第10話

「俺の顔、見てただろ」

 けだるい脱力感にくるまりながら、少年が言った。

「あの時」

 放心した舜を地面に横たえ、高槻はしばらく眺めていた。ことに舜の顔を注意深く。必要以上に長く。

「見られてないと思ってたんだろうけど」

 通り過がりの柔らかな明かりが、ほんの一瞬、くっきりとした眉目びもくをふわりと浮かびあがらせた。

「薬が残らないか確かめてた」

 かたわらに起き上がり、片膝を立てて煙草を吸いながら男が言った。二つの裸体をへだてているのは、半身にかけたシーツ一枚きりだ。

「なんでさ」

 舜は男に背中を向けている。羞恥しゅうちとも拒絶ともとれる、かすかに上気した背中。

「命までるつもりはなかったからな」

 旦那だんな、やるよ。これやる。

 マンハッタンの裏通り。隙間風のような英語で話しかけてきた物乞ものごい。

 やるよ。あんた、いつかそいつが必要になる。そういう顔してるよ。

 いいから持ってきな。

 欠けたくしのような歯を見せ、笑うとも脅すともつかぬ顔で、ポケットに小さな包みを押し込んだ。言われるまま受け取ってやり過ごし、ホテルに帰ってからポケットに手を突っ込んで、れた物をゴミ入れに投げ込んだ。だが物乞いが押しつけたのは一包だけではなかった。

「あんた、さっき、いった?」

 少年の問いかけに、男はまるで無関心に答えた。

「いや」

 舜はさらに背中を丸めた。

「あの時も、さ」

 ああ、と男がつぶやいたのは、肯定というより、ただの感慨に過ぎなかったかもしれない。

「なんでだよ」

 高槻は煙草を指にはさみ、舜と反対を向いていた。

 常務はいたくお喜びだよ。

 いい人材を推薦してくれたってね。

 おかげで私も鼻が高い。

「内示が出たんだ。新しい米国支店の支店長」

 美鈴さんとも順調だそうだね。向こうへ行く前に、けじめだけはつけておきたまえよ。

 常務はそういうことにはうるさいぞ。

 なんといっても一人娘だからな。

「うんざりだった」

 追いつめられてゆく。がんじがらめに。ぶち壊してしまいたい。何もかも。

「滅茶苦茶にしたかった」

 いつでも、憎くてたまらなかった。健康的に日焼けした肌や、無邪気な話し声や、清純な笑顔が。見るたびにきつけられ、そして神経をさかなでする。自分を苛立たせる清らかな生き物。この手で凌辱りょうじょくし、壊してしまえば、もう悩まされることもない。そう思った。

 裸の体にシーツを引き寄せ、舜はあごまで埋めた。寒くないのに肌が震えた。

「誰でもよかったのかよ」

 指に挟まった燃えさしから細い煙が昇ってゆく。じ、とかすかな音を立て、灰がひとひら落ちた。

「いや」

 ほの暗い寝室はゆりかごのように全ての気配を包み、静かにたゆたっていた。

 舜が寝返りを打ってこちらを向いた。シーツをかぶり直しながら話しかける。

「煙草なんて吸うんだ」

 しばらくって、横顔が答えた。

「今日までやめてた」

 おとなしく眺めていた舜が訊ねた。

「おいしい?」

 ちらと横目で見た高槻が、黙って吸いさしを持ちかえ、舜の口にした。舜は小さく吸い込んだ。

「ごほっ」

 たまらずに吐き出し、あわてて起き上がって咳き込む。高槻は煙草を挟んだ手を顔の横にかかげ、煙をうしろへ流しながら無表情に言った。

美味うまくはなさそうだな」

 舜は苦しそうに体を折りながらまた横になった。

不味まず。最低」

 男はむこうを向き、美味くも不味くもなさそうに煙を吐いた。

「不味いと思うなら、吸うな」

 ぐったりと寝そべって、舜が大きく息をついた。そのまま四肢を伸ばし、シーツの感触を楽しむ。不機嫌そうに呟くのが聞こえた。

「もう一枚けろと言ったろ」

 少年は素直にこたえた。

「うん。今度からちゃんと着る」

 高槻が煙草をみ消した。煙の最後のゆらめきが部屋の薄暗がりに溶け込んで、いつしか匂いも判らなくなった。

 紫煙しえんの香りの残る指が、ついと舜のあごを持ち上げた。思案顔しあんがおがじ、と見下ろしている。

「今度はもっとうまくやれる気がする」

 目を潤ませ、唇をなかば開けて待ち受けながら、舜はうっとりと囁いた。

「なんだっていい。あんたがしてくれるなら」

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