第5話
目覚ましで、定刻に目が覚めた。
鏡で、腫れたまぶたを確認していると、小山さんが声をかけてくる。
「朝食、今日はパンケーキにしましたよ」
「あ、ありがとうございます」
辛いことがあった子どもを励ますには、食べものが一番だ。それを小山さんは熟知しているようだ。
何があったかは言わない。いつもどおりに食卓につき、いつもとは違うメニューに、顔をほころばせる。
『・・・もと外務省大臣の田口氏が、昨日未明、自殺しました』
つけたばかりのテレビから、物騒なニュースが飛び出した。
「もう、いやね。政治家が死ぬなんて」
小山さんは一言そういって、私にサラダをすすめた。すこし腑抜けたようになっている私の口は、いっこうにしゃきっとはしない。
それでも昨日の今日で、すこし気が変なままの私はこう言って、小山さんを驚かせた。
「誰かが、殺したんじゃないんですかね。陰謀とか、恨みとかで」
そのがさつな言葉に、小山さんは一瞬だまってから、私に訊き返した。
「そういうの、好きなの?」
私は小山さんを見て、考えた。どう思われたい。どうふるまうか、と。
「いいえ、別にそんなんじゃなくて。だって、政治家が、そんな簡単に死のうとするかなって、思っただけです」
小山さんはパンケーキを口に運びながら、通常運転に戻っていた。
「そうね。あんまり、うれしくないものね。自分で死んだんじゃなくて、殺されたって思ったほうが、ずっと気が済むような気がするものね」
そう小山さんが言って、私たちは顔を見合わせると、笑った。
他人の死が怖いわけでも、なんでもない。いつも私たちは、生きている人間の立場でしか語らない。それがずるくて、残酷なだけなのだ。
「そういえば今日、旦那様が一度、戻られて、それから博多の方まで御用があると、おっしゃってましたね」
お昼の番組をみながら、ぼんやりとしていた私は、すこし目が覚めた。
「いつごろですか?叔父が戻るのは」
「ええ。夕方だったと思います」
「夜、博多に向かうんですか?」
「まぁ、そうなんでしょうね」
小山さんは、それ以上詳しいことを知っているようでもない。
そもそも私は、叔父が元証券マンだという以外のことは、何も知らない。
私の父親とは、あまり近しくないから、噂といえば、悪い話しか聞かなかった。それでも、ここには一度、来たことがある。その思い出だけが、私の救いだった。
「叔母が亡くなってから、五年経つと思います。叔父って、どんな人なんですか」
昼もまわって、掃除に忙しくしている小山さんの背中に、とうとう私は訊いてみた。
叔父がいい人間か、そんなことは改めて訊くようなことでもないはずだが、「改めて」というのが、大事なのだ。
「旦那様は・・・」
小山さんは、わざわざ手をとめて、考えてくれる。
「肝心なことになると、黙ってしまわれますねぇ。でもそれって、すごく分かりやすいんですよ。たとえば、『ご夕食、カレーライスはいかがですか?』と私が言うと、目の前にいても、まったくお返事なさらない。そうしたら、あぁ、カレーライスがとてもお好きなんだなって。そう、思うようにしています」
「へぇ」
そう答えたのは、実のところ、叔父をどこまで信用できるか、けじめがつかないからだ。
それは、小山さんが言ったことが、私が過去に知った叔父についても同じように言えるからだ。あの人は、どうやら変わらない人なのだ。
「でも、それって」
小山さんは、終わったと思った話が続いていることに意外そうだったが、私はあきらめずに続けた。
「叔父の良いところなんですか、それとも悪いところ?」
小山さんは、つかんだ掃除機のコードと私を見比べた。そうして微笑みながら言った。
「どうでしょう。でも私は、人間に悪いところなんかないと思いますよ。見る人次第ですものね」
小山さんのその言葉に、私は少なからず、胸が痛かった。でも、仕方がない。この人は知らないのだ。
『悪い人なんていない』
そんな言葉があてはまる世の中だったら、どんなにいいだろうか。私はそうして自分の気持ちが沈んでいくのを感じた。
小山さんは、私が何かと引きとめてしまったせいか、少し急いだ様子で、夕ご飯の買い出しに出かけて行った。
いつになく、私は自分を哀れに思い始めた。それが相応しいとでもいうように、私は自分の部屋に戻ると、鞄から香水瓶を取り出した。
バラの香水だ。少しだけ瓶のふたを回し、鼻を寄せる。
これを買ってもらったとき、私は背伸びをしていた。自分が大人になるのだと、それを希望に生きていた。
居心地の良い家庭。楽しいデート、香水をつけるための相手も何もかも、きっと手に入ると考えていた。とくに理由は無かった。願うのに、躊躇も準備もいらない。
外が少し暗くなり、小雨が降りだした。湿気とともに寒さが漂う。私は肩をすくませ、身震いすると、戸を閉めに立つ。
そのとき、遠目に庭の端が気になった。そこには黒い傘をさした、「あの人」がいた。
『先生…』
そう思ったが、足がすくんだ。途端に理性が、『違う』と、言い聞かせていた。
なんだろう、この誤解は。私はじっとその人を見た。まるであの人のようだ。背筋を伸ばし、傘の軸をまっすぐに天に向けている。
細身の身体に、少し大きな紺色のスーツ。肌色のネクタイ。黒い傘。そうだ、あの傘のカーブは、あの人のものだ。でも、違う。
その人は、雨脚が強くなるなか、白くけぶる大気をよそに、傘をたたんで顔を見せた。
『伊佐木・・・』
伊佐木の髪は、みるみるうちに額の上に落ち、紺色のスーツは濡れて紫に変わった。私は、遠のいていく景色を見るように、焦点が定まらない世界の中にいた。
伊佐木は庭をつっきり、私の方へと、歩いて来るのだった。
幽霊のように。でも二本の脚は、靴をはいている。
「美奈子・・・」
伊佐木の唇は、そう私に言ったとき、かわいそうなほど真っ青だった。どこかで見覚えがあるような顔をしていた。
私を見上げるその目は、雨水を含んで、いつになく大きく膨らんで見えた。
伊佐木は私の名前を呼び、助けを求めて、手を差し出す。私は混乱し、後ずさった。香水の瓶だけは落とすまいと握りしめて、私は家の奥に逃げ込む。
追ってくるかもしれない、そう思った。
戸を閉めてこなければいけなかった。でも、そうはしなかった。追ってくるなら、それでもいいと思った。あれが伊佐木なら、よかったかもしれない。
でも、どこかであれは先生の幽霊だと思っていた。自分の傷が生んだ幻想。それならきっと先生は、この家の中には入ってこない。だってこの家は、現実の世界にあるのだから。
居間のテーブルの下で、自室とつながる廊下の方に目を凝らして、私はじっとしていた。猫のように、たじろぎもせずそうしていた。
その時間がどれくらいのものだったのかはわからない。私がテーブルの下から這い出してくる前に、小山さんが帰ってきた。
居間の電灯をすべて一番明るいものに切り替えた小山さんは、すぐさま、子どものようなことをしている私に気が付いた。いい勘をしている。「きゃ!」なんて、叫ばないのだ。
小山さんは、子どもを相手にするように、さっとテーブルの下を覗き込み、茶目っ気たっぷりに笑みを浮かべると、私の頬をつついた。
「雷がこわかった?美奈子さん」
そのときようやく、私は雷の音に気が付いた。かなりの轟音だ。
「やだわ、ひとりで置いておけないじゃないの」
小山さんの明るい声は、我に返るに十分な要素だった。
私は、そっとテーブルの下から抜け出て、居間のソファにへなへなと座り込んだ。
夕方6時をまわったころ、叔父が帰宅した。叔父は私に病気をしていないか、診療所なら近いところでどこそこ、なんていうことを言いながら、忙しく夕食を食べた。もちろん、私たちも同じように食べた。
叔父は一階と二階を騒がしく行ったり来たりしていたが、手際の良い小山さんのおかげで風呂に入り、髭もそって、身ぎれいになった。
叔父は、身体から湯気を出しつつ、九時には、黒のコートをはおり、玄関に立っていた。どこからともなく現れた、黄色のスーツケースもいっしょだ。
「美奈子さん、気にしなくていいからね」
叔父はよそよそしい笑いを浮かべながら、よたよたと靴をはくと、スーツケースを押しつつ、雨の中、出て行った。
私がなんとなく閉まった戸を眺めていると、ばたばたと音がし、小山さんが慌てて車の鍵を持ち、後を追いかけていく。
「旦那様!」
小山さんが空けた戸の向こう、一瞬だったが、スーツケースと叔父の隣に、伊佐木の姿が見えた。そうか、いっしょに行くのだなと思った。
すぐさま見えなくなった伊佐木の傘は、黒色では無くて、夜の暗がりに浮かび上がるほど明るい、椿色だった。私は安心して、自分の部屋に戻った。
人間とは恐ろしいものだ。幻覚があんなにはっきりと見えるなんて、どうかしてる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます