始まりの始まり

 僕たち夫婦がこの生活を始めたのは約半年前。正確にはあと3日で6か月がたとうとしている。僕が大学を卒業してすぐ後からだ。そのずっと前から付き合ってはいたけれど、一緒に暮らしてはいなかった。付き合い自体で言えば小学生のころからある。玲ちゃんは今でも小学生のようないでたち、振る舞いだけれども、僕より二つ年上の姉さん女房である。一見すると学生。高校生でも通じる幼さを彼女は持っている。だが、言動によってそう捉えられたことは一度だってない。

 とても努力家で異常な負けず嫌いが高じて、いつも虚勢を張っている。口調がオレ様なのも、口調で負けるのがイヤという意味が不明としか言いようのないものなので困っている。あれでよく仕事が成立していると思う。実際養ってもらっているのだから大丈夫なのだろう。


 同居を始めてから2カ月ほどは、いつ僕が働きだしても平気なように学生時代からやっていた運送会社の倉庫アルバイトもコンビニのアルバイトも続けていた。しかし僕の心配は心配のまま終わり、半年後もこうして養ってもらえている。実に幸福なことだ。おかげで僕は倉庫のアルバイトを辞めて専業主夫となった。


 大学4年になってからも、就職が決まっていないのに全く行動を起こさない僕を見た同じゼミの学生や教授からは「これからどうするのか?」とよく聞かれた。実際、今の生活が決まっていなくても何もしなかった気はする。

 だから結婚と同居が決まってからは正直に周りに言っていた。進路を訊かれたら「にもらってもらいます」と。反応は様々で面白かった。


 ふざけるなと怒鳴りだしたのは先ほどの教授。冗談だとでも思ったのだろうか。同じゼミだったは、結婚詐欺かだまされているじゃないかと心配してくれた。彼にとっては普通の反応だ。彼は大学に入学してすぐに気が合い、仲良くさせてもらっている。正直者で嘘のつけない、今時珍しいほどの好青年だ。僕は彼の分かりやすさと誠実さが好きだ。彼は他人を悪く言うことはほとんどない。まるで聖職者のような優しさに満ち溢れているのだ。しかし正直者といえば聞こえがいいが思ったことをストレートに話してしまうのもまた彼の性分だった。


「それってヒモじゃん。なにミュージシャンでもめざすの?それともやりたいことでもあるのか?」


 正直で優しい彼のことだから、どんなふうに人生転んでも僕のやりたいことを応援するとでも言ってほしかったなぁと思った。

「世の中働かずに養ってもらっている男はすべてヒモなのか?」と言ってやりたくなった。


「ヒモ男なんてサイテーかもしれないが、そんなに一括りにしなくてもいいだろう」

「女は養ってやることで喜びを感じているかもしれないだろう?」

 実際には言ってないから安心してほしい。

そのあと彼は、僕に向かってこう続けたのだ。


「なんかよくわからないけど、おめでとう。就職だけが目標じゃないよな」



 彼だけが僕の大学卒業と同時の結婚をキチンと祝ってくれたのだ。あとは少なからずお祝いの言葉に裏を感じたのだ。


「楽しやがって」

「男のくせに情けなくないのかよ」

「大学4年も通って結婚だけとかウケる」

「親泣かせだな。親がかわいそう」


 これらは僕が勝手に受け取めて感じていることだから、僕の被害妄想である。すべてを言葉に発して言われたわけではない。これが女性の立場だったなら、お互い学生だったなら子供ができてしまったなら状況は違うのだろうか。祝福で幸せいっぱいなのだろうか。それとも社会に出ずにいることを非難されるだろうか。


 1番大切なことであるが、少なくとも僕は幸せだった。他に祝福されなくとも、他にタイミングを合わせられまいとも。だから結婚したのだ。大体、プロポーズだって玲ちゃんから唐突にもたらされたのだから。


 今思い出しても滅茶苦茶だと思う。僕たちの始まりの始まりの


あれは僕が大学を卒業するまで2カ月を切った冬真っ只中。普通にショッピングモールに買い物に二人で行っていたことだった。玲ちゃんは僕より2つ上だから2年前に大学を出て、社会人になっていた。週末や玲ちゃんが休みの日に出かけることが多かった。その数あるうちの1つだった。

 外へ出かけることも多いけれど家で会うことも結構あった。玲ちゃんが一人暮らしをしていたアパートだ。ちなみに僕は、実家から大学へ通っていたから同棲していたわけではなかった。けれども合鍵はもらっていた。なぜかって、『居ついてもいいから』なんてそんな甘い理由ではない。 


 玲ちゃんはとにかくとにかく、生活におけるIQが低いのだ。家事・掃除・洗濯・炊事が上手くできない。というかしないのだ。料理なんて一人暮らしを始める当初からする気は一切なかったらしく、キッチンにガスコンロは設置されず、冷蔵庫すらなかった。炊飯器、電子レンジも同じく。

 キッチンは半ば物置と化しいつも暗いままだった。

 

 洗濯はかろうじてできるけど衣類が山になったままだし、干してあるそのまま乾いたら着る分だけ収穫するようにして着る始末。掃除機もないから掃除もほとんどしなかった。本人曰く、

「掃除なんかしなくても死なん。風邪もひかない。風呂掃除などもはや意味がわからん」だそうだ。

だから僕は時々、仕事中で不在の彼女の家に上がり、家政婦のように家事をしてあげていた。でなければ、彼女のアパートはゴミ屋敷一歩手前までいくことも多かった。

 道具もないから料理はしないが、スーツをクリーニングに出したり、たまった洗濯をして掃除をした。彼女に外に出たときに恥をかかぬようにしてほしかったのだ。

 

 だから僕の婿入りにはこの献身的な行いが関係したのだ。しかしこの行為によって、玲ちゃんはもとから大分ワーカーホリック気味だったのにひどくなってしまった。食事を抜くなんてそれこそ朝飯前だったのだろう。彼女に少しでもキチンと食事を摂ってほしくて可能な限り一緒に食事を摂った。牛丼でも、ファーストフードでも。家で出来ないから外食ばかりだったけれど、鍋物などを食べさせたい日には僕の実家で食べることもあった。

 それもひとえに、僕の実家と玲ちゃんの職場が近かったからできていたけれど、僕が働き始めることでこの生活を続けるのは難しくなることは目に見えていた。それにずっと外食ばかりで経済的にもよくなかった。あとになって聞いたが、僕の卒業が近くなるにつれ結婚を考え始めたそうだ。


 僕のほうといえば、玲ちゃんとの時間以外はほとんどを倉庫の深夜バイトとコンビニのアルバイトをして過ごしていた。家には風呂と着替え、シャワーに帰るくらいだった。ほとんど就職活動らしい活動をしなかった。やりたいことがなかったといえばそれまでで、だが本当に何もなかったのだ。だからこのままフリーターでしばらくはいるつもりだったのだ。親には申し訳ないが、迷惑をかけなければいいと思っていたくらいに。

 本当に眠る暇さえ惜しんでバイトばかりしていた。何が自分をそうさせていたのかはいまだにわからないけれど、学内で城野に会うたびに言われる一言目はいつも、

「お前、昨日何時間寝たん?」

だった。サークルの飲み会の誘い文句もいつもきまっていて、

「キチンと寝てから来い」

だった。一度も参加したことはないけれどよく誘ってくれていた。

 もともと眠ることに無頓着だがいくら若くてもキツかった。このことも玲ちゃんは気がかりだったようだ。



 買い物デートの最中、玲ちゃんは突然ジュエリーショップの前で足を止めた。僕はてっきりほしいものでもあるのかと同じく足を止めたのだ。

 玲ちゃんは握っていた僕の手を放し、肩を上げてずんずんとショーケースを通り過ぎて店内を進んでいく。僕には入りずらいが、鉄砲玉のように弾かれた彼女は戻ってはこないので諦めてついていった。すると彼女が口から発した言葉は、

「結婚指輪はここからここまででいいのか?」

いつもの命令口調でおそらく結婚指輪のショーケースを指さしている。

「マリッジリングをお探しですか?」あえて結婚指輪と言わない店員の質問を玲ちゃんは無視する。

「千里、ここからここまでだ。好きなデザインを選べ。ちなみに1つだけだぞ」

こどもにおもちゃを選ばせる父親のような口ぶりだ。

「えっ?なんでいきなり?」

「今買うの?」

 僕の言葉に玲ちゃんは大きくうなずいただけだった。

 言葉に詰まった僕に、長い髪をきれいにまとめ、ストールを首に巻いた女性店員はますます困った顔で僕を見つめてくる。逃げ出すなら今だと思ったけれど、いつの間にか玲ちゃんに手首をガッチリと掴まれていた。小さな体からは想像できない強い力と決意のまなざし。僕は逃げるチャンスさえ逃がしてしまっていた。

 困り果てた僕は同じく困り顔の店員の痛い視線を一心に感じながら、ろくに品定めもできずにとにかく一番シンプルそうなものを指さした。

選べばこの状況から解放してもらえるだろうか。

「そうか。わかった。ではそれと、こちらの女性用のリングを頼む」

「ペアの物ではないですがデザイン自体は似ているので、そういう風にして選ばれる方がたくさんいらっしゃいますよ」と僕が覚悟を決めたように見えたのかほっとした顔で店員は言う。

「ではサイズを合わせますので、ご試着していただけますか?」と言われてケースから出され指でつまんだリングを指にはめてみる。

 僕も玲ちゃんも見本のサイズにぴったりだった。ほとんどはめたことの指輪の感触に戸惑った。存在に違和感を感じるし、うまく外せずに困ってしまった。シンプルなデザインさえ自分には似合わないような気がして、すぐさま店員に突き返していた。玲ちゃんはというと、

「ぴったりだな。サイズはこのまま、刻印はこの文字で頼む」と言って小さなメモ用紙を店員に渡している。

 一字一字間違えの無いように、伝票へと記入していく店員。裏側に誕生石をサービスするとのでどうするかと尋ねられると、

「こちらはピンクダイヤ、こちらはサファイヤで頼む」といった感じで僕は完全に置いて行かれていた。僕だけがずっと無口で、目線だけ店員の指の動きを追っていた。

 ハッとして指輪が置かれているショーケースのプライス札に目をやって焦った。普段送るプレゼントとは桁が1つ違うのだ。貯金を使えば何とかなるが、こんな一瞬で決めて言い金額では決してなかった。

「カードでたのむ」

玲ちゃんはなんのためらいもなく、カードを使ってあっさりと支払いを済ませてしまった。僕は合計金額さえ知らされていない。

「出来上がりましたら、こちらの電話番号にお電話差し上げます。このたびはお買い上げいただき、誠にありがとうございました」

 伝票の指さす先にはしっかりと僕の携帯の電話番号が記入されていた。あっという間のことですべて終わってしまい考える暇さえなかった。店を出ようとする玲ちゃんはカモを捕まえた詐欺師のようにニヤついた顔で口角を上げていた。今にも獲物を食らいつくさんばかりに舌なめずりをする猛獣のような目線で。


 これが玲ちゃんからの僕へのプロポーズだった。

 

 羨ましいと思うか男子諸君。 男らしいと思うか女子の皆。

 どちらにせよ、僕にメンツというものがあったなら、文字どうり丸つぶれだろう。いっそすがすがしいほど、言い訳しない彼女を横にして僕は言葉を発する力を奪われたようだった。

「驚いてくれたか。それならよかった」彼女は僕を驚かせたかったらしい。

「出来上がったら申し訳ないが、受け取りに行ってくれ」

「出来上がったら婚姻届けを出そう」もうどこからどこまでも自分勝手である。とどまることの知らない彼女の奔放さに、僕は喧嘩にならぬように、努めて冷静に言った。

「どういうつもりなの、玲ちゃん?」

彼女は帰ってきた自室の暖房をつけながら僕が掃除した床に座って話し始めた。

「どういうつもりかと言われれば、お前を婿にもらうつもりだ」

いたくシンプルに、テキストを読むように言いながら微笑む。

「相談をしなかったことなら責めてもかまわん。千里には大学を出たら家にいてほしい」

「千里は知らないが、うちの両親も千里の父上にも了承を得ているぞ」

「3人とも喜んでくれていたぞ」僕にとどめを刺すように畳みかける。その3人は僕が了承していないことを知っていただろうか、と心配する。


「玲ちゃんはそれでいいの?僕なんかでいいの?」

心の声が出た瞬間だった。いくら僕が都合がよくても、幼馴染でもいくらでもほかに都合がつくだろう。


「千里と結婚する以外、結婚相手などいらぬ」


戦国時代の武士のように言い切った。

 僕は結局その言葉に「ありがとう」と返すしかなかった。

 あの日の玲ちゃんの暮らすアパートの、広くはないフローリングの冷たさを覚えている。そのとき、僕はずっと玲ちゃんについていこうと決めた。仕事ばかりが社会とかかわる方法ではないと自分に言い聞かせた。

 そして結局僕は大学を卒業して専業主夫になった。そうして半年がたった。


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