第9話

 ほとばしる湯音の向こうにけたたましい気配を感じて、高槻宰たかつきつかさは水栓をきゅっと締めた。ドアフォンが鳴っていた。それもせわしなく、何度も。嫌な予感を覚えながら、バスルームに備え付けの受話器を取った。

「はい」

けろっ」

 わめき声が耳に突き刺さった。玄関をどんどんと叩く音までする。高槻はけわしい顔で受話器を握りしめた。

「今取り込み中だ」

「うるせえ、早く開けろ」

 いつにもまして少年の語気が荒い。何かにひどく興奮しているらしい。高槻は受話器を叩きつけた。濡れた体に乱暴にバスローブを巻きつけ、大股おおまたで玄関に向かう。扉の向こうで相変わらず開けろと叫ぶ声がした。

「いい加減にしろ」

 怒鳴りつける高槻を上回うわまわ剣幕けんまくで、舜が飛びかかって来た。

「てめえこそふざけやがって」

 ローブのえりを乱暴に引き寄せる。

「てめえ、女がいるんじゃねえかよ」

「なに?」

 逆上のあまり舜の顔は真っ赤だった。

「女と二人でホテルに入ってったじゃねえか。見たんだぞ」

 男は一瞬戸惑ったかに見えた。が、すぐに否定した。

「見間違いだ」

「間違いじゃねえ。この目で確かに見たんだ」

 二人は玄関でもみ合った。苦心して舜の手を振り払った男が、バスローブの前をかき合せながら苛立たしげに言い返した。

「だからなんだってんだ。女がいようがいまいが、お前に関係ないだろうが」

 舜が再びつかみかかった。

「女がいるくせに、なんで俺にちょっかい出したんだよ」

 声が途切れた。

 肩が激しく上下している。ローブの端にぐったりとおでこを押しつけ、舜は荒い息を続けた。

 襟を取られた男は、目の前で波打つ肩を見下ろした。

「お前、泣いてんのか」

 ぴくっ、と少年の肩が揺れた。畜生、と弱々しい息が呟く。

 ほどなく、すすり泣きが聞こえてきた。バスローブを命綱のように握りしめ、舜は静かに嗚咽おえつしていた。

 男の顔がほんの刹那せつな苦悶くもんに揺らいだ。

「お前、どうしたいんだ」

 低くたずねる相手に、舜は泣きながら「判らねえよ」と答えた。

「ただ」

「ただ?」

 襟を握る手が震えた。

「体が、熱い」

 わなわなと震えている。

「熱いんだ」

 男は無言だった。目に見えない広大な荒れ野を、一人あてどもなく彷徨さまよっているかのように立ち尽くしていた。

 二重ふたえの目が、あきらめに沈んだ。

 静まりかえった玄関で声がした。

「靴を脱いで」

 舜は濡れた顔を上げた。

「え」

 男は舜の足元に目を落としている。

「靴を脱いで」

 下を見ると、上がり込んだ土足どそくが見えた。舜は鼻をすすりながら靴を脱いだ。よろめくと高槻が支え、抱きかかえながら廊下の扉の一つをあけた。暗い寝室のベッドカバーをめくり、少年を座らせる。うながされるまま舜はベッドに横たわった。その横に腰を下ろして、男は枕の上のすべらかな顔を見下ろした。

 水滴が舜の頬に落ちた。拭った手がそのまま、確かめるように頬に触れている。

 無表情に、胸の内の闇を見つめるように自分を見る男の顔を、舜はぼんやりと見上げ、近付いてくるのを見守った。

「なんだよ。またクスリ使ったのかよ」

 唇が離れると、うわごとのようにそう呟いた。熱病かと思うくらい顔が熱い。高槻はあの晩と同じ、静かな顔をしている。

「そう思うか」

 舜はゆっくりとまばたいた。

「判らない」

 判らないが、あの息苦しさは消えていた。うずくまるほどにつらかった胸の痛みが和らぎ、代わりにもっと切ない鋭敏えいびんうずきが、体の奥から突き上げてくる。

「嫌なら抵抗しろ。すぐやめてやる」

 舜は抵抗しなかった。影のようにうごめく男の手が実体を生じた時、熱い感触が背骨に沿ってすべり、声をあげてのけぞりながら、温かく湿った体にしがみついた。

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