こうべん!

半名はんな

前文

「試験始め」

 教師の合図で一斉に問題用紙をめくる。

「問、現代の技術革新の特徴としてふさわしくないのはどれか――工業化」

「問、バブル経済の原因となったものはどれか――金利の上昇」

 順調に問題を解き進めていく。

「問、日本国憲法の三原則を書きなさい」

「――国民主権、基本的人権の尊重、平和主義」

 開始後ものの十五分ほどで試験を終える。

「先生! 終わったので失礼します」

 普通であればテストの途中退席など許されないのであろうが、僕は特別だ。

 教室を出ると廊下を足音と立てない程度に軽く走る。 

 下駄箱まで来ると、急いで靴に履き替えて再び駅まで走り出す。

 予定時間を五分ほどオーバーしている。

 問題を深く考えすぎて悩みすぎてしまったと後悔する。

 特に三原則のところで学者によっては四原則や六原則と言っている人もいることを思い出して考えこんでしまったのがまずかった。

 駅の改札を抜け、階段に差し掛かると人が登ってくる。

 やばい電車がもう来ている。

 階段を数段飛ばしながら降りていく。

 間に合え!

 閉まりかけのドアをすり抜け何とか電車に乗り込む。

 ギリギリセーフ。

 何とか開始時刻に間に合いそうだ。

 息を切らしながらドアの横に手すりにもたれかかるように立ち、ドアの外を流れる一面真っ黒の外の景色を眺めながら目的地に着くのを待つ。

「次は、霞ヶ関かすみがせき、霞ヶ関です」

ドアの前に立つと、ドアが開くのを待つ。電車が完全に止まり、ドア開閉の警告音がなると目の前のドアが開き始めるや否や体を横にして滑り出るように飛び出す。

階段を一気に駆け上ると改札が現れる。改札を駆け抜けると次は右に九十度ターン。さらに右に九十度曲がると駅構内最後のストレート。突き当りを左に曲がって、階段を駆け登る。

通いなれた道ではあったが、ここまで走ったのは初めてだった。歩けば何ともない道のりだが、走るとかなり膝に来る。実は結構急な階段だったらしい。

「うぉっ何だ!? これは」

 階段を抜けると目の前にはいつも見慣れたものとは全く異なる光景が広がる。

目の前には人、人、人。

歩道が人で埋め尽くされている。普段であれば、ほとんど人はいない。いても数人がビラ配りや横断幕を持って立っている程度で歩道が見えなくなるほど人で溢れかえることなどない。しかし、今、目の前には数人とは程遠いほどの人の山が広がっていた。

黒山の人だかりという言葉がピッタリな程集まった人を押しのけながら進む。

しかし、目の前には自分よりも背の高い人、人、人。僕の身体は人混みに埋まった状態となり、進みたくともなかなか前へと進めない。

「すいませーん。通してください。すいませーん!」

声を張り上げて一歩ずつ前進していく。

「すいませーん。通してください」

 二歩進んでは一歩押し戻される。何度繰り返しただろうか。ようやく人だかりを抜けると同時に正門が見えた。正門には「裁判所」と金色の字で書かれている。

 裁判所の門を通ると目の前には大きな建物が現れる。

 東京地方裁判所だ。

 東京地方裁判所の庁舎は、東京地方裁判所だけでなく高等裁判所、家庭裁判所等が入る合同庁舎で地上十九階、地下三階の巨大な建物である。

 その巨大な東京地方裁判所には入り口が二つある。関係者用の入り口と一般の入り口だ。 一般の入り口では、厳重に警備が行われており、まるで空港のように手荷物検査や金属探知機ゲートが置かれている。これに対して関係者入り口では、手荷物検査も金属探知ゲートもくぐること無く入ることができる。

 関係者といっても、こちらの入り口からはいることができるのは、弁護士や検察官、裁判官の法曹三者以外には裁判所職員や検察庁職員などに限られ、入り口を通過するには、身分証の提示が必須である。例えば、弁護士でならば、その弁護士としての身分を証明する弁護士バッジを付けてさえいれば何のチェックを受けることなく、通過することができるのである。

 入り口前にある二段ほどの段差を軽くジャンプして飛び越え「関係者入り口」と書かれた入り口へと歩を進める。すると、目の前に服の上からでも分かるような筋肉質の腕が横からすっと出てきて行く手を阻む。

「申し訳ありません。こちらは関係者専用の入口となっておりますので、それ以外の方はあちらの入り口をご利用ください」

 警備員と思わしき人物が一般の入り口の方を指さす。

「僕、こう見えても弁護士なんです」

 そう。僕は弁護士なのだ。史上最年少で司法試験に合格し、天才中学生と呼ばれて一躍時の人となった。しかし、時間の経過は残酷なもので、僕という存在は徐々に人々の記憶の片隅へと追いやられ、現在ではほとんど忘れられてしまっているらしい。

 それは、この警備員も同様だった。

フッっと鼻で笑うと、

「では、身分を証明できるもののご提示をお願いします」

 こいつは、一体何を行っているだ。左襟についたバッジが目に入らないのか? そう思い自分の胸元に目をやる。

 何も付いていない……。

 今の今まですっかりと忘れていた。今日は学校から来たために制服のままだったのだ。

 脇のポケットや胸のポケット、ズボンのポケットにまで手を突っ込んでみる。焦ってバッジを探すが、どこにしまったのか見つからない。鞄の中かとも考え、鞄に手を突っ込んで探ってみる。分厚い紙の束や財布と思われる革製品のようなもの、ペンのような細長いものなど様々な物が乱雑に入れられた鞄の中から十円玉より少し小さい程度の物を見つけるのは不可能に近いことだった。今のように焦っているときなら尚更だ。

 その様子を見ていた警備員は、

「はいはい。身分証がないならあっちから入ってね」

 子どもを諭すかの様な話し方が気に障る。

 何か反論してやりたかったが、バッジがなければ入れない規則になっているので仕方がない。関係者入り口から入ることを諦め、一般口から入ることにする。関係者入り口から引き返そうと後ろに振り向いた瞬間全身に衝撃が走る。

 ドンッ!

 突然目の前に何かが現れる。勢いのあまり突如現れたそれもろとも前のめりに倒れこむ。

左手に持っていた鞄は宙を舞い、バッジを探すために開けていた口から紙やペンなどの中身が辺りに散らばる。

 とっさに両手をついたおかげで顔面から地面に突っ込むことは防ぐことができた。

「いってぇ」

 防衛本能で反射的に瞑った目をゆっくりと開けるとそこには人が倒れている。顔は倒れた時の衝撃だろうか、乱れた髪で隠れていて見えないが右手に伝わる柔らかい感触がそこに倒れている人物が女性であることを示していた。小柄な体型に上はリクルート用のような黒いジャケット、下は上と同じ黒いスラックス。弁護士だろうか、それとも修習生だろうか。そう考えを巡らせていると女性が、小さな呻き声とともに顔を少し動かす。すると、髪で隠れていた顔が顕になる。ハリのある肌、穢れを知らない引きこまれそうな瞳。中学生、いや高校生だろうか。裁判所で顔を合わせる女性の弁護士や裁判官、検察官とは異なる顔をしている。

 ここで、僕の右手がいまだに彼女の胸を鷲掴みにしていることに気付き、咄嗟に飛び退く。

「ごめんなさい。すいません。だ、大丈夫は怪我ですか?」

 突然、人とぶつかったことに加えて、右手に残る柔らかい感触のせいもあり、意味不明な言葉をかける。

「い、い、いえ、だ、だ、大丈夫です。お、お、お尻をう、う、打っただけだから。頭は打ってないから」

 僕以上に混乱しているのか、しどろもどろの返答をしながら女性も立ち上がる。手には先程の感触が確実に残っているが、幸運なことに胸に触れたことには言及してこない。顔を赤らめ恥じらった姿も可愛らしいこの裁判所には似つかわしくない幼い顔立ちの女性、いや少女は少なくとも法曹関係者ではないことは明らかだ。

「こっちの入り口は、法曹関係者専用なんだけど法曹関係者じゃないよね?」

 つい先程警備員に言われたばかりのことを美少女に対して告げる。

「ご、ごめんなさい。わ、私、高校生でテレビ局とかじゃなくて」

 どうやら同じ高校生らしい。しかも天然なのだろうか、どうやら法曹と放送を混同しているようだが、訂正するのも面倒なので聞かなかったことにする。

「一般の人は、向こうの入り口だよ」

 ぶつかって転ばせてしまったこともあるので入り口まで案内することにし、一緒に一般入口へと歩を進める。

 一般入口は、先ほどの集団が関係する裁判はよほど注目されているのであろうか。まるでテーマパークのごとく列をなしているその最後尾に並ぶ。

「…………」

「…………」

 何を話していいのか分からず沈黙が続く。

 しばらく沈黙が続いた後、名刺を持っていたことを唐突に思い出し、鞄を漁る。鞄の中は先程ぶちまけたせいでぐちゃぐちゃでどこに何があるか分からない。

 やっとのことで名刺を見つけ出すと彼女の前に差し出す。

「さっきは本当にごめんなさい。急いでいたもので後ろの確認もせずに振り返ったから」

「い、いえ。わ、わ、私の方こそ」

「この名刺に渡しの電話番号とメールアドレスが書いてあるから後で地面に打ったところとかが痛くなったりしたら連絡ください。治療費は払いますので」

 彼女は、渡された名刺を両手で持ち不思議な物を見るかの如くじーっと見つめる。そして、何か考える様子を見せた後、ゆっくりと口を開く。

「さんかげつ……弁護士!?」

「それでみかづきって読むんです。はい、一応、弁護士やってます」

「でも、それって学校の制服じゃ……?」

 僕を指さしながら尋ねる。

「えぇ、弁護士兼高校生というか、まぁ、高校生で弁護士です」

 彼女は、疑い深気な視線を僕に浴びせてくる。

 まぁ信じないのが普通だろう。見た目は明らかにパッとしない中学生か高校生なのだから。

「僕、一応弁護士なんで困ったこととかあったら連絡くれれば、今日のお詫びではないですが、無料で相談に乗るんでいつでもどうぞ」

 手荷物検査の順番がやってくる。

 名刺入れを鞄に押し込み、鞄の口を閉じて係員に渡して番号札を受け取る。

 金属探知機を何事も無く抜けて検査のために預けた鞄を番号札と引換に受け取った瞬間、突然背後から何者かに頭をポンっと軽く叩かれる。

「おい、中学生が学校サボって来るような場所じゃないぞ」

 聞き慣れた声だった。

「中学生じゃなくて高校生だ! それにちゃんと許可もらってきてるから問題ない!」

 会うたびに繰り返される毎度お決まりのやり取りだ。

 服部は、東京地方検察庁の検事である。本名は、服部桐太はっとりとうた。仲間内では『トータ』と呼ばれているらしい。僕は『ハッタリ』と心の中で呼んでいる。

 ハッタリは、自称東京地検の若手エースで自信家だが、大学在学中に司法試験に合格、卒業後、検察庁に入庁した人物であり実力は本物である。

 毎回顔を合わすたびにからかってくるむかつく奴ではあるが、年の離れた自分にも気さくに話しかけてくれるし、タメ語で話しても文句ひとつ言わない。決して悪いやつではない……と思う。

「そもそも、何で検察官がこんな所にいるんだよ」

「いやさ。今日集団訴訟があるじゃん? そんでさ、今、裁判所前でニュース用の撮影やってるって聞いてさ。 面白そうだから見に来たんだよね」

 確かそんなニュースをやっていたような気がするが、そんな自分の関わらない訴訟よりも検察官というのは、それほど暇なのか、という疑問の方が強い。

「それよりさ、お前今日も国選こくせんで来たんだろ? いいのか? そんなゆっくりしていて」

 『国選』とは、被告人が貧困などの理由で私選の弁護人を選任することができないときに、国がその費用で弁護人を付する国選弁護制度のことで、それにより選任された弁護士のことを国選弁護人という。僕は今日、その国選弁護人として裁判所にやってきたのであった。

『国選弁護人』

 名前だけ聞けば、国に選ばれた弁護士のようで響きはいいが、その実態は真逆である。国選弁護人の報酬は非常に低く、自分で仕事を取ることが出来る弁護士は普通、国選弁護を引き受けない。

 では、誰が引き受けるのか――僕を含めた仕事を取ることができない弁護士連中である。

 しかし、近頃では事情も少し変わってきていて、法科大学院の設置や新司法試験の施行など司法制度改革が行われてきた結果、法曹の人口は増えたが、実際に増えたのは弁護士ばかりで、しかも、この先の見えない不況の中、弁護士の仕事だけが増えることもなく仕事のない弁護士は順調に増加中なのだ。

 そのため、淡々と事務的にこなせば、悪くない収入になる国選案件は取り合いになることが増えてきたのである。そんな事情もあって、国選弁護を引き受けておきながら、裁判に遅刻なんてしようものなら次から国選案件は受任できなくなってしまうのである。

「!? ……今何時だ?」

「えーっと、十時五分かな?」

 ハッタリは、左手に輝く、見るからに高級そうな腕時計で時間を確かめて答える。

「ごめん。急ぐからじゃあな。――あ、あと、そこの女の子のこと頼む」

 ハッタリの反応を待たずに一目散に駆け出す。周りの人が驚き、こちらを振り返るが、気に留めている暇はない。もう既に五分も遅刻しているのだ。

 エレベータホールに着くとボタンを連打する。連打しても無駄なのは分かっている。しかし、何もせずにはいられなかった。

 そういえば、なぜハッタリは裁判が十時からだって知っていたのだろうか。

 資料を見た――なんてことはありえない。あいつは自分の裁判の資料以外、興味のない人間だ。

たしか今日の事件は、ハッタリの担当ではなかったはずなので担当検事にでも聞いたのだろう。

「今日はどんな事件?」

「今日は楽勝ですよ。証拠も証人も揃ってますし、相手が中学生ですから」

 などと笑いながら会話しているハッタリたちの姿を想像するのは容易かった。

 それにしても遅い。遅すぎる。いつまで待ってもエレベータが来ない。

 エレベータホールには、四基のエレベータがあるが、昨今の節電の影響で四基のうち二基しか動いていない。普段の半分の数でこの地上十九階、地下三階もある巨大な建物をカバーするのだからなかなかエレベータが来ないくても致し方ない。

 何分経っただろうか。来たときは数人しかいなかったホールに一回で乗り切れないほどの人が溢れ始めた頃ようやくエレベータが到着する。

 急いでエレベータに乗り込み目的のフロアのボタンを押す。

 早く降りるために扉付近のポジションを確保したかったが、次から次に乗り込んでくる大人たちの波に一番奥まで押し込まれる。

 ピーン。

 ピーン。

 ピーン。

 各階に止まっているのではないかと感じる程エレベータの扉は開いたり閉じたりを繰り返す。乗っている人が多い分それだけ降りる人も多いのだから仕方がない。

 ピーン。

 ようやく目的の法廷のある七階に着き、苦しいエレベータから解放される。

 七二二号法廷。

 それが、今日の裁判が行われる法廷である。

 エレベータを降りると一目散に法廷まで駆け出す。右に曲がり、まっすぐ走る。

 東京地方裁判所は、日本の首都であり中心である東京を管轄するだけあって法廷数は日本一であり、とにかく大きい。

 司法修習生の頃は、同じフロアにいくつもの法廷があり、どこも似たような作りをしているために目的の法廷がどこにあるのか分からず、よく迷ったものである。それでも遅刻なんていう失態は一度もなかった。

 それにも関わらず、今回に限って遅刻するなんて……。

 民事事件ならまだしも、刑事事件で弁護人が遅刻だなんて最悪だ。しかも、今回件は裁判員裁判である。もし、遅刻したことで裁判員が被告人に対する印象を悪くなんてしようもんなら懲戒ものである。最悪の場合には資格剥奪なんてことも――。

 悪い想像ばかりが頭を駆け巡る。

 目の前にある何の変哲もない法廷のドアがいつも異常に重たく感じる。しかし、逃げる訳にも行くまい。覚悟を決めてドアを勢い良く開ける。

 今考えると、この事件こそ全ての始まりだったのかもしれない――。

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