第二十一話「糸口」

 翌日、学校には登校してみたものの、勉強する気にはなれなかった。

 普段も右から左へと抜けていくことの多い教師の言葉だが、今日は、耳にすら届くことはない。

 いつものように机に身体を預けて空を眺めるのも悪くはないが、今はそれほど落ち着いていられるような状況ではないのだ。

 おもむろに机の脇に引っ掛けられた鞄を開けると自宅から持ってきた判例の山を取り出す。

 判例は裁判所が以前に出した判決、つまりは先例のことである。特に最高裁判所が出した判決は、先例として他の裁判にも影響を及ぼす。

 基本的に最高裁の判例に反するような判決は出ないため、判例を調べてどのような判断がなされたのかを調べるのは必須だ。最高裁の判例でなくても一定の傾向が認められることが多いため、当事者双方の主張の内、どんな主張が認められ、逆にどんな主張は認められなかったのかを調べることは重要なのである。

 判例といっても全国の裁判所では毎日いくつもの裁判が行われ、判決が下されている。それを一つ一つ調べるのは不可能なので、僕が契約している判例データベースでキーワードを入力して検索して、似たような点があって今回の事件に役立ちそうな判決をいくつか印刷してきたのでかばんが重かった。

 その束を狭い机の上いっぱいに広げると役立ちそうな部分を蛍光ペンでマークしていく。傍から見れば、勉強熱心な優等生といった感じだが、万が一にでも先生が見回りでもすれば、すぐに授業とは関係ないことをしているのがバレてしまう。でも、万が一バレたとしたら怒られるのだろうか、少なくとも授業でやっている内容はすでに理解しているし、分野が異なるとはいえ、僕がやっていることはこの授業で扱っているよりも遥かに高度なものだ。マンガを読んでいるような場合とは違って怒れないのではないだろうか――いや、内職の内容は問題ではなく、授業を聞いていないことが問題なのだからその授業を聞いていない以上怒られても仕方がない。そんなことを考えながら判例から読み進めていく。

 始めのうちは、学校の教室、しかも授業中という慣れない環境のためか、あれこれと別のことを考えイマイチ集中できなかったが、次第に慣れ始めると徐々に作業ペースを上げていく。持ってきた判例のちょうど半分くらいを読み終えたところでさすがに疲れてきたので伸びをする。

 ウーン。

 目を閉じ、両手を上げ上半身を反らすと前傾姿勢のままでずっと作業していたために凝り固まった筋肉がほぐれ、再び血液が全身を巡りだす。大した動作ではないのに、何とも言われぬ快感に襲われ、それが過ぎると肉体的にも精神的にもリフレッシュされる。脳内にエンドルフィンとかいう成分が分泌されるためと聞いたことがあるが、詳しいことはよくわからない。とにかく気持ちがいいことに間違いはない。

 フーっと大きく息を吐き、目を開けるとそこには先程の快感を一瞬で吹き飛ばしてしまう顔があった。

「ふぁんふぁふぁふぃふぉんふぇるふぉ?」

「はぁ? 何を言っているか全くわからないんだけど……」

 判例を読むのに集中している間に授業は終了していたようで周りの生徒は、みな思い思いに散っていた。目の前で壁になってくれていた男子生徒も消え去り、クラスの右端にいたはずのすみれがいつのまにか僕の前の席のイスに逆向きに跨りこちらをジーっと見ていた。

「ふぉれふぁふぃ?」

「口の中にものがなくなってから喋れよ。てか、お前いつの間にここに来た?」

「ふぁふぁっふぁ」

 すみれはそういうと口いっぱいに頬張っていたものを数回咀嚼して一気に飲み込む。品性の欠片もない。

「授業終わってからずっといるんだけど、気付かなかった?」

 手に持った男子生徒の弁当かと見間違えるような弁当箱からおかずはすでに消え去り、中蓋に米粒がびっちりと付くほどぎゅうぎゅうに詰められていたご飯も三分の一ほどしか残っていない。一言喋るとまだ会話中にもかかわらず残りのご飯を器用にも箸で一気に持ち上げ口へと押し込んでいく。

「さっきからいたなら『授業終わったよ』って声くらいかけてくれてもいいじゃないか?」

 このまま授業が終わったことも気付かないうちに休み時間が終わり、昼飯なしで午後の授業に突入したらどう責任とってくれるんだ、と言いたいところだったが、あまりにも不条理であったし、すみれがどのような責任を取るか考えただけでも恐ろしかったので慌てて言葉を飲み込む。その代わりに一つの単純な疑問を投げかける。

「で、何でお前はここにいるんだ?」

「おかずが足りないから、代わりの物を探していたらここに辿り着いたんだよね」

 意味がわからない。

「で、要件は何だ? そいつと関係あんのか? 見たことない顔だけど」

 先ほどからすみれの横にきょとんとして立っている男子生徒を顎でしゃくって指す。

「突っ込んでくれてもいいのに……。そう。実は、この子が困ったことになってるらしくてね。だからあんたに助けてもらおうかと思ってね」

「助けるのは別にやぶさかじゃないけど……どういう知り合いだ?」

 繰り返すが、助けるのはやぶさかじゃない。むしろ困っている人を助けるのは弁護士として当然の責務だ。だが、こんな生徒は今まで見たことないし、すみれとは幼馴染で付き合いは長いが、こんな奴の話が出てきたことは一度もない。一体いつ知り合ったんだ? どういう関係だ? ……って何でこんなこと気にしてるんだ僕は。

「この子は同じ組の小宮山慎司(こみやましんじ)くんだよ。知らないの? 同じ組なのに失礼じゃない? まぁ私もこの間話しかけるまでは知らなかったんだけど」

 まるで面白いことでも言ったかのように自分で言って自分で爆笑している。しかしちょっと待て、今、僕よりも酷いこと言っているぞ。

「いやねー。恥ずかしながら私もかなり頑張ったんだよ――秘書として」

 笑い終えたすみれが、話を続ける。

「…………秘書として?」

「ほら、これ見てよ」

 そういうと、どこからともなく一枚の画用紙を取り出す。そこには、こう書かれていた。

『依頼人大募集! 検察官が恐れる無罪請負人! あなたのどんな問題でも即解決します! 何でもご相談ください! 三ヶ月クリスはあなたの味方です!!! ご相談の受付はこちらまで 秘書・二年E組・雅すみれ』

「どうよ! 我ながらいい出来だと思うんだよね」

 ドヤ顔でカラフルなペンで装飾された文字が書かれた画用紙を顔にくっつきそうになるほど近づけてくる。

「あのさー。こういう事されると困るんだよね……てか、秘書って何だよ」

「私だよ! あんた依頼がないって悩んでたでしょ? 私一晩寝ずに考えたんだよ。ほら、私、秘書だから。やっぱ依頼を増やすには宣伝だよね。だからポスター作ってみたんだけど、なかなかいい出来でしょ?」

「秘書だと認めた憶えなど一切ないし、勝手に広告なんかするな!」

「な、なによその言い方……私、クリスのためを思って……」

 両手で持っていた画用紙が床へと落ちる。すみれはがっくりと肩を落とし、今にも泣き出しそうな表情を浮かべると、俯いてしまう。

「いや、その……弁護士の広告は規制があって何でも書いていいってわけじゃないから……その、誤認の恐れのある広告とか誇大な広告とか……品位だとか色々うるさいんだよ」

 普段威勢がいいすみれが急にシュンとしたことに戸惑う。少し言い過ぎたかもしれないと考え慌ててフォローを入れる。

「……じゃないもん。嘘じゃない! クリスこないだだって玲於奈のこと助けたじゃない」

「確かにそれは嘘じゃないけど、『無罪請負人』とか『何でも解決』とかそういう広告は日弁連の方針でやっちゃいけないって決まってるんだよ」

「ぅぅ……」

「それで、そのポスターは何枚作ったんだ? 張ったのは学校だけか?」

 すみれは、それに対して無言で頷く。とりあえず学校外にこのポスターは出ていないことを確認しほっとする。

「あとで全部回収しておけよ」

 すみれは声こそ上げていないが、泣いているようだった。泣いている姿を僕に見られないようにするためか、一層顔を深く下げている。

 大体すみれは、いつも勝手なことばかりやって僕に迷惑をかけるんだ。いつの間にか秘書とか言い出すし、規定違反のポスター作るし……。そうだあいつが悪いんだ。必死に自分を正当化するが、どこかに引っかかりを感じる。

「ところで、困ったことがあるんだろ? 話してみなよ」

 その引っかかりを振り払うかのように僕は今までのやり取りに呆気にとられ、空気と化していた小宮山に話しかける。

「ああ。けど……ここじゃ言い難いので別の所でできないか?」

 の希望とあっては仕方ないので以前行った人の来ない『準備室』へ向かう。もちろんすみれは教室に残したままだ。昼飯を食べていないので途中で購買部に寄ってパンを買う。かなり出遅れたために案の定ほとんど品物は残っていない。クッキーの詰め合わせとレーズンパンのどちらにするか悩んだ末にレーズンパンを選択する。

 準備室につくと僕が以前来た時のまま机とイスが二セットずつ置かれていた。小宮山のために積み上げられている机とイスを一つずつ部屋の中央部まで引きずり出すと机を向かい合わせるように並べてイスに腰を掛ける。

「それで、要件は?」

「うん…………」

 もじもじとしてなかなか要件を切り出さない。

「言わないなら帰るよ」

 先ほどのすみれとの件もあって虫の居所が悪い。

「いや、帰らないでくれ。これなんだけど……」

 そういうとスマートフォンをポケットから取り出して僕に見せる。

「ロックかかってるけど」

「あっ、ごめん」

 そういうと暗証番号を入力し、何かをタップすると再びスマートフォンの画面をこちらに見せる。そこには、一通のメールらしき文面があった。

『ご登録ありがとうございます。二日以内に登録料五万二千五百円を以下の口座まで振り込んでください。二日を過ぎると、罰金として十五万円になりますのでご注意ください。支払わないと勤務先や学校に連絡することになります』

 典型的なワンクリック詐欺の文面だった。少しでも法律をかじったことがある人間からするとかなり稚拙ちせつな文面だとすぐにわかる。最後なんて脅迫めいているし、もう少し上手い文面は考えられなかったのだろうか。

「こんなのただのワンクリック詐欺だから気にすることないよ。学校に連絡とか書いてあるけど、クリックしただけじゃ個人情報を取られることなんてないから、こっちから連絡しない限り大丈夫」

「それが……」

「連絡しちゃったのか?」

「いや、友達にも無視すればいいって言われたから無視してたんだけど、そうしたら……一昨日ヤクザみたいなやつから電話がかかってきて………それにメールまで来るんだ」

 今度は、さきほどとは異なる文面のメールを見せる。先ほどのメールには稚拙ながらもある程度常識的な文面だったが、こちらのメールはかなりひどい。どれくらいひどいかというと読み上げるのも憚れるような放送禁止用語満載の完全なる脅迫メールである。

「うわぁ。ひどいなこれ」

「助けてくれよ。こんなメールが毎日送られてきて、しかも、金払えって電話も一日何回もかかってくるんだ……こんなんじゃ夜も眠れなくて……」

 改めて小宮山の顔を確認してみると確かに目の下にはクマができているようだし、以前の顔を知らないのでもともとこういう顔なのかもしれないが、どこかげっそりとしているようにも見える。

「とりあえず、どうしてこうなったのか話してくれるかな?」

「うん……」

 小宮山は小さく頷くと、大きなため息を一つついてから話し始める。

「あれは、五日前なんだけど、夜に自分の部屋で宿題をやっていたら、メールが届いたんだ。知らない人のアドレスだったから消そうかとも思ったんだけど件名に惹かれて開いちゃって内容を見ちゃったんだ……」

「件名?」

「件名が……その……言い難いんだけど……『人気アイドルグループメンバーTのXXXが流出!』っていうタイトルだったんだ……それで思わず本文に書かれていたURLをタップしちゃって、そしたらアプリのダウンロードが勝手に始まって、キャンセルしようとしたんだけど間に合わなくて、インストールされるのと同時に最初に見せたメールが届いたんだ……」

 なるほど。思春期の男子を釣るにはピッタリなタイトルだ、と少し感心する。

「アプリか。なるほどね。スマホの中の情報を抜き取って詐欺グループに送信するタイプのアプリだったんだと思うよ。だから何もしてないのにメールも送られてきたし、電話もかかって来たんだろうね」

「どうすればいい?」

「うーん。電話内の個人情報を抜かれているとすると住所までバレてないとは言い切れないからなぁ……そうだ、相手の電話番号は分かるか?」

「着信履歴見れば分かると思う」

「じゃあ、かけてみてくれ」

「……うん」

 小宮山は、唾をゴクリと飲み込むと電話をかける。

「おいワレ。なんでずっと電源切っとんじゃヴォケ。早く金払えや!」

 スピーカーにもしていないのにこちらまで聞こえてくる大声で相手は怒鳴り散らしている。すでに詐欺の域を逸脱して脅迫だ。

「す、す、すいません……でも、お金がなくて……」

「どアホ! 金がないんやったら親からでもパックたらいいだろうが! 頭を使え頭を」

 相手の迫力に小宮山は目を潤ませている。あまりに一方的なやり取りを見て、不憫になり助け舟を出す。小宮山の肩を叩き、電話を代わるように手振りで伝える。

「もしもし」

「誰だ? お前は」

「どうも、私は弁護士の三ヶ月と申します。この度小宮山さんの代理人を務めさせていただくことに――」

 プツン。

 話している途中で電話が切れる。まだ本題に入ってすらないぞ。

 小宮山にもう一度かけ直してもらう。

「もしも――」

 プツン。

 またしても切られた。今度は自分で再ダイヤルする。

「しつけーんだよ!」

 相手が電話に出た。

「しつこいと言われましてもこちらとしても仕事ですからお話を聞いていただかないと――」

「あーっもう。払わなくていいからもうかけてくんな。かけてきても出ねーからな」

 プツン。

 電話が切れる。再度かけ直すというのも面白そうだが、通話料は小宮山の負担になる。どうにかして欲しいという依頼は達成された訳だし、わざわざこちらから喧嘩を売る必要もないだろう。

「……もう払わなくっていいってさ」

 こんなんでいいんだろうか。あまりの呆気あっけなさに若干不安になりながらも小宮山に報告する。

「いやー、こんなあっさり解決するなんて、本当はお前凄いやつだったんだな。いつもお前一人だし、近寄りがたいオーラ出してるから知らなかったけどさ、これからも仲良くしてくれよ」

「凄いって……何もしてないんだけどな。それに、そんなオーラ出してるつもりもないんだけどなぁ」

「ともかく、お前が間に入って交渉くれたおかげで一円も払わなくてよくなったわけだし、ありがとな」

「いやいや。元々無効なものだから払う必要ないし、交渉以前に話もろくにしてないよ。交渉の余地も……交渉? 交渉……交渉! そうか、それだ! 小宮山ありがとう」

「お、おう……」

 小宮山はきょとんとした顔で部屋を飛び出していく僕を見送る。

 京姫の神社の事件を解決させる糸口をついに見つけた。何でこんな単純な事に気が付かなかったのだろうか。

 契約がないなら今から契約すればいいじゃないか。

 土地の持ち主が文句をつけてきている訳ではない。

 第三者がその土地を使う根拠がないと言ってきているだけなのであるから、根拠さえ作ってしまえば文句を言われる筋合いはなくなる。

 フフフフフ。

 ハハハハハ。

 思わず笑い声を上げる。もし、誰かが見ていたら思わず警察に通報してしまいそうになるほど不気味な姿だっただろう。

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