その断末魔に訊け
有馬佳奈美
僕の日常の始まり
始まり
僕の話を訊いてもらいたい。
僕の日常の話。
僕にとっての日常。
普段聞くことのない高音ばかりで構成されているスマートフォンのけたたましいアラームの音。
それに伴う、バイブレーションで横になっていたい体をたたき起こす。隣に寝る小さい彼女はアラームの音にもまるで反応を示していない。
時刻は毎朝5時45分。この時期はまだ日が昇ってないから部屋は暗く、まだ隣家の生活音も入ってはこない。ベッドから出て、身支度を済ませる。どこにでもある、朝の一コマ。
着替えを済ませて、まずは昨日吸水させておいた釜を炊飯器に設置して炊飯を開始する。そのまま朝ごはんと昼食用のお弁当のおかずを作り始める。お弁当は、平日はほとんど毎日作っている。あれは入れるな。だの、このおかずを入れてほしいなどクレームもしばしばある。まるで自分が、思春期の子どもをもつ親のようである。
たいていは鶏肉か豚肉を使ったおかずなら、間違いがないこともこの半年で学んだ。
この誰かのための食事を作っている時間が、僕は結構好きだったりする。だからこそ、早く起きて時間を気にせずにゆっくりと作る。たべることよりも作ることが楽しいとは、半年前までは全く知らなかった。人間意外な一面があるというならば、これが僕の意外な一面かもしれない。僕の料理好きの話はこれくらいにしよう。
鶏の照り焼きに、昨日の残りの鹿尾菜の煮物。ベタだけど卵焼きにミニトマト。ご飯は彼女のリクエストでおかかとノリでのり弁に。
箸をつけ忘れて電話口で怒られたこともあったから箸を忘れるべからず。しかし、弁当自体を忘れることがある彼女のために玄関のマットの上に置いておく。
朝の食事作りがすんだら、脱衣所の洗濯機を回し始める。そろそろシャワーを浴びる予定の彼女を起こしにいく。まずは1回目。よっぽどのことがない限り何度か繰り返し起こしに行かないと起きない。
本当に学生のころの寝起きの悪さを引きずっている。だけど、この日は早く起きるのはわかっていた。
僕は単純なことが大好きだ。ワンパターンな反応は予測がつくからいい。
「玲ちゃん。起きて。もう6時50分だよ。朝ごはん食べられないよ」
敵は身じろぎ一つしない。ここで彼女が起床するであろう理由を使う。
「玲ちゃん。今日は寒いね。外すごいよ。雪降ってる。しかも結構積もってるよ」
彼女は目を見開いて、布団を大げさに振り上げて窓際に詰め寄ってくる。
「なに!連絡網は来たか!?」
「今日はブーツだな」
「寒いわけだ!」
敵はどうやら狸寝入りをしていたようだ。絶対起こしてもらえるとわかっているからこそ、堂々と二度寝をしていたようだ。僕は彼女がちょっぴりうらやましい。おおむねの大人は、すごくうらやましいと思うだろう。
働いているのだからクラスのお友達からの連絡網はもちろん来ない。
社会人なら都心の積雪は憂鬱でしかないが、彼女は日常のちょっとした変化に過剰な反応を示している。彼女はとても分かりやすい。わかりやすい反応をしてくれる。大げさに手を広げ喜び、立ち上がれないほどに落ち込む。
とてもわかりやすい。僕の大好きなパターンをたくさん持つ彼女。
交通機関が乱れているニュースが報じられている。テレビをつけておいたのは彼女をさらに追い立てるため。油断すると敵はベッドからそのままこたつに入ってもう一度ならず、三度寝をし始める。自業自得だが、彼女この冬はそれで何回か朝食抜きになっていた。僕は空腹で午前の仕事をする彼女を想像して、また二人分のトーストを食べる自分の胃を心配して、この三度寝の撲滅を掲げている。
部屋の温度が低く、交通機関の乱れを気にしてか、いつもの二割増しに早く行動する彼女を横目にケトルでお湯を沸かしてカップにインスタントのコーヒーを入れる。
今朝のニュースは都心の積雪一色だし、玲ちゃんはシャワーを浴びに行ったので聞こえてくるのは、僕の出す音とテレビの出す音の二つになった。
僕は何気なくぼおっと窓の外へ視線を移す。キッチンからベランダへ通じる窓は僕たちが発した熱と外気とが触れて曇っている。外はすべてが一度白く塗りつぶされたようにまぶしい。
雪から発せられるそのまぶしい白さは人が触れてしまったらもう、薄汚れてしまう。できればずっとそのままの白さであってほしい。汚くなった雪の色は、見ていてあまり気分のいいものじゃない。
シャワーから出てきた玲ちゃんはもうスーツを着て、濡れた髪をタオルで撫でながら乾かしている。僕は朝食の用意に取り掛かる。大体毎日朝食は、トーストとコーヒー、ヨーグルトぐらい。
彼女がかけるドライヤーの音にかき消されるテレビを見ながら、先にコーヒーに口をつける。ドライヤーの音が止まれば次に彼女は化粧に取り掛かるだろう。
とても幼い体格には似つかわしくないメイクが僕が好きじゃない。玲ちゃん曰く、たしなみでありナメられないためらしい。これを聞いて僕はとても切なくなる。彼女が外に立ちつづける必要がなければいいのにと。
二人で過ごすこの静かで慌ただしい朝の時間こそが僕の日常の始まり。空洞な頭で彼女を眺めているこの朝の時間。部屋を暖めるための加湿器から排出される水蒸気ごしにもう一度窓を見つめる。
「今日は帰りが遅くなりそう?」
寝室から出てきて、僕と同じく食卓へと腰かける彼女へ投げかける。
「今日は、遅くなるかもしれない。先に食事をとっていてくれ。そういえば、千里。母さんからこの前のお裾わけの容器は明日、返しに来るそうだ。昨日ご丁寧に会社に電話があった」
「うん。わかった。会社に電話は困るね。今度は電話はしないように言ってみるね」
「そうしてくれ。勤務中の社内で、電話ごしに喧嘩はしたくない。そうしてくれ」
彼女はタブレットで経済新聞を読みながら、コーヒーをすすりトーストをかじっている。
千里とは僕の名前。せんりと読む。
そして、夫婦の夫側のような返事をしていた彼女こそ、僕のお嫁さんであり、一家の大黒柱である妻の玲ちゃん。
そして、僕たちが朝の慌ただしい時間を過ごすここは、都内の公営住宅の居間。僕たち二人は結婚して約半年の正真正銘の夫婦であり、僕は世間一般でいう専業主婦をしている。だから結婚も僕が婿入りした形だ。
白くざらついた模様の壁に掛けられた、またそれも白い時計の針は彼女が出勤しなければいけない時刻を指している。テレビのニュースはキャスターがかわり、外は幾分雪が弱くはなっただろうか。
そして今日も一日の始まりの時間が終わりを告げ、彼女は仕事へ行き僕は家事にいそしんでいる。割とマメできれい好きを自負している僕だけど、何も望んでこうなったわけではない。彼女は下駄箱のブーツを出して厚手のコートに身を包んでいる。
玄関までの見送りはドラマのワンシーンのようだけど、毎日欠かしたことはない。養ってもらっているせめてもの労いと感謝である。ベッドでの起きたての彼女とは違う妻を送り出そうとして、別人のようだけど雪にはしゃぐ声に妙な安心感を覚える。何に不安になっているかは分からないけれど、毎朝僕をチクリと刺し続けている不安感の正体は、きっとこの朝の幸福が終わることへのさみしさだろうか。
古臭い集合住宅の思い玄関ドアを開けて、外の景色を直接見た彼女は、階段の踊り場で他戸に響く大きな声でやはり嬉しそうである。
「いってらっしゃい。気を付けて」
「いってくる。弁当ありがとう」
かわす言葉少なく足取り軽やかに、コンクリートの階段を下りて行った。玄関を閉め、僕も玄関の空気が吸いたくなってベランダへと出た。人が活動を始めたせいで全くではないが、ベランダから見下ろす降り積もった雪が音を吸収しているのではないかと思うぐらい静かだ。目から入ってくるこの色が余計にそう錯覚させようとしている。実際は通勤・通学する人が道の雪を踏みしめ、道路を走る車のエンジン音がする。けれども今の僕にはそのどれもが靄がかかったようにクリアさに欠けている。この静けさのフィルターがまるで一瞬だけ世界から自分を切り取ってしまったような気持ちにさせてくれた。十年に一度くらいはあるのかもしれない、白い朝。
口から吐く息を見つめていたら住宅から集団登校する子供たちの遠いはしゃぎ声で我に返り、寒さで耳を赤くしたこどもの一人と目が合ってしまった。しかしその視線はすぐに外れて目の前の白さにひたすらはしゃいでいた。
きっとあの子たちには玲ちゃんが望んだ連絡網が来ただろうかと一人で口角を上げてしまった。
いまだに耳の中はしんと静まり返って心地よい静寂が残っていた。
部屋の中に入った後、温もりの残ってはいない、冷え切ったベッドに横になって少しの時間仮眠をとる。彼女を見送った後のいつもの習慣だ。
一応誤解のないように言っておこうかと思うが、僕だってわずかながら働いている。とはいっても、自分のお小遣いの範囲ぐらいという甲斐性のなさだけれども。週に三度、コンビニエンスストアで一日5時間アルバイトをしている。それ以上の収入に関することはすべて玲ちゃん任せというもはや立派なヒモ男に見られてしまうこともしばしばある。
世の中の女性は男性ばかりの職場や集まりを入りずらいなどと批判するけれど、女性のそれのほうがよっぽどえげつがない。男性の中の紅一点というのはアリだけど逆は成立しずらい。すべての女性に少なからず言えると思うけれど、被害妄想激しくプライドが高いのにはほとほと感心する。
隣戸の住人からは玲ちゃんが働き、僕が家にいるのがわかると僕は病気なんじゃないかという話に勝手になっていたのには困った。今時在宅ワーカーだっているだろうに。僕たち世間は思ってるほど以前寄りの認識で生活をしているようだ。
ここまで僕と彼女の話をしてきたけれど、どうしてこんな形になっているのか?それは僕が病気だからでもなく、働きたくないわけでもない。
早朝と同じくけたたましくなるアラーム音。ちょうど一時間ほどで体を起こす。
今日は先ほどのバイトがある日なので出かける準備をする。彼女がブーツで出て行ったのなら、僕も普段はほとんど履かないブーツを出して冷える玄関へと急ぐ。少しだけ横になっていたことで、体の中の静けさはもう消えてしまっていた。
僕は家を出て、雪道を踏みしめながら駅の反対側の勤め先まで歩く道中で、冷える手をさすりながら約半年前のことを思い出していた。
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