第11話

「おい」

 ぺち、ぺち、と軽く頬をはたかれ、熟睡していた舜はうん、とまゆをしかめた。

「な、に」

 服を着た高槻が枕元に手をつき見下ろしている。

「お前、名前は」

 ごし、と舜はシーツの中で目をこすった。

「え、舜。碓井舜」

「起きろ舜」

 舜は半分寝ぼけながら言った。

「何時」

「七時半」

 ああ、となんとか目をあけ、少年はベッドに起き上がった。

「帰んなくちゃ。お母さんより早く家に居ないと」

 高槻がクロゼットに向かいながら言った。

「仕事か。土曜なのに」

 舜は寝ぼけまなこでうろうろとベッドの下を見回し、服を探した。

「うん」

「父親は」

「いない」

 ちらりとくれた男の視線に、少年は無頓着だ。

「もう死んでる」

「いつ」

「五歳」

 思い入れのない声で言い、服をかき集めて振り向いた。

「シャワー貸して」

 男が投げてよこしたタオルを掴み、舜は部屋を駈け出していった。

 シャワーを済ませてリビングへおもむくと、高槻がデスクの引き出しを開けていた。

「お前、下のエントランスはどうやって抜けたんだ」

 舜はソファにどさっと座り、頭を拭きながら答えた。

「ここを呼び出してたら管理人さんが開けてくれた。今日は日射病じゃないんだなって言われちゃった」

 まったく、と男がこぼした。

「管理のていしてないな」

 ちゃり、と音がして、振り向いた舜に高槻が鍵をほうった。

「他人をわずらわせることはない」

 引き出しをしまいながら部屋の主は言った。

 鍵を目の高さに上げ、まじまじと見た舜が、あ、と口を開けた。

「ねえ。携帯」

 高槻が振り向く。舜はカモシカのような軽やかさで男に駆け寄った。

「携帯。貸して」

 差し出した手に電話を受け取り、手際良くボタンを操作しながらソファに戻ると、ポケットから自分の携帯電話を取り出して、両手に一台ずつ持った。電子音が続けて鳴り、自分の道具をのぞいて、舜が訊ねた。

「これ何て読むの」

 男が来て、舜の後ろに立った。

「これ。下の名前」

 一瞥いちべつして、表情も変えずに「つかさ」と言う。舜が繰り返した。

「高槻宰。ふうん」

 高槻は携帯を取り返し、新たに追加されたデータを見てから無言でしまった。もらった鍵をキーホルダーにつないだ少年は、手早くドライヤーをかけ、「じゃあね」と柔らかな笑顔でマンションを飛び出していった。

 施錠せじょうしてリビングに引き返した男は、崩れるようにソファに座り、頭を抱えた。そのままじっとしている。やがて疲れた顔を上げるとテーブルに目をえ、少年がきちんと畳んでいったタオルの折り目を黙然もくねんと見やった。

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