第12話
渡り廊下の途中で何気なく文芸部の部室を見やり、舜は足を止めた。
窓際の机に女生徒が一人突っ伏している。
なんとなく左右を確かめ、渡り廊下を外れて近寄った。
「水沢?」
女生徒がのろのろと上体を起こした。舜はたじろいだ。
「あ」
水沢沙穂は、舜と知ってすぐに顔を拭いた。「碓井君」と応えた時には、けなげな笑顔さえ浮かんでいた。
「久しぶり」
舜もちょっとだけ笑った。
「うん」
二人で話すのは校舎の裏の告白以来だ。少しためらって、訊ねた。
「邪魔だった?」
ん、と両目を押さえた沙穂は、「平気」と首を振った。
「碓井君だから許す」
思わず口元がほころんだ。いい子だな、とやっぱり思う。沙穂がふとこちらを見て、何か言いたそうな顔つきをした。
「何?」
相手は下を向いた。
「ううん」
それから上目づかいで、控えめに見上げた。
「うまくいってるんだね」
「え」
窓辺に立つ舜は、部室に座る沙穂より少しだけ背が高かった。沙穂が頬を緩めて言った。
「この前言ってたじゃない。気になってる人がいるって」
一瞬おいて、少年がぱあっと顔を赤らめた。目にも鮮やかな
「えっと、うん」
舜は困ったように目をそらし、頭をかいた。
「その、うまく言えないんだけど」
くすくすと沙穂が笑い、舜はあきらめて口をつぐんだ。沙穂が「あ」と目を輝かせた。
「はいっ、先生」
教室で質問するように勢いよく手をあげる。舜が目をぱちぱちさせた。
「は?」
「あのね。提案」
沙穂は身を乗り出し、窓のふちに手をかけた。
「碓井君がその人のこと聞かせてくれたら」
沙穂が続けた。
「お返しに私の涙の
少年は戸惑った。が、相手の顔を見るうちに、気付いた。
聞いて欲しいのだ。誰でもいい、誰かに。
だから微笑んだ。
「うん。いいよ」
にこっ、と、何の悩みもなさそうに沙穂も笑った。
「じゃあ、あたしから」
「うん」
目を閉じて、深呼吸を一つ。目を開けると、文学少女は舞台に立つ女優のように大人びた顔で告げた。
「うちの親、離婚するの」
「え」
思わず声が漏れる。
「昨日母親にそう言われたの。お父さんとお母さん、離婚することにした、って」
舜はとっさに何も言えない。沙穂はわずかに顔をうつむけると、再び等身大の少女に戻った。
「なんとなくね、ぎくしゃくしてるな、っていうのは感じてたんだけど」
落ち込んでいる少女のつむじを見下ろしながら、心優しい少年は言葉が見つからなかった。
舜自身、言うなればひとり親家庭だが、離婚という事情でこれからひとり親家庭になるのは、そういうのとまた別物なのだろうということぐらいは判る。軽々しく慰めるのも、励ますのもはばかられた。
「お父さんは、何て言ってるの?」
沙穂は首を振った。
「夕べは帰って来なかったから。いつものことだけど。仕事、忙しいみたいだし」
その
「理由とか、聞いた?」
「聞いたけど、よく判んない」
少女は重い息をついた。
「浮気ならまだ良かったのに、って言うんだよね。女がいた方がどれだけましか、とかさ。いつものことだけど、母親の言い方ってもってまわってて、時々理解不能。でもとにかく、もう一緒には暮らせないんだって」
「水沢はどうなるの、学校とか。引っ越しとかしなくちゃいけないの?」
「ううん」
沙穂は今の家に母親と住み続ける。学校も変わらない。父親が出ていくというのが母親の言い分らしい。
「結局今までと変わんないよ。今だって、滅多に帰って来ないんだもん」
そう言って、沙穂は苦笑してみせた。それでも当人にとって辛い現実には違いない。少なくとも、部室に隠れて泣くくらいには。
「他に質問はありませんか」
クラスの会を仕切る学級委員のような口調で言われ、舜は慌てて大きく首を振った。相手は満足げにうなずき、「さて」と言った。
「次は碓井君の番」
う、と舜は言葉に詰まった。何を話したらいいのかさっぱり見当もつかない。仕方ないので、沙穂のやり方に倣うことにした。
「えっと、質問はありますか」
くすくす笑いをかみ殺して、沙穂が質問した。
「じゃあね、どこの学校の人ですか?」
舜は口をすぼめた。
「学生、じゃないよ」
へえ、と沙穂が言った。学生ではない相手というと想像がつかない。大人。それとも、子ども?
「年上?」
舜は首をひねった。自動交換した携帯電話には、見事なまでに余計な情報がなかった。名前と電話番号とアドレス、それだけだ。
「うん。だいぶ上。たぶん、三十とか、それぐらいかな」
「一緒にいると、すごく安心できるんだ」
沙穂は口を開けて聞いていた。
「すごいね」
驚いた表情の奥に、ちらりと
「なんか、軽々しく彼女、なんて言えない感じだね」
舜は首をかしげて沙穂を見た。
「だって聞いてると、すごい大人の女性じゃない、その人」
気づかぬうちに舜は半歩後ずさっていた。
話している少女が、まるでよく知らない相手のように見える。
耳鳴りがした。あるいは遠くで、何かが轟々と渦巻いているのか。
勿論それは
話さなければ。高槻と。
何を?
判らない。
けれど、話して、確かめなければ。
耳鳴りが大きくなる前に。
見上げていた沙穂が、ふと舜に向けて微笑んだ。
「あのね、碓井君に見せたいものがあるんだ」
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