第4話
私は今日、夕暮れにまた、借りた自室の縁側から、緑の庭を見ていた。
薄ぼんやりと明るい夕方の中に、椿の葉は黒々と影のように目立っていた。
毎日死に、毎日生まれていく人間のことを、この世界はどう思っているのだろうか。
「ピンポーン」
叔父が帰ってきたのだろうか。
「はいはーい!」
外の廊下を、すり足の小山さんが走っていく。戸を開ける音。
小山さんが話している相手は、声の高さから判断して、叔父ではなさそうだった。ふっと戸が閉まると、人の気配がして、誰かが家に上がったのが分かった。
「美奈子さーん!」
呼ばれて出ていくと、そこには伊佐木がいて、大きめのスケッチブック片手に、お土産の紙袋、という体で立っていた。
「ど、どうも」
私がそういうや否や、伊佐木は私を見て、
「どうも」
と、簡単に挨拶をした。
その反応があまりに凡庸で、でも理に適っていた。
伊佐木はしばらく小山さんと話をすると、玄関へ戻っていく。
不審に思っていた私を前に、伊佐木は、ぬうっと庭へ、姿を現した。
そして知った手つきで、倉庫から錆びついたパイプ椅子を取り出した。
椅子に腰かけ、持っていたスケッチブックを広げると、鉛筆片手に、写生を始めた伊佐木。
日はもう沈みかけていたが、みるみるうちに、藍色の夜空に、虫も飛び交うころになった。日中、外ばかり見ていたせいか、部屋の白色光が目に痛い。
その人口の光を背にして、伊佐木はせっせと、花の無い椿を描いていた。私が後ろからのぞき、小山さんは夕食に誘ったが、愛想が無い。
私と小山さんは女二人で、また楽しく夕食を囲み、片づけをした。
夜8時をまわったころになって、伊佐木がリビングに顔を出した。
その伊佐木を私は面倒に思ったが、小山さんは知った様子で、伊佐木におにぎりとお茶、おかずの残りを出した。
「いただきます」
私は雑誌片手に、テレビのチャンネルをまわし、伊佐木の食事の速いことにしばらく見とれていた。
「ごちそうさまでした」
小山さんが手を出す間もなく、慣れた感じで、出された食事の後片づけをした伊佐木は、熱のこもったスケッチブックを私に差し出し、こう言った。
「どうぞ」
私は何でと思ったが、受け取る。
速足で玄関に行ってしまう伊佐木を見送りながら、小山さんは私に「お見送りして」と言わんばかりの視線を送る。
私は伊佐木を追いかけて、彼が、玄関の戸を閉める前に間に合った。
「すみません」
私が呼び止めたので、伊佐木は振り返る。その顔は無関心そのものだった。
「これ、どうしたら?」
私が尋ねると、伊佐木は表情を変えず、完全に向きなおる。そのとき余計だが、伊佐木は、とても姿勢のいい男だと気付いた。庭の土の香りがした。
伊佐木は言う。
「お好きなんでしょう、椿が」
私は本当のことを言いたくなくて、ただ首を振った。
何が起こるかと思えば、伊佐木は一度開けた戸を閉め、じっと私を見つめると、一歩だけ、私に近づいた。
思いがけず、息がかかる近さだった。
「あなたが見ている庭を、私も、見ているんですよ」
まるで赤の他人を非難する様に、伊佐木は、はっきりと唇を動かし、言ったのだ。
私だけに向けられた最初の言葉だったのに、あまりにその目は冷たく、私の心の芯を刺し貫いたようだった。
私は息もできずに、伊佐木の帰っていく背中を見ていた。
その夜、私は布団にこもってから、泣いていた。
小山さんは二階の部屋で寝ている。起こしたいわけではないが、自分に聞かせたくて、泣いている。
しゃくりあげて、涙でぬれる顔を拭き、「幼い自分」を再確認する。考えなくていいのは、泣いているときだけだ。
伊佐木のくれたスケッチブックには、椿の他にも色々描いてあった。
人間の後ろ姿が、一ページに一人、どれも違う人だった。年齢も性別も、暮らしている環境までも違うようだった。
どこかで見かけた人をスケッチした。それは確かだと思う。
詳細に描かれた衣服の柄や、皺もそうだし、服から透ける背骨のゆがみや、歩き方から、見えない顔の造作までわかりそうだった。
だけれど、それらを描いた伊佐木は、描かれた人間を、みな「過去のもの」にしている。まるで、「通り過ぎた命」。描くことで対象を殺している、そんな感じだった。
椿の絵は、そんな人たちの絵が連なった四九ページの後、最後のページに、描かれていた。
第一に、人の絵と異なるのは、椿が、とても生き生きとしていることだった。
一つ一つの線が、椿を「生かそう」と必死なのだ。
そして何より、私の違和感を誘ったのは、椿の木の下に落ちている、無いはずの花びらだった。何度も見たが、それは椿の花びらだった。
二、三度、描き直された形跡のある花弁は、風で揺れているようにも見えた。私は、その花びらを見て感じた。これは、〈告白〉なのだと。
そう感じた瞬間、私のなかで、ガラスの割れる音がした。封印していた恐怖が、私の中でみるみる広がって、自分がずっと小さく、弱い存在に過ぎないことを思い出したのである。
言葉はいつも無かった。
伸ばされた手は、私を押さえつけ、自分が来たことを知らせると、口を塞ぐことから始まった。私はその目に、いつも救いを求めていたが、目は、目的以上のことを何も語りはしなかった。
金縛りになったような私をなだめ、自分に応えるようにせがむその手が、私の尊厳を粉々にしていった。
どうして分かるだろう。いったい誰が、私の苦しみを理解するだろう。
誰も、誰も理解なんかしない。だからこそ、私は信じない。自分と同じ生き物なのだとは思わない。
私は、伊佐木が、すべてを見抜いていると思った。
これは愛ではなく、恐怖。
伊佐木が私に「入ってくる」という恐怖。
私の記憶に、私の傷に、私の不幸に干渉して、私を惨めにする。現在の私を否定して、全部、過去の私に説明させる。
どうして私がここにいるのか、どうして会社を辞めてしまったのか、どうして逃げてばかりいて、どうして誰も、憎めないのかと。
私は泣いて、自分を安心させた。それはずっとやってきたこと。
昔は隠れて泣いて、いまは少しだけ、大きく泣ける。それだけのことだ。
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