだろう。

 もしかすると七篠三郎が記憶喪失のフリをしていると考えているのかもしれない。

 もし裁判員にまで、七篠三郎が記憶喪失のフリをしているだけだと捉えられたら、検察官の求刑通りの判決になってしまうだろう。

 弁護人としては、何とかしたいが反証するだけの証拠もない。

 『責任能力』を争うのは自分の主義ではないが、やむを得ない。

 刑事裁判では、無罪か有罪か。

 有罪であれば執行猶予が付くか付かないか。

 懲役は何年か。

 判決次第で被告人の残り人生が左右される。良くも悪くも弁護人の腕次第で結果も変わってくるのである。

 職業裁判官よりも感情に流されやすい一般人が判決に関わる裁判員裁判となれば、なおさら、弁護人の能力が重要になってくるのである。

 落ち着け。

 もうやることは一つしかない。

 弁護人が不安がってどうする。七篠さんが一番不安なはずじゃないか。

 訳の分からないまま手錠をはめられ、腰縄まで付けられてまるで晒し者だ。

 落ち着け……落ち着くんだ。

 ス――――。

 フ――――。

 ゆっくり大きく、しかし目立たないように深呼吸をする。

 心の整理が終わったところで裁判員たちに説明を終えた裁判官がこちらに向き直す。

「今回は事案が特殊ですので再度、確認しますが、被告人を『江戸警察署留置番号三十六番』、本籍、年齢、職業は不詳として裁判を継続しますが、弁護人、よろしいですね」

 裁判官は、裁判員との話が終わると今度は、僕に対して尋ねてくる。裁判員のほとんどはいぶかしげにこちを見ている。

 まるで、こいつは本当に弁護士なのか、と言わんばかりの目線だ。

 『しかるべく』というのは法曹用語で『同意』や『異議なし』を意味する。

 別に「同意します」や「異議ありません」でもいいのかもしれないが、法曹用語を使わなければならないような雰囲気が法廷にはある。

 決して、法曹用語を使って優越感ゆうえつかんに浸っているわけではない――決して。

「では、検察官は起訴状を朗読してください」

「はいっ!」

 待っていましたとばかりに検察官が勢い良く立ち上がる。

 立ち上がり方といい、先ほど突然、記憶喪失に関して説明を始めた点といい、この検察官は目立ちたがり屋に違いない。

公訴こうそ事実。被告人、七篠三郎こと江戸警察署留置番号三十六番は、平成二十四年五月十八日、午後十一時三十分頃、東京都墨田区来島きじま二丁目の江戸公園内歩道において通行中であった被害者、安田曜子やすだようこ、二十四歳の所持するかばんを背後から奪おうとしたところ抵抗にあったため、被害者を手拳しゅけん殴打おうだする暴行を加えその反抗を抑圧よくあつして、同人からその所有又は管理する現金五万五千円を強取ごうしゅし、その際、同人どうにんに全治約二週間を要する頭部顔面打撲とうぶがんめんだぼくの傷害を負わせたものである。罪名ざいめいおよび罰条ばつじょう強盗傷害ごうとうしょうがい、刑法第二百四十条」

 検察官は裁判員を意識してか、起訴状をゆっくりと聞き取りやすいように、かつ、抑揚よくようをつけて朗読する。

 起訴状を読み終わると手に持っていた起訴状を右斜め後ろに座る裁判所事務官に手渡す。

 事務官が起訴状を裁判官に渡しに動くと検察官はこちらを一瞥いちべつしてニヤリと笑みを浮かべる。

 まるで「この事件の有罪はもらった」と言わんばかりのいやらしい笑みだ。

「それでは、これから今朗読された事実について審理を行いますが、審理に先立ち被告人に注意しておきます」

人定質問が終わると裁判長は被告人に黙秘権もくひけんの説明を始める。

『黙秘権』という言葉は、聞いたことある人も多いだろう。

 文字通り、黙秘することが出来る権利である。それと同時に被告人が法廷でした発言は、その有利不利を問わず証拠として利用されることがあるというものである。

「起訴状の内容については理解できましたか?」

「はい……」

「では、起訴状の内容に違う点はありますか」

「…………わかりません」

 七篠は、俯いたまま消えそうな声で答える。

「それは、『黙秘』という事ですか?」

「…………」

「弁護人の意見はどうですか?」

「はい。起訴状の事実については認否にんぴを留保します。責任能力については争います」

 ハッキリと言えば、起訴状の内容を認めてしまいたかった。争ったところで勝てる自身などどこにもない。しかし、被告人が認めていない以上、正確には『分からない』だが、弁護人としては争わざるをえない。

 傍聴席から「おお」という声が漏れるが、裁判官の鋭い眼光に気がついたのかすぐに消える。

 どうせ中学生だか高校生ぐらいにしか見えない僕が弁護士なはずがないと思っていた傍聴人が、それっぽいことを答えた事で少し驚いたに違いない。

「わかりました。それでは、証拠調べに入ります。被告人は元の席に戻ってください」

 再び刑務官二人の間に座る被告人。相変わらず俯いたままだ。

 証拠調べに入るとまず、検察側の冒頭陳述ぼうとうちんじゅつが始まる。冒頭陳述では、検察側が証拠を用いて証明しようとする事実を明らかにする。

検察の冒頭陳述は、十五分くらい行われた。

 さすが検察といったところだろうか。

 難解なんかいな専門用語も「すなわち」や「言い換えれば」と言った言葉を駆使くしして可能な限り、裁判員に分かりやすいようにしている。

 さらに見取り図や写真、絵を法廷に用意されているモニターを使って映し出し、裁判員があたかも現場にいたかのうように錯覚さっかくさせる。

 さらには生々しい傷痕の写真も活用し、被害者に対する同情と『犯人』に対する憎悪ぞうおを掻き立てる。

 どうやら検察が考える事件の流れは以下の通りのようだ。


――七篠は、犯行当時、一円も持っておらず金銭的に困っていた。

  そこへヨーロッパの有名高級ブランドのバッグを持った被害者である安田が

  通りかかる。

  彼女ならばお金を持っているだろうと考えた七篠は、こっそりと彼女の後を

  つける。

  七篠がしばらく安田の後をつけると安田が公園の中へ入った。

  七篠は、周囲に人目がないことを確認すると背後から安田が手に持っている

  バッグを奪おうとしたが、安田の抵抗にあい失敗。

  そこで安田の顔面を殴ったところ、彼女が倒れ動かなくなったので気絶した

  と思い、バッグの中の金目の物を漁っていると彼女が立ち上がり、バッグを

  漁っている七篠を突き飛ばした。

  すると七篠は突き飛ばされた勢いでたまたま近くにあった石に頭を強打し気絶。

  偶然目撃していて人の通報により駆けつけた警察官により逮捕された――


 七篠には、強盗を行う動機があり、バッグを奪おうとした際に安田を殴り、怪我をさせたということについていずれも証人や物的証拠という確たる証拠がある。

 『』なんかが争って大丈夫なのだろうか?

 争わず反省していると言わせた方が情状酌量の余地が出て七篠にとってもいいのではないだろうか?

 そんな不安が再び僕の心を支配し出す。

「弁護人、冒頭陳述をどうぞ」

 裁判長に促され立ち上がる。

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